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花冠の絆


 『――お前は信じないだろうが、私はお前を憎んでなどいなかったよ。ユーリク。愛しい弟よ。お前は私の影であり、鏡であり、そして……決して手に入らぬものだったのだから』

 ローズティアの国王エリックには、王妃ユリアーナとの間に姉姫と弟王子がいたという。

 姉姫の名を、エレーナ。
 燃えるような深紅の髪に、エメラルドの瞳を持つ王女。
 幼いながらも、王族としての風格を備えており、人を従える魅力を持つ――そんな少女であった。
 彼女の顔立ちが、兄王の命を狙い幽閉された王弟セリウスに似ていると感じる者はいても、それを正直に口に出すような愚か者はいなかった。下手をすれば、自分の首が飛ぶ。命が惜しい者は沈黙し、その事実に気付かぬふりをした。
 “流血の薔薇”
 ローズティアの歴史に名を残した美しく、残酷な女王。
 後世においては、炎のような激しい気性と、氷のような冷徹さを備えると評された残酷な女王であったが、幼い頃は聡明な王女として知られていたという。
 そんな彼女がなぜ多くの者を処刑し、人々から“流血の薔薇”と称されるようになったのか、真実は歴史の闇に葬られた。

 弟王子の名を、ユーリク。
 亜麻色の髪と、若草色の瞳を持つ王子。
 父であるエリックによく似た顔立ちと、穏やかな性質を受け継いだ少年。
 幼い頃は、父を愛し母を愛し、そして姉を慕う優しい少年であったという。
 臣下からは、王となるには優しすぎると言われていたが、それでも彼の子供時代は幸福だった――ただひとつ、母である王妃が狂っていることを除けば。
 真実を知らぬままに、少年は世界が美しいものだと信じていた。その残酷さも、知らぬまま。
 “悲劇の王弟”
 そう呼ばれた彼が、なぜ姉と袂を分かち、辺境の土地へと追いやられたのか。その真実も、また歴史の闇へと葬られて、語る者は誰もいない。
 同じ母を持ち、異なる父を持つ、姉と弟。
 彼らは影であり、鏡であり、玉座を争う者であった。
 これは、そんな彼らの語られざる物語――

 弟であるユーリクと自分が、全く違う存在であるとエレーナが気がついたのは、八つの誕生日を迎えた冬のことであったように思う。
 同じ父を持ち、同じ母を持つはずなのに、ユーリクとエレーナは欠片も似ていない。
 髪の色も瞳の色も性格も顔立ちも、同じ父母を持つとは信じられぬほどに、似ていない。……いっそ不自然なほどに。
 いや、それだけではない。エレーナは父であるエリックとも、母であるユリアーナとも、全く似ていないのだ。
 それが何を意味するのか、幼い頃はわからなかった。だが、一度、それに気づいてしまえば疑うことは容易だった。
 その秘密に気づくための材料はいくらでも、彼女の前に用意されていたのだから。
 ――成長する自分の顔を見て、恐れるように目を背ける臣下たち。
 ――決して、口には出さないが、ひそひそと噂話をする侍女たち。
 ――会うたびに、悲しい目をする父・エリック。
 ――心を閉ざし、己の殻に閉じこもった母・ユリアーナ。
 ――そして、≪嘆きの塔≫に閉じ込められた高貴な罪人……。
 幼くして、真実を知る機会を与えられたのは、幸福だったのか不幸だったのか。エレーナには、わからない。だが、自分と弟のユーリクが、同じ立場でないということだけはわかった。
 弟のユーリクが、王家の光だとするならば、エレーナはその影だ。
 あの父によく似た弟が、王位を継ぐことの望まれた身ならば、エレーナは存在自体が王家の罪である。
 ――なぜなのだろう?
 同じ母から生まれながら、なぜ弟は慈しまれ、自分はいない方が良い存在なのだろうか。
 弟が愛おしくて、同時に憎かった。
 しかし、何も知らぬ無邪気な弟が、自分を慕ってくるのを止めることは出来なかった。そのたびに、エレーナは優しい姉の仮面をかぶって、相手をしてやるのが常だった。
 何も知らぬ弟のことが疎ましく、同時に羨ましくもあった。
「――姉上!エレーナ姉上!」
 それなのに、心優しいと評判の弟ユーリクは、何も知らぬまま無邪気にエレーナを慕った。
 姉上、姉上、と無邪気にエレーナに呼びかけ、その若草色の澄んだ瞳は、いつだって真っ直ぐに姉姫を見つめていた。
 その瞳に尊敬と、愛情を宿して。
「……何だ?ユーリク」
 ――それは、まだ姉と弟が争う前の、子供時代のことだ。
 息を切らせながら、駆け寄ってきた幼い弟に、エレーナはそう声をかけた。
 まだ十にもならぬ幼い弟王子は、姉姫の言葉にパッと顔を輝かせると、エレーナの手のひらの上に花冠をのせた。王宮の中庭で花を摘んで、自分の手で作ったのだろう。
 ユーリクは無邪気な笑顔を浮かべて、エレーナを見上げた。
「フィアナに教わったら、綺麗に作れたんだ。だから、姉上にあげる!」
 弟王子から、姉姫に贈られた花冠……。
 それは真実を知る者には、余りにも皮肉かつ滑稽に見えたことだろう。
 手にのせられた花冠が、まるで王冠であるように感じられて、エレーナは唇をゆがめた。
 ああ、わかっている。
 ユーリクは何も知らない。
 無邪気な弟は、何も知らぬままに、姉であるエレーナを慕っているのだ。いずれ玉座を争う相手などと、思いもせずに。愚かで素直で、誰よりも優しい弟。だが、もし……
 ――もしも、この花冠がローズティアの王冠であったとしても、弟は……ユーリクは、同じようにするだろうか。それとも、己が王位を継ぐのだと、姉を切り捨てるだろうか。
 そんなことを考えながらも、恐ろしいほどに聡明だった姉姫は、何も口にすることなく笑顔で花冠を受け取った。
「……ああ、ありがとう。ユーリク」
 それは、花冠で結ばれた、偽りの絆だった。



「――眠ってしまっていたのか」
 ……どうやら、夢を見ていたようだ。
 多くの人間を処刑台に送り、恐怖によってローズティアを治める女王エレーナは、そう言って寝台から身を起こした。
 周囲には誰もいない。
 そばに仕える侍女も、今は下がらせている。
 言葉を交わす者がいないと知りながら、民から“流血の薔薇”と恐れられる女王は、「今更、あんな昔の夢を見るとはな」と呟いた。
 そう、本当に昔のことだ。
 エレーナがローズティアの女王として即位してから、早くも十年ほどの歳月が流れようとしている。
 弟と――ユーリクと、あんな会話をしたのは、もう二十年も前のことだ。
 あれから、彼らの関係は大きく変わった。
 成長するにつれて、仲の良い姉弟の姿はどこにもなくなり、姉姫と弟王子の関係は冷え切ったものになった。エレーナは優しい姉としての仮面を外し、弟王子は豹変した姉を恐れ、やがては憎むようになった。
 まるで、最初からそれが運命であったように。
「……」
 それでも、あの愚かで優しい弟は、一度として姉に逆らおうとはしなかった。
 どんな理不尽な扱いも言葉も、黙って耐えていた。
 愚かなことだと、エレーナは思った。
 壊れてしまった姉弟の絆など、さっさと捨てて、自分に刃を向ければ良いものを。
 それすら出来ぬから、王宮にはびこる奸臣たちにすら、使えぬ駒だと侮られるのだ。
 同じ血を分けた兄弟で争うなど、王族にはよくあること。
 姉であるエレーナを殺して、玉座につくのだという野望があれば、ユーリクが王となるのは難しいことではなかっただろう。実際、彼はそうするだけの資格も、それを実行に移すほどの力も持っていた。だが、彼は決して、そうしようとはしなかった。
 ただ黙って、若草色の瞳でエレーナを見つめていた。幼い時と同じように。
「……」
 ただの一度だけ、ユーリクがエレーナに逆らったのは――あの時、ただ一度きりだった。
「エレーナ姉上……いや、女王陛下。また罪を犯した臣下を処刑されると聞いたが、それは本当か?」
「本当だといったら?」
「なぜ?そこまでしなくても良いはずだ!父上はそんなことはしなかった!」
 数えきれないほどの処刑をして、“流血の薔薇”と称された姉を改心させるために、ユーリクはエレーナの元へとやってきた。
 表向きは説得。叶わぬならば……
 そのユーリクの瞳を見た瞬間に、エレーナは悟った。ああ、来るべき時が来たのだと。
 ――弟が、自分を殺すために来たのだと。
 弟の迷いを知りながらも、エレーナは逃げようとは思わなかった。
 それどころか、エレーナはわざと、ユーリクを激昂させるような言葉を吐く。
 長年に渡る争いに、愛か憎しみかわからぬそれに、決着をつけるために。
「甘いな……父上のアレは優しさではない。弱さだ。弱い王には誰もついてこない。奸臣どもが、ローズティアの王宮にはびこって、甘い蜜をすするのを黙って見ていろと?……お前はそう言うのか?ユーリク」
 ――カチャリ、とユーリクの剣の鞘が鳴る。
「そうは言っていない!だが、エレーナ姉上にやり方が正しいものだとは、とても思えない!」
「ああ、お前は優しい子だよ。ユーリク。私とは違う……もし、今の国の在り方に我慢が出来ぬなら、お前が王となれば良い。私の手から、王冠を奪い取ってみせよ。それとも……」
 これが最後だ。
 愛か憎しみか、お前が選ぶのはどちらだ?ユーリク。
 そう思いながら、エレーナは微笑んだ。死への恐怖も、生への渇望もなかった。あるのは、ただ……弟への、狂気にも似た執着心だけだった。
「――私を殺すか?ユーリク」
 エレーナの言葉に、彼女の愛しくも愚かな弟は、剣を手放した。
 恐怖によって民を支配し、“流血の薔薇”と呼ばれた姉を、彼は殺せなかった。
 民や国のためではなくて、ただ己の想いゆえに。
「……殺せない。どうしても、出来ない。たとえ国のためだとしても、自分には……」
 そう言って、顔をおおう弟に、エレーナは息を吐いた。
「それが、お前の決断か。ユーリク」
 最初から、こうなることは決まっていたのかもしれない。
 ユーリクはどうしても、エレーナを殺せない。
 それは血の繋がりゆえか、狂気にも似た執着心ゆえか……どちらでも、結末は変わらないのかもしれない。

 ――その日から、十年ほどの歳月が流れた。

 あの日を最後に、ユーリクは王城から去り、辺境の土地へと旅立った。表向きは、女王エレーナの命令ということになっているが、実際のところは本人の意思だ。姉に対し、二度と城に戻ってくることはないと告げ、彼は去った。辺境の地で、生涯を終えるつもりらしい。
 あの弟なら、本当にそうするだろうと、エレーナは思った。
 二度と王城には戻らないと、そう言って去ったのだ。彼が自ら、城に戻ってくることは二度とあるまい。
 エレーナに会うことも、もう二度と。
「まったく……人というものは、本当に救い難いものだな」
 過去を思い出して、エレーナは呟く。
 今までもこれからも誰ひとりとして、“流血の薔薇“と呼ばれた女王と、その弟の気持ちを理解することは出来まい。
 愛と憎しみと執着と……本人たちにすら、持て余すそれを、他人がわかるものか。あるのは、ただ……


 それから、更に五年ほどの歳月が流れた頃に、四十歳の若さで“流血の薔薇“と恐れられた女王エレーナは没した。その早すぎる死には、暗殺であったという噂が絶えない。
 女王の葬儀の際に、辺境の地へと追いやられていた弟ユーリクは姿を見せなかったと、ローズティアの歴史書には記されている。だが、彼は使者を立てて、亡き姉の墓にあるものを届けたという。
 それは花冠であったとも言われるが、真実のほどは定かではない。


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