モクジ

  桜姫  

 ――さくら、さくら、愛しき桜よ。僕の全てを君にあげよう。
 
 貴一兄様に初めてお会いしたのは、明治十四年の春のことでした。
 私が五つで、貴一兄様は三つ年上の八つ。従兄の明兄様よりも一つ年下なのに、とてもそうは見えないほど、落ち着いて大人びた子供でした。最初にお会いした時に、恥ずかしがって母の背に隠れてしまった私を、「桜子」と優しい声で呼んでくださったことを今でも覚えています。
 私と貴一兄様は許婚でした。
 本家の跡継ぎである貴一兄様と、分家の長女である私の結婚は、それこそ生まれた時から決まっていたそうです。何でも私が母様のお腹にいる時から、本家の当主様と父様の間では、生まれた子が女であったら嫁に出す約束であったとか。そういうわけでしたので、分家の長女として私が無事に生まれた後は、話はとんとん拍子に進み、私は貴一兄様の許婚となりました。明治九年のことでございます。
 親同士が決めた婚姻でありましたが、私は貴一兄様のことを心からお慕いしておりました。
 貴一兄様は、殿方には相応しくない言葉かもしれませんが、美しい方でした。
 漆黒の、女である私よりも艶やかな黒髪に、女のように整った顔立ちと、紅を引いたように紅い唇。
 おそらく村中を探しましても、殿方はもちろん、貴一兄様よりも美しい女人もいらっしゃらなかったでしょう。私は初めてお会いした時に、本当はお兄様ではなくお姉様ではないのか、と母様に尋ねて笑われたことがございます。そう思わずにはいられないほどに、貴一兄様は美しい容姿をしていました。
 そんな貴一兄様が、幼い私の何よりの自慢でした。
 父様よりも母様よりも、「桜子」と貴一兄様に名を呼ばれるのが、何よりも好きだったほどに。
 貴一兄様は生まれつき病弱な方でしたから、村の他の子供のように野山を駆け回るよりも、家の中で静かに本を読んでいることが多い子供でした。よく難しそうな本を読んでいらっしゃる貴一兄様に、私のお手玉やおはじきに付き合ってくれようにねだり、困らせたことも少なくなかったような気がします。
 そんな時、貴一兄様は困ったように微笑みつつも、いつもお手玉やおはじき遊びに付き合ってくれました。
 いくら許嫁とはいえ、三つも年下の女子の相手など、少年である貴一兄様に面白かったはずがないのですが、いつも一緒に遊んでくれたのです。母様が小豆で作ってくれたお手玉を、一つ、二つ、三つ……不器用な私はすぐに地面に落としてしまうのですが、器用な貴一兄様は歌に合わせて、いつまでも続けることが出来ました。
 お手玉を教えた私としては、そんな貴一兄様の上達ぶりが面白いはずもないのですが、私が機嫌をそこねてそっぽを向くと、貴一兄様はほんの少し困った顔をして、「桜子」と優しい声で名を呼んでくださるので、時折はわざと機嫌の悪いフリをすることもございました。今にして思えば、貴一兄様は私の我がままなどお見通しだった気もしますが、妹のような許婚に付き合ってくれたのでしょう。
 そう、私は貴一様にとって妹でした。
 許嫁ではあっても、恋する相手ではありませんでした。
 貴一兄様が愛するものは、私ではなかったのでございます。
「――愛しい、桜」
 貴一兄様が何よりも愛したのは、桜でした。
 桜とは、桜子のことではございません。
 本家の庭で見事な花を咲かす、桜の木を貴一兄様は愛しました。

 本家のお庭には、何本もの立派な桜の木がありました。
 それらは、春になるたびに見事な薄紅色の花を咲かせ、満開の桜が本家の方たちは勿論のこと、村人たちの目を楽しませたものでございます。ああ、今、思い出しましても、本当に見事な桜でございました。
 どれも立派な桜の木でしたが、その中でも特に、人の目を惹きつけずはいられない桜の木がありました。桜の木など、どれも同じに見えるという方もいらっしゃるでしょうが、その桜の木だけは違ったのでございます。枝ぶりといい、幹の太さといい、満開の桜といい、何をとっても非の打ちどころがありませんでした。それだけでなく、なぜか人を吸い寄せずにはいられない魅力のようなものが、その桜にはあったのでございます。
 その美しさから、本家の方たちはその桜のことを、桜姫――そう呼んでおられました。
 貴一兄様は、そんな桜姫を見つめて育ちました。
 生まれつき、体の丈夫な方ではございませんでしたから、熱を出して横になられることも多かったように思います。そんな折、本家の庭で美しく咲き誇る桜に、どれほど心が慰められたことでしょうか。少し体調の良い日は、縁側に座って本を読みながら、桜姫を眺めて過ごされていたのを覚えています。貴一兄様は何もおっしゃいませんでしたが、そんな時は思うようにならない体のことも、本家の跡継ぎとしての重責も忘れられているようでした。
 貴一兄様は、桜姫を愛していました。誰よりも何よりも。
 私がそれに気づいたのは、六つの年ことでした。
 その年の暮れ、母と共に本家に挨拶にいった時のことです。
 用事を済ませ、さあ帰ろうという時になって、私が熱を出してしまったのでした。それでも分家の妻である母は、遠慮して私を連れ帰ろうとしましたが、本家の当主様と奥方様がそれを止めてくださったのです。本家の当主様はご立派な方で、奥方様は優しく、貴一様とよく似た美しい方でございました。ああ、それなのに、どうしてあんなことに……。
 結局、その日は私は母と一緒に、本家に泊めていただくことになりました。
 熱で苦しい思いをしていた私でしたが、夜になる頃にはだいぶ熱も下がっており、そうなると昼間に寝込んでいた分、少し退屈しておりました。母には早く寝るようにと、よくよく言い聞かされておりましが、なにぶん幼い子供のことです。静かな寝息をたてる母の横で、もぞもぞと寝付かれずにおりました。
 外から、ぼそぼそと囁くような声が聞こえたのは、そんな時のことでした。
 皆が寝ているはずの深夜、外から聞こえてきた声に、私は誰かと首をかしげずにはいられませんでした。最初は聞こえないフリをしておりましたが、寝ようとするとその声がどうしても気になって、結局は布団から起き上がってしまいました。
 どうして、そのような行動に出たのか、今となっては自分でもよくわかりません。普段の私はどちらかといえば臆病な子供で、灯りのない場所を一人で歩けるほど、勇敢な性質ではありませんでしたのに。ただ、その時は声に導かれるようにふらふらと、夜の庭にへと足を踏み入れたのございます。
 春の夜は思ったよりも暖かく、薄着でしたが、寒いとは感じませんでした。歩くたびに、春風がさらりさらりと黒髪をなびかすのも心地よく、私は暗闇の怖さも忘れるように、夢見心地で歩いていたのでございます。夜の庭は月灯りに照らされて、薄暗くはありましたが、幻のような儚げな美しさがありました。
 ひらり、ひらり、と薄紅色の花びらが、春風に吹かれて舞っておりました。
 本家の庭の主とも言うべき桜たちは、満月に照らされて、昼とは違う妖しげな美しさに満ちておりました。陽の下で見る可憐な姿とは異なり、人を惹きつけて魅了せずにいられない、妖しげな雰囲気を幼心に感じたのでございます。それは、私が初めて感じた、美しすぎるゆえに恐怖でありました。
「さくら、さくら、僕の桜姫……」
 その時でした。
 桜の木の方から、声が聞こえてきたのです。
 その少年にしては少し高い、柔らかな声は、貴一兄様のものでした。ここに貴一兄様がいらっしゃったのか、と私は嬉しくなって、声の方へと歩み寄りました。
「貴一兄様……」
 ひときわ立派な桜の木――桜姫の傍にいる貴一兄様を見つけ、私は声をかけようとして、その光景に言葉を失いました。
「あ……」
 貴一兄様は桜姫のそばに立っており、まるで女子を抱きしめるように、桜の幹を抱いておりました。
 いえ、貴一兄様も九つの少年でしたので、抱きしめるというよりは、桜の木にもたれかかるという風に言うべきでしょうが、それでも抱きしめているように私の目に見えたのございます。これが人であったなら、恋人同士の抱擁にも見えたでしょう。
 月あかりの下で、桜の幹を抱きしめる美しい少年の姿は、幼い私の目にもひどく異様なものに見え、恐ろしく思えました。なのに、どうしてか、そんな貴一兄様の姿から目を逸らすことが出来なかったのでございます。「貴一兄様……」その呼びかけか、どうしても喉から出ませんでした。からからに乾いた喉も、動かない手足も、何もかもが夢幻のように思えたのでございます。
「さくら、さくら、愛しい桜姫……」
 貴一兄様は恍惚とした表情でそう言うと、桜姫の幹にそっと唇を寄せました。
「ああ、ああ……」
 私の口から、声にならない悲鳴がもれました。
 その瞬間、私は見たのです。
 貴一兄様にからみつく、白い腕を。それは明らかに、人のものではありませんでした。
 桜姫の中から出てきた白い腕のようなものは、徐々に人の形をとりました。長い長い古の姫君のような艶やかな黒髪に、薄紅の桜模様の十二単をまとった女は、何よりも目も眩むほどに美しい顔をしておりました。この女の前では、どのような美女でも霞むでしょう。それほど人ならざる美しさを、その化け物は持っていたのでございます。それは、惹かれてはいけないと知りつつも、囚われずにはいられない魔性の美しさでありました。
 その女は貴一兄様を抱きしめていましたが、ふっと私の方を向きました。
 そして、女は微笑んだのです。それは、それは美しく。
 ――桜姫だ。
 その瞬間、なぜか私は女の正体を確信しました。
 なぜ、と問われても、答えることは出来ません。ただの勘としか言えないのですが、それでも、その女の真の姿は桜の木でございました。
「あ、あ、あ、あ……」
 私は震えながら、後ろに半歩、下がりました。
 そして、暗闇に転びそうになりながら、その場を逃げ出したのでございます。
 恥ずかしい話ですが、その女――桜姫と残された貴一兄様のことを、気にする余裕は私にはありませんでした。ただ、桜姫が貴一兄様に危害を加えないであろうことは、幼い私でもわかっていた気がします。そして、貴一兄様も桜姫に対して、特別な想いを抱いていたのでしょう。「愛しい桜姫……」と呼びかけるほどに。
 幾度も転びそうになりながら、私は母のいる部屋へと逃げ帰り、布団をかぶって震えておりました。春の夜なのに、体は冷え切り、体は絶え間なくぶるぶると震え、目からは大粒の涙があふれておりました。それが、人ならざる桜姫に対する恐怖なのか、大好きな貴一兄様を失った心の痛みなのか、幼い私には判断がつきませんでした。
 ただ、幹に寄せた貴一兄様の紅い唇と、桜姫の透き通った白い腕が、目に焼き付いて離れなかったのでございます。いつまでも、いつまでも……。
 十年前の春の夜の出来事でございました。

 そうして、その春の夜から月日は流れ、私は十六の娘となり、貴一兄様は十九の若者になりました。
 もともと貴一兄様は美しい子供でしたが、年を経るごとにその美貌は冴えわたり、今では見惚れぬ人はいないほど美しい若者となっておりました。
 肌の色はますます白く、唇の色はますます紅く、年々どこか桜姫に似ていくようでした。
 年々、美しくなる容姿とは対照的に、体の方は弱っていくようでした。
 もともと決して丈夫な方ではございませんでしたが、十年ほど前からは特に酷く、医者からもあと何年もつかどうか、と深刻な顔で言われるほどでした。一人息子のそれは、本家の当主様と奥方様をひどく嘆かせ、ツテを頼って舶来の薬を取り寄せたり、名医を呼ばれる人を大金を積んで招いたり、ありとあらゆる手を尽くしたのですが、貴一兄様の病状が良くなる気配は一向にございませんでした。
 弱っていく貴一兄様とは対照的に、桜姫はますます美しく、満開の花を咲かせているのでございます。
 私は知っておりました。
 貴一兄様の病状が良くなるはずもないことも、その理由さえ。全てを知りながら、黙っていたのでございます。桜姫に魅せられてしまった貴一兄様は、やがて全ての生気を桜姫に吸い取られ、死んでしまうのだとわかっておりました。それでも、それを当主様にも奥方様にも告げることが出来ませんでした。
 決して、桜姫が恐ろしかったからではありません。信じてもらえないであろうことを、危惧したからでもありません。いえ、それらの理由もなかったとは申せませんが、些細なことです。
 言えなかったのは、貴一兄様の願いだったから。
 貴一兄様も私と同じように、桜姫といることで自分がどうなっていくかを、全て悟っておりました。おそらく、自分の命が長くないことも。それでも、その運命を受け入れることが、貴一兄様の願いだったのでございます。
 ――さくら、さくら、愛しい桜姫よ。僕の全てをあげよう。
 自分の身も心も魂も、命さえも捧げることが、貴一兄様の愛の形だったのです。
 それは、ひどく愚かで悲しいことでございました。でも、ただの人である貴一兄様はそうすることしか出来なかったのでしょう。同じ人を愛せば、そんな風に自分を犠牲にする必要もなかったでしょう。
 でも、人である貴一兄様が桜姫を愛し、人ならざる者から愛されるためには、全てを捧げるしかなかったのでございます。
 桜に恋した青年は、魂をささげることで、その愛を実らせようとしたのでしょう。
 ああ、悲しい。でも、そんな貴一兄様のことを、私は愛していたのです。たとえ、この想いが永遠に届くことがなくても……。
 その年の春のことでした。
 私たちの住む村を、旅の法師様が訪れたのは。
 厳しい旅を続けられてきただろう法師様は、身なりは決して良くありませんでしたが、その眼光は鋭く、嘘偽りを許さぬように見えました。私は秘密を見破られるような気がして、その法師様の目を真っ直ぐに見ることが出来ませんでした。そして、実際にその通りになったのでございます……。
 法師様が滞在して、何日目かのことでした。
 村から村を渡り歩き、多くのものを見てきたという法師様に、本家の当主様と奥方様は最後の望みを託したのでございます。それは、もう長くはないだろうと言われている、一人息子のこと。つまり、貴一兄様のことでした。
 ――うちの息子は長い病気で、医者も匙を投げてしまった。だが、その病気の名前がどうしてもわからない。薬も効かない。それはなぜなのだろう、と。
 当主様と奥方様は、もう藁にもすがるような気持ちだったのだと思います。お二人は貴一兄様のために、ありとあらゆることをしておりました。珍しい薬も、評判の名医も。全て、病弱な一人息子のためでした。そんなお二人の愛情を、貴一兄様もわかってはいたのでしょう。それでも、桜姫への想いには叶わなかったのでございます。
 当主様と奥方様から、その相談を受けた法師様は、何はともあれ貴一兄様に会って話すことにいたしました。
 そうして、庭で桜姫の傍らに立つ貴一兄様を見て、法師様は息をのんだのでございます。
 その頃の貴一兄様といえば、すでに生きているのが不思議なくらいでありました。肌は白を通り越して、透き通っているかのようでしたし、体は女のように痩せておりました。ですが、唇だけは血のように紅く紅く……。ああ、その姿は、あの桜姫によく似ていたのです!
 しかし、法師様はそんな貴一兄様よりも、その後ろにいるものに驚かれたようでした。そう、貴一兄様の首すじにかかる、桜姫の白い腕が、修行を積んだ法師様には見えたのでございます。
 ――ご子息は、桜の化け物にとりつかれております。このまま放っておけば、生気を吸い取られ、死にいたるでしょう。
 そう真っ青な顔で言った法師に、当主様と奥方様は驚き、それを防ぐにはどうしたら良いのかと尋ねました。
 ――方法は、一つしかございません。この桜の木を燃やすのです。灰になるまで。
 その言葉に、当主様と奥方様は顔を見合わせて、その通りにいたしますと答えました。お二人が法師様の言葉を、全て信じていたと言えば、それは定かではありません。ただ、藁にもすがる気持ちだったのでしょう。お二人は、どうしても息子の命を助けたかったのです。そのためなら、一本の桜を燃やすことなど、何でもなかったでしょう。
 そんな当主様と奥方様の会話を、私は青ざめながら聞いておりました。秘密がばれてしまった恐怖に、しかし、同時に胸のつかえがおりたような安堵も抱いたのでございます。ただ、貴一兄様が桜姫を失った時に、どうなってしまうのだろうかと。そればかりが、不安でございました。
 その日の夜のことでした。
 法師様はぶつぶつと念仏を唱えると、桜姫に火をつけたのでございます。
 桜姫が真紅の炎に焼かれていくのを、当主様と奥方様と私は見つめておりました。貴一様は鍵をかけた納屋に閉じこめられておりました。法師様が化け物を退治されるのを、邪魔してはいけないという理由で。
 暗い闇夜に、桜姫を燃やし尽くす真紅の炎だけが、鮮やかな朱色でございました。そんな同胞の死を嘆くかのように、庭の他の桜は風に吹かれて揺れ、ひらりひらりと薄紅色の花びらを涙のように地に落としておりました。パチパチと炎のはぜる音が、私には燃やされる桜姫の悲鳴のようにさえ聞こえ、耳を塞いでいたものでございます。
「燃やさないでくれ!愛しい桜を助けてくれ!」
 その時でした。
 納屋に閉じこめられていたはずの貴一兄様が、私たちの前に飛び出して来て、そう叫ばれたのでございます。
 その姿は、いつも優しげに微笑んでいた貴一兄様とは思えないほど、醜く必死なものでありました。頬も顔も泥だらけでしたし、どうやって納屋から抜け出したのか、爪は剥がれてボロボロでありました。その貴一兄様を見て、誰も美しいとは言わなかったでしょう。でも、私だけは愛しいと思いました。愚かで、それゆえに美しいと。
 燃える桜姫を目にして、貴一兄様は高い悲鳴を上げ、真紅の炎の中に飛び込んでいこうとなさいました。
 しかし、桜姫に駆け寄ろうとする寸前、法師様が貴一様の体を突き飛ばし、それは叶うことはございませんでした。長い旅路を乗り越えてきた法師様と、女のように細い貴一兄様では勝負になるはずもなかったのでございます。
 そうして、炎が消えた後に残されたのは、真っ黒な炭になった桜の木でありました。
 すでに桜姫と呼ばれていた頃の、あの妖しいまでの美しさは、その炭となった姿には欠片もございませんでした。法師様の言葉の通り、灰になるまで燃えたのです。
「さくら、さくら……」
 貴一兄様はそんな桜姫を前にして、言葉もなく座り込んでいました。
 真っ黒になった幹を抱きしめながら、虚ろな表情で「さくら、さくら……」と呟く姿は、すでに正気な人のものではありませんでした。
 桜姫が燃やされた時に、貴一兄様の心も死んでしまったのでしょう。いえ、もうずっと前から貴一兄様の心は、桜姫に囚われていたのです。ずっと、あの春の夜から。
 私は虚ろな表情で、透明な涙を流す貴一兄様を、背後から抱き締めました。私の頬からも、止めようのない涙がこぼれておりました。何のために泣いているのか、嬉しいのか悲しいのか、それすらも私にはわかりませんでした。
 貴一兄様が最愛の桜姫を失ったことは、私にとって心の痛みと悲しみと、暗い喜びをもたらしました。これで、貴一兄様は私だけのもの。たとえ、心は死んでいても。私だけのもの。
 ああ、何という恐ろしいことでしょう!
 こんな状況でさえ、私は嬉しかったのです!
 全てを失ってさえ、暗い喜びが体を満たすほどに!
「貴一兄様。貴一兄様……」
 私は涙をこぼしながら、微笑んでおりました。きっと、私も正気ではなくなったのでしょう。いえ、私も六つの春の夜から、ずっと囚われていたのでしょう。桜姫に。
「さくら、さくら、愛しい桜……」
 桜に恋した青年の嘆きだけが、春の夜に響いておりました。

 それから、二年の月日が流れました。
 桜姫が燃えてから一年が過ぎたころ、私は本家に嫁いで、貴一兄様の妻となりました。
 あの春の夜から、貴一兄様は正気に戻ることはありませんでした。
 体の方は、今まで病弱ぶりが嘘だったかのように、みるみる丈夫になり、今では健康そのものです。日に焼けた肌は、すでにあの透けるような白さはなく、紅い唇はそのままですが、今ではもう女人と見紛うような方はいないでしょう。同時に、あの妖しげな美しさも、どこかに消えてしまったようでした。
 健康になる体とは反対に、心はいまだ囚われたままです。虚ろな瞳をして、日がな一日なにもしないで、本家の庭を――桜姫のいた場所を見つめております。笑うことも泣くことも、怒ることもしない。時折、「さくら、さくら、愛しい桜……」と虚ろに呟くばかりです。その心は、桜姫に囚われたままなのでしょう。きっと、永遠に。
 そんな貴一兄様の妻である私を、可哀想だという村人もおります。本家の当主様も奥方様も、無理はしなくて良いのだと、口を揃えておっしゃって下さいます。その瞳に、申し訳なさを宿して。でも、私はいつも微笑んで首を横に振ります。誰か何と言おうと、私は少し不幸ではないのです。貴一兄様と共に日々を過ごす。それが、私の幸せなのでございます。たとえ、その心が私のものでなかったとしても……。
「ねぇ、貴一兄様?」
 私は縁側に座って、隣に腰かけた貴一兄様に呼びかけました。
 貴一兄様は私の呼びかけには答えず、虚ろに微笑んで、ふくらんだ私の腹を撫でておりました。幾度も、幾度も。
 今、私の腹の中には貴一兄様の子がおります。
 きっと、春の桜の季節の頃に生まれることになるでしょう。満開の桜が咲く本家にて、おぎゃあと力強い産声を上げるに違いありません。私は、その日を貴一兄様と共に、誰よりも楽しみにしております。
 男か、女か、生まれる前から私はわかっています。きっと、貴一兄様によく似た美しい女の赤子が、生まれることでしょう。そうして、艶やかな黒髪に紅い唇の美しい娘になるに違いありません。私はふくらんだ腹を、優しく撫でながら、すでに決まっている我が子の名を呼びました。
「ねぇ、桜?」
 美しい子を生みましょう。あの桜のように。
「さくら、さくら、愛しい桜……」
 そうして、私たちは永遠に囚われるのです。あの春に咲く美しい花に。
モクジ
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