水盤の都
ひかりの庭
私の愛した兄弟の話を、しよう。
翡翠宮殿(エスディアル)で生を受けた私は、マハタート王の第二王子で、兄と弟がいた。
それぞれ生母は違ったが、年が離れているせいか、揉め事とは縁がなく、市井の子供らのようにはいかずとも、仲の良い兄弟であったと思う。
生まれつき身体が弱かった長兄は、残念ながら、夭逝してしまった。
物静かで、青い月の夜は決まって、窓辺に佇み、穏やかに微笑んでいるような人であった。
かたや私よりも六つ年下の弟は、我が強く、幼い頃は特に、焔のような激しい気性の持ち主だった。
名を、ルイスワーン(白い月)という。
生まれた時は、ろくに乳を吸うこともせず、無事に育つかどうか危ぶまれていた弟だったが、物心つく頃には、沙羅双樹の木によじ登ったり、勝手に宮殿を抜け出したりして、守り役たちの頭を悩ませることとなった。
王の子だというのに、市井の少年のように裸足で駆け回り、そのいとけない顔いっぱいに、すり傷をこさえては、平然とした貌をしていて、側仕えの女たちを嘆かせたものだ。
思えば、ルイスワーンは不思議な子だった。
私のことも夭逝した兄のことも、兄上、兄上と慕ってはくれたが、実は私はルイスワーンのことについて、何も知らなかったのではないかと、そう思わずにはいられない。
子供ながらに、意志が強く、言い出したら聞かない所があり、よく他愛もない我が儘を口にしては、守り役たちを困らせていた割に、ふとした瞬間、その瑠璃の瞳は、湖面のような深い静けさをたたえていた。
今にして思えば、あれは常人とは違う、何かを見つめていたのかもしれない。精霊(ジン)と心を通わす者。わたしたちの血筋には、稀にそういった子が生まれる。
あの、どこまでも曇りない瑠璃(ラピスラズリ)の煌めきに見つめられると、私なぞ、自分の弱さや醜さを暴かれるような、何とも居たたまれない心地にさせられることもあった。
それでも、あの子にそんなつもりは、微塵もなかっただろう。
殿下と呼ばれていた幼い時分、青連の池のかたわらに尻をつき、じっと、此方を見つめてくるルイスワーンの瞳は、ただ無垢で、波風たたぬ水面のようだった。
そんな幼い弟は愛しく、同時に、私は無垢すぎるその眼で見つめられることを、ほんの少しだけ恐れていた。
偉大なる王ハフマーンの血統、翡翠宮殿(エスディアル)の主の子である私たち三兄弟に叶わぬ願いは、殆どなかった。大概の事は、口にする前に側付の者が叶えており、私の傍には側女のラフナを始め、夜明けから就寝の時に至るまで、人の気配が絶えることはなかった。学問の師も、象戯の相手も、父王や大臣たちによって何ら過不足なく誂えられており、思うが儘にならぬことは、月の満ち欠け位だったと言ってもいい。
しかし、王の子であった私たちにも、唯一つだけ、禁じられていることがあった。
宮殿の奥庭、限られた者しか立ち入らぬその処に、青い睡蓮の咲き乱れる、人工の池があった。それは、偉大なる父祖より伝えられる、この水盤の都の繁栄を支える、礎と呼ぶべきものであるという。
其処には、王朝を開いたハフマーン王により、名を奪われた水妖が囚われており、王の血筋の者は近づいてはならぬ、との厳しい掟があった。
王の都がただの一度も水害に見舞われず、清らかな水の恩寵を受けて、永久の繁栄を約束されているのは、真名を奪われた水妖の力であるという。
青蓮の咲くところ、水盤に囚われた彼の者を、決して、解放してはならぬ、と。
老いた師から、噛んで含めるように、よくよく語られていたそれを、私も兄も進んで破ろうとは思わなかった。伝承の真偽はともかくとしても、沙羅双樹の木々に守られた奥庭、清らかな睡蓮が咲く其処は、一種、犯し難いような神聖さがあり、水盤に棲む者への畏怖もあったからだ。
しかし、師の教えに従順だった兄のチャンルーや、私とは異なり、ルイスワーンはその水盤に、囚われたという水妖に、心を奪われたようだった。繰り言のような師の話に、ゆるく目を細めた兄や、こそりと欠伸をした私とは異なり、弟は瑠璃のそれを、さながら貴石の如く輝かせる。
五つを数えたかどうかという幼子は、緑なす青草の上に座りながら、語り部たる老人の唇から、僅かたりとも、目を逸らそうとしなかったのだ。
春から夏へ移り変わろうという季節、白い月を終え、青い月になろうという時だっただろうか。
ルイスワーンが、ずぶ濡れになって、宮殿の廊下を歩いていたのは。
長い黒髪は、水草のような有様で、白い裾裳は、水を吸い、ずっしりと重そうだった。ぺたぺたと小さな足が歩を進める度、その肌からは雫が伝わる。
初夏の折のこと、凍えてこそいないようだったが、その瑠璃は暗く、沈んだような色だった。
私が弟の名を呼ぶと、ルイスワーンはナーラーイ兄上と、か細い声で応えた。
大方、勝手に外に出ては、守り役を慌てさせているのだろうと想像がついたが、そのように、弟の打ち沈んだ姿を見るのは、稀なことだった。ルイスワーンは、水を含んで重そうな黒髪を、ぎゅう、と片手で絞ると、水盤を見に行ったんだ、と零した。
水妖を怒らせてしまったのだと、酷い目にあったと嘆く弟は、それでも言いつけを破ったという負い目があるのだろう。どうか、父様には言わないで、と懇願した。
私は、内心、困ったものだとため息をつきつつも、危ない真似をしてはいけないよ、とルイスワーンを諭した。たとえ、この弟が精霊と心を通わす者であっても、名を奪われ、水盤に囚われた妖が、王の血筋を厭うのは、自然な成り行きのように思えた。幾千の夜を数える間、彼の妖は水盤に囚われ続け、清らかな水を湧き出す役割を担っているのだからと。
大半が、師からの受け売りであったが、兄たる私の言葉を、弟は大人しく聞いていた。
俯いていた面を上げると、ただ一言、さびしくないの、とルイスワーンは言った。
いつも以上に澄んだ瞳に、私はとっさに言葉を失い、黙り込んだ。青い月の夜を越え、白い月が巡り、紅い月の夜が終わっても、水盤に囚われ続ける孤独、まだ十の齢を越えたばかりの身であっても、それは、気の遠くなるような、虚しさに思えた。
――でも、師の言う通り、それは水盤の都の繁栄を支えるもの。水妖を鎖から解き放てば、約束された水の恩寵は、泡と消え果てしまう。翡翠宮殿(エスディアル)も、今のままではいられない。
正直に言おう、私は名も知らぬ水妖の犠牲よりも、父が母が、魂の片割れのように思うラフナが、腹違いの兄弟達の方が大事だった。その為の犠牲には、見て見ぬふりを貫いた。
さびしくないの、繰り返すルイスワーンの無垢な声が、何より胸に痛かった。
黙り込んでしまった私の掌を、より小さな掌が、そっとくるみこんだ。水に濡れて、ひんやりと、でも、じわりと伝わる熱があった。
瑠璃(ラピスラズリ)の瞳が、真っ直ぐに、此方を映している。水面のような静けさで、鏡のような清廉さで。かなしいの。という幼い声に、少し泣きたくなった。哀しい。
ルイスワーンは、やわらかく包み込むように、微笑った。
不思議な子だった。
あどけなく幼いはずの弟が、急に幾千の夜を超えた、賢人のような貌を見せる。
だいじょうぶだよ、精霊(ジン)は怒ってない。にい様は、やさしいひとだから。
何もかも許すような瑠璃で告げる幼い弟は、神の言葉を伝える、祭祀のようだった。
それからも、守り役の目を盗んでは、ルイスワーンは奥庭の水盤に足繁く通っていたらしい。
子供には長く、引きずるような白い裾裳の中に、瑞々しい果実や、希少な書物を隠しながら、青い睡蓮の咲くところに向かう弟の背中を、私は幾度も見送った。
兄は知っていたのだろうか、知っていても、おそらく、苦言をていそうとはしなかっただろう。いかなる運命の流れにも逆らわず、全てをあるがままに受け止める人であったから。
一度だけ、水盤の傍らに立つ、ルイスワーンの姿を見たことがある。
沙羅の木に守られた、あわい光がふるそこで、少年が水盤を見つめ、幸福そうに微笑んでいた。
私たちですら、一度も見たことのないような、心底、幸せそうな、安らいだ表情であった。あの慈しむような眼差しを、なんと表現すべきか、未だにわからぬ。
青い睡蓮の咲き誇る水盤に、何が棲んでいるのか、私には見えなかった。ただ、幸福を形にしたようなルイスワーンの顔を見れば、そこが、いかに特別な場所であるのか、疑うべくもなかった。
私にとっての魂の伴侶はラフナであるが、弟が生涯を通じて、あの眼差しを向け続けたのは、唯一、水盤の妖だけだろう。
あの子の心は、魂は、何時も、いかなる時も其処にあった。
屈託なく、獣の子のように庭を駆け回っては、守り役の手を焼かせたルイスワーンだったが、ある時期を境にして、物静かな態度を好むようになった。おそらく、病がちだった兄(チャンルー)の死が契機になっただろう。
昼夜を問わず、書物に親しみ、思慮深くなった弟に、亡き兄の面影を重ねるようになったのは、きっと、私だけではあるまい。
実際、年々、兄に似ていくようでもあった。想像にすぎないが、そうすることで、忘却を己に許そうとしなかったのかもしれぬ。
後に私の妻となったラフナは、驚くと共に、その庭を駆け回る姿が見えなくなったことを、少なからず、寂しがっている風であった。私は黙って、その華奢な身を腕に抱いて、指通りの良い髪を梳いた。
あの子が、十三になろうという年のことだった。
当時、ラーナヤーナ川の向こうでは、キナ族が勢力を伸ばしており、第一王位継承者であった私は、その渦中へと入らざるを得なかった。その結果、命を落とす寸前だったところを、ルイスワーンに救われた。その恩義を、私は今に至るまで忘れたことは皆無だが、その感謝を口にすると、弟はいつも首を横に振り、「ナーラーイ兄上を助けたのは、私じゃない。私じゃないんだ」と、頑なに認めようとしなかった。
決まって、やや哀しげに微笑いながら。
十九の年、私は側仕えの娘に過ぎなかったラフナを、正式な妻とし、同時に臣下の籍へと降った。
時を同じくして、ルイスワーンはキナ族の長の姫を娶り、立太子の儀を執り行った。
口さがない者達は、私を弟に追い落とされた憐れな王子と蔑んだが、私自身は気にならなかった。
凡愚な自分よりも、ルイスワーンの方が遥かに王なる資質を備えているように思えたし、身分は低くとも、心安らげる伴侶を得、慎ましやかな暮らしを送る方が、我が身には相応しいと思えたからだ。ラフナは言葉を交わすことが出来なかったが、よく私に仕えてくれ、この上ない歓びを与えてくれた。
子宝にも恵まれ、二男二女、思い描いた以上に幸せな日々を送らせてもらった。全て、ラフナとルイスワーンのおかげだ。
ルイスワーンが二十の年に父が没し、代替わりを迎えた。
水盤の都の主となった弟は、国の為によく尽くした。民の声に辛抱強く耳を傾け、歴代の王のように美女や美食に耽るような真似もせず、その全ては国の為に捧げられたと言っていい。在位の間、国が乱れることは、ただの一度としてなかった。
精霊(ジン)に愛された王として、シャラクーダ姫との間に、二人の王子と王女をもうけ、その治世は盤石のものであった。
臣籍に降ってからというもの、私は進んで翡翠宮殿(エスディアル)に立ち入ろうとは、思わなかった。万が一にも、私の存在が国を乱れさせる遠因となってはならぬ。ルイスワーンの后となったシャラクーダ姫は、聡明な人で、私や身分の差のあるラフナにも、分け隔てなく、何かと心を砕いてくれたが、私は勿論、私の子供たちにも、気軽に宮殿に入らぬよう、よく言い含めていた。
それでも、時折、王となったルイスワーンから使者がよこされて、宮殿に赴くこともあった。
「ナーラーイ兄上、よくいらしてくださった」
並ぶ者なき王となってからも、ルイスワーンは驕ることなく、私を兄として慕ってくれた。二十半ばを迎えた王は雄々しく、勇敢でありながら、思慮深さも兼ね備えていた。
天鵞絨の衣に、黄金の腰帯、金剛石や紅玉、翠玉をはめ込んだ宝剣、王らしい威厳に溢れていながら、その瑠璃の煌めきは、幼い時のままであり、時に過ぎ去った歳月を忘れさせる。
政務を終え、くつろいだ風な弟は、王としてよりも弟としての顔を見せ、側女をさがらせると、手ずから瑪瑙の杯に並々と酒を注ぎ、此方へと渡してくれた。
窓辺に肩を並べ、輝く白い月を愛でながら、杯を傾ける。
口をつけると、かっと燃えるような喉越しと共に、なんともいえぬ甘美な余韻が広がった。
睡蓮と同じ名を有する、弟が殊の外、好んだ強い酒だった。
瑪瑙の杯を傾け、そこに欠けた月を映しながら、ルイスワーンは瑠璃の双眸を細めた。ナーラーイ兄上は。水盤に初めて、足を運んだ、あの日と同じように。
「兄上は、水面の月に焦がれたことがおありか」
「水面の月、……?」
小さく、抑えた笑い、月を映した杯が傾く。ゆらりゆらりと水面が揺らいで、あまい花の香りがどこかからか薫った。
水妖を閉じ込めることで、永久の繁栄を約束され、水の祝福を受けた都、その王たる者の横顔を、細い月の光が照らす。
私はある。とルイスワーンは、言った。
「焦がれて、焦がれて、この身を食らいつくす程であっても、その水面の月に触れることも、この腕に抱くことも出来ぬ。私が、水盤の都の主たる限り、永久なる繁栄を極め続ける限り、決して――儘ならぬことだ」
――青い睡蓮の咲くところ、私は命尽きてなお、決して還れぬのだと。
ルイスワーンの言葉に、私は何も言うことが出来なかった。
青い睡蓮の咲くところ、それは決して、報われてはならぬ恋。水盤の都を、そこに息づく民の暮らしを、守る為にも。
さびしいの。
あの子の声が、聞こえる。
孤独なる王の横顔を、煌々と輝く白い月が照らす。
「ルイスワーン……」
「でも、私は絶望してはいない。ナーラーイ兄上」
何故なら、とルイスワーンは曇りのない瞳のまま、晴れやかに笑った。後悔もなく、憂いもなく、ただ幸福そうに。
「見えずとも、触れずとも、私たちの魂はどこかで繋がっているのだ。水あふるる処、命息づく処、そこに水妖の乙女(リルファ)はいるのだから――」
気が付けば、随分と長く語ってしまった。
私は、最早、老いた。この寿命が尽きる日も、おそらく、そう遠くはあるまい。
将来を担うと期待された兄よりも、弟であるルイスワーンよりも、長く生きることになるとは思わなかった。
ラフナとの間に設けた子供は、皆、成長し、それぞれの人生を送っている。王の子として生まれ、臣籍に降ったこと以外、これといって、特筆すべき点はないが、穏やかで、満ち足りた人生だったと思う。
生涯、私を愛し、私を支え、私の最愛の者であったラフナは、一足先に旅立っていった。そろそろ、彼女に逢いに行きたいと思う。
ただ一つ、あの子が愛した水妖に逢えたかどうかだけが気がかりだ。
心配だが、ルイスワーンならば、たとえ幾千の夜を越えてでも、きっと、美しい白象に乗って、迎えに行くことだろう。
水盤の都、翡翠宮殿の奥深く、青い睡蓮の咲くところ。
――あの子の幸福は、最初から最期まで、変わることなく其処にあったのだから。
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