モクジ

  革命の夜に  

 ――私は民にとって、愚かな王であったのだろう。だから、革命が起きた。だが、今になっても、本当に正しいことが何であったのか、私にはわからないのだ。
                
 私のいる王城の周りを、革命軍と称する者たちが取り囲んでいる。おそらく、あと数刻もしないうちに、あの革命軍の者たちは城の中に乗り込んできて、好き勝手な略奪を始めることだろう。城内で生きている者は惨殺されて、「革命万歳!革命万歳!王を殺せ!」という声が、城内に響き渡る。それを理解していても、王である私は冷静だった。
 そう、王朝の滅亡を前にしても、自分の死を前にしても、私の心は凪のように穏やかだった。いつか、こんな日が来ることを予期していたからかもしれない。
 私は今年、二十八になる。国王して即位してからは、六年ほどの歳月が流れている。
 国王として国を治めた六年、歴代の賢君と呼ばれた王と比べて、特別に優れた王であったとは思わないが、かといって革命を起こされるほどの圧政をしいた覚えもない。祖父のように後宮であまたの美女をはべらせることも、流血王と称された曾祖父のように残虐な処刑を繰り返したりもしなかった。まぁ、並の王であっただろう。
 そんな私であるが、革命が起こったことを、理不尽だとは思いはしない。王朝が滅びる時はいつだって、こんなものだ。
 残り少ない自分の命にも、この王国の行く末にも、もう執着はなかった。
 ただ一つだけ、心残りがあるとしたら、それは――
 その時、部屋の扉が開いて、一人の女が入ってくる。
 誰か、とは問うまでもなかった。この城にはもう、女はただ一人しか残っていないからだ。
 城で働いていた者たちは皆、革命軍が城を取り囲むもう随分と前に、私が逃げるように命じた。
 国王に仕えていたというだけで、何の罪もない者たちが犠牲になることはないと思ったし、余計な血が流される必要はないと思った。それでも、この城に残ると言い張った幾人かの者たちは、私と運命を共にすると言い張った酔狂な者たちだ。出来れば、いまだ城に残っている者たちにも気が変わって逃げて欲しいと思うが、無理強いは出来ない。
 たとえ一握りでも、そんな酔狂な者たちがいたことだけでも、私は幸せな王だっただろう。革命で命を落とそうとも、それだけは後悔しない。
 そして、今、部屋の中に入ってきたのも、そんな酔狂な者たちの一人だった。
「――陛下」
 背後からかけられた声に、窓から外を眺めていた私は振り返った。
 そこには、灰色の髪の若い女が立っていた。
 女の名は、セイリア。
 この国の王妃――つまり私の妻である女だ。
「まだ居たのか。さっさと逃げろといったはずだが……私はお前など必要ではない。どこへなりと行ってしまえ」
 わざと冷ややかに言って、どこへでも行ってしまえと伝えても、王妃の灰色の瞳には死への恐怖も、薄情な夫に対する怒りもない。それどころか、淡い微笑みすら浮かべている。
 妙な女だ。
 政略結婚で隣国より嫁してきてから十年になるが、この王妃は昔からこうだった。いつもは大人しいくせに、妙なところで肝が据わっている。
 まさか王城が革命軍に取り囲まれているという今の状況を理解していないわけでもないだろうに、怯えた様子もないのは、おかしいと思う。別に、恐怖で泣き叫べとは言わないが、もう少しそれらしい態度があるだろう。
 しかし、王妃はゆったりとした仕草で私の方に歩み寄ってくると、もう二十六になるというのに少女のようにクスクスと笑って、穏やかな声で言った。
「先ほどから、陛下は逃げろ逃げろとおっしゃいますけど、もう遅いですわ。逃げる気があるならば、もっと前に逃げています……今、この城に残っている者は皆、とっくの昔に覚悟を決めた者ばかりですわ。陛下があまりに逃げろ逃げろと、自分だけが犠牲になろうとなさるから、皆、意地になって残ってしまいました。もう好きにさせて下さいませ」
 王妃の言葉には、不思議と悲愴感がなかった。だが、私は素直に、その言葉を受け入れる気にはなれなかった。
「意地か……つまらん意地は捨てろと、城内の者に言っておけ。革命を起こされるような愚王に従って、人生を棒に振る必要はない。私の言葉は聞かずとも、王妃であるお前の言葉なら聞くかもしれん」
 私がそう言うと、王妃はゆっくりと首を横に振る。
「意地だけではございませんわ。私は陛下を愛しています。だから、たとえ革命軍の手にかかって殺されようとも、最期まで陛下と共に居たいのです」
「……」
 愛している。
 王妃のその言葉は、私にとっては、ひどく重かった。なぜなら、私は王妃のことを彼女と同じ意味では、愛していないのだから。
 だから、私はこの状況でそれを言うのは何よりも残酷だとわかっていて、彼女の言葉を否定する。
「悪いが、私はお前を愛していない。だから、城を去れ。今なら、まだ間に合うかもしれん」
 お前を愛していない。
 命がけで自分を愛してくれた者に、考えうる限り、最も残酷な言葉を投げつけながら、私はどうやって、この女を城外に逃がすか考えていた。自分の意志で城内に残っている家臣たちはともかくとしても、この女だけは……王妃だけは、自分と滅びの運命を共にさせる気はなかった。たとえ、それが王妃の唯一の願いだったとしても。
 嫁いできてから十年、私は王妃をただの一度として、愛さなかった。否、愛そうとすらしなかった。そんな女を、自分と共に死なせる気には、到底なれなかった。
 しかし、そんな私の心境も知らず、王妃は柔らかな微笑を浮かべて言う。
「知っていますわ。陛下が、誰を愛していらっしゃるか……それでも、私は構わないのです。ただ最期まで、陛下と共にいられたなら、それだけで」
 その言葉に、私は王妃の説得を諦めた。
 ここまで覚悟した女が、私があれこれ言ったくらいで、城から逃げるとも思えない。
 自分を愛してもいない夫と運命を共にするなどというのは、他人からはとんでもなく馬鹿げた行為に映るだろう。だが、私は王妃を愚かだと笑う気にはなれなかった。なぜなら、叶わぬ想いを抱え続けているのは、私も王妃と同じだからだ。
「もういい。好きにしろ」
 私がそう言うと、王妃は素直に「はい」とうなずいて、私の隣に並んだ。
「……陛下。あの方のことを、考えていらっしゃるのですか?」
 窓から遠くを見つめる私に、王妃がそう問いかけてくる。
 あの方とは、王妃にとっては憎い恋敵にあたる女のはずだった。
 エルゼナーシャ――私が愛した美しい森の魔女。
「そうだと言ったら、お前は気を悪くするだろう。お前はエルゼのことを、憎んでいるだろうからな」
 私の言葉に、王妃は意外にも、不思議そうな顔で首をかしげた。
「……憎む?エルゼナーシャ様を私が?なぜですか?」
「なぜか……とは、逆に私が問いたいところだ。王妃よ。むしろ、なぜ憎まない?お前にはエルゼはともかく、私を憎む権利があるはずだ」
 私のそれは、偽りのない本心だった。
 この国の誰よりも、「王を殺せ」と叫ぶ革命軍の者たちなんぞよりずっと、王妃の方が私を憎む権利があるはずだ。
 もし、王妃が望むならば、革命軍の手にかかる前に、王妃の手で王の首をはねさせてやっても良い。これが、そんなことを望むとも思えないが、死ぬ前の最後の願いくらいは叶えさせてやりたかった。
 私が憎いならば、殺されてやる。
 謝ってほしいというなら、死ぬ瞬間まで謝り続けてやる。
 だから、どうか私を憎め―― 
 しかし、王妃は――セイリアは、私の期待を裏切った。
「憎みません。私は貴方も、エルゼナーシャ様も憎みません。貴方が、どんなに優しい王だったか、どんなに森の魔女を愛したか、私はよく知っていますから」
 そう言って、王妃は私に片手を伸ばして、私の頬にそっと触れた。
 柔らかくて、頼りなくて、小さな手だと思った。
 この女は本当に愚かだと、私は思わずにはいられない。自分を愛さない男に、ここまでして何になるのだと。

 私が愛した女の名を、エルゼナーシャと言った。
 森の民特有の美しい黒髪と、同じ色の瞳を持つ美しい女だ。
 彼女に初めて会ったのは、私がまだ十二歳の少年であった頃だった。
 家臣と共に狩りにいった森で、私はエルゼナーシャと出会って、恋をしたのだ。
 狩りの最中、獲物を追っていた私は迂闊にも家臣と離れてしまい、森の深い場所まで入り込んでしまった。それだけでも、少年が命の危険を覚えるのは十分すぎるほどだが、その後、運悪く野生の獣に襲われ、なんとか逃げたものの、その際に落馬して大怪我を負った。
 骨が何本も折れていて、頭からは真っ赤な血があふれていた。あの時は、子供ながらに死を覚悟した。
 そんな私を助けてくれたのが、黒髪の美しい少女――エルゼナーシャだった。
「大丈夫。貴方は助かるわ」
 地面に倒れている私を見つけた黒髪の少女は、私の方に駆け寄ってくるとそう言って、私に自分の肩を貸し、支えるようにして自分の家に連れて行った。
 連れて行かれた家には、エルゼナーシャの両親がいて、娘が連れてきた大怪我をしている少年に驚き、だが、私のことを必死に手当てしてくれた。エルゼナーシャの母親は、森の魔女と呼ばれる薬師のような人で、私は彼女の治療のおかげで、何とか一命をとりとめた。
 何とか一命をとりとめたものの、その日から三日間は地獄だった。夜中、高熱にうなされて、何度も胃の中のものを吐いた。いっそ、死んだ方がマシだと思うような苦しみだった。
 そんな時、そばに居てくれたのが、エルゼナーシャだった。夜中、ずっとそばについていてくれて、私がうなされていると大丈夫だと手を握ってくれた。
 その手は、私が幼い時に亡くなった母と同じように、優しくてあたたかだった。
 エルゼナーシャと、その両親は森の民だった。
 森の神を信仰し、森を守り、森と共に生きる人々。
 古い伝統を重んじ、森から決して出ようとしない彼らのことを、王都の人々は不気味に思い忌み嫌っているが、それは間違いだと私はわかった。
 森の民と付き合ってみれば、すぐにわかる。
 自然を愛し、何よりも森を愛す彼ら森の民はとても自由で、何者にも縛られない。世継ぎの王子として、人々の重圧と期待を受けていた私にとって、森の民の生き方はとても輝いていて、何よりも羨ましかった。
 私の容態が少し落ち着いた頃、エルゼナーシャの家に、行方不明になった私を必死に探していた家臣たちが、ようやく私の居場所を見つけて迎えに来た。
 怪我の治療をされている私を見た家臣たちは、王子を救ってくれた森の民の家族に深く感謝し、エルゼナーシャの両親に金貨のつまった袋を渡したが、彼らは感謝の言葉だけ受け取って、金貨の袋を家臣の手に返した。森の民は金貨を必要としないと言って、彼らは何も受け取ろうとしなかった。
 王城に帰った私を待っていたのは、心労で痩せた父王だった。年を取ってから生まれた一人息子の森での失踪に、父王は食事も喉を通らなかったそうだ。
 父王の腕に抱きしめられながら、それでも私はどうしても、エルゼナーシャのことを忘れることができなかった。
 怪我が直ってから、私は何度かエルゼナーシャに会いに、森に行った。
 彼女は王子である私のことを歓迎もしなかったが、だからといって拒みもしなかった。
 そんな私の行動に、最初のうちは命の恩人だからといって父王も目をつぶっていたが、私が年を重ねるにつれて、眉をひそめるようになった。私がエルゼナーシャ以外の女に興味を示さなかったから、そのことを危惧したのだろう。
 そして、私が十五になった年、父王の危惧は現実のものとなる。私が、エルゼナーシャを妻にしたいと言ったのだ。
 その私の言葉に、父王や重臣たちは「とんでもない」と反対した。貴族でも王族でもない森の民の女を、この国の王妃にするなど狂気の沙汰だ。絶対に許せない。妾妃ならばまだしも、王妃など国民も教会も許すはずないと。
 それでも、他人に反対されただけならば、私は諦めなかっただろう。だから、十七になった年、私はエルゼナーシャに求婚したのだ。私の妻になってくれないか――と。
「貴方のことは愛してる……」
 そう言いながらも、エルゼナーシャは首を横に振った。
「でも、私は森の民で、母さんと同じように森の魔女になる女なの。何よりも森を愛している。だから、貴方の妻には……この国の王妃にはなれない」
と。
 その返事に、私の想いは生涯、エルゼナーシャに届かないのだと悟った。だけど、諦めることは出来なかった。
 ――その翌年、私は隣国の王女であるセイリアと結婚させられた。
 愛情など何もない。ただ国同士の利益のための結婚だった。そして、エルゼナーシャを想い続けている私にとって、わざわざ隣国から嫁いで来させられた王女に同情はしても、愛情を抱けるはずもなかった。
 そんな自分勝手な想いから、私は嫁いできた王女に冷たく接していたと思う。王となってからも、王妃として尊重はしたが、優しい言葉をかけた記憶がない。
 当然のように、愛していると偽りでも口にしたことは、ただの一度もなかった。
 私の妻となったセイリアは、エルゼナーシャとは正反対な女だった。エルゼナーシャが誰もが目を奪われる大輪の花のような女だとすれば、セイリアはひっそりと野に咲く控えめな花のような女だった。
 いつも私の隣にいたくせに、私に何か意見したことは殆どなかった。いつも黙って、控えめに微笑んでいるだけだ。
 そんな王妃のことを、私はまるで影のような女だと思っていた。そう、私はセイリアのことを、ただの一度としてきちんと見なかったのだ。
 そうして、決して短くはない十年という歳月が流れた。
 王妃であるセイリアにとって、私は王としてはともかく、夫としては最悪だっただろう。政略結婚で結ばれた夫婦とはいえ、一度として自分の方を見ないのだ。私が同じ立場だったのなら、増悪すら抱くかもしれない。
だが、隣国から嫁いできた王妃は文句も言わず、いつも微笑んでいた。
 ……認めよう。私は良い夫ではなかった。エルゼナーシャの半分も、私は王妃に優しくしてやらなかった。
 それを今更、後悔しても遅すぎるのだが。
 ――私が王位を継いでから三年目、日照りが影響して、国中で飢饉が起こった。
 浪費家であった祖父の散財のせいで、余裕のなくなった国費の大半を使って、私と家臣たちは何とか増え続ける餓死者をくい止めようと、必死に奔走した。王妃も隣国から持ってきた花嫁道具の大半を売り払って、それを金に換えると、それで民の飢えを何とかしようとしていた。
 焼け石に水かもしれないが、私たち王家とて何もしなかったわけではない。だが、運命は余りにも過酷だった。
 その翌年、飢えに苦しむ農村を中心に、ひどい伝染病が流行った。
 手足の大半が黒く染まり、ゆるやかに腐っていくという恐るべき死病だ。しかも、その感染を防ぐためには、死者の亡骸を焼いてしまうほかない。土葬が当たり前なこの国では、それは悪魔の所行にも思えたのだろう。感染を防ぐために、死者の亡骸を焼くように命じた日から、私は王ではなくて悪魔と罵られるようになった。
 それが、こうして革命が起こった一つの原因ではあるのだろう。
 無論、それが全てだと言い張るつもりはない。祖父は湯水のごとく美女や宮殿に金をつぎ込んだ浪費家の王だったし、それが国民の血税だという自覚もなかった。不幸なことに、そうして傾きかけた国を立て直す技量が先王であった父にも、私にもなかった。
 ――そうして、あの悲劇が起こった。
 伝染病を広めたのが森の民だと盲信した男たちの集団が、森の民の集落を襲って、彼らを惨殺したのだ。
 言うまでもないが、森の民が伝染病を広めたというのは、ただの根も葉もない噂に過ぎない。森の民にはそんな力も、そんなことをする理由もない。
 ただ、飢えや伝染病で心が荒んだ農民たちにとっては、やり場のない怒りをぶつける対象が必要で、それが森の民だった。森の神を信仰する異教徒だというだけで、彼らは暴徒とかした男たちに襲われて、何の罪もなく命を落とした。
 森の民を襲った者たちは、数日後に捕らえられたが、その者たちには反省の欠片もなかった。むしろ、自分たちは正義だと、森の民を罰したのは正しいことだったと、胸を張っていた。
 それが、私の王としての分かれ道だったのかもしれない。
 もし、森の民に全ての責任を押しつけてしまえば、王としての私の立場は守られる。森の民が、奴らが全ての元凶なのだ――そういうだけで、苦しむ民の怒りは、私から森の民に向くのだ。その結果、森の民やエルゼナーシャが死ぬことになっても。
 王妃は……セイリアは、どう思ったのだろうか。尋ねたことはないし、これからも尋ねる気はない。だが、きっと察していただろう。私の決断で、王家の命運が決まることは。
 そして、私が選んだのは、破滅に繋がる道だった。
 ――私は森の民を襲った男たちを、処刑するように命じた。
 当然のように、民は私を悪魔と罵った。大多数の民にとって、森の民こそが悪であり、彼らを襲った男たちは英雄であったからだ。その英雄たちを処刑したことで、私の命運は尽きた。
 追い打ちをかけるように、「王は森の魔女に操られているのだ」という噂が、国民の間に広まっていった。森の魔女というのは、他でもないエルゼナーシャのことで、私は彼女と時折、文を交わしていたから、そういった噂が流布するのも時間の問題だったろう。王城に仕える者の中に、裏切り者がいたのだ。
 ――そうして、森の魔女に操られた王を討つべしという声は高まり、やがて革命が起こった。

 それから先は、特に語ることもない。
 国民の大半は革命軍を支持し、その結果、こうして革命軍が王城の周りを取り囲んでいるというわけだ。
 あと数刻もしないうちに、この城は革命軍に占拠されて、この国の歴史は変わることになるだろう。
 その時を、王妃と二人で静かに待っている。数年前は、民の感情を理不尽だと思ったこともあったが、今はもう恨んではいない。
 私は王として、国民を幸せにしてやることは出来なかった。今の私に出来ることは、革命軍の者たちが、少しでも国を幸せな方向に導いてくれることを祈ることぐらいだ。
 森の民やエルゼナーシャたちは、遠い異国の地に逃げたという。だから、もう心残りというべきものは、一つしかない。
 十年前から私の隣にいる女が、王妃が何を想ってここにいるのか、その答えを――まだ聞いていない。
 しかし、この時に及んで、私の口から出たのは全く別の言葉だった。
「セイリア」
 私がそう呼びかけると、王妃は横を向いて、灰色の瞳をこちらに向けた。
「はい。陛下」
「本当に後悔はないのか?悪魔と罵られている王と運命を共にして、歴史に悪名だけが残るぞ。自分を愛していない男に払うには、高すぎる対価だろう」
 もう間に合わないと知っていた。
 王妃を逃がすには、時間が足りなすぎる。それでも、私は王妃に逃げて欲しかった。
 愛していると、一度も口にしたことはなかった。ならば、せめて逃げろと生きろと、言ってやりたかった。
「陛下……もう良いんですわ」
 私の言葉に、王妃は幼子に対するような慈悲に満ちた笑みを浮かべると、腕を伸ばして私を抱きしめる。
「もう良いんですわ。陛下。貴方は王として、きっと正しいことをした。たとえ歴史が悪名しか残さずとも、私だけは知っています。この十年、ずっと貴方の隣に居たのですから……それだけが、私の真実です」
「王として、正しいことか……民はそうは思わないだろうが」
「森の民が、エルゼナーシャ様が知っています。きっと、あの方たちが、貴方の想いを、歴史に残らない真実を語ってくれる……私はそう信じます」
 そう言って、王妃は……いや、セイリアは幸せそうに微笑んだ。何の後悔もないという風に。
 何か言うべきことだと思ったが、私の口からは何の言葉も出なかった。代わりに、ただ王妃を抱きしめた。もう二度と、離れないように、強く強く。
 ああ、本当はずっと前からわかっていた。エルゼナーシャとは別の意味で、セイリアは私にとって特別な女だった。この十年、この女は王妃として、ずっと私の隣にいたのだ。
 なぜ愛していると言えなかったのか、その理由は今やはっきりしている。愛よりも重い感情に、名前などつけられるはずもない。
 言葉で伝えられるものには、限界がある。だから、離れるなとだけ、セイリアの耳にささやいた。
「――最期まで、私から離れるな。セイリア」
と。
 
モクジ
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