龍神、恋い、乞う
原案+プロット、スイさま。(
0℃の夢)プロット交換企画。othello本の再録です
雨降り花を手折る時、さみだれの里には慈雨が降る。
それは、龍神の約束した涙とも、彼が花嫁の乙女を恋い、乞うが故だとも伝わる。
暗い曇天、慈雨を呼び、さあ、白き花よ、いま花開かん。
いまは昔、日照りに喘いでいた、さみだれの里を救わんと、里長の一ノ姫が立ち上がった。
その姫は伴を引き連れて、自らの足で山道を下り、湊町へと足を運び、その地にて外つ国より訪れた、龍神と出逢ったのだという。
東の民とは異なる、碧玉の双眸を持つ龍神は、さみだれの地を踏むなり、雨呼琴をかき鳴らし、枯れ果てた大地に恵の雨を降らせ、それを祝するように、白い蕾だった雨降り花がいっせいに花開いた。
約束を守った龍神に、さみだれの姫は感謝として、その身を捧げ、龍神の花嫁となった。
「龍の御方、わたくしが雨の字に誓いましょう。たとえ、わたしの命が尽きようとも、我が子孫たちが貴方を祀り、この先、永久に貴方の魂を慰めんことを」
白無垢を纏った、美しい花嫁はそう誓ったという。
龍神の妻となったその娘の名は、白露。
彼女こそ、長く語り継がれる、さみだれの里の初代であった。
物心ついた頃からいつも、黒檀の瞳に涙を浮かべ、母上の裾を握り締め、もっとも愛されているのは己だと、全身で訴える、火乃(カノ)。
ねえさま。
その強情さを、霧雨(キリ)は羨ましく思いこそすれ、妬んだことはなかった。何故なら、その揺るがぬ頑固さこそ、何かも正反対な姉妹である、火乃と霧雨が、確かに血が繋がった証だと思えたからだ。
「ひっく、い、母上様……霧雨が、火乃のお人形を壊したの。母上様がくださったものだから、とっても大事にしていたのに。霧雨が乱暴だから」
しくしく泣きながら、女だてらに、さみだれの里の頭領を務める、母の驟雨(シュウウ)にすがりつくのは、姉の火乃だ。
雪のように白い肌、不健康なまでに痩せた手足、黒檀の瞳は母娘でよく似通っていた。
違うのは、驟雨が頭領の座に相応しい、堂々とした気品をたたえているのに対し、火乃の瞳には、妬みと卑屈さが滲んでいた。
母の帯に手を回した彼女は、時折、はらはらと涙を零しながら、唯一の妹である霧雨の非を次々と母に訴える。あの子は乱暴だから、お気に入りの人形も壊してしまった。もう、一緒に遊べない。
涙ながらに、母に訴える姉の姿を、二つ年下の妹の霧雨は、ぼう然と見ていた。その右手には、首が壊れた女童の人形がある。
無残な人形の有様は、先ほど癇癪を起こした火乃が、腹立ちまぎれに地面に叩きつけたからだ。
そうして、それがさも霧雨の手によるもののように吹聴し、母の同情を煽ろうとする。それが、姉妹の間では、半ば習慣となっていた。火乃はつまらぬことで癇癪を起こし、それを霧雨のせいだと、罪をなすりつける。
美しい火乃は、息をするように嘘を吐く。霧雨を厭う、ただそれだけの為に。
泣きじゃくる長女の頭に手をおいて、「これこれ、そう嘆くでない。ぬしの体に触る。なに人形は母さまが治してやろう」となだめながら、驟雨は涼やかな切れ長の瞳で、霧雨、と次女の名を呼ぶ。
「乱暴はいかんぞ、霧雨……ぬしは活発なのはよいが、頭領となる者には、思慮深さも大切だ」
「……はい、母上様」
うなだれていた霧雨が、母の穏やかな物言いに、少しだけ目線を上げると、刹那、こちらを見る火乃と目があう。黒黒とした焔のような、火乃の双眸を見ていると、口をついて出ようとした不満は、たちまち風船のように、しぼんでしまった。
「なに、もとはといえば、姉妹でひとつの人形というのが、間違えであった。今度は、出入りの商人に、姉妹揃いのものを用意させよう。着物か、ままごと道具の類もあれば、嬉しかろう?」
霧雨たちの母は、聡明で、頭領としての責任をひとりで背負い、なおかつ若き頃は、息を呑むような美貌の人であった。
夫を早くに亡くした彼女は、さみだれの里の頭領としては、理想的な人物であったが、母親としては、里人のように行き届かぬのを、恥ぢているようであった。
そうやって、火乃をなぐさめる驟雨は、ちらりと霧雨の顔色をうかがう。
霧雨は、ぐっ、と言いたいことを飲み込んで、掌に爪を立てた。
「はい、母上様」
後年、霧雨は懐かしさと、微かな痛みと共に、その時の母の心境を思う。
おそらく、母は全てを察していたのだろう。それでもなお、その手を離すことが出来なかったのだ。
驟雨の帯にすがりついた火乃は、どこか勝ち誇ったような微笑を浮かべて、霧雨を見下ろす。
まるで、己の方がずっとずっと母に愛されているのだと、そう言いたげに。同時に、荒波に筏ひとつで投げ出されたように、たまらなく不安そうでもあった。傍を片時も離れようとしない火乃に、驟雨は苦笑し、霧雨の艶やかな黒髪を梳いて、姉妹の仲直りを促した。
……知っている。ズルいのは、霧雨の方だ。火乃ねえさまは悪くない。
壊れたお人形と、いっしょだ。ねえさまに与えられて当然だったものを、二年も遅く生まれた霧雨が、奪い取ったのだから、恨まれても仕方ない。
この、卑怯者めが。
射抜くような火乃の視線や、気遣わしげな母の目をも振り切って、霧雨はとぼとぼと来た道を引き返す。
何処でもいい。今は、いまだけは、母とも姉とも顔を合わせず、独りになりたかった。
夜も更け、天にあまたの星が輝く頃、乳母の目を盗んだ霧雨は、そっと頭領の屋敷を抜け出した。
さみだれの里には、いくつか彼女のお気に入りの場所がある。
年端もいかぬ少女が、真夜中に屋敷を抜け出すなど、次期頭領としても、決して褒められた真似ではなかったが、今はどうしても、そうせずにはいられない気分だったのだ。
ザクザクと草や木の根を踏みながら、霧雨はその場所を目指す。
黒髪が揺れて、吐く息は冷たかった。
しばし歩くと、雨降り花に囲まれた場所にたどり着く。
村の端っこ、里人もあまりこぬ其処は、空を埋め尽くす程の銀の星が輝いている、絶景であった。
まるいお月さま、星が瞬き、暗い夜空に灯をもたらす。
緑ケ原に、白い雨降り花が群生していた。
霧雨は膝を折ると、裾が土に汚れるのも厭わず、草の上に腰を落ち着けた。
姉との複雑な確執や、己の立場も何もかも忘れて、ただ一心に夜空を仰ぐ。
其処は昔、まだ霧雨が幼い頃、今は亡き父がこっそり教えてくれた、約束の場所であった。
床に伏せりがちで、頭領の伴侶としての約割は、果たせなかった父だが、親子としての愛情は、たっぷりと与えてくれた。
長女と折り合いが悪く、歩み寄るたびに拒まれる次女を、哀れんだのだろう。
父は、ちいさい霧雨を抱き上げると、「母さまと、姉さまには内緒だよ」と言いながら、 この場所に連れてきてくれたのだ。
抱き上げられて見た夜空から、銀の星の雨が降るようだった。
小さな手のひらが、星を掴もうと伸ばされて、空を切る。
「あー……」
流星雨。
銀の星たちに、もしも願うならば……姉さまと。
「綺麗だね、霧雨」
そう言って、父は柔らかく微笑んだ。
幼き日に儚くなった父の、数少ない思い出である。それ以来、霧雨は辛いことや哀しいことはあると、此処に足を運ぶようになっていた。
―ガサッ。
その時、ザワザワっと草木が擦れる音がした。
「何奴だ!」
それまで、誰の姿も目にしていなかった霧雨は、反射的に鋭い声で問う。だが、すぐに立ち上がった小さな影に、警戒を解く。
「なんだ、童か」
ガサガサと草木をかき分けるようにして、姿を現したのは、霧雨よりも更に年下らしい童子であった。
しかし、警戒を緩めたはずの霧雨は、その子供の容姿に、瞠目した。
月に照らされたのは、きらきらと月光を浴びる、白い髪。
可憐なかんばせの中で、一際、目を引くのは、薄紅色の双眸。
桜の花びらのようなそれは、童子の浮世離れした雰囲気と、少年とも少女ともつかぬ、色気を増していた。
白銀の睫毛を振るわせ、あどけなく、いとけない仕草で首をかしげた、その童は、薄紅の瞳に霧雨を映し、やや高い声で言った。
「お前こそ、何者なんだ、女」
華奢で、触れれば折れそうな身体や、愛らしいかんばせとは異なり、童は存外、図太く、物怖じしない性質のようだ。
睨むようなそれは、さみだれの里の頭領の娘として、敬われてきた霧雨には、それまで無縁のものであった。しかし、それは彼女にとって不快でなく、むしろ愉快であった。
「私の名は、霧雨ぞ。おぬしはなんと?」
「はんっ、よく知りもしない女に、何で俺の名を教えなきゃいけねーんだ」
「そう、頑なにならずともよかろう」
「はんっ、御免だね。じゃあな」
お綺麗な面とは裏腹に、毒舌を吐いて、美しい少年は霧雨に背を向け、足早にその場から立ち去る。ざくざく、と草を踏みしめる音だけが、霧雨の耳に残った。
―星月夜。
名前も知らぬ、その白い少年との刹那の邂逅は、霧雨の心に鮮烈な印象を残したのである。
「霧雨さま、霧雨さま!一体、何処においでですか?お返事なさってくださいまし」
年の功は、十四、五、だろうか。
主の名を呼び、声を張り上げた少女の名を、霞という。
頭領屋敷に仕える侍女である彼女は、霧雨さま、霧雨さま、と声に必死さを滲ませながら、首を左右に振り振り、田んぼの横を歩きながら、主の姿を探す。
農作業をしていた里人たちは、よく繰り返された光景に目を細め、霞の苦労を慮った。
「おい、ここだ。ここだ。霞!」
鈴を鳴らすが如き、可憐な声にそぐわぬ、男のような口調。
ザバッと田んぼの泥の中から、立ち上がった黒い人影に、霞は「きゃあ!」と悲鳴を上げた。
「霧雨さま!何て格好をなさっているんです!次期頭領ともあろう御方が、嘆かわしい」
ぶるりと頭を振り、泥を落としたのは、凛々しい、との表現が似合う、美しい少女であった。
つり目がちな黒の瞳は意志の強さを宿し、白磁の肌は透けるよう。その容姿は、さみだれの里の頭領にして、己の母である驟雨と瓜二つであった。
しかしながら、日頃、侍女の霞が丹精こめて梳いている長い黒髪は、いまや泥だらけ。鼻先にも、ちょこんと泥がついている。衣に至っては、見る影もない。
「あ、あああ……」
主のあんまり姿に、霞がふらふらと、卒倒しかけるのも無理からぬ話であった。だが、肝心の霧雨はといえば、軽く肩をすくめ、あっけらかんと、悪びれる素振りもない。
「ああもう、そう口煩い爺のようなことを言うな、霞。愛らしい顔が台無しぞ」
お世辞には乗りませんよ、と霞は目尻を吊り上げ、鼻息も荒くまくし立てる。
「かような場所で、のんびりしている場合ではございません。霧雨さま。御屋形さまがお呼びです。お早く、屋敷にお戻りくださいませ」
「さよか、しばし待て」
霧雨はあくまで能天気な態度を崩さず、おーい!と、遠巻きにこちらの様子を伺っていた、里の童どもに手を振る。
「捕まえたぞー」
わあっ、子供たちから歓声が上がった。
「凄いやっ!霧雨さまは、やっぱり蛙取りの名人だねっ!」
「ふふ、苦しゅうない。もっと褒めても良いのだぞ」
得意げに胸を逸らす霧雨に、霞は半眼で尋ねた。
「霧雨さま。捕まえたものって、まさか……」
「ん。ああ、これだ」
ゲコゲコ、と霧雨の手に捕まえられていた青緑色の生き物が鳴く。
手を放すと、その雨蛙はぴょーん、と霞に向かって飛んだ。
「いやっ、あああああああ!」
霞は悲鳴を上げて、今度こそ卒倒した。
走る、走る、霧雨が走る。音もなく。
青々とした田んぼの横や、小石が転がる畦道すらも、軽やかに。
泥だらけになった白い衣も、彼女の清冽とした美しさを、欠片も損ないはしない。
高台の頭領屋敷に向かって、疾駆した。
農作業をしていた百姓たちは、彼女の姿を認めると、編み笠を上げ、一様に唇をほころばせた。
「霧雨さまだ」
「今日もお元気だのう」
その声には親しみと、代々、さみだれの里を纏めてきた、頭領一族への揺るぎない信頼が宿っている。
豪快で、破天荒な性格で知られる霧雨だが、里人、特に童子どもからは慕われている。
むちゃくちゃな振る舞いをしているように見える彼女だが、衆目を集める華があり、憎まれない愛嬌のようなものがあった。
頭領の地位を継ぐと、高台にある屋敷に篭ることになり、里人たちの前には滅多に姿を見せぬ、雲上人のような存在になる。
今の驟雨がそれだ。
霧雨は、あまり身分に拘らぬ性分で、里の子供たちとも泥だらけになって、時に取っ組み合いの喧嘩もし、屈託ない笑顔を見せる。里人たちが、好感を持つのは当然だった。けれど。
「霧雨さまもなぁ……火乃さまのことがなけりゃ」
「おい、おめぇさ、滅多なこと言うでない。首を斬り飛ばされても、文句は言えんぞ」
不穏なことを口にした百姓の男を、隣にいた親父が泡を食って、たしなめた。