女王の商人

モクジ

  ある日の主従  

「セドリック。すまないが、少し尋ねたいことがあるんだが、良いか……?」
 そんなアレクシスの一言から、従僕であるセドリックの穏やかな午後は、あっという間に崩壊した。


 セドリック=ローウェンは、アレクシスを主人と仰ぎ、ハイライン伯爵家に仕える従僕である。
 ちなみに、父はハイライン伯爵家の本邸の執事、母は若い頃は本邸のメイドだったし、三つ年の離れた妹は本邸でメイドとして奥方様にお仕えしている。
 父の家系は先祖代々、ハイライン伯爵家の執事を勤めており、その長男であるセドリックが伯爵家の嫡男――アレクシスに従僕として仕えることは、極めて自然な流れであったし、またセドリック自身も望んだことだからだ。
 彼と主であるアレクシスとの付き合いは、それこそ子供の時からだから、もうかれこれ十数年になるか。
 若様と初めて会った時のことを、セドリックは十数年の月日が経った今でも、鮮明に覚えている。
 幼い時のアレクシスは、母に似て色白で、くりっとした大きな瞳の……人の庇護欲をかきたてるような、可愛らしい子供だった。
 もちろん、身長も今のように高いはずもなく小さくて、黒髪を伸ばせば、女の子と言っても通りそうな容姿の少年だった。
 ただ、その強い意志と誇りを宿した漆黒の瞳が、幼い子供とは思えないほどに鮮烈な光を宿していて、高潔な騎士の血を受け継いでいることを感じさせた――それに少年だったセドリックは魅せられたのだ。
 そうして、セドリックはアレクシスに忠誠を誓い、従僕として仕えることになった。
 それを望んだのは、ハイライン伯爵家の執事である父と、母であるが、選んだのは自分だとセドリックは誇りを持って断言することが出来る。
 他の誰でもない己の意志で、主を選んだのだと。
 アレクシスに仕え始めてから、もう十年と少しになるが、彼はその選択を後悔したことは一度もなかった。
 期待に違わず、若様――アレクシスは年こそ若いが、優れた騎士に成長されたと思う。
 騎士道を重んじ、誠実で真面目な性格であり、優しく、剣の腕もかなりのものだ。まぁ、あえて言うなら少し融通が利かず頑固なところと、世間知らずで鈍い……いやいや、世俗の垢にまみれていない純朴な性格が、やや欠点と言えなくもないが些細なことだ。
 とにかくセドリックにとって、アレクシスは何処に出しても恥ずかしくない自慢の若君であり、幼い頃から見守り、共に歩んできた大切な主人である。
 そこに何の問題もない……はずなのだが、その先を考えてセドリックは「ふぅ」と息を吐いて、指先で眼鏡を縁をいじった。
 ――最近、若様の様子がおかしい。
 いや、失礼を承知で言うならば、最近の若様――アレクシスは明らかに変だ。
 まず、第一に落ち着きがない。
 屋敷で過ごしていても、傍目にもわかるほどボーっとしている時もあるし、そうかと思えば屋敷の中をうろうろと意味もなく歩き回っている時もある。妙に深刻な顔でため息をついていたと思えば、まるで何かを忘れようとするように、一心不乱に剣の稽古に打ち込んでいる時もある。
 何かを悩んでいることはわかるが、その理由は決して言おうとしない。
 そんなアレクシスに、セドリックは心配と歯がゆさを感じていたが、まさか従僕の立場で、主に何があったと無理に問いただすことなど出来るはずもない。
 セドリックは心配しつつも、ただ黙ってアレクシスを見守り、主が口を開くのを待つしかなかったのである。
「セドリック。すまないが、少し尋ねたいことがあるんだが、良いか……?」
 アレクシスがためらいがちに、屋敷の掃除をしていたセドリックにそう声をかけてきたのは、そんなある日のことだった。
 ――やっと、か。
 セドリックはそう思いつつも、書庫の整理をしていた手を止めて、アレクシスの方へと歩み寄った。
「はい。お呼びでしょうか?若様」
 アレクシスは「ああ」とうなずいて、「仕事中に、すまないな」と言うと手近な椅子に腰をおろし、手前の椅子に座るようにセドリックに促した。
 言われた通りにセドリックが椅子に腰をおろすと、アレクシスはしばし考え込むように沈黙していたが、やがて重い口を開いた。
「……セドリック」
「はい。若様」
 アレクシスの声と表情が、ひどく真剣なものだったので、返事をするセドリックの顔も自然と引き締まる。
 ――若様の話したいこととは一体、何なのだろう?
 そう思いながらも、セドリックは主の話を急かすような真似はせず、辛抱強くアレクシスが話し出すのを待った。アレクシスは一度、ゆっくりと息を吐くと、覚悟を決めたような顔で慎重に言葉を重ねた。
「その、セドリックは気づいていたかもしれないが、最近の俺は少し、その、様子がおかしかったと思う。心配をかけて、すまなかった。迷惑をかけたな」
「いえ、そんなことは……」
「実はその件で、お前に尋ねたいことがあるんだ。セドリック……お前は昔から頭が良くて物知りだったから、俺にはわからないことでも、セドリックならわかるかもしれん」
 首を横に振ったセドリックの、緑の瞳を真っ直ぐに見つめて、アレクシスは真剣な声で続けた。
 その主の真剣な表情に、セドリックはごくっと唾をのんだ。
 買いかぶってもらっては困るとは思ったが、敬愛する若様を突き放すわけにもいかず、セドリックは首を縦に振るしかない。
「私の浅い知識で、若様のお役にたてるとも思えませんが、尋ねたいこととは……?」
 セドリックの問いかけにアレクシスは「ああ」とうなずくと、
「俺は……何かの病にかかっているのかもしれない」
と、至って真面目な顔で言った。
「病っ!……若様が?どこか具合でも悪いのですか!」
 慌てた声で叫ぶと、セドリックは青い顔で椅子から立ち上がり、アレクシスに歩み寄ろうとした。しかし、アレクシスに「……落ち着け。セドリック」と声をかけられたことで、それを思いとどまる。しぶしぶといった風に、セドリックが再び椅子に座り直すと、アレクシスは話を続けた。
「いや、体調は特に問題ない、と思う……ただ、このところ妙なんだ」
 珍しく、アレクシスの歯切れは悪い。
 普段は、このように曖昧な物言いはしない主なのに、一体どうしたのだろう……?釈然としないものを感じながら、セドリックは話の先を促した。
「妙とは?何か妙なことでもありましたか?若様」
「ああ」
 重々しくうなずくとアレクシスは、
「ああ。このところ俺は変なんだ。その……たとえば、ある娘が危険な目にあったと聞いただけで、心臓が凍りそうになる。なれるものなら、自分が身代わりになってやりたいとさえ思う。その娘が知らないうちに、己の手の届かない場所にいったらと想像しただけで、体が震えた……おかしいだろう?自分が死にかけた時だって、そんな風に思ったことはなかった。騎士たる者、常に覚悟をして生きよ――亡き父上に、そう教えられてきたからな。それなのに、ある娘が危険な目にあっていると聞かされた時、俺は恐怖を感じたんだ……おかしいだろう?」
と、真剣そのものな表情で言った。
「はあ……」
 はい、とも、いいえ、とも言い辛いセドリックは言葉をにごす。
 それは、その、アレじゃないだろうか……?
 なんともいえず微妙な顔をするセドリックに、伝わっていないと思ったのか、騎士は更に言葉を重ねた。
「いや、それだけじゃない。その娘と共にいると、心なしか鼓動が速い気がするし、離れると胸が痛む……これは、何かの病かと思ったんだが、別に体調は悪くない……妙だろう?どう思う?セドリック」
「……」
 どう思う?と、そう問われたセドリックは、頭痛を感じる額に手をあてた。
 ある娘と共にいると鼓動が速く感じたり、離れると胸が痛んだりって……若様。それは病なんかじゃなくて、恋……
「あの、その前に、ひとつよろしいですか?若様」
「何だ?セドリック」
「……その、ある娘というのは、じゃじゃ馬な女商人のことですか?シアとかいう……」
 セドリックの言葉に、アレクシスは一瞬、驚いたような顔をした後、首を縦に振った。
「……よくわかったな。セドリック」
「ええ。まぁ……」
 普通、わかりますよとは言えず、セドリックは控えめにうなずいた。
 ここまで話を聞いて、何もわからなかったとしたら、真面目に若様の話を聞いていないか、従僕の職を返上した方が良いだろう。
 しかし――
 セドリックは、アレクシスに気づかれないように、心の中でため息をついた。
 この様子だと、若様はあのシアとかいう女商人に、少なからず好意を抱いているらしい。恋といっても、いいほどに。
 もっとも、本人にその自覚はないないようだが。しかし……
 アレクシスの端整な横顔を見て、セドリックは息を吐く。
 若様ならば、いくらでも楚々とした貴族の令嬢が寄ってくるだろうに、どうして商売のこと以外に頭にないようなじゃじゃ馬娘に惹かれるのか、それが謎だ。
 たしかにあのシアという小娘の見かけは、触れれば壊れそうなほどに繊細な美貌ではあるが、性格は図太い……というか、あれほど見た目と性格が違う人間も、そうはいない。
 しかも、そんなシアの性格を重々承知していて、なおかつ彼女の中身を気に入っているというのだから、若様の女性の趣味はその……少々変わっていると、セドリックは思う。
「セドリック……?さっきから百面相をしているが、どうかしたか?」
 そうアレクシスに言われて、セドリックはぶんぶんと顔を横に振った。しまった!顔に出ていたか!
「いっ、いいえ!若様が、お気になさるようなことではございません!お気遣いなく!」
 まさか、今、考えていたことを言うわけにもいかず、セドリックは必死に首を横に振った。
「そうか?なら、良いが……」
 根が素直な性格のアレクシスは、セドリックの言葉をやや釈然としないながらも受け入れて、うなずいた。
 そうして、ふぅと息を吐くと、彼は椅子から立ち上がる。
「……若様?」
 首をかしげるセドリックに、アレクシスは至極、真面目な表情で告げた。
「色々と考えたんだが、やはり医者に看てもらった方が良いのかもしれないな。もしかすると、胸の病かもしれん」
「……」
 無言のセドリックにアレクシスは、「相談にのってくれて、助かった。セドリック」と言うと、スタスタと彼に背を向けて、歩き去ろうとする。
「ちょ、ちょっと、ちょっと待ってくださいいい―――っ!若様あああ――――っ!」
 そんな主の背中を、従僕は必死で呼び止める。
 頼むから、本人も無自覚の恋わずらいで、医者に行くのは止めて下さい、とセドリックは思う。
 医者だって多分、困るだろう。
「……何事だ?セドリック。そんなに大声で……」
 そう言いながら、不思議そうな顔で振り返ったアレクシスを、セドリックは必死に説得する。
「あの、医者は少し大袈裟ではないでしょうか?若様!」
「……そうか?」
「ええ!その、若様は少しお疲れなのではないでしょうか?ゆっくり休めば、治る……ことはないかもしれませんが、落ち着くかと」
 セドリック自身も、いささか強引ではないかと感じずにはいられない説得だったが、幸運なことにアレクシスは「……お前が、そこまで言うなら」と、うなずいた。
 セドリックはホッと安堵して、
「それが、よろしいかと。そうと決まったら、自室でお休みください。若様……すぐに、何かあたたかい飲み物をお持ちします」
と言った。
「ああ。頼む」
 アレクシスは納得すると、従僕に背を向けて、自室へと向かった。
 その主の背中が見えなくなったのを確認して、セドリックは呟く。
「……どんな名医でも、無理ですよ。若様。恋わずらいにつける薬なんて、あるはずないんですから」
 恋愛に鈍感すぎる主人を持つのも考えものだと、従僕は正当なるため息をついたのである……。
モクジ
Copyright (c) 2010 Mimori Asaha All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-