わたしの名は、マデリーン。
年は、雪が融け、春を迎えたら十二を数える。
エスティアの東端、メイディル地方を治める、小領主の娘だ。
何もない田舎ながら、温暖かつ肥沃な大地、素朴で正直な領民たち、厳しくも優しい両親に愛されて、平凡ながら幸せな日々を送っている。
性格は年の割には、少々、大人びている、ともすれば小生意気と評されることが多い。というのも、わたしには昔の、何と言ったらいいのか、別の人物の記憶があるようなのだ。初めて目にしたはずのものに、言いようのない既視感を覚え、教えられたことのないはずの知識が、ふとした瞬間、頭の片隅をよぎる。
まあ、そうは言っても、わたしの両親は二番目の娘のそんな癖を、気味悪がることもなく、そのようなこともあるものだと、おおらかに受け止めてくれているから、わたしも変に気に病んだり、卑屈にならずにすんだ。
そう、わたしがそんな風に育ったのは、六つ年上のお姉さまの影響が大きい。
わたしには、大切な姉がいる。
名前をセラ。
柔らかな亜麻色の髪と、穏やかな新緑の瞳、パッと人目を引く美人ではないが、ふわり春の陽だまりのような空気を纏った、自慢の姉だ。
穏やかで、誰よりも優しい姉は、村に何かあれば率先して手助けに向かうことから、善き領主のお嬢様として、領民たちからも慕われている。
どこで学んだのか村の病人に薬草を煎じ、はたまた人が足りない時に、産婆の手伝いをし、赤子を取り上げたこともあった。
領主の娘として、表だって声をかけてくる若者はいないが、村の若い衆の中には、密かにセラに憧れ、淡い恋心を抱いているものも多いのを、マデリーンは知っていた。己自身のこととなると、恐ろしい程に鈍いセラは、そのことに全く気づいていないが。
そんな姉へ、王都から高貴な求婚者が現れたのは、ほんの二か月前のことだ。
「……食べないのか?」
男の問いかけに、わたし、マデリーンは眉間にぎゅっと皺を寄せた。
白い清潔なクロスが敷かれた、テーブルの上には、色とりどりのマカロン、旬の果実をたっぷりと使ったパイ、サクサクの香ばしいスコーン、クロテッドクリームとジャム、王都で評判だという花びらの砂糖菓子、新鮮な果実を生絞りしたもの、etc……女の子の夢を集めたような、何とも甘いあまい夢の空間が出来上がっている。
食べたい。食べたい。とても食べたい。甘いものには目がないのだ。
片田舎とはいえ、領主の娘ともなれば、それなりに良い食事をしていると思われそうだが、わたしの両親は領民たちの規範となるべく、質素と倹約を重んじ、また姉のセラもそれに倣っていることから、祭りの時期をのぞき、普段、贅沢な食を取ることはない。
屋敷のコックが、時折、気を利かせてクッキーを焼いてくれたりはするが、こんな甘くて、可愛らしいお菓子の山なんて、今まで一度として見た事がない。
そんな夢のようなお菓子が、目の前に置かれて、食べてもいいのよ、と誘惑の手を伸ばしてくる。とても逃れられるものではない。
もし、これが両親やセラお姉さまが用意してくれたものだったなら、わたしは感動の涙を流しつつ、喜んで手をつけていただろう。しかし。
わたしは躊躇した。
それというのも、この、あまいあまいお菓子の山を用意したのが、わたしの天敵とも言うべき男、王都から現れた姉の求婚者、ルーファス=ヴァン=エドウィンだからだ。
「食べないのか?」
さながら親の仇のような目で、お菓子の山を睨みつけるわたしに、男は再度、問いかけた。
美しく、だが、男性らしさも兼ね備えた顔、均整のとれた立派な体躯。
向かいの椅子に腰を下ろし、すらりと長い脚を組んで、優雅に珈琲を口にしている姿は、嫌味なくらいに様になる。
見た目だけなら、思わず息を呑むような美丈夫と言って、差し支えない。けれども、わたしは気に食わない。どんな綺麗な顔や、低く耳朶を打つような美声にも、腹立たしさを覚えるだけだ。何故なら、この男はわたしの敵なのだから。
「五月蠅い、食べるわよっ!」
さまざまな手間をかけて、用意されたであろうお菓子の山を前に、そう可愛げなく吠えたわたしにも、男は憤るでもなく、薄く笑っただけだった。
「そうするといい。安心しろ、俺もそんなもので懐柔できるとは、最初から思っていない」
ルーファスの言葉に、やや神経に触るものを感じつつも、甘い誘惑には勝てず、わたしは目の前のラズベリーのマカロンに手を伸ばす。サクッとした生地と、とろけるような、甘酸っぱい口どけ、口の中が幸福で満たされていく。
悔しいけど、認めるのは癪だけど、とっても美味しい!
むむむっ、と唸りながらも、わたしが次のクッキーに手を伸ばすのを、ルーファスは涼しい顔で見ていた。
こんな作戦で、わたしがあなたを姉さまの相手と認めると思ったら、大間違いだからね!
王都からやってきた高貴な御方、田舎の小領主である両親はそう呼ぶ、ルーファス=ヴァン=エドウィンという男は、出会うなり、ものすごく唐突に、セラお姉さまに求婚した。
初対面であるはずなのに、いきなり妻になってくれと、堂々と求婚したのだ。
一目惚れ、という便利な言葉でも、すでに説明がつかない急展開である。
その日は両親の待つ領主の館に戻ったものの、いきなり現れた、娘の高貴な求婚者に、わたしの両親はそれこそ、腰を抜かさんばかりに驚いた。
よもや性質の悪い冗談ではないかと、疑ったぐらいである。
しかし、ルーファスという青年はいたって本気であり、エドウィン公爵家といえば、建国王とも縁が深く、国の要職を幾人も輩出してきた、名門中の名門である。はっきり言って、家の格も財産も、我が家なんかとは比べ物にならない。
そういうわけで、我が親愛なるお父上様は、自慢のお髭をピクピクと引き攣らせながらも、男をセラ姉さまの婚約者として認めた。
まったく……大人というのは、権力に弱い!
それからというもの我が家には、ルーファス=ヴァン=エドウィンという男から、三日に一度の割合で、セラ姉さま宛ての手紙が来る。
何でも、公爵という地位にあり、王都で王太子殿下の補佐を務め、多忙を極めているらしい男は、職務に忙殺されているにも関わらず筆まめらしく、美しい便箋に、流麗な文字で綴られた文が届く。
それは王都の様子や、最近話題の事や、若い娘が好みそうな華やかな舞踏会のこと、そうかと思えば、公爵家の犬が子犬を産んだというような内容まで。たった一通、姉さまの返事が欲しいがために送られるそれは、ある意味、涙ぐましいほど健気だ。
手紙には時折、王都で流行りの詩集や、美しい香水瓶、ちょっとした贈り物が添えられていることもある。趣味の良いそれは、男が自ら選んでいるのだろう。そんなことからも、いかに姉さまに惚れているかわかる。
セラお姉さまもセラお姉さまで、そんな手紙を大切な宝物のように抱きしめては、いそいそと返事を書いている。
傍から見れば、どちらもどっちだ。
そうして、文ばかり送ってくるかと思えば、政務の合間を縫って、姉さまへと会いに来る。たった数時間しか会えないのに、王都から何倍もの時間をかけてだ。
当初こそ、何か騙されているのではないかと、不安を隠せなかった父母も、そんな男の真摯な姿勢に、じょじょに心を許しつつある。まったくもって、面白くない。
わたしはまだ、この男が姉さまに相応しいと、認めてはいないのだ。そう簡単に、認める気もないけど!
王都からやって来る時、ルーファスは大抵、わたしや両親に手土産を持ってきてくれる。異国の珍しい菓子や、葉巻、王都で流行している芝居の脚本など、ちょっとした、でも、気が利いた品を持ってくる。
最初こそ、求婚の証に、セラ姉さまに宝石やドレスなども贈っていたのだけれど、姉さまは稀少な宝石よりも、男にもらった手紙、紙切れ一枚の方がよほど嬉しそうなので、そのような形に落ち着いた。だからこそ、多忙なはずの男は、手ずから手紙をかいてよこす。
我が家に滞在している時、姉さまを見つめるルーファスの眼差しは、どこまでも優しい。
冬の海のような冷ややかな藍色に、一筋の光が差すように、目つきが穏やかになるのだ。好きというのは、ただ一人の人というのは、こういうものなのだろうか。
わたしには、まだよくわからない。
「ねえ、」
口元についたクッキーの欠片を、ナプキンで拭って、わたしは男に尋ねた。
「セラお姉さまの、どこが好きなの?」
出会い頭に求婚するような男の考えることなど、わたしにはよくわからない。
セラ姉さまは優しく、清い心の持ち主で、わたしにとっては誰よりも自慢の姉で、愛している。その微笑みは、春の陽だまりのようだ。でも、べつに、一目惚れされるような美貌の持ち主ではない。
それを言うなら、このルーファスという男の方が、よほど目立つ。
男のひとに美しい、という表現を使うのはどうかと思うが、艶やかな黒髪も、ため息が出るほどに整った顔も、この辺りではとんとお目にかかれないものだ。かといって、女性的ではなく、あくまでも男性的な凛々しさを備えている。
実際、領主の館に滞在している間も、若い下働きの娘は大概、この男に見惚れてしまうのだ。
おまけに、若くして公爵の地位にあり、王太子殿下の信頼も厚く、将来の宰相候補とも謳われている。引く手あまたであろう男が選んだのが、ただの田舎領主の娘である、セラ姉さまなのか、興味があった。
「どこが好き、などという言葉で語るのに意味はないな」
男は薄く笑ったまま、ぱたり、と読みかけの本を閉じて答えた。
「あれは、俺の片割れ、魂の伴侶だ。俺はあれに出逢うために生きてきたし、今はセラを幸せにするために生きている」
さらりとした口調ながら、熱烈な愛の言葉に、わたしは顔を赤くした。
……というか、よくもまあ、素面でそういうセリフが吐けるものだ。
「口では何とでも言えるわよね……本当に、貴方がセラお姉さまを幸せに出来るかどうかなんて、わからないじゃない。いくら約束したって、認められないわ」
わたしの言葉に、ルーファスは肩をすくめ「それは信じてもらうしかないな」といい、続けた。
「マデリーンよ、あなたが許さなければ、セラは公爵家へと嫁がないと言っているぞ」
と。
わたしは、複雑な思いで、既に冷めてしまった紅茶を口に含む。すこし苦かった。
セラお姉さまは優しいひとだ。
そして、わたしが物心ついた頃には、わたしに特別、優しかった。ちょっぴり年の離れた妹が可愛かったのもあるだろうけど、いつも度が過ぎたる程に、姉さまはわたしを大切にしてくれた。たぶん、自分よりもずっと。
わたしが欲しいといったものは、何でも譲ってくれたし、寂しいと言えば手を握ってくれた、熱を出せば、寝ずに看病してくれた。
それは姉というより、もう一人の母のようで、普通よりもずっと距離の近い姉妹だと思う。
「セラお姉さま」
「ん?」
ある日、母の頼みで、森にハーブを摘みに行く途中、籐のバスケットを持つ手とは、反対の手を繋いでいた姉さまに呼びかけると、セラ姉さまは「うん?」と小首を傾げて、こちらを見た。
「何かしら、マデリーン?」
「お姉さまは、あの人、ルーファスと結婚して、王都に行ってしまうの?」
その問い掛けに、姉さまは少し困ったように微笑むと、ほんの少し膝をかがめて、わたしの髪を優しく撫でた。
「まだ決めていないわ。どうして?」
「セラお姉さまが居なくなってしまったら、寂しいわ。眠れない夜にお喋りしたり、一緒にお祭りに行ったり、出来なくなってしまうもの」
我儘なのは、自覚していた。
幼い子供ではあるまいし、いつまでも姉さまにくっついているわけにはいかないということも。セラ姉さまは婿を取らない限り、いつか必ず、他所に嫁いでしまう人なのだから。
でも、その日はもっと先の事だと思っていた。
いや、もっといえば、わたしは嫉妬していたのだ。あの男のひとに。
セラお姉さまの一番は、わたしだと思っていた。でも、ルーファスが現れた時から、その座を奪われてしまうのではないかと、心配していた。
「……あなたが嫌ならば、行かないわ」
セラ姉さまは困ったように眉を下げると、わたしの背中に手を回し、優しく抱きしめた。
ふわり、と花の香りがする。
「マデリーン。あなたを幸せにすることが、あたしの贖罪なのだから」
姉さまは、優しい人だ。
自分よりも、周りを大事にする。
その優しさは、わたしにとって嬉しくて、あたたかくて、そして、少しだけ苦しかった。
「ねえ、約束して」
わたしはケーキを食べていたフォークを置くと、真剣な眼差しで、ルーファスを見つめた。
珈琲を飲んでいた男も、その言葉に真摯なものを感じてか、「約束……?」と低い声で聴き返す。
そう、とわたしは頷いた。
「セラお姉さまを誰よりも幸せにするって、約束して」
わたしはわかっていた。
この男が、わたし達に丁寧に接し、何かと気にかけるのは、愛するセラ姉さまの大事な家族だからだ。セラ姉さまがそれを望むから、喜ぶから、そうしているのだ。
ルーファスのことを、セラ姉さまは優しいひとだという。
それは間違っていないかもしれないが、姉さまの優しさとは根本的に異なるものだ。
セラ姉さまの優しさは、周りに等しく与えられるものだ。この男のそれは、何よりも、セラ姉さまを幸せにするためのものだ。
「言われるまでもない。俺が生涯をかけて幸せにする女は、セラだけだ」
照れるでもなく、堂々と言い切るルーファスに、わたしは敗北を悟った。いつか、こういう日が来るのはわかっていたのだ。
セラお姉さまは、いつだって惜しみない愛情を注いで、わたしを、周りの人々を幸せにしてくれた。
自分よりも、人を幸せにすることばかり考えていた。だから。
もし、セラお姉さまが誰かの手を取る日が来たならば、誰よりも姉さまのことを幸せにしてくれる人が良いと思っていた。
「仕方ない、許してあげるわ。あなたのことは気に食わないけれど、セラ姉さまを誰よりも幸せにするでしょうから」
ツン、と虚勢を張ったわたしに、男は微笑ましいものを見るように、口元を緩めた。
わたしがルーファスのそんな表情を見たのは、生涯でも数える程だった。
メイディル地方が春の息吹に包まれる頃、ひらひらと花びらが舞う中、清らかな花嫁は光のベールに包まれて、王都の公爵へと嫁いでいった。
わたしが知る限り、セラ姉さまは夫に誰よりも愛されて、幸せな生涯を送った。
――あの男は、約束を守ったのだ。
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