影妃の葬列
――影妃が死んだ。
王子が寝室でその知らせを聞いたのは、冬の朝のことだった。王子――いや、影妃が死んだ時にはすでに王であったのだが、彼は影妃と呼ばれた女の死の報せを、そう動揺もなく受け止めた。
幸も生の気配も希薄そうな女だったから、こういう最期を迎えるのではないかと予感していたから、王子は驚きを顔に出さなかった。むしろ、影妃の死を報せにきた従者の方が、突然のことに泡を食っているようだった。
影妃――そんな風に蔑まれていたとはいえ、彼女は先王の妃であった。王子が未だ妃を迎えていない今、形ばかりとはいえ影妃は王宮で最も地位の高い女であった。たとえ、居ても居なくても変わらぬほど存在感の薄い女であっても、影妃付きの侍女にしてみれば、仕えるべき主を失ったということだ。王宮が騒がしいのも、当然といえば当然のことだった。
生きているうちには、王宮に何の波風も立てなかった女だというのに、死んだ途端に騒がしいことだ。そんな風に思いながら、王子は大騒ぎをする大臣たちを、冷淡な瞳で見つめていた。
――あの女が死んだ。影妃と呼ばれた女が。
王子は、王と花妃と呼ばれた王妃の間に生まれた。
子供である彼の目から見ても、仲睦まじい国王夫妻であったが、子は王子ただ一人しか恵まれなかったので、彼は生まれた時から国を継ぐ者として教育された。
王になるための教育を受けることが、幼い王子にとって大変でなかったといえば嘘になるが、それでも彼の子供時代は幸福に包まれていた。
父である王は厳しかったが、誰に対しても公平な人であったし、国を平和に治める姿は子供心に彼の誇りであった。将来は父のような良き王になりたいと、幼い王子は願っていたのだ。
母である王妃は、美しい人だった。
エミリアという白い花と同じ名を持つ人であったが、あの美しい花と同じように、清楚で上品な美貌の人であった。
もっとも、母が素晴らしかったのは、その容姿だけではない。誰に対しても優しく、いつも朗らかに微笑んでいて、何よりもこの国を心から愛していた。
そして、あの優しい歌声。
幼い頃、彼が眠りにつくまで、母である王妃が美しい声で歌ってくれたそれこそが、幼い王子にとって最も清らかで貴いものだった。
だから、母である王妃が病で世を去った時、彼は世界から光が奪われたような孤独を感じたものだった。そして、それは父である王もそうであったのだろう。いや、王という重責にあった分、父の抱えた孤独はより深いものであったはずだ。
だから、あのように愚かなことを……。
――影妃と呼ばれた女が、王宮に連れてこられたのは、王子が九つの年だった。
王子は最初から、影妃という女のことは嫌いだった。
確かに、容姿だけは母に似ていた。
艶やかな黒髪も若葉色の瞳も、美しい顔立ちまでもが。母の遠縁にあたるということだったが、姉妹と言っても誰も疑わないであろうほどに、王妃とその娘は瓜二つだった。だが、王子はその娘と母は全く似ていないと感じた。
何よりも違うのは、その瞳だ。
母の瞳がいつも明るさと誇りに満ち溢れていたのに対し、影妃――連れてこられた娘の瞳は、暗さと怯えの色が濃かった。
その振る舞いも、堂々として気品があった母とは似ても似つかぬ、稚拙なものであった。いつも見えない影に怯えるように、おどおどと自信なさげに振る舞う娘の姿が、母に似た容姿をしているだけに、王子を余計に苛立たせた。
聡明であった母とは対照的な、陰気で愚鈍な娘の姿を目にするたびに、影としても役不足だと思うようになった。
その苛立ちから、王子は影妃に辛く当った。
もし、影妃が王妃に欠片も似ていなかれば、王子が彼女を嫌うこともなかったかもしれない。
似ているから、似ているからこそ、影妃が王妃の――母の地位を奪ったように思えたのだ。まだ幼い王子には、影妃の哀れな運命など理解できるはずもない。かといって自分と八歳ほどしか違わぬ娘を、母などと思えるはずもなく、影妃に会うたびに王子は憂鬱な気分になるのだった。
影妃の寂しげな横顔に、母と重なるところなど少しも見いだせない。なのに、どうして、この娘は母の――王妃の席にすわっているのだろう?
王子は影妃と顔を合わせるたび、同じ会話をかわした。
――早く王宮を去るが良い。ここはお前のような娘のいる場所ではない。
王子の言葉に娘はうつむき、それなのにただの一度として、首を縦には振らなかった。
――出来ませぬ。
その影妃のいつも決まった返事に、王子は苛立つ。
――なぜ出来ぬのだ?答えよ。
王子が苛立ちながら、その問うのも繰り返された光景だ。それに対する影妃の答えも、いつも同じだった。
――王のご命令には逆らえませぬ。お許しくださいませ、王子。
いつも控えめで、居るのか居ないのかわからぬほど影の薄い女であったくせに、そういうところは妙に頑固だった。
王子が会うたびに、早く王宮を去れ、という言葉を繰り返しても、影妃という娘は泣くことも怒ることも決してない代わりに、うなづくことも決してなかった。そんな年上の娘の反応に、王子はいつも苛立っていた。ここに居るのが不幸ならば、さっさと出て行けば良いのだ。ここではない何処かに。
――お前など、母上には欠片も似ておらぬ。
幼い王子はそう言って、父譲りの蒼い瞳で影妃を睨んだ。
――そう思いますわ。私は王妃様の影でしかないのでしょうね。
淡々と答える影妃に、王子は眉をひそめる。
この女のこういうところが嫌いなのだと、彼は思った。
残酷な己の運命を嘆くでもなく、抗うでもなく、ただ受け入れるだけ。そこに本人の意思はなく、ただ人に従うのみ。まるで、影のように……。
――そう思うならば、家に帰るが良い。ここは、王宮はお前の居るべき場所ではない。
家に帰れ、と王子はただの一度だけ、影妃に向って言ったことがある。
王宮から去れ、ではなく帰れと。
その方が娘のためだと、子供心に思ったのだ。
この母に似た娘は、母になることは出来ない。人は影にもなれない。人は、誰の代りに生きることは出来ないのだから。
――私は家には帰れませぬ。生まれた名を奪われ、歌を禁じられた時に、私という娘は影になりました。……影に帰る場所など、何処にもありませぬ。王子。
影妃の答えに王子は言葉を失い、何も言うことが出来なかった。
その日から、影妃と王子の関係は少しだけ変わった。
王子は相変わらず影妃のことを嫌っており、影妃はいつも憂いをおびた表情をしていたが、それでも時折は憎しみ以外の言葉を交わすようになった。
王子が十三になった年のことだった。
彼は影妃を呼びとめると、あることを命じた。
――歌が得意だと聞いた。私のために歌ってみせよ。
王子の願いに、影妃は困ったように首を横に振った。
――歌えませぬ。王のご命令がありますから。
――王子の願いが聞けぬのか?
――お許しくださいませ。
――つまらぬ。歌いたいとは思わぬのか?お前自身は。
王子のその言葉に、影妃の若葉色の瞳がわずかに揺らいだように見えた。
――私は影。影に意思などありませぬ。
――人は誰の代りにもなれぬ。お前はお前以外の何者にもなれぬのだ。
――影たる私には過ぎたる言葉でございます。王子は賢き方ですね。どうか、そのまま光あふるる道を歩まれますよう。
影妃は目を細めてそう言うと、深く頭を垂れた。
結局、王子が影妃の歌を聞くことがないまま、数年の月日が流れた。
瞬く間に影妃と出会ってから十年の歳月が過ぎ、王子は九つの幼子ではなく、十九歳の凛々しい青年へと成長した。
その年の冬。
王が――父が死んだ。父の死に王子は深く悲しんだが、同時に仕方がないという思いも抱いた。母が、最愛の妻が死んだ時に、父の心もまた死んだのだろう。後に残されたのは、影だけだった。
王の葬儀を終えてから、影妃に向って王子は告げた。
――影妃よ。父が亡くなった今、お前の本当の名を名乗り、好きなだけ歌うと良い。
勝手な言葉であることは、王子とてよくわかっていた。今更、こんなことをしても、この娘の失われた十年が戻るわけではない。今となっては、実家に戻ることも叶うまい。影となった娘は、影として一生を終えるしかないのだ。それでも、返せるものは返そうと王子は決めた。本当の名も、美しい歌声も。
だが、影妃は寂しげに微笑むと、ゆるやかに首を横に振った。
――歌えませぬ。もう忘れてしまいました。歌も……本当の名も。
王子は何も言うことが出来なかった。あの時と同じように。
――それから、七年。影妃と呼ばれた娘が死んだ。
「……私はお前の死を決して、悲しんだりしない」
葬儀の前夜、影妃の眠る柩に王は語りかけていた。
月光の差しこむ部屋で、たった一人。
明日には、この名も無き娘の葬列が、国王たる自分の手によって行われる。その前に、こうせずにはいられなかった。まるで生ける人に対するように、王は亡き人に語りかける。
「お前は私の母ではない。私の友でなければ、妻でも臣下でもない……だから、私が悲しむ必要などないのだ。わかっているか?」
返事が返ってくるはずもないことを承知で、王子は語りかける。幾度も幾度も。
これは恋ではない。
きっと、愛でもない。
ただ伝えそびれた想いなのだ。
「なのに――」
柩に語りかけていた王はふと言葉を止め、その広い肩を震わせた。
「どうして、お前の本当の名を呼べぬことが、こんなに苦しいのだ?」
王子は影妃の名を知らない。その名を呼ぶことも出来ない。
――愛しい人よ、誰も貴女の代りにはなれない。
王子の碧玉の瞳からこぼれた涙が一滴、影妃と呼ばれた女の柩に落ちた。
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