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朝靄の光


 ――光が零れる。その瞬間が、魂が震えるほどに切なく、愛おしかった。

 セラがエドウィン公爵家に戻ってから数日、ずっと張り詰めていた緊張の糸がほどけたように、彼女はしばらく寝台の住人となった。
 体調不良を訴えるというほどではないが、屋敷を離れていた間、黙って出て行ったルーファスやメリッサへの罪悪感、呪いへの恐怖や不安で、ろくに食事や睡眠もとっていなかったのだろう。
 いままでの分を取り戻すかのように、セラはソフィーが作った粥を食し、ようやく安寧を得た赤子のように、寝台ですやすやと丸くなっている。
 それに伴い、妻が傍を離れていた間、鉄面皮に磨きが掛かり、凍えた空気を身に纏っていた公爵も、表情が和らいだと、使用人たちは口を揃えている。
 そんな他愛もない噂話は、主人の耳にまで届いていたものの 、悪意あるものでないので、ルーファスは放っておいた。
 実際、否定も肯定もしないものの、彼自身、セラが行方知れずだった時の、胸にぽっかりと穴があいたような空虚感を顧みれば、いまが満たされているのだと、素直に認められる。
 ――不思議なものだ。
 幼い頃、父母に存在を否定された時も、親族から忌まれ、命を狙われた時も、 心底、寂しいとも、哀しいとも思えなかった。
 それなのに、一度、繋ぐ手のぬくもりを覚えてしまったら、今度はそれを失うことに、耐え切れなくなる。
 どんな手を使っても、例え、神に逆らうことになったとしても、奪われたくないと思う。
 朝食の席に降りてこなかった奥方を、呼びに行こうとしたメリッサを「いい」と制し、ルーファスは螺旋階段を上がると、自らセラの部屋へと足を運んだ。

 朝靄の光は乳白色で、柔く、どこかまろみを帯びている。
 窓から差し込むそれに、ルーファスは光の加減で微妙な虹彩を放つ、蒼い双眸を細めた。
 わずかに開けた窓から、ひらりひらりとレースのカーテンが揺らいでいる。
 そんな柔らかな光に守られるようにして、青年の妻は、寝台で繭のように眠っていた。
 ミルクを注いだ紅茶色の髪が、シーツに広がり、長い睫毛が瞼に影を落としている。
 清冽な印象を与える翠は、今は閉ざされたままだ。
 ルーファスはあえかな溜息をこぼすと、足音を立てぬよう静かに、セラの眠る寝台へと歩み寄った。
 寝台に手をつき、青年は、眠れる少女の横顔を覗き込む。
 朝の陽光を浴びた横顔は、白く輝いており、さながら、陶器の人形のような美しさがある。
 同時に消え入りそうな儚さをも、覚える。
 思わず、触れることを躊躇うような、そんな儚さだ。
 命のあか、赤く色付いた唇と、レースのネグリジェの下、微かに上下する胸に、 生の息吹を感じて、 胸が締め付けられる。ああ……貴女は確かに、此処にいるのだと。
 この娘が今、健やかに生きていること、己の傍にいること、背負わされた呪いを思えば、それ自体が得難い奇跡のようで、他には何も求めはすまい。
 少女の寝顔に目を細め、セラが姿を消した際、ラーグが言った台詞を思い出す。
「セラはね……誰の代わりに不幸になって、死ぬ為だけに生まれてきたんだよ」
 あふれる感情を押し込めたように、あえて淡々と語った魔術師は、琥珀の瞳に、一体、何を映していたのだろう。
 弟子のセラを、目に入れても痛くないほど溺愛し、その実、弟子の宿命については、誰よりも冷淡とも言える、金色の魔術師は――。
 眠り姫の傍らに跪く騎士のように、あるいは今まさに王女をかどわす魔王のように、純白のシーツにくるまれたセラの寝顔を見守りながら、ルーファスは薄く、挑発するように口角を上げた。
 ――なるほど。神よ、これが貴方の用意した、悲喜劇の脚本だというのか。
 抗いようのない運命であると?……ああ愉快だ。最初から決まった結末など、下らなすぎて、反吐がでる。
 刻一刻と、少女の命を削っていく魔女の呪い、周囲に災厄を撒き散らし、やがては最も愛する者を手に掛け、死ぬことであろう。それが、凶眼の魔女が、最愛の恋人であった男にかけた呪い、連綿と続く英雄の血脈に、永遠なる復讐を……。
 面白い、とルーファスは神に、そして、定められた運命へと抗う決意を定める。
 エスティア建国以来、誰一人として解けなかった魔女の呪い。
 繰り返し食いつぶされてきたであろう、呪いを背負った英雄王の子孫たち…… 決まった運命は、動かせないのだと、誰かが言った。ならば、その運命とやらに、命ある限り、抗い抜いて、反旗をひるがえしてやればいい。
 その愚かしい運命とやらを、嘲笑ってやろうではないか。
 長い苦悩の時を経て、ようやく安らいだように眠るセラに、ルーファスはそう誓った。
 想いが伝わったわけでもあるまいが、いまだ夢の住人である少女が、「ん……」と、微かに身じろぐ。
 ふと、ルーファスの唇から、囁くような低い声がこぼれた。

「女神の祝福を抱いて眠れ、愛しきひとよ。黄金の光が夕闇にとけ、星の精霊の接吻が、そなたの額に落つる。再び、暁の使者が訪れるまで、我が、貴方の眠りを守ろう――」

「――幸いなる君、美しいひとよ、そなたの闇が晴れるまで、我が貴女に永久の安らぎを誓おう……」

 それは、かつて、木漏れ日の下で、少女が紡いだ歌だ。
 柔く、優しく、ただ微睡むように。
「……ルーファス」
 ゆっくりと開いた瞼の下、透き通るような翠が、夫である青年を映していた。
 ふわり、幸せそうに微笑って、彼女は手を伸ばした。
 小指が触れ合う。
「歌って」
 貴方の声が聞きたいの。
「……ああ」
 繋がり、絡まった指先から伝わるその熱、それこそが何物にも代え難いものなのだ。


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