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 それは、魔女が最後に見た夢……美しく、幸福な幻の……

 頬をなでる、柔らかな風。
 かぐわしい、花の香り。
 そして、瞼の裏に降り注ぐ、明るい光を感じて、フィアナはそっと、閉じていた瞼を上げた。
「……ぁ」
 まつげが震え、宝石のような真紅の瞳が、陽の光を受けてきらめく。
 眩しい、とフィアナは目を細めた。
 ――自分は、ずっと眠っていたのだろうか?
 穏やかで平和な、まどろみから目覚めた魔女は、そう思った。
 いつ眠ってしまったのか、はっきりと覚えていない。
 ――あれから、どうなったのだろう?
 ローズティアに革命が起きて、最後の王であるイヴァンと別れ、レイラの子と出会い……それから、自分は砂となって消え……その先は、フィアナにはわからない。
 あれから、ローズティア王国は?
 最後の王となったイヴァンは?
 革命軍を率いていたレイラの子……レオンは?
 あれから、どうなったのだろう?わからない……わからない……
 いまだ夢の中にいるように、魔女の意識はふわふわと浮遊しているようだった。いや、そもそも、これは現実なのだろうか?目覚めているというのは嘘で、自分はいまだ、長い夢の中にいるのではないだろうか?なぜなら、自分はあの時、さらさらと砂となって消え……
「……」
 これは、夢ではないだろうかと思いながら、フィアナは真紅の瞳で周囲を見回した。
 色とりどりの咲き乱れる花々。
 魔女の金髪を揺らすのは、柔らかで穏やかな春の風。
 天からはあたたかな金の陽光が降り注ぎ、遠くからは、小鳥の軽やかなさえずりが聞こえる。
 ……争いや喧騒とは無縁の、まるで夢のように、小さな奇跡のように、美しい場所だった。古の伝説で謳われる楽園とは、このような場所を言うのではないかと思えるほどに。
 その夢のように美しい風景を見つめていたフィアナの唇から、「ここは……」という声がもれる。
「ここは……王城の中庭……」
 その美しい場所は、魔女にとって数百年もの間、見慣れた場所であった。
 ――ローズティア王城の中庭。
 光の王と讃えられた国王・レオハルトが、ことのほか愛したというそこは、王国の魔女であるフィアナにとっても、決して忘れることのない記憶が眠る、大切な場所である。
 まだローズティアが腐敗の王国と呼ばれる前、今はもう遥か遠い時代、王家の子供たちと共に、この花の咲く美しい中庭で過ごした。
 今でも、目を閉じれば、色あざやかな記憶が胸をよぎる。
 青く晴れ渡った空の下、柔らかな春の陽を浴びつつ、木々や花々の間を王子や王女……王家の子供たちが、明るい笑い声を上げながら、どこまでも駆けていく。
 その身に背負うべき王冠の重さも、その身に流れる高貴な血も、無邪気に明るく笑いながら、花々の間を駆けていく幼い子供たちには、まるで関係ないようだった。
 まるで、その背に翼でも生えているかのように軽やかに、王家の子供たちは駆けていく。幸せそうに微笑いながら、まるで城下の子供たちのように無邪気に、どこまでも、どこまでも……
 そんな王子や王女たちの姿を見るのが、フィアナのささやかな幸福だった。
 春の光を浴びて、無邪気に笑う王冠の子ら。
 たとえ、王家の子供たちが成長し、その身に背負う王冠の重さや責任に悩める日が来るのだとしても、せめて幼い日はただ幸福であれ、とそう願いながら。
 どうか幸せに、この子供たちの歩む道がどうか、光に包まれた幸福なものでありますよう……
 しかし、そんな日も、今では遠い過去の話だ。
 あれから、数百年の年月が流れるうちに、ローズティア王国は変わってしまった。王は傀儡となり、奸臣が国を支配し、腐敗の王国と蔑まれるようになった。
 いや、それだけではない。
 王国だけではなく、時代も変わったのだ。
 民衆は絶対的な王を必要としなくなり、自分たちの手で、国を作り上げていくことを望んだ。王に頼らず、自分たちの手で、新たな時代を切り開いていくことを願った。革命軍を率いていたレイラの子……レオンが、そう語ったように。
 かくして、革命が起きた。
 その新たな時代の流れに、抗うことなど出来るはずもない。それが、このローズティアの民が、心から望んだことであるならば。
 かつて、レオハルト殿下は、こう言った。
『王の為に、国があるわけではない。国の為に王が在るのだ』
と。
 最後の王となったイヴァン陛下は、革命軍によって玉座から引きずり降ろされながらも、『僕は今でも、この国を愛しているよ』と言って微笑んだ。だから、フィアナは――
「……」
 やはり、これは己の夢なのだと、フィアナは思った。
 まるで楽園のように美しい、王城の中庭……ここはすでに、失われてしまった場所だ。
 王城に踏み込んできた革命軍は、この中庭の花々を踏み潰し、王を捕らえることだろう。それらは全て、新しい時代を切り開こうとする民の意思……それに抗える者など、誰もいない。
 革命軍の者たちによって、踏み荒らされはずの中庭が、このように平穏であるということは、これは夢なのだ。
 夢、あるいは幻……だから、このように穏やかで、失われたものなど感じさせず、ただ美しい。
 そう、これは夢か、あるいは幸福な幻……
 長すぎる歳月を、王国と共に生きた魔女が、最後に見た夢なのだ……
「……フィアナ」
 その時、後ろから彼女の名を呼ぶ声がした。
「……フィアナ」
 もう一度。
 その声に、言いようもない懐かしさを感じながら、フィアナは後ろを振り返った。
 懐かしく、この世界の誰よりも、愛しい人の声。
 聞きたくてたまらず、それでいて、もう二度と聞くことが叶わないと思っていた声。
 失ってしまった大切な人の。
「……っ」
 喉を震わせながら、後ろを振り返ったフィアナは、そこに立つ人の名を呼んだ。
「レオハルト殿下っ……」
 そこに立っていたのは、魔女にとって最愛の、ずっと前に亡くしてしまった人だった。
 大切で、愛しくて、だが共に在ることが叶わなかった人……。
 光り輝くような黄金の髪と、碧玉の、海よりも深く、空よりも透き通った瞳――かつて“光の王”と呼ばれた青年は、死によって別れてしまった時と同じ姿で、そこに立っていた。
 レオハルト殿下……その名を呼びながら、フィアナは真紅の瞳をうるませた。
 魔女の瞳から、一筋の涙が流れる。
 それは悲しみではない。もう二度と、会うことが叶わないと思っていた人に会えた喜びの涙だった。 
 同時に、ああ、これは幸福な夢なのだと、フィアナは思う。
 もう二度と、会うことが叶わないと思っていた最愛の人に会えた。それが、夢か、あるいは幸福な幻でなくてなんだというのだろう……
「どうか、泣かないでくれ。フィアナ……やっと……やっと再び会えたのだから」
 レオハルトは優しく微笑みながらそう言うと、フィアナの頬に手を伸ばし、そっと流れる涙をぬぐった。
「……レオハルト殿下」
 頬にふれる指の感触を懐かしく思いながら、フィアナは顔を上げて、レオハルトを見つめる。
 碧玉の、海よりも深く、空よりも透き通った瞳。
 その瞳を見て、魔女は「ああ、レオハルト殿下だ」と思った。こんな綺麗な瞳をした人を、魔女は他に知らない。
 ――ああ、これは何て幸福で、奇跡のような幻だろうと、フィアナは思う。
 王国の魔女となってから六百年、フィアナがレオハルトのことを忘れたことは、ただの一度もなかった。彼の望みであったからこそ、彼が愛した王国であったからこそ、その永劫にも似た長すぎる歳月を、魔女は王国と共に歩むことが出来たのだ。
 もしも、ただ王国の魔女としての使命感だけならば、こうして王国と運命を共にすることは、叶わなかったかもしれない。
 決して、忘れたことなどなかった。
 それでも、もう二度と会うことは叶わないと思っていた。
 たとえ幸福な夢か、幻だとしても。
「レオハルト殿下……どうして……」
 フィアナの問いにならないような問いに、レオハルトは小さく笑うと、彼女の月光の色の髪にそっと触れ、その髪を優しい仕草で撫でた。
 そうしながら、彼は穏やかな声で「約束を守りにきたんだ」と答えた。
「ああ。約束を守りにきたんだ。あれから、ずいぶんと長い時間が流れてしまったが……」
「約束……?」
 首をかしげるフィアナに、レオハルトは「ああ」とうなずく。
「ああ。あの時、約束しただろう。フィアナ……」
 レオハルトは蒼い瞳で、魔女を見つめながら言った。
 その蒼い瞳は、あの美しい蒼華石にも似ていると、フィアナは思う。
「――たとえ死んで魂になったとしても、お前のそばにいる、と」
 あれから長い時間が流れてしまったが、やっと約束を果たしに来たのだと、レオハルトは続けた。
 迎えに来たのだと。
「レオハルト殿下……」
「待たせてしまって、本当にすまなかったな。フィアナ」
「いえ……」
 蒼い瞳を伏せ、「待たせてすまなかった」と憂い顔で謝罪するレオハルトに、フィアナは首を横に振った。
 そうして、魔女は微笑む。
 数百年ぶりに、何の憂いもなく、幸せそうに、心から。
「――こうして、またレオハルト殿下にお会いできた。それだけで、私はもう十分、幸せです」
 それは、数百年の孤独を生きた魔女の、心からの言葉だった。
 ずっと、孤独だと思って生きてきた。
 でも、もう孤独ではない。
 ――ずっと、魔女であることを不幸だと思っていた。
 普通の人間と同じように年を重ね、同じ時を生きたいと、ずっと願っていた。老いることも、また死ぬことも、己の子孫を生み出すこともなく、ただ無為に歳月を重ねる我が身を、呪われたものだと憎んでいた。だが、本当にそうだっただろうか?
 王国の魔女であったからこそ、貴方に……レオハルト殿下に、出会うことができた。
 人とは異なる、長い時を生きる魔女だからこそ、レオハルト殿下が若くして世を去ってからも、ローズティア王国の魔女として、彼の子孫たちと共にいることができた。
 善政で民に慕われた善き王も、圧政を敷いて愚王と呼ばれた者も、フィアナを愛してくれた者も、魔女を憎んだ者もいた。だが、皆、愛しい王国の子供たちだった。
 そうして、レオハルト殿下の愛した王国を、見守り続けることができた。
 今にして、思う。それは、決して苦しいだけでも、不幸なだけの時でもなかった……と。
 王たちとは違う形かもしれないが、フィアナもまた、この王国を心から愛していた。
「……そうか」
 フィアナの言葉に、レオハルトはうなずくと、彼女の手を取りながら言った。
「では、そろそろ行こうか?フィアナ」
「行く……?どこへですか?レオハルト殿下」
 どこに行くのだという、フィアナの問いかけに、レオハルトは彼女の手を引きながら、少年の日のように無邪気に笑いながら答えた。
 ――彼の歩む先、遠くに、明るい光が見えた。
「決まっている。私たちが、ずっと共にいられる場所だ」
 そう言って、レオハルトは遠くを指差した。
 彼の指差した方角には、光が見えた。
 黄金の平原。
 きらきらと、まばゆい光を放つ、黄金の平原……神のおられるという天の御国とは、あんな場所であろうか。
 その光のまぶしさに、フィアナは真紅の瞳を細めた。美しく輝く黄金の平原……どこまでも、清らかで美しいそこに、レオハルト殿下はともかく、自分のような魔女は果たして、足を踏み入れることが許されるのだろうか?
 そんな不安から足を止めたフィアナに、レオハルトは不思議そうな顔をする。
「フィアナ……?」
「レオハルト殿下」
 不安げな表情に、フィアナの心配を読み取ったのか、レオハルトは大丈夫だという風に明るく笑う。
「そう不安がらずとも、大丈夫だ。それに、別にあの場所じゃなくても、何処に行ってもいい。もしも、あそこに私たちの居場所がないのなら、二人で探しに行けばいい。お前と一緒ならば、何処だって……お前は、違うのか?フィアナ」
 その言葉を笑顔を、まるで光のようにまぶしく思いながら、フィアナは小さく微笑んだ。
 この方は昔から、こうだった。
 誰からも愛される人の王であるのに、魔女に愛していると告げる、不思議な方。だが、この方がいたからこそ、フィアナは救われた。
 その昔、人になりたいと願った魔女は、最後まで人にはなれず、だけれど、人を憎むことなく愛することを知った。だから――
「ええ。そうですね。レオハルト殿下……その時は、探しに行きましょう。二人で、共にいられる場所を」
 そう言いながら、フィアナはレオハルトと繋いだ手を、ぎゅっと握り締めた。
 あの時、一度は離してしまった、その手。だからこそ、もう二度と離さないように。
 探しに行こう。そうすれば、きっと……
「ああ、そうしよう……フィアナ」
「はい」
 フィアナの手を握ったまま、レオハルトは彼女に問いかけた。
 遠くの光を目指して、歩みながら。
 幸せだったか、と。
「……王国と共に生きて、幸せだったか?人を愛せたか?」
 その問いかけに、フィアナは……六百年もの間、ローズティア王国と共にあり、人の歴史を見守り続けた魔女はしばし目を閉じ、そして、ゆっくりと首を縦に振った。
「ええ、幸せでした。そして……愛していました」
 愚かで優しく、強く弱く脆く……時に過ち、時に絶望し、それでも決して歩みを止めない人間たちが、どんな状況でも未来を求め、希望を捨てない人間たちが、フィアナは好きだった。
 魔女とは違う、その強さに憧れていた。
 一人、一人の力は弱くても、彼らは短い生を必死に生き抜き、新たな時代を切り開き、己の手で歴史を紡いでいく。
 悩んでも苦しんでも、それが出来るのが、人というものの力なのだろう。それは、とても強いことだ。だから、きっと大丈夫だろうと、フィアナは思う。
 ローズティア王国には、もう魔女も王も存在しない。
 支える者もなく、民衆は己の手で、新たな時代を切り開いていくしかないのだ。
 しかし、それでも人間たちは絶望することなく、希望を……光を求めて、歩き続けるはずだ。
 もはや、それを見ることは叶わないが、フィアナはそう信じている。
「どうか、幸せに……」
 そう言って、フィアナは遠くの光に向かって、手を伸ばした。
 絶えることのない、光に向かって……


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