モクジ

  花散らす雨  

 桜の花びらを散らす春の雨のことを、花散らしの雨とも呼ぶのだと、私にそう教えてくれたのは貴方でした。仁木先輩……。

 ぽつり、ぽつり。
 静かな雨音がする。
 教室の窓を雫が伝う、ぽつりぽつりと儚いメロディを奏でながら。
 地面に落ちる前の一瞬。
 その雫と雨音は、なによりも儚いからこそ、どんな宝石よりも美しいと感じる。透明な雫は綺麗だが、人が手を触れた途端に、何もかも崩れてしまうのだから。
 藤岡彩音は、雨が好きだ。
 そう言うと、友人たちからは嘘か冗談かと疑われるのだが、本当のことである。彩音は心から、雨が降るのを望んでいた。幼いころから、特に理由を説明できるわけでもないのだが、雨が好きだった。激しい雨や嵐ではなく、しとしとと降る静かな雨音が、心を落ち着かせて好きだったのだ。
 ぽつり、ぽつり。
 しとしと。
 サー、サー。
 雨というのは、とても綺麗な音をしていると、彩音は思う。自然が奏でるそれは、どんなメロディよりもあざやかに、彼女の心に響くのだ。いつまでも聞いていたいようなそれは、だが雨が止むと同時に、彩音の耳から消えてしまう。また雨が降ったとしても、それは同じ音ではありえない。
 彩音は雨が好きだ。
 彼女の母に言わせると、それは幼稚園のころからだったらしい。雨の音に何時間も耳を傾けるような癖は、母から見ると、とても不思議なものだったそうだ。
 それも無理のないことだ。彩音自身にも、なぜ雨が好きなのか、その理由はよくわからないのだから。
 でも、高校に入ってから、雨が降ることを願うようになった。はっきりと、強く。そう願うだけの理由が、彼女にはあったから。毎日、雨が降ればいい。叶うはずもない願い。でも、彩音はいつも、そう祈っていた。いつもいつも祈っていた。
 雨が好き。
 先輩が好き。
 その先輩が好きだと言ってくれた雨は、もっと好き。仁木先輩……。

「――藤岡さん。雨が降って来たよ」
 かけられた声に、彩音は手にしていたシャープペンと、書きかけの原稿用紙から手を離して、顔を上げた。
「……え?」
 少し困惑したような声に、藤岡さん、と彩音を呼んだ男子生徒は、心配そうな表情を浮かべる。
「傘、持ってきてない?参ったなぁ……俺のを貸してあげたいけど、今日は置き傘もなくて……ああ、でも心配ない。にわか雨だから、すぐに止むよ」
 そう言って、男子生徒は微笑んだ。
「……はい。仁木先輩」
 彩音は短く答えると、すぐに原稿用紙に目を落とした。
 仁木先輩に、赤くなった顔を見られたくなかったからだ。
 好きな人に話しかけられただけで、動揺してしまう自分が恥ずかしい。そして、その動揺を悟られたくなくて、彩音はわざと素っ気ない態度を取ってしまう。こんなことじゃ、いくら先輩が鈍い人とはいえ、いずれ気付かれてしまうだろう。彼女の恋心も何もかも。
 仁木友成。
 彩音の高校の先輩であり、文芸部の部長であり……そして、彼女の好きな人の名前だ。
「それにしても、藤岡さんはよく頑張るね……ウチの文芸部なんて、ほとんど活動らしい活動をしてないのに、毎日、部室で原稿を書いてるなんてさ。他の部員に、爪の垢でも飲ませたいよ」
 そんな仁木先輩の言葉に、彩音はゆるゆると首を横に振った。
「頑張るなんて、そんな立派なものじゃないです……他にすることがないだけですから。書くのは好きですし」
 それは半分は本当で、半分は嘘だった。
 大人しく人見知りな彩音は、社交的とはとても言えない。
 別にイジメられているとか、クラスで浮いているとか、そんな深刻なことではないものの、友達の数は多いとは言えなかった。彩音から話しかければ、話の輪には入れてもらえるし、一緒に遊びに行くことだってある。でも、逆に相手から誘われることは、たまにしかない。放課後を一緒に過ごすような親しい友は、彩音にはまだいなかった。
 大人しく目立たない子。
 それが、藤岡彩音という少女だ。
 決して、嫌われているわけではない。かといって、好かれているわけでもない。
 だから、彩音が文芸部の部室に毎日毎日、通いつめていたとしても誰も困らない。それが、一つ目の理由。二つ目は――
「うん。藤岡さんは、そう言うと思った」
 仁木先輩が、ニコニコと嬉しそうに笑う。
 ズキン、と彩音は胸が痛んだような気がした。
 仁木先輩!違うんですっ!違うんですっ!書くのが好きなんて、本当はそんな立派な理由じゃないんです!本当は、本当は――
 口にしかけた叫びを、彩音は寸前で飲みこんだ。
 文芸部に通っている本当の理由なんて、仁木先輩に言えるはずもない。
 書くのが好きなんて答えは、真実を隠したいための言い訳に過ぎないのだ。確かに、文芸部の活動は嫌いではないが、真実とは程遠い。
 ――ねぇ、仁木先輩。本当は文芸部よりも、貴方のことが好きなんです。
 もし、そう口にすることが出来たならば、どんなに楽になれるだろうか。
 でも、それだけは言えない。
 それを告げたなら、仁木先輩には軽蔑されるだろう。書くのが本当に好きで、文芸部の活動に本気で打ち込んでいる先輩。そんな人からみれば、彩音の不純な動機など、軽蔑されても文句は言えない。
 そう考えて、彩音はシャープペンを、ぎゅっと強く握りしめた。そんな考えすらも、自分が可愛いための言い訳に思えた。
 本当は知っているのだ。
 仁木先輩には同級生の可愛い彼女がいて、自分なんかが告白したとしても、相手にしてもらえないことぐらい。自分の片思いが、万に一つも実ることがないことくらい。とっくの昔にわかっていたのだ。
 だから、彩音は告白しない。もし、この想いを仁木先輩に告げたら、今の関係は壊れてしまうだろう。先輩は優しい人だから、手酷く振られることはないだろうが、それでも今と同じ関係ではいられないだろう。だから、彩音は告白しない。何も言わなければ、文芸部の親しい後輩でいられるし、卒業まで一緒に過ごせる……。それだけでいい。
「仁木先輩、雨はまだ降ってますか?」
 窓に歩み寄った先輩に、彩音はそう尋ねた。
「うん。まだみたいだね。もう少しだと思うけど」
「そう、ですか」
「雨が止んで、残念?」
 仁木先輩の言葉に、彩音の声のトーンが下がる。
 雨が止まなければいい。
 彩音のそんな気持ちを、先輩は違う方に解釈したようだ。
「いえ、そういうわけじゃ……」
 首を振る彩音に、仁木先輩は苦笑した。
「藤岡さん、変わってるよね。雨が好きなんてさ。水不足は困るけど、わずらわしいと思う人がほとんどだろうに……まぁ、俺も雨は好きだけど」
「そういう先輩だって……変わってますよ」
「まぁね――」
 彩音の言葉に、仁木先輩は照れたような表情で、部室の窓をつたう雨露を見つめた。その眼差しは、彩音の目にはどこか優しく映る。
「――傘をさすなんて面倒だと思うけどさ、こういう静かな雨は嫌いじゃないよ」
 貴方がそう言ったから、私は雨の日がもっと好きになりました。
「そうですか……雨、まだ止みそうもないですね」
 もう少しだけ、雨が降っていて欲しい。彩音は心から、そう願った。
 叶うならば、ずっと雨が降っていてくれたら良い。
 雨が止むまでは、仁木先輩と一緒に居られる。他の部員が来るまで、先輩が帰ろうとするまで、二人っきりでいられる。ただの先輩と後輩の関係でも、本当に些細な会話しか出来なくても、彩音が何よりも望んだ時間。どうか、この幸せな時間が一分でも一秒でも、長く続きますように。
 雨が好き。
 だから、もう少しだけ降っていて。
 お願いだから、もう少しだけ――

 藤岡彩音が仁木友成と出会ったのは、高校に入学してすぐの春のことだった。
 彼女が入学してすぐに、先輩たちによる部活動の勧誘が始まった。
 運動神経は並みで、中学時代は帰宅部だった彩音でも、文化部から運動部までいくつかは誘われた。人数が足りない同好会などは、幽霊部員でも良いからと、頭を下げてきたところまであったほどだ。
 それでも、高校に入った当初、彩音は部活に入るつもりは微塵もなかった。
 運動神経も体力にも自信のない彩音に、厳しい運動部はとうてい勤まらないように思えたし、かといって文化部の勧誘にも興味は持てなかった。内気で大人しく、口下手な彩音にとって、部活動というのはひどく難しいことのように思えたのだ。だから、どこの部活にも入るつもりはなかった。
 それなのに、文芸部に入ったのは一冊の部誌を見たからだ。
 入学してすぐに廊下で配られた、文芸部の冊子。
 ペラペラの薄く、ホッチキスで止めた簡素なそれから、彩音はなぜか目を逸らせなかった。
 パラパラと流し読みしていた時に、ふと目に入った「春の雨」という名の短い小説。何気なく読んだそれに、彩音は心を奪われた。別に、特にストーリーが素晴らしかったとか、文章が素晴らしかったとか、そういうわけではない。むしろ、どちらかと言えば、わかりにくい内容の小説だった。
 でも、優しかった。
 作者の登場人物へ向ける眼差しは、優しくて静かで穏やかで、まるで春の雨のようだと思った。
 決して上手いわけではないけれど、とても優しい話だと。その「春の雨」の作者は、仁木友成と書かれていた。
 その文章に惹かれて、彩音は文芸部に入ったのだ。
「あの、文芸部に入りたいんですが……」
 遠慮がちにドアをノックして、文芸部に足を踏み入れた彩音に、中にいた男子生徒は「ああ」と言いながら立ち上がった。
「新入生?」
 そう言ったのは、とても頭の良さそうな人だった。
 色白な顔に、切れ長の瞳とキリッとした口元。その賢そうな顔によく似合う、メガネ。高い身長と痩せた横顔からは、どこか冷たそうな感じさえ受ける。
 勉強は出来そうだけど、ちょっと怖い。それが、彩音がその賢そうな男子生徒――仁木友成に抱いた第一印象だ。
「は、はい。一年生の藤岡彩音です」
 いささか緊張気味に名のった彩音に、その人は苦笑しながら言った。
「そんなに緊張しなくていいよ。ウチは文芸部で言っても、八人しか部員がいないような場所だし……ああ、ごめん。俺は、一応は文芸部の部長をやってる仁木友成です。よろしく」
 ゆっくりと喋る声は優しく、最初の印象とは正反対だった。だが、彩音はそんなことよりも、彼の名前にこそ驚く。
「……仁木?じゃあ、先輩があの、春の雨を書いた?」
 彩音の言葉に、メガネの先輩――仁木はうなづいて、嬉しそうな笑みを浮かべた。
「あ、うん。冊子を読んでくれたんだ?ありがとう」
 ちょっと照れたように、でも嬉しそうに笑った仁木先輩の顔を、彩音はもう冷たそうとは思わなかった。先ほどの第一印象が嘘のように、その笑みは優しい。
「はい……」
 緊張してうつむいてしまった彩音に、その先輩は柔らかく、ふぅわりと微笑みながら話しかけた。
「今日は文芸部の活動日だし、せっかくだから参加していく?えっと、藤岡さんだっけ?」
「藤岡彩音です」
「あやねさんか、どんな字を書くの?」
 仁木先輩の問いかけに、彩音は指先で文字を書く真似をする。
「いろどりの彩に、音楽の音です」
 あやねさん、と仁木先輩は漢字を確認するように呟くと、良い名前だね、と言葉を続けた。本心からそう思っているといるような、自然な口調で。
「――彩、いろどり。美しい色と美しい音か、綺麗な名前だね」
 その言葉に、彩音はきっと恋をしたのだ。

 知り合ってからわかったのだが、神経質そうな外見とは反対に、仁木友成という先輩は優しくほがらかな人だった。
 彩音が最初に感じたとおり、成績はかなり良かったが、それを鼻にかけるようなところもなく、後輩の面倒味が良かったので、文芸部の部員でなくても慕う後輩は多かった。穏やかではあったが、文芸部の活動には妥協しない、芯の強さも併せ持っていた。そうかと思えば、他愛もないジョークでも部員を笑わせる、ムードメーカーでもあった。
 そんな仁木先輩のことを知るたびに、彩音は先輩のことがどんどん好きになった。苦しいほどに。
 ペンを握る、細くて綺麗な指も。
 優しくて、穏やかな声も。
 彼が紡ぎ出す文章も、その全てが好きだった。
「――彩、いろどり。美しい色と美しい音か、綺麗な名前だね」
 その仁木先輩の言葉こそが、彩音にとって何よりも綺麗な宝物だった。
 それでも、仁木先輩が受験で部を引退するまで、彩音は告白することはなかったし、しようとさえ思えなかった。
 この想いが恋なのか、それとも憧れなのか。恋というには綺麗すぎて、憧れと言うには強すぎるこの想いを、言葉にすることなど出来なかった。もし、仁木先輩が彩音の立場ならば、言葉にすることが出来たのだろうか?
 あの優しい文章を紡ぐ人ならば、この想いを言葉に。
 そうして、季節は流れ、仁木先輩は部長職を後輩に譲ってから、文芸部を引退し、大学受験に専念するようになった。当然ながら、文芸部に参加することはなく、時折、息抜きと称して顔を見せるだけになった。もちろん、冊子に文章をのせることもない。
 仁木先輩が引退したのと同じころに、彩音も文芸部に顔を出さなくなった。先輩がいなくなった部室に、通うだけの意味が見つけられなかったからだ。毎日のように居た部室には、ほとんど行かなくなった。
 一応、退部だけはしなかったが、ほとんど幽霊部員だ。
 そんな状態が数か月も続いたころ、ある日、部室の前で彩音は仁木先輩に会った。
「……こんにちは」
 そう挨拶した彩音に、仁木先輩は少し困ったような顔で、文芸部のドアを指差した。
「久しぶりだね。文芸部には、もう顔を出さないの?」
 予想していた質問だった。
 あれほど毎日、文芸部の部室で過ごしていた彩音が、突然それを止めたのだ。部員の間で噂になるのは覚悟していたし、それがいずれ仁木先輩の耳にも入ることはわかっていた。
 だから、彩音は迷わない。
「はい。他に、やりたいことが出来ましたから」
「……そっか。じゃあ、仕方ないね」
 仁木先輩は寂しそうな顔をしたが、彩音を責めるようなことは何も言わずに、「そのやりたいことで、頑張ってね」とだけ言うと、彼女に背を向ける。その歩みにも、やはり迷いはなかった。
 その歩き出した背中に、彩音は誰にも聞こえないような小さな声で、そっと別れを告げた。

「さよなら。先輩」

 そうして、咲かなかった恋の花が散った。

 仁木先輩が交通事故で亡くなったのは、それから三年後の、桜の季節のことだった。
 大学生になった彩音のもとに、高校時代の数少ない文芸部の友人から、明け方に電話がかかってきたのだ。「仁木先輩が、部長が、死んじゃったよ……」そう告げた友人の声は、涙声で震えていて、それが嘘でない残酷さを教えてくれた。
 嘘をつくような友人ではないと知りつつも、それが誤報であれば良いのにと、彼女は願わずにはいられなかった。
「嘘でしょ?」
 震える声で尋ねた彩音の耳に、電話越しのすすり泣きが響く。
「そうだったら、どんなに良かったか。車にはねられて……」
 ぐしゅ、というすすり泣きの後は、言葉にならなかった。
 それからの記憶は、とても曖昧だ。
 高校時代の文芸部の仲間と、仁木先輩のお葬式に出たことも。そのあとに、皆で仁木先輩の思い出を語り合ったことも。何もかもが、現実感のない夢の出来事のようだった。もし、これが悪夢ならば覚めて欲しい。どうか、どうか、神様――。どれほど願っても、それは残酷な現実だった。仁木友成という人に、もう会うことが出来ないのだと、彩音は認めるしかなかった。

「藤岡さん、変わってるよね。雨が好きなんてさ。水不足は困るけど、わずらわしいと思う人がほとんどだろうに……まぁ、俺も雨は好きだけど」

「――傘をさすなんて面倒だと思うけどさ、こういう静かな雨は嫌いじゃないよ」

「――彩、いろどり。美しい色と美しい音か、綺麗な名前だね」

 仁木先輩の言葉が、好きな人が遺した言葉が、次々と彩音の頭に浮かんで消える。
 ああ、本当に最低だ。
 先輩は私に大切な言葉をたくさんくれたのに、私は何も返そうとしなかった。返そうと努力することさえしなかった。勇気を出して想いを告げることも、最後まで嘘をつくことさえしなかった。ただ逃げ出しただけだ。この三年間、私は一歩も進んでいなかった。

「さよなら。先輩」

 あの言葉で、咲かなかった恋から目を逸らしただけ。
「仁木先輩……」
 座りこんだ彩音の耳に、外からポツリ、ポツリという音が聞こえた。
「……え?雨?」
 立ち上がった彩音が、窓から近所の公園を見ると、桜の木がサーサーと静かな雨に打たれていた。
 春の雨だ。
 仁木先輩が好きだった春の雨。その静かな雨に、高校の時に先輩とかわした会話を思い出す。
「藤岡さん、雨が好きなの?」
「好きですよ。でも、春の雨はちょっと苦手です」
「なんで?静かで風情があると思うけど」
「だって、桜の花が散っちゃうから……せっかく綺麗なのに」
 そう不満を口にした彩音に、仁木先輩は苦笑しながら、うなづいた。
「確かにね。春雨は、桜の花を散らしちゃうから、花散らしの雨とも呼ばれるし……でもね、藤岡さん。それでも、俺は春雨が好きだよ」
「どうして?」
 ああ、あの時、先輩は何て――
「――どんなに悲しいことがあっても、春はきて花は咲くだろう?でも、気持ちが納得できないぶんを、空が泣いてくれてる気がするじゃないか。だから、春の雨は好きだよ」
 
 そう思うのはどうかな?藤岡さん。

 今はもういない仁木先輩の声が聞こえた気がして、彩音は花散らす雨のように、静かな涙を流し続けた。
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