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家族の肖像


 自分は何のために生きているのだろう、誰のために生きているのだろう。


 娼婦の母を亡くし、路地裏で孤児として暮らしていた十歳のミカエルは、日々、カラスと一緒に、異臭のただよう残飯をあさって暮らしながら、ずっと、そう思っていた。
 このまま生涯、そうやって生きていくのだろうと思っていた少年の前に現れたのは、ルーファスと名乗る、ゾッとする位の美貌の少年であった。
 まるで闇のような黒髪に、宝石をはめ込んだような蒼い瞳。
 背は高く、白皙の面は彫像のように整っている。
 その若い男はミカエルを一瞥すると、「俺の元で働くと誓え」と拒否を許さない口調で言い、半ば人攫いのように、ミカエルを馬車の座席へと放り込んだ。
 突然の事態に、当然ながら暴れるミカエルは、エドウィン公爵家の屋敷に連れて来られるなり、浴室で身を清められ、使用人の清潔なシャツを着せられて、栄養たっぷりな食事をたらふく食べさせられた後、あたたかい寝床を与えられた。何てことだ。
 痩せ細り、泥や垢で薄汚れていた少年は、女中頭のソフィーとその姪っ子のメリッサに献身的に介護してもらい、十分な食事を与えられているうちに、サラサラの髪、ふっくらとした薔薇色の頬、美しい容姿を取り戻した。
 読めなかった文字も、老執事のスティーブに教わり、読めるようになった。行儀も身についた。
 そうして、パリッとしたシャツとズボンを身に纏うと、もともと頭が良く、品のある雰囲気のミカエルは、貴族の従僕として申し分なかった。自然とルーファスのあとについて、細々とした雑用をこなすようになり、エドウィン公爵家の使用人として、周囲にも認められるようになった。
 あまりの厚遇と、かといって何を要求されるでもない事に、不信感さえ抱いたミカエルは、自分を拾ってきたルーファスに、何故、このような事をしたのか尋ねた。
 天鵞絨張りの肘掛け椅子に堂々と、長い脚を組んだルーファスは、緊張した面持ちのミカエルを、その蒼い双眸でつまらなそう見ると、
「そうするべきだと思った」
と、何を聞くとでも言いたげな口調で答えた。そして、
「俺と共にいるのは、不服か?」
 自分で選べ、と。
 ルーファスの飾る事のない問い掛けに、ミカエルは胸の内にあった反骨心が消えるのを感じた。
 いいえ、と口から自然と言葉が零れる。
「僕は、旦那様のおそばにいます。そう決まっていた気がします、ずっと前から」
 不思議だった。でも、ミカエルの心に迷いはなかった。
 自分はずっと前から、この厳しくも、実は誰よりも心の優しい主人に仕えるのだと、決まっていた気がする。
「――旦那様っ!」
 ルーファス=ヴァン=エドウィン。
 王ではなく、けれども、王のような風格を兼ね備えたこの人は、ミカエルにとって、生涯をかけて仕えるべき主人であった。
 決まっていたのだ。ずっと、以前から。

 それに、あの優しい女性が、奥方様が、それを望んだから。
 『ルーファスの傍に居てね。あの人は本当は寂しがり屋だから、約束よ。お願い、ミカエル』


 ――それが、もう十年以上も前のことだ。

 路地裏で、寒さに震えていた小さな少年は、二十六歳の若者になった。
 女中頭のソフィーに息子のように面倒を見てもらい、彼女の姪のメリッサと姉弟のように口喧嘩をしたり、泣いたり、笑ったり、慌ただしい日々を過ごしながら、颯爽と歩く主人、ルーファスにおいていかれないように、必死にその高い背中を追いかけていた。
 何もかも夢中で、取り残されないように精一杯で、あっという間の十年間だった気がする。
 拾われた時分、少年であったミカエルは、もう二十六歳、家中を取り仕切る執事としては、やや若い年齢であるが、一年前に先代の執事スティーブより、その職務を引き継いだ。
 老齢の為、職務の第一線からは離れたスティーブだが、今は時折、屋敷の花壇の手入れを手伝い、孫のような主人の子供たちと触れ合っている。
 血縁を持たぬ老執事にとって、主人の子供たちは我が子同然らしく、子供たちを見守る眼差しは穏やかで、実の祖父と同じようだった。
 メリッサは女中頭の叔母を助けながら、今や若い女中たちを指導する立場に回っている。
 薬指にある銀の指輪は、旦那様の親友である騎士、ハロルドから贈られたものだ。
 長らく黒翼騎士団十三部隊の隊長であった彼の人も、去年ついに、騎士団の副団長まで出世した。
 お転婆と称されていたメリッサも、今や彼との間に、両親どちらにも似た双子の娘がいる。
 成長したミカエルは、気がつけば一人前の執事になっていた。
 経験豊かなスティーブの後を継ぐのは不安もあったが、周りに助けられて、また前任者の教えのおかげもあって、何とか乗り切ることが出来た。
 自らの後継者として、ミカエルを執事にすると決めてからのスティーブは、厳しい師であったが、日頃、親のいない自分の父親代わりとして導いてくれたことを、感謝している。
 従僕だった少年時代のように、ルーファスの後をついて駆け回る事は、今はもう殆どない。そこに一抹の寂しさを感じこそすれ。
 しばし過ぎ去った過去への感傷に浸ると、ふぅ、と息を吐いたミカエルは自室を出て、数日後に訪れるはずの来客のもてなしについて、主人の意見を聞くべく、書斎へと足を向けた。

「ミカエル」
 廊下でミカエルを呼び止めたのは、優しげな雰囲気の少年だった。
「ルイス様」
「父上なら書斎にはいないよ、たぶん外に居ると思う」
 分厚い緑の法律本を片手に、少年――ルイスはそう教えてくれた。
 ルイス=ヴァン=エドウィン。
 ルーファスを父上と呼ぶ、この少年はセラとルーファスの間に生まれた第一子であり、嫡男として、次期エドウィン公爵が約束された身だ。
 つい先ごろ、十一歳の誕生日を迎えたばかりだが、父親に似たのだろう、大人顔負けの利発さで、家庭教師をうならせているらしい。勉学の面では、父をも凌ぐと言われるほどの秀才ぶりだ。
 面立ちはルーファスに似て端整ながら、亜麻色の髪と淡い翠の瞳は、母親のセラから受け継いだものだ。
 ふわりと柔く人を包み込むような、穏やかな気質も、きっと彼女に似たのだろう。
「ルイス様、ありがとうございます。旦那様はお庭ですかね」
 うん、とルイスはうなずくと、それより、と誰かを探すように周囲を見回した。
「リリーは、何処にいるのかな?」
 昨晩は明後日が母さまのお誕生日だから、贈り物を準備するって張り切っていたのだけど、と付け加える。
 リリーは、ルーファスとセラの娘で、ルイスの三つ下の妹だ。
 しっかりしており、どちらかと言えば、父親と行動を共にする事が多い兄と比べると、甘えん坊で母親にべったりだ。
「リリーお嬢様ですね、わかりました。外を探してみます」
「ありがとう。母さまと一緒にいるかもね、僕も探してみるよ」
 ルイスと別れ階下に降りると、ミカエルは扉を開けて、広くひろがる庭園へと足を踏み入れる。
 花壇の隙間に、ふわふわと風になびく黒髪と、青いリボンが見えた。
「ここにいらっしゃいましたか、リリーお嬢様」
 予想が当たり、ミカエルは微苦笑を浮かべる。
 お嬢様が機嫌を損ねたり、叱られた時に、ぷいと姿を隠すとしたら、大体いつもこの場所だ。
 ミカエルの声に、ちんまりと身をかがめて隠れていた影が、慌てて身を起こした。
 ゆるふわの黒髪には、緑の葉っぱがついている。
「ミカエル、何でもう見つけちゃうの!?お母さまか、お兄様に見つけてもらうつもりだったのに……!」
 悔し気に地団駄を踏む娘は、信じられない位に愛くるしい。
 ミルクのような白い肌、零れ落ちそうな大きな蒼い瞳と、艶やかな黒髪は、父親譲り、性格もどちらかといえば、ルーファスに似ているだろうか。
 母親にべったりなところは、叔母であるセラの妹にも似ていると、専らの評判だ。
 リリーお嬢様の、御歳は八歳。
 嫡男であるルイスのように秀才というわけではないが、愛くるしい外見と、素直な性格から、エドウィン公爵家の使用人たちからも、小さな姫君として愛されていた。
 ミカエルは膝を折り、リリーの目線に合わせてやると、指先でリリーの頭についた葉っぱをはらってやる。
「旦那様もご心配なさいますよ」
 父親の事を言うと、リリーはぷくっと頬を膨らませると、いやいやと首を横に振った。
「ととさまなんて知らないもん、お母さまはリリーとお兄様のものなのに、お父さまったら、独り占めしようとするのよ。ひどいでしょう?」
 憤慨した様子のリリーは、甘えん坊で母親大好きっ子のため、父親であるはずのルーファスでさえ、時に敵らしい。
「はいはい、酷いですね。旦那様は」
「ミカエルったら、真面目に聞いてないっ!まあ、いいわ……」
 ぷんぷんと怒りつつも、リリーはミカエルに小さな手を差し出した。繋ぐように、という意味だ。
「一緒に、お母さまのところに行きましょう。お父様には文句を言ってやるんだわ。いい?ミカエル」
「……わたくしもですか?リリーお嬢様」
 そうよ、決まっているじゃない、と、リリーは満面の笑みで、胸をそらした。
「――だって、ミカエルは家族だもの」
 あまりに自然なそれに、ミカエルはきょとん、とした表情になり、ついでぐしゃり、と顔を歪め、俯いた。
 家族。
 父を知らず、母を亡くし、天涯孤独の自分を、そう呼んでくれる人が出来るとは、夢のようだ。
「どうしたの、ミカエル」
「いいえ、何でもありません。リリーお嬢様」
「ならいいわ。さっ、いきましょう!」
 ミカエルの手を引いて、小さな少女は駆け出す。
 花の咲き乱れる庭園。
 二人が駆けていく先には、小さな東屋があり、そこに黒髪の男と、亜麻色の髪の女性がいた。
「お母さま――っ!お父様――っ!」
 眩しい日差しに、目を眇めつつ、ミカエルはそこにいる夫婦が、幸福そうに微笑んでいるのがわかった。
 両親に気がついたのか、近くにいたルイスも、ゆっくりとした歩みで近づいてくる。
 家族。
 決して手に入らぬと諦めていたものが、あたたかく胸を灯すものが、そこにあった。 
 陽だまりの庭には、あたたかな春の風が吹いている。


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