モクジ

  王妃と影妃  

 大陸の西に、小さな国があった。
 決して広い土地は持たなかったが、暖かな気候に恵まれ作物の実りが豊かで、平和な国であった。
 その国を治めるのは、一人の若き王だった。
 陽光に映える金髪と、海の蒼と讃えられる瞳を持つ、美しい王であった。その王は王太子として国を継ぐべく育てられ、また聡明な人でもあったので、よく国を治めた。彼が統治した二十年のうち、最初の十年は本当に平和であった。国内は作物がよく実り、反乱や飢饉とも無縁であった。
 本当に平和な日々であった。
 ――王が最愛の妃を亡くすまでは。
 その美しい王には、愛する妃がいた。
 小さな王国とはいえ、歴代の王は愛妾を持つのが常であったが、その王は愛妾を持たず、王妃だけを愛していた。
 王妃は艶やかな漆黒の髪と、若葉の色の瞳を持つ美しい女だった。
 その柔らかな微笑みは見る人を魅了したが、その美しさよりも賢く穏やかな気質を、王はより深く愛していた。王妃は王の従妹という高貴な生まれでありながら、奢ったところのない優しい性格から、民にもよく慕われた。名をエミリア。この国の古い言葉で、白い花という意味の名であるので、彼女は花の王妃とも呼ばれた。
 同時に、王が何よりも深く愛したのは、王妃の声であった。
 王妃――エミリアの声は、鈴を鳴らすように軽やかで、さえずる小鳥の優しく、まるで天から贈られたような美声であった。王は誰よりも何よりも、王妃の声を愛した。王妃も王に求められるままに、いつも美しい歌を紡いだ。王が沈んでいる時は、明るい歌を。王が悲しんでいる時には、優しい歌を。
 王が望む歌を、王妃は歌い続けた。
 そうしていることが王の幸せであったし、王妃の幸せでもあった。彼らの間には、たった一人の王子しか生まれなかったが、二人の仲睦まじい様子を見ていた大臣たちは無理に愛妾を進めることも出来ず、彼らの日々は平和に流れて行った。そう、婚姻から十年目の年に、王妃が病を得て世を去るまでは。
 ――王妃様が亡くなった。
 それを聞いた国民たちは嘆き悲しんだが、すぐに王は新しい妃を迎えるだろうと噂した。王はまだ若く、いつまでも一人で居るとは考えられない。王妃様を失った心の痛みを癒すために、大臣たちは頃合いを見計らって、若く美しい娘を探すのだろう。選ばれるのは、隣国の姫君だろうか、あるいは貴族の令嬢であろうか……。
 その噂の通りに、王妃の喪が明けてしばらくした頃に、王は新しい妻を娶った。臣下の娘の一人を。
 王に劣らないほど見事な金髪と、淡い菫色の瞳を持つ美しい娘であったのだが、王は一月と経たぬうちに彼女を実家に帰した。娘の髪が黒髪でなく、若葉色の瞳を持たぬという理由で。
 大臣たちは、王の言葉に困惑しながらも、次の娘を連れてきた。
 さる公爵家の末娘で、美しい黒髪と淡い緑を瞳を持つ、儚げな容姿の少女だった。今度こそはと期待された彼女も、一月にも満たぬうちに実家の公爵家へと帰された。王の理不尽な行動に、大臣たちは途方に暮れつつも、何が駄目なのかと王に問うた。連れてきた娘に、何か至らぬところがあるならば、教えて欲しいと。
 王は答えた。
 ――何もない。家柄も容姿も性格も、素晴らしい娘だと。
 ならば、と訴える大臣たちに、王はゆっくりと首を横に振った。
 ――だが、声が違うのだ。王妃の、あの優しく軽やかな歌声が、予は忘れられぬだと。
 震える声でそう言って、目元を押さえる王に、大臣たちは何も言うことが出来なかった。ここにいたって、彼らはようやく気付いた。王の悲しみを癒せるのは、美しい娘でも高貴な娘でもないのだと。この孤独な王を救えるのは、今は亡き王妃ただ一人なのだと。
 やがて、大臣たちが三人目の花嫁を連れてきた。
 その娘は王妃の遠縁にあたり、若き頃の王妃と瓜二つの容姿をしていた。その艶やかな黒髪も、宝石のような若葉色の瞳も、まるで亡き王妃様が戻ってきたようだと大臣たちは噂した。
 大臣たちが連れてきた娘に王は黙ってうなづき、この国の古き歌を歌わせた。
 美しい歌声だった。亡き王妃に優らぬとも、劣らぬほどの。
 娘が曲を歌い終えた時に、王は大臣を呼び、その娘を王妃とすることを告げた。
 そうして、王妃となった娘に王は二つのことを命じた。
 ――ひとつめは、今の名を捨て、王妃と同じエミリアの名を名乗ること。
 ――ふたつめは、王が死ぬその日まで、決して歌わぬこと。
 娘は黙って、その命を受け入れた。断れば、実家の両親や一族の者たちにも迷惑がかかるだろうことは、十分に理解していた。その婚姻の日を境に、ある貴族の娘の名がこの世界から消え、エミリアという偽の名を名乗ることになった。民は亡き王妃の影となった哀れな娘のことを、影妃――と、そう呼んだ。
 その婚姻から、十年の月日が流れた。
 影妃と呼ばれた娘は、王の二つの命を忠実に守り、親から与えられた名を名乗ることは決してなかった。エミリアと呼ばれることを受け入れて、眉をひそめることすらしなかった。もうひとつの、決して歌わぬなかれという王の言葉は守られて、王妃となった娘の歌声を聞いた者は誰一人としていない。
 その年の冬。
 花妃と呼ばれた最初のエミリアが亡くなってから十度めの冬に、王が病を得て倒れた。
 王の体を蝕んだ病は、彼の最愛の王妃を奪ったものと、同じ病であったという。病は容赦なく王の命を削り、雪解けの季節を前にして、王は寝台から離れられなくなった。王の命が残り少ないであろうことは、誰もがわかっていた。きっと国王陛下は春を待たずに逝くのだろう、と大臣たちは噂した。
 雪の降る夜に、王は娘を自分のそばへと呼んだ。
 寝台のそばにいた医者は、もう自分に出来ることは何もないという風に、黙って頭を垂れていた。王の最期が近いことは、その場にいた誰もがわかっていた。娘は静かな足取りで、寝台に横たわる王へと歩み寄り、王の最期の言葉を聞こうとした。痩せ衰えた王は、それでも透きとおった蒼い瞳を娘に向けた。
 ――予を恨んでおるか?
 王の静かな問いに、娘は小さく首を横に振った。
 ――昔は、恨んでおりました。私から名と歌を奪った陛下のことを。今はもう……恨んではおりませぬ。ですが、エミリアと偽りの名を名乗った日から、私は影となりました。影に人を憎むことなど出来ませぬ。
 王の命によって、自分という存在を消された娘は、そう言って微笑んだ。恨んでなどいない。影妃と呼ばれた娘がついた、最初で最後の嘘であった。本当に哀れなのは、王なのか花妃とよばれたエミリアなのか、それとも影妃と呼ばれた自分なのか、娘にはわからなかった。
 ――すまぬ。
 王はゆっくりと蒼い瞳を閉じて、永遠の眠りについた。
 ――エミリアよ……。
 それが、最期の言葉だった。
「ああ……」
 王の亡骸を見つめる娘の頬を、一筋の涙がつたった。
モクジ
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