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まどろみの鳥籠


 ルーファスの妻となった少女は、殊の外、歌を好んだ。
 人前で、堂々と声を張り上げるというよりは、くつろいでいる時に、唇から、何気なく歌詞がこぼれ落ちる。
 決して、巧みな歌い手ではなく、時折、調子っ外れの時もあった。けれども、のびやかで澄んだ歌声は、ふわり風にとけ、口ずさまれるそれは、さながら小鳥の囀りにも似て、決して不快なものではなかった。
 屋敷の住人たちは、稀に奥方様の部屋から流れるそれに、ゆるく目を細め、洗濯物を干していた女中は、その曲調に合わせて、トントン、軽快に足を踏み鳴らし、ふんふんと鼻歌を口ずさむ。
 冷徹で知られる、屋敷の当主である青年も、その歌を褒めることもけなすことなかったが、時折、気まぐれに耳を傾けては、蒼い瞳にまたかと言いたげな色を宿した。されど、一瞬とはいえ、声の方角に目を向ける辺り、彼も妻の趣味にとやかく言いたいわけではないのだろう。
 書斎の窓から、若木の匂いのする風が吹きこんで、クリーム色のカーテンがなびく。
 はらはらと、開きかけの本の頁が、勝手にめくれた。


 ルーファスが中庭におりると、その歌声の主は、大地を祝福するかのような黄金の陽光と、穏やかな緑樹の影に守られた東屋で、静かに微睡んでいた。
 晴れやかな空の元、木々の枝葉がさらさらと涼やかな音を奏で、花のあまやかな香りが鼻孔をくすぐる。
 若芽の匂いのする、あたたかな風が、ゆるく編まれた亜麻色の髪を撫でていく。
 ゆるやかに伏せられた睫毛の下、その翠の瞳は、淡く、やわらかな光をたたえている。薄くひらいた少女の唇から、歌詞が紡がれ、旋律が奏でられていく。
 ましろい頬、伏せがちな瞼に、細かな陰影が落ちて、その儚げな風情に、彼は目を細めた。
「女神の祝福を抱いて眠れ、愛しきひとよ。黄金の光が夕闇にとけ、星の精霊の接吻が、そなたの額に落つる。再び、暁の使者が訪れるまで、我が、貴方の眠りを守ろう――」
「……」
「――幸いなる君、美しいひとよ、そなたの闇が晴れるまで、我が貴女に永久の安らぎを誓おう……」
 ゆったりと、誰に聞かせるでもなく、紡がれていた歌声は、ふ、と唐突に途切れた。
 睫毛が震え、透き通るような翠の双眸が、こちらを見る。
 ルーファスを見たセラは、聞いていたの?と首を傾け、驚いた風に、少し困ったように微笑った。
 声をかけてくれれば良かったのに、という少女に、ルーファスは無言で歩み寄ると、東屋の、彼女の隣に腰をおろす。
 問いかけには答えず、彼は困ったように微笑するセラと目を合わすと、「何の歌だ?」
と、尋ねた。
 ルーファスの問いに、セラは小さく唇をほころばせ、懐かしそうに答えた。
 遥か遠い異国の歌よ、と。
「遠い、遠い国の伝承歌……。母さんが好きで、よく歌っていたの。ずっと昔の、誰が作ったかもわからない歌なのだけど」
 深い愛情と、どこか切なさのにじむ、その言葉に、ルーファスは深くは問わず、ただ黙するのみに留めた。
 閉ざされた過去の語る時、この少女は時折、儚いまでの危うさを、かいま見せる。
 ――いっそ、その秘められた心の奥底を、強引に暴いて、全てを奪い去ってしまおうか。
 そんな身勝手な想いが、男の心をよぎらぬでもなかったが、それをしたら、この臆病な小鳥のような娘は、もう二度と、花のように微笑うことはあるまい。
 強引に手折れば、腕の中から逃げ出した小鳥は、未来永劫、美しく飾られた、だが、ひどく窮屈な鳥籠に戻ることはないと、ルーファスは知っていた。
 故に、彼は東屋の壁に身を預け、セラと並んで、空を仰ぎ見る。
 深い藍をとろかしたような空に、白い雲が流れる。
 東屋から見上げる蒼天は、どこまでも曇りなく、いっそ眩しすぎる程だった。
 風がそよぐ。薄紅の花びらを咲かせた木々の枝葉が揺れて、歌うようにさえずっていた小鳥が、ピーッと高らかに鳴いた。
 やがて天高く翔んだ翼は、碧空を悠々と舞い、その影は空の彼方へと消えていく。遠く、遠く、遥か遠い、歌声が届かぬ其処まで――。
「……続きは」
 上から降ってきた声音に、セラは仰向いて、ついで言葉の意味を図りかねたように、小さく首を傾げた。
 不思議そうに目を瞬かせた彼女に、ルーファスは微かな吐息をもらし、言葉を重ねる。
「さっきの歌は、あれで終わりか?」
「……違うけど、歌っていいの?うるさくない?」
 憂うように眉を寄せ、心配げに確認してきたセラに、ルーファスは淡泊な口調で「いや、」と否定の言を吐くと、ついと視線を逸らした。
 滅多なことで、表情を変えることのない、その男の真意は読みにくい。されど、
「……別に、気になるほどじゃない。歌いたければ、歌うといい」
 そうだ。歌うがいい、囀ればいい、彼の小鳥のように……。
 ルーファスの言を、許しと取ったのだろう。
 しばし、戸惑うような素振りを見せていた少女は、そっと瞼を閉じると、先の歌の続きを、その唇にのせた。
 ゆるやかな異国の旋律が、空にとけゆく歌声が、男の耳に馴染む。
「暁の君よ、待ちたもう。この旋律が、いとおしき彼の人を守る、優しき繭となる刻まで――」
               
                              

 ふと気づけば、歌声はすでに聞こえなくなっていた。
 肩にもたれかかるぬくもりと、安らかな寝息を察して、ルーファスは蒼い瞳をすがめる。あたたかな陽の光、東屋を吹き抜ける、心地よい風に誘われてだろう。
 すうすう、と規則正しい寝息を立て、ルーファスの肩に身を預けたセラは、既に眠りの世界の住人だ。
 伏せられた瞼、あわくひらいた唇は、何処かあどけなく、無垢なものを感じさせる。触れることすら、躊躇われるような。
「歌いながら、寝れるとは……ある意味、貴女には感心するな」
 ルーファスが呆れ半分、感心半分な声を出しても、傍らのセラは「んぅ……」と寝惚けたような声をもらしたっきり、眠りから覚めることはなかった。微かに上下する、喉の白さが、目に毒だった。
 他人の気も知らず、安らかな表情で眠る少女の無防備さには、ため息を禁じ得ない。
 嘆息した男は、片手を伸ばし、セラの頬にかかった髪の一筋を払ってやる。気まぐれのように、額に印をひとつ。
 ……これで許してやるのだから、己のらしくもない甘さに、失笑せずにはいられない。
 肩にかかってくる、柔らかな重みを感じながら、ルーファスもまた、ひとときの微睡を甘受することにした。


 鳥籠の中の小鳥は、自由に大空を羽ばたくことも、思うが儘にさえずることも出来はしない。
 それを知りながらも、腕の中に閉じ込めておきたいと願うのは、きっと、身勝手な男の性なのだろう。けれども、今しばらく、鳥籠の扉が開くまで、共に眠ろう。
 ――この優しく、閉ざされた、まどろみの鳥籠の中で。


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