水盤の都

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象使いの娘

 私の名は、ラフナ。姓はない。象使いの娘だ。
 チャンルー殿下を筆頭とする、三殿下が翡翠宮殿(エスディアル)で、生を受けた頃とほぼ同じくして、私は、王宮に隣接する下働き達の住居で、側女の胎から産まれ落ちた。
 父は宮廷に仕え、戦や儀式の折に、王族方が騎乗するための白象の世話を担っていた。無骨で、言葉は少ないが、良い父親だった。頭を撫でてくれる、荒れ、ひび割れた手と象を見る優しい眼差し、飼葉のにおいをよく覚えている。
 側女だった母は、私を産んですぐ、ナーラーイ殿下の乳母に選ばれて、水晶の宮で暮らすこととなった。
 残された私は、象使いの父に育てられた。
 母とは、めったに会えなかったけれども、さびしいと感じることは少なかった。父も、厳しかった祖父も、母と別れた幼い孫娘に、何くれとなく心を砕いてくれた。と同時に、一番、大きかったのは、象たちの存在だった。わたしの友。わたしの家族。
 見上げてなお、届かぬ巨体に、大概の者は恐れを抱くが、案ずることはない。象はとてもとても賢く、しかも優しい生き物だ。
日夜、熱心に世話をする父と象の間には、人と人との間に劣らぬ絆があった。幼い時分、わたしはよく父と一緒に象の背中に乗ったものだ。中でも、金糸、銀糸を織り込んだ布と花で飾られ、いっとう美しかった白象だけは、王様のもので、私は近づくことすら禁じられていたが。
 父と祖父と、時折、甘い菓子を分けてくれる側女たち。そして、友である象たち。――それだけが、私の世界のすべてだった。
 転機が訪れたのは、私が五つの誕生日を迎えようという頃だった。母に習い、私もナーラーイ殿下の傍仕えとして、またご幼少のみぎりの遊び相手として、翡翠宮殿へと上がることとなったのだ。
 身分違いの事、祖父は良い顔をしなかったが、熱心に口説く母に押し切られて、承諾した。
 五つかそこらの子にとって、絢爛な宮殿は、どこまでも物珍しく、好奇心を刺激してやまなかった。けれど、それも、母に手を引かれて、水晶の宮に入った途端、恐れへと変わる。久方ぶりに会い、ふくよかさを増した母は、ナーラーイ殿下はお優しい方だから、だいじょうぶよ、とやや、赤みがかった私の髪を梳いたが、私は安心できなかった。
 ナーラーイ殿下は、どんなおひとだろう。嫌われはしまいか、そう考えるだけで、私の足はすくんで、母の背に隠れずにはいられなかった。促されて、黄金細工の施された扉をくぐってなお。
「ラフナ。ほら、ナーラーイ殿下の御前ですよ。ご挨拶なさい」
 母の言葉にも、私が面をあげられないでいると、とん、と床を蹴る足音がした。一段、高い所にしつられた椅子から、男の子が走り寄ってくる。上向くと、黒曜石の瞳と目があった。――お前の娘は、ラフナというのか。
 その言葉を聞くだけで、走り寄ってきた男の子こそが、母の仕えるナーラーイ殿下なのだと、理解するには十分だった。  ええ、わたくしの、象使いの娘でございます。
 そう答える母の声は、甘く、慈しむようで、その眼差しは、実の娘である私に向けるよりも、掌中の珠を見るようであった。
 身の程しらずにも、私は嫉妬した。母の愛情を横から攫い、目の前で、屈託なく笑う、その男の子に。この水盤の都を司る、血族の仔に。
 けれども、そんな私の真意も知らず、母の愛情を一心に受ける子は微笑った。
「わたしは、ナーラーイだ。よく仕えよ、ラフナ」
 嫉妬と羨望と、猥雑な感情を持て余しながら、母の手前、私は従順な態度を貫いた。彼は――もう一度、乳母である女と顔を見合わせ、満足そうに破顔した。
 水盤の都、紅い鳳凰木の咲くところ、水晶の宮。
 象使いの娘である私は、二番目の王子に仕えることとなった。
 翡翠宮殿での日々は、ただの一つを除いで、変化もなく、平穏なものであった。
六つになる年、母が病を得て亡くなった。ナーラーイ殿下の乳母を務めた功績から、その身分にそぐわず、葬儀は仰々しいものだった。
わたしは、泣けなかった。ただ茫然と立ち尽くす、私の傍らで、殿下は黒曜石の瞳を潤ませ、血が出んほどに強く強く、唇を噛みしめ、ちいさな拳を震わせていた。まるで、本当の母子のようだった。
母が居なくなっても、私はずっと泣くことを忘れていた。側女たちは、表情一つ変えぬわたくしのことを、可愛げのない子だこと、情のない子だと蔑んだ。
「――ラフナ」
 殿下は、私の名を呼ぶと、黙って手を繋いで、前髪をすくった。だいじょうぶだ。ひとりじゃない。
 幼い声。その手も、父や祖父とは、まったく違うものだ。それなのに、安心を覚えるのは、なぜだろうか。私には、わからなかった。わたくしと同じ、幼い男の子が与えてくれる体温に、言葉もなく寄り添った。
 ナーラーイ殿下は、お優しいとたたえられながらも、あまり周囲に認められていなかった。
 上に幼少時から経典を読破していたチャンルー殿下、下に才気活発で謳われたルイスワーン殿下が、いらした為だろうか。風邪ひとつひかぬ、丈夫な肉体を持ち、武芸に長けるといわれても、学問の師からは、三兄弟で最も劣るとみなされていた。
 今にして思う、その健やかな精神こそが、なによりの宝であったのだと。
 
 私が七つになろうかという年、父が死んだ。誰よりも愛情を注いだ象に、ふとした気の緩みから、踏みつぶされて亡くなった。
 それを目の前で見てしまった私は、人を殺めた象が毒を盛られたその日より、声と言葉を失った。
 どれほど努力しようとも、うめき声ひとつ、あげることが叶わない。
 声を失った私を、傍仕えから外すように、ナーラーイ殿下に進言する者たちは、後をたたなかった。役立たずな、身分も低い、象使いの娘。
 唯一の取り柄であった、母譲りのさえずりの声も、喪ってしまった。もはや、水晶の宮に居座る資格はない。
 わたくし自身も、覚悟していたそれを、ナーラーイ殿下は聞き入れなかった。ただ黙って、ラフナ、と名を呼び、私の頭を撫でた。だいじょうぶだ。私がいる。
――あの日の母と同じように。
 声を失ってからも、私は殿下の傍らに控えることを、許された。それを、慈悲だと思っていた私は、ナーラーイ殿下の求婚を受けるまで、彼の人の想いを解してはいなかった。
 長じてからは、よく王様とともに、殿下は狩りに駆り出されていた。けども、決まって獲物を逃がしてしまう。それでも、それでいいのだと、笑っているひとだった。
 ひとを愛した人だった。
 兄を想い、弟を愛し、乳母であった母の死を、実の家族のように悼んでくれた人だった。何の宝石で飾らずとも、あの心こそが、何にも勝るものであったのだと。
      *
 わたくしを妻にし、異母弟であるルイスワーン殿下に王位を譲り、ナーラーイ殿下は臣籍へとくだった。
 よろしいのですか、と尋ねると、なぜ、とひどく不思議そうな顔をした。編み込んだ髪を飾る、プルメリアの花へと口づける。花嫁のそれは、純潔の証。
 そなたの父母は、許してくれるか、とナーラーイ殿下は、ひそやかに囁く。私は、まばゆい光に目を細めながら、静かに頷いた。象使いの娘は、こうして、王子の片割れになった。
      *
この命が尽きるまで、私は想い続けるだろう。
 ――あなたが、あなたこそが、ひかりであったのだと。


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