記されぬ名
大陸の西の小国で、新王が即位してから今年で十年になる。
影妃と呼ばれた女が死んでからは、三年ほどの月日が流れていた。
――先王は聡明にして、慈悲深い人であった……。
カリカリと軽快にペンを走らせていた男は、そう羊皮紙に記すと、疲れたように息を吐きペンを置いた。
男は王家に仕える、書記官であった。
歴代の王の業績を書き記し、本にまとめるのが彼の仕事である。
今、彼が書いているのは、現在の王の父である先王の記録であった。今の王の即位十年という記念の年に、王の今までの業績の記録を整理することになったのだが、それと同時に先王の書物も新たに書き直されることになったのだ。それというのも、先王の書記官は余り優秀な人物でなかったらしく、色々と書き足さねばならぬからだった。
そんな理由から、男はここ半年というもの、ひらすら先王の一生を書き記しているのだが作業は余り順調とはいえなかった。
別に、一行も書けないというわけではない。ただ、ある個所になるとペンが止まってしまう。
原因は明白だった。
影妃と呼ばれた人のことだ。
彼女のことを――影妃のことを、思い出すたびにペンの動きが鈍くなってしまう。
先王は聡明な人であった。
今の王も優れた為政者であるが、それに優るとも劣らない。
近隣諸国との外交も、国の治める内政も、先王の判断の大半が正しいものであった。その証拠として、先王の治めた二十年もの年月の間、国内での反乱はただの一度としてなかった。飢饉の折りも最小限の被害で食い止められ、他国からの侵略を受けることもなく、不作の数年を除けば作物も豊作であった。
先王の治世は、平和であった。
民が穏やかに、明日への憂いなく過ごせたという点において、先王は良き王であった。
だからこそ、書記官の男は首を捻らざるおえない。
なぜ王は影妃と呼ばれた女性に、あれほど残酷な命を下したのかと。
生まれ持った名を捨てさせ、前の妻の名を名乗らせたうえに、歌うことを禁じたのかと。
その理由が、男にはわからなかった。
――影妃。そう呼ばれた女性について、書記官の男は知っているようで、何も知らない。
両親が王宮に勤めていた関係で、男は子供の時分から王宮に出入りしていた。だから、花妃と呼ばれたエミリアも、影妃と呼ばれた女性も遠目に見つめたことがある。
艶やかな黒髪も若葉色の瞳も、細面で整った顔立ちも何もかも、二人の女はよく似ていた。
影妃の方が十歳ほど下であったものの、王宮に長く勤めていた者たちですら、亡き王妃様が戻ってきたのかと目をこすったほどに。
だが、その表情はまるでちがった。
亡き王妃が、いつも幸福そうな柔らかな微笑みを浮かべていたのに対し、影妃はいつも何処となく憂いをおびた暗い表情をしていた。それが、影妃の性格によるものだったのか、あるいは身代わりという立場への悲しみだったのか、彼女が亡き今、語る者は誰もいない。だが、王の命が彼女の人生を変えてしまったことは間違いないだろう。
王はどうして、影妃に亡き妻の名を与え、歌うことを禁じたのか。
先王は最期まで、その理由を決して語ろうとはしなかったが、書記官の男には王の狂気がわかる気がした。
王は王妃を誰よりも愛した。狂えるほどに。
だから、新しい妻たちを受け入れられず、亡き妻の面影を追い続けた。だが、それで王妃を失った悲しみを癒せるはずもない。艶やかな黒髪を持っていても、若葉色の瞳をしていても、彼女たちは王妃とは別人なのだから。
もし、影妃という娘がいなければ、王も時の流れと共に目を覚ましたかもしれない。
だが、影妃という娘の存在が王を狂わせた。
彼女は――影妃は余りにも、亡き王妃に似すぎていた。艶やかな黒髪も、美しい顔も、天から授かったような歌声も何もかも……。
影妃は王は亡くなる瞬間まで傍らにあったが、王は彼女を愛していたわけではないだろう。王が愛したのは、彼女を通してみる亡き王妃だけだった。影妃は王妃の影でしかなかった。彼女は影としてしか、王に愛されず、影として死んだ。
――影妃が死んだのは、冬の寒い日のことだった。
冬の日の早朝、寝台の上で眠るように亡くなっていたのを、影妃付きの侍女が見つけたのだという。
もともと病弱な人であったから、王宮の者たちも影妃の死に驚くことはなかった。しばらくして、王と王妃の息子――今の国王の手によって、盛大な葬儀が行われてから、もう三年もの月日が流れた。今ではもう、王宮の誰の口からも影妃の名が出ることはない。
だが、書記官の男は影妃が死んだ日のことを忘れてはいない。
いや、きっと生涯、記憶の片隅にくすぶり続けるに違いない。
――影妃が亡くなる前日、男は彼女の歌声を聞いた。
身も凍えるような冬の早朝のことだった。
書記官の男が王宮の庭を散歩していた時、どこからか美しい歌声が響いてきた。
美しい……本当に美しい声だった。
鈴を鳴らすように可憐で、さえずる小鳥のように軽やかで、天使のように清らかだった。男はその天から降ってきたような歌声に、時間も今の状況も全て忘れて、身動きすら出来ず聞き惚れた。あまりに美しいものを前にしては、人はどのような言葉も出ないのだと初めて知った。
奇跡。
そんな言葉が頭に浮かぶほどに、稀有な歌声であった。
「――愛しい人よ、誰も貴女の代りにはなれない……」
永遠に続くかに思えた歌声は、その言葉で幕を閉じる。
それは弔いの歌だった。
この国に古くからある、死者を弔うための歌。
その歌が終ったことで、歌声に心を奪われていた男はようやく我に返って、その声の主を探そうとした。辺りを見回すと、その歌声の主が高い窓から顔をのぞかせていた。
艶やかな黒髪に、若葉色の瞳の女――影妃だ。
影妃の姿は男の目には心なしか、色白だった肌は青白くなり、ほっそりした肢体は更に細くなったように見えた。もともと儚げな美貌の持ち主ではあったが、今はすぐにでもこの世から消えてしまいそうな危うい美しさだった。
その時、影妃が男の方を向いた。
ほんの一瞬、視線が重なる。
そして、影妃は……微笑んだ。
美しいがどこか寂しげな微笑みから、書記官の男は目をそらすことが出来なかった。それが、男が影妃を見た最後になった。
――その次の日に影妃が死んでから、三年の月日が流れた今、王宮は少しだけ変わった。
長く独身であった今の国王が、南の国の姫君を王妃として娶り、快活な王妃の影響で王宮は明るくなった。
新しい王妃は舞踏会を好んでいるために、貴族の娘たちの間でもダンスが流行しているらしい。連日、華やかな舞踏会が催される王宮は忙しいが、働く者たちの顔は活き活きとしている。かつて王宮にたちこめていた重苦しい空気は、今や王宮のどこにもない。時は絶え間なく流れているのだろう。
男は過去を思い出して行くうちに、ようやく今になって、王が影妃に歌うことを禁じた理由がわかった気がした。
今では想像にしか過ぎないが、王もあの歌を聞いたのかもしれない。影妃の弔いの歌を。
――愛しい人よ、誰も貴女の代りにはなれない……。
あの悲しい歌を歌った影妃も、あの歌を聞いた王も、その真実に気付いていたのだろう。王妃の代りには誰もなれず、影になった娘には影として生きるしか道はないのだと。
あの美しすぎる歌声は、偽りを許さなかった。
全ての真実を映しだすような、透明な歌声であった。
だから、王は影妃に歌うことを禁じたのだろう。そうしなければ、耐えらなかったのだ。
――影妃は死んだ。もう、あの歌声も彼女の本当の名も、歴史に残ることはない。
今、男が書いている先王の記録の中には、影妃について書かれた文は一行もない。今の王――先王と王妃の息子は影妃のことを嫌っているし、彼女の存在は王家にとって誇るべきものではないから。
そう、亡くなってからもなお、影妃と呼ばれた娘は影だった。影でしかなかった。
「ああ……」
影妃と呼ばれた哀れな娘を、歴史の影に埋もれた娘の一生を想って、書記官の男は嗚咽した。
彼が書いている羊皮紙には、一人の女の名が記されて、すぐに消されていた。
それは、影妃と呼ばれた女の、記されることなく本当の名であった。
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