様々な障害にもめげず、(主に部下やらルーファスやら、ルーファスやら……)、困難を乗り越え、念願の休暇をもぎ取ったハロルドは、まさに天にも昇る心地だった。
馬を駆けさせること二日、懐かしい生まれ育った場所へと戻ってきた彼は、足取りも軽く、今にもスキップせんばかりだ。
深緑の瞳には、喜色がにじみ、似合わぬ髭の下からは、ふんふん〜、と上機嫌な鼻歌がこぼれ出る。
その逞しい両の腕には、家族へのお土産を入れた袋が、がっしりと抱え込まれていた。
平服とはいえ、帯剣した赤髪の騎士は目立つのか、すれ違う人々がおや、という顔で立ち止まる。遠くから、ハロルドに手を振ったり、挨拶に駆け寄ってくる者もいる。ご近所の縁で、この辺りは大体、顔馴染みだ。
久しぶりだな、たまには長居して、ウチにも寄ってけよ!お前が隊長じゃと?小僧が立派になったもんじゃ……等々、次々と飛んでくる、親しみのこもった声に、笑顔で応じ、家で待っているであろう家族、母や兄弟の事を想い、ハロルドは家路を急ぐ。
かつての悪友やら幼馴染やら、旧交をあたためたいのは山々だったが、まずは変わらぬ家族の顔を、この目で見てからだ。
手紙はマメに送っていたものの、こうして実家に戻るのは、三ヶ月ぶりだった。
(元気かな?母さん、アーヴィン兄さん、ユーリアン、レイモンド、オリバー……)
ハロルドは男ばかり、五人兄弟の次男だった。
二つ年上の兄、十近くも歳の離れた下の弟、いまだやんちゃ盛りの末の双子たち。
男爵家とは名ばかりの末端貴族であり、父が若くして女神の御園に召されて以来、貧しい中にも、家族で力を合わせてきたという思いがあればこそ、兄弟の絆は強い。
長兄のアーヴィンは、生来、病弱で、雨がふれば風邪をひき、三日に一度は高熱を出し、半月に一度は生死の境を彷徨うような人で、肉体労働には向かぬが、その分、外に働きに出た次男坊の分まで、下の弟たちの面倒を見、まだ幼い彼らの父親代わりをしてくれている。
末の双子は、ようやく十を越えたばかりで、元気……という言葉では生ぬるいほどの、やんちゃ坊主どもである。
人懐っこく、体力が有り余っているのは良いのだが、一時たりとも大人しくしていないのは、手を焼く。とはいえ、大人すぎるのも、少々、心配の種ではあるのだが……。
(ユーリアンの奴、今日も部屋にこもって、勉強しているんだろうな……)
土産のつまった袋の中、角の立った書物の背を撫で、騎士は濃緑の双眸をやわく細めた。
アーヴィン兄さんに似たのか、三男のユーリアンは学者肌だ。大人しく、引っ込み思案で、よく兄の背に隠れている。母似の優しげな顔と相まって、よく近所の悪ガキどもに苛められているのを、庇ってやったものだ。真面目で、おっとりした性格ゆえに、自ら、やり返すなど思いにもよらぬらしい。
しかし、頭の出来という点では、兄弟の中でもっとも秀で、今は上の学校に通っている。将来は、試験を受けて、文官を目指しているそうだ。
優秀で、何より努力家な弟のことが、ハロルドは自慢だった。
頭が良いだけじゃなくて、虫も殺せないような、優しい子だ。
幼い頃、「兄ちゃ、兄ちゃ……」と舌ったらずな声で名を呼びながら、とてとてと、おぼつかない足取りで追いかけてきた、ユーリアン。
八年前、十五のハロルドが騎士になるべく家を出た時、つぶらな瞳に涙を一杯ためて、「元気でね、時々はユーリアン達のことを思い出して」と言った姿が健気で、抱き上げて、頬ずりをせずにはいられなかった。
そんなユーリアンも、もう十四歳になる。もう少しすれば、いっぱしの男の仲間入りだ。
昔日の思い出を瞼の裏に描いて、軽く口元を綻ばせると、ハロルドは歩調を速め……角を曲がった。
視界の先に、貴族の屋敷というには、あまりにも慎ましやかな、こじんまりとした一軒家が映る。
彼のエドウィン公爵家のように、立派な門はなく、広々とした庭園もない。だが、庭先はよく手入れをされており、母の手によるものだろう、柔らかな色合いの花々が咲き誇っていた。陽光きらめく緑、その中で控え目に咲く、小さな赤い花々……贅を尽くした豪華さよりも、心をこめたそれらは、ハロルドの琴線をふるわす。
そこが、彼の生まれ育った家だ。
たった三ヶ月ぶりだというのに、ほのかな郷愁を感じつつ、騎士がそちらに向かおうとした瞬間だった。
「「ハロルド兄さん―――――――――――――っ!!ハロルド兄さんだぁ――――――――――っ!!」」
大きな大きな声と共に、ハロルドの腹に鈍い衝撃が走った。
胸に飛び込んできた、二つの丸っこい塊を、とっさに受け止める。土産のパンパンな荷物が邪魔して、受け身さえ取れなかった。
ついでとばかりに、どんどん腹に頭突きをかまされ、さしもの騎士も、「ぐげぼぉ……!」とむせた。
「げほげほ……レイ、オリバー?」
咳き込みつつ、ハロルドが下を向くと、明るい胡桃色の二対の瞳と目が合った。
レイ、オリバーと呼ばれた幼い少年達は、声を揃え「うしし……」と屈託なく笑う。してやったり、と言わんばかりだ。
双子だけあって、その貌は瓜二つであり、赤褐色の髪は、ハロルドとの血の繋がりを感じさせた。
悪戯好きな末の双子の、相変わらずな行動に、兄たる青年は微苦笑を浮かべ、「危ないぞ、怪我したら、どうする」と苦言を口にする。とはいえ、よいしょ、と二人まとめて、抱き上げた状態では、迫力には乏しい。
レイとオリバーは、愛嬌たっぷりに、てへへ、と笑いながら、これ幸いと、兄の首に抱きついたり、その広い背中によじ登ったりしてくる。
まるで、子犬がじゃれているかのようだ。
「お帰りなさい、ハロルド兄さん」
「兄さんが帰って来るの、俺達、すっごく楽しみにしてたんだよ。遊んで、遊んでー」
満面の笑顔で、兄さん大好き!と甘えられれば、ハロルドとて強くは出れない。家族みんなから可愛がられている双子は、甘え方をよく心得ている。
躾に厳しい長兄とは異なり、偶に帰って来る次男は、良い遊び友達と認識されているらしく、帰って来るたびに、こんな歓迎を受けるのだった。
ぎゅうぎゅうと抱きついてくる双子は、心なしか、前に会った時よりも、背が伸びているようだ。
遊んでくれるまで、離さないとでも言いたげなレイとオリバーに、ハロルドは「わかった、わかった」と降参の意を示した。
「ちゃんと遊んでやるから、一端、おりろ。これじゃ、動けないだろう。荷物もあるし」
「「えー?」」
不満げな声を上げ、ぶーぶーと唇を尖らせた双子たちだったが、荷物をかかげた兄の「土産があるぞ」の一言に、ピタリ、と大人しくなった。現金なものだ。
ようやく、ハロルドが一息ついたところで、家の側から「ハロルド」と静かな声がかけられた。
「……帰ってきたのか」
ハロルドが声に反応し、くるりと首を声の方に向ける。
「アーヴィン兄さん」
騒がしくして、ごめんと詫びたハロルドに、アーヴィン、五人兄弟の長男である青年は、「構わんさ」と、ゆるり、首を横に振る。
まぎれもなく父母を同じくする兄弟であるのだが、その風貌はといえば、対照的だ。
長身痩躯、濃く入れた紅茶色の長髪を背で括り、涼やかな目元、薄い唇。
日に焼け、鍛えられた体躯、精悍なハロルドと比べると、その肌は陶器のように白い。むしろ、血色が悪く、青白い。
ペンより重いものを持ったことのなさそうな、繊細な風貌は、次男とは全く異なるが、ハロルドを見る、男の眼差しは優しく、穏やかだ。
瑞々しい新緑にも似た瞳が、やわく細められる。
おかえり。
「ただいま」
いつまでたっても、世話のかかる弟を見守るような、長兄の眼差しを、少し照れくさく思いつつも、やはり嬉しくて、ハロルドはくしゃりと破顔した。
じわり、と胸に広がる温かさと共に、家に帰ってきたのだと、実感する。
積もる話は山とあれど、まずは家族全員の顔を見てからだと、ハロルドは兄に「母さんと、ユーリアンは?」と、尋ねる。
アーヴィンはあぁ、と一拍おいて、顎に手をあてると、「家の中にいる。今、来るさ」と答えた。
その間を不思議に思いつつ、扉の方を見ていると、転げるように、小さな影が飛び出してくる。
ふわふわの薄茶の髪、まるで子リスのようにつぶらな瞳が、きらきらと輝いてきた。
少女のようにも見えるその人は、今にも転びそうな危うさで、ハロルドへと一目散に駆けてくる。が、途中で、小石につまずき、足をもつれさせた。
「……あっ!」
「母さん!」
ハロルドは慌てて、その華奢な身体を受け止めると、母さん、とそのふわふわの髪に埋もれた人に呼びかける。
「私ったら、なんてそそっかしいのかしら……ハロルド、ありがとう」
頬を上気させ、うるると瞳をうるませた、その女性は、アーヴィン辺りの姉でも通りそうだ。
ちょこまかとした動きが、小動物のように愛らしく、どこか少女めいた雰囲気を残した彼女は、実際のところ、五人の子供の母親だ。
もうすぐ四十になるというのに、二十代でも通りそうな童顔は、妖精を通り越し、謎ですらある。
母親の背中を支えてやり、ハロルドは「気をつけて」と、嘆息した。
「まったく……母さんは昔から、本当そそっかしいんだから、心臓に悪いよ」
「ごめんなさい、ハロルドが帰って来たのか嬉しくて、つい……」
しゅんと肩をすくめた母は、爪先立ちをし、ハロルドの頬に右手をあてると、「元気そうで、安心したわ」と、ふわり、柔らかく微笑む。
何もかも包み込むような、あたたかいそれ。
騎士隊長という地位にある青年も、母親にかかれば、ただの子供のひとりに過ぎない。
ずっと変わりないその微笑みに、息子もまたつられたように口元を緩め、「ただいま、母さん」と、その小さな身体を抱きしめた。
「あー、母さんばっかり、ズルいー」
「俺らも、俺らも」
ぎゅあぎゃあとハロルドの周りに、まとわりつく双子たちに苦笑し、アーヴィンが「立ち話もなんだ。そろそろ家の中に入ろう」と促した。
兄の言葉に頷きかけたハロルドだったが、ひとり、兄弟が姿を見せていないことを不思議に思い、首をかしげる。
「アーヴィン兄さん。ユーリアン、家の中にいるんだよな?また、部屋にこもって勉強してるの?」
喋りながら、二階を仰ぎ見れば、三男の部屋の窓はきっちりと閉め切られて、灰色のカーテンしか見えない。
――どうしたのだろう?
確かに、集中すると周りが見えなくなる癖はあるものの、一人でいたいという程、強い性格ではない。
いつも長兄の背に隠れるようにして、「おかえりなさい」と、はにかんでいるような子なのだ。
この反応の薄さは、もしや具合でも悪いのだろうか、と心配になる。
「いや……」
ハロルドの疑問に、アーヴィンはめずらしく歯切れ悪く応じると、微妙に視線を逸らした。
「ユーリアンなら、すぐに会えるだろう……お前には、酷な現実かもしれないが」
ぼそり、と付け足された一言を、ハロルドは聞き逃した。
「え、聞こえなかった。何?」
「何でもないよ」
意味深な兄の態度に、首を捻りつつも、ハロルドは久々にユーリアンに会うのが楽しみだった。
頭が良く、書物が好きで、いつも自分のあとをくっついてきた小さな弟。
なにかと要領の良い末の双子たちとは異なり、引っ込み思案で、泣き虫で、でも、家族思いの優しい子だった。
『ハロルド兄ーに……』
『お仕事がんばって、でも、怪我はしないように気をつけてね』
『ハロルド兄さんが立派な騎士になれるよう、毎日、女神さまにお祈りするから』
家を出る日、少年だったハロルドの手を握る、弟の手のひらは、さらに小さく、ふくふくと柔らかだった。声を詰まらせる、幼い弟の健気さに、決意が緩みそうになる。後ろで、レイを抱いた母とオリバーを背負った兄が、笑顔で見送ってくれなければ、その場に留まってしまっただろう。
振り返ると、真っ赤な顔をしたユーリアンが、小さな手を振ってくれていた。気をつけてね。怪我しないでね。元気で、ハロルド兄ちゃ……。
声が枯れるまで、何度も叫んで、姿が見えなくなるまで、ずっと、ずっと――。
「……はんっ」
家に入ろうとすると、扉の前に一人の少年が、腕組みをして立っていた。
その唇からもれるのは、辛辣な、皮肉めいた笑いだ。
「相変わらず、仲良し家族ごっこなんて、ゾワゾワする。虫唾がはしるね」
毒のある言い様に、長兄が眉根を寄せた。
ユーリアン、と低く名を呼ぶそれには、怒気が含まれている。
「いい加減にしろ、ユーリアン……ハロルドが、久々に帰って来たというのに、そのような口を利くな」
兄の忠告にも、少年は耳を貸さず、けっ……、と斜にかまえた態度で、そっぽを向いただけだった。
態度こそ、まったく異なれど、その少年の顔は、見覚えがあり過ぎる程にあるもので、というより、血の繋がった弟・ユーリアン以外の何者でもなく、ハロルドは呆然とする。
あいた口がふさがらないとは、このことだ。現実とは、思いたくない。
ユーリアンは引っ込み思案で、真面目で……少々、頼りなさを感じることもあったが、こんな変貌は望んでいなかった。
「……ゆ、ユーリアン?」
名を呼ぶ声は、ハロルド自身、情けないほどに動揺したものだ。
ユーリアンは顎をしゃくり、こちらを小馬鹿にするように、嘲笑った。
母によく似た優しげな面立ち、子供と少年の境にある身体は、いまだ線が細く、頼りない。
少し前まで、思わず庇護欲をかきたてられるような、可愛い子であったのだけど、見下すような目線や、皮肉気に歪んだ唇は、むしろ小憎たらしさが先に立つ。
興味なさげにハロルドを一瞥すると、ユーリアンはハッ、と再度、鼻を鳴らした。
「帰ってきたのかよ、馬鹿兄貴」
冷ややかにそう言うと、困惑気味に「ゆ、ユーリアンだよな?」などと、間の抜けたことを言うハロルドに、ユーリアンは馬鹿じゃないのか、と言いたげな目を向けた。
「……帰って来なくたって、良かったのに。どーせ、アンタの居場所なんてないんだからさ」
「ユーリアン、それ以上は許さんぞ」
アーヴィンの一喝に、ユーリアンはぺっ、と唾をはくと、どんどんと荒々しい足取りで、階段を駆け上がり、自分の部屋へと戻っていった。
「に、に、アーヴィン兄さん……」
かくかくとした動きで、ハロルドは長兄へと向き直り、今のは何だ、という疑問をぶつける。
今の可愛げのないガキは、一体、どこの誰だろうか。
自分の弟は、もっと大人しくて、可愛げのある性格だったはずだ。ほんの数ヶ月、会わなかっただけだというのに、この変貌ぶりはついていけない。同じ顔、同じ声をした別人ではないだろうか、いや、きっと、そうに違いない!
アーヴィンは、はぁ、とため息をこぼすと、ご愁傷様、という風に、ぽんぽん、とハロルドの肩を叩いた。
「三ヶ月くらい前から、あの調子だ。諦めて、現実を受け入れろ……ハロルド」
そんな――と、ハロルドは絶句する。
……相談です。しばらく家を留守にしていたら、弟が見事に、ひねた性格に変わっていました。自分は、どうするべきでしょうか?
正直に、告白しよう。
体力の有り余っている双子の遊び相手は、ある意味、騎士団の訓練よりもキツい。
なにせ、無駄に元気かつ、加減というものを知らないものだから、やりたい放題だ。
てんでバラバラの方角に走りだし、一瞬たりとも、じっとしていないレイとオリバーを追いかけたあげく、散々、弟たちの仕掛けた罠に翻弄され、最後には、遊び疲れて寝てしまった双子を抱えて、寝台へ連れて行くという義務を背負ったハロルドは、「つ、疲れた……」と、台所の机に突っ伏した。
騎士たる者、身体は鍛えているつもりだが、子供の遊びは遠慮も容赦も存在しない。おまけに、ハロルドの久々の帰宅にはしゃぎまくった双子たちは、いつもより更に元気いっぱいであり、付き合うにも骨が折れた。
抱きつかれるのも、飛びつかれるのも、一向に構わないのだが、小さな子供の頃とは異なり、双子の重みは腰にくる。
かくなるうえは、ハロルドが腰を痛める前に、レイとオリバーが手加減というものを覚えてくれることを、祈るばかりだ。
……まあ、結局は、無邪気に懐いてくる弟たちが、可愛くて仕方ないのだけども。
「お疲れさま。よく付き合ってくれたな。レイとオリバーは、もう寝たのか?」
ブランデー入りの紅茶を差し出しながら、アーヴィンが机に突っ伏したハロルドの横顔を、脇から覗き込む。
強い色味の赤髪を揺らしながら、ハロルドは、あー、うーと唸ると、のろのろと顔を上げた。
「さっき寝台に、運んできたよ。遊び疲れて、芝生の上で寝たもんだから……あの底なしの元気さ、うちの新人どもに分けてやりたいぐらいだ」
ボヤく弟に、アーヴィンは「それは、それは……」と相槌を打つ。
「悪いな、私が付き合ってやれればいいんだが、レイもオリバーも、私じゃ遊び相手にならんらしい……うっかり、死ぬかもしれんからな」
「あんまり洒落にならない冗談は、勘弁してくれ。アーヴィン兄さん」
サラリ、と真顔で冗談を口にする長兄に、ハロルドは呻いた。
小さい頃から、ありとあらゆる医者の世話になってきたアーヴィン兄さんが、あの双子にまともに付き合った日には、冗談抜きに昇天するかもしれない。
アーヴィンは物わかりよく、お前がそう言うならとうなずくと、肘をついて、あわく微笑した。
「お前が帰ってきてくれて、嬉しいよ。母さんも、レイもオリバーも喜んでいる……ユーリアンも、な」
「さっき、帰って来なくても良かったのに、なんて言われたばっかだけどな」
あの年頃の少年には、ありがちなことと思いつつも、どうやら本気でヘコんでいるらしいハロルドを、アーヴィンは笑って、「あんなのは、本気じゃないさ」となぐさめた。
「反抗期さ。お前にも、覚えがあるだろう?親も年上の兄弟も、何もかも疎ましい……扱い難いが、大人になるには必要な時間だ」
――ユーリアンの奴、なぜだが、お前には殊更に反発しているみたいだが、許してやってくれ。
兄の言い様に、ハロルドは兄のいれた絶品の紅茶をすすりながら、はーっと渋面になると、眉間をゆるめ、最初から、怒っちゃいないと首を横に振った。
「逆に、ホッとしたかもしれない。ユーリアンの奴、今まで反抗ひとつしたことがなかったから、アイツにもああいう面があったんだなー、と……アーヴィン兄さんが言うように、あれも必要な時間なんだろうな。けど……」
俺も、あんなんだったっけ?自分の少年時代を思い出し、少しばかり、やるせない気持ちになったハロルドの正面で、くくっ、とアーヴィンが喉を鳴らす。
ついで、続けられた言葉は優しく、だが、少々、寂しげな響きを宿していた。
「お前には、ああいう余裕を、与えてやれなかったからな。すまない事をしたとは、思っている……父さんが死んだばかりで、まだ子供だったお前にも、負担を強いた。家族の為に」
「アーヴィン兄さん……」
悔いるように言う兄に、ハロルドは瞠目する。
兄がそんな風に思っていたなんて、自分は想像すらしていなかった。いや、あの当時は、そんな余裕がなかった。父さんが亡くなって、あとに残されたのは、母と、五人の息子。年長のアーヴィンでも、十六にならなかったと思う。末の双子に至っては、まだ乳飲み子だった。
二十まで生きられぬと言われた、病弱な兄は赤子のレイを抱き上げて、幼いユーリアンの手を引いていた。オリバーを抱いた、ハロルドもそれに続く。今にも崩れそうな細い身体で、でも、兄の目線は、常に自分以外の家族に注がれていた。だから、その背中を見たハロルドは――。
なんだか、急に昔に戻ったような気がして、彼は首を微かに左右に振る。
「そんな風に思わないでくれよ。俺は、騎士であることに誇りを持ってるし、信頼できる部下も出来た。幸いだ……アーヴィン兄さんには、感謝してるよ。本当に」
ハロルドの目を見て、兄は「そうか……」と微かに目を伏せると、深く、深く、うなずいた。
そして、次の瞬間には「ところで、話は変わるがな……」と顔を上げる。
「疲れているところ、悪いが、お前、造花作りは得意だろう。内職、手伝ってくれ」
感傷的な雰囲気を、ものの見事にぶち壊し、アーヴィンはしれっとそう言った。切り替えの早い、否、早すぎる男なのである。
机の上に積み上げられた造花作りのセットに、ハロルドはげんなりした。
しかし、昔からの習慣で、兄の言葉にはそうそう逆らえない。
くるくると手際よく、偽物の薔薇を作りながら、弟はもくもくと作業する兄に、白い目を向けた。
「内職を手伝うのは構わないんだが、アーヴィン兄さん、また原稿に行き詰ってるとか?」
「五月蠅い。作業の効率が落ちるから、疑問はあとで受け付ける」
「……図星か」
鬼気迫る形相で、内職に励む兄を横目に、ハロルドの手は偽物の薔薇を生み出し続ける。
アーヴィンは、詩人である。
ただし、哀しいかな、さっぱり売れていない。
紳士淑女の、ロマンチックな恋愛をウリしている割に、時々、ケチ臭いというか、妙に所帯じみた表現が連発されるのが、主たる原因ではないかと思うのだが、それを指摘すると、口を利いてくれなくなるので、黙るより他にない。
結果、もくもくと手を動かしていたハロルドだったが、ふと、扉の影からこちらを見る少年の姿に気づく。
行ってこい、此方を見ぬまま、アーヴィンがそう言い、赤髪の青年は立ち上がった。
そうした途端、扉の影にいた少年――ユーリアンはダッ、と脱兎のごとく逃げ出す。
軋む階段を踏み外さぬように、注意を払いながら、ハロルドは二階に上がったところで、ユーリアンの襟首を掴まえた。
「何だよ、何か用?」
ユーリアンはきっ、と眉を吊り上げると、肩をいからせ、兄の手を振り払う。
バンッ、と乾いた音がしたが、ハロルドは怒鳴らなかった。
その兄の目を見たユーリアンはうつむいて、唇を引き結ぶと、きつく拳を握りしめる。
「お前の方こそ、何か俺に用があったんじゃないのか?ユーリアン」
「……ないよ。馬鹿兄貴に用なんて」
「そうか、俺はお前に、言ってやりたいことがあるんだが……」
ハロルドは低く、重みのある声音で言うと、左手を高く上げた。殴られる、と思ってか、ユーリアンがビクッと後ずさった。
少年の顔に、怯えがよぎる。
自分の言動が、度を越している自覚はある。上のふたりの兄は、叱りはしても、弟に手を上げることは、ただの一度としてなかった。どんなに怒らせても、ごめんなさい、と心から謝れば、いつだって許してくれた。でも、今回は。
痛いだろう。武官の兄にまともに殴られたら、自分など吹っ飛ぶかもしれない。
恐怖で身体を強張らせたユーリアンは、目をつぶる。が、ハロルドの手が、その頬を張ることはなかった。
「お前にだけ、土産を渡してなかったからな。本、好きだろう?」
拳をひらくように、手にのせられた重みに、ユーリアンは唖然とした。
少年の手に渡されたのは、彼が読みたいと欲していた、立派な装丁の書物だった。
十四の少年であっても、その価値はわかる。
こんなものを、兄はどこで……?
ユーリアンの疑問を察してか、ハロルドはコホンッ、といささか、照れくさそうに咳払いをする。
「俺は、こういうのが余り得意じゃないからな。ルーファス……友人とは言いたくないんだが、いや、しかし……まあ、とにかく、色んな意味で稀有な男だ。その男が、書庫の整理をしたから、いらんのはもってけ、と押し付け、否、譲ってくれたんだ……気に入らなかったか?」
自信なさげに尋ねてくる兄に、ユーリアンは本を胸に抱きこんだ。
――気に入らないなんてはずがない。むしろ、どうしても手が出なくて、ずっと欲しかった本だ。
本来ならば、自分は喜んで兄に礼を言い、兄の友人?とやらにも感謝するべきなのだろう。
それはわかっている。でも。
「こんな本、もらったって、何の意味もないよ!」
口は心とは正反対の事を叫び、ユーリアンは腕に本を抱えたまま、ハロルドに背を向けると、自分と双子の寝室に向かって、薄暗い廊下を走っていった。
「ユーリアン、待て……っ!」
「馬鹿兄貴、ついて来るなよ!」
弟の背に伸ばしかけたハロルドの手は、虚しく空を切った。
影が小さくなるのを見送りながら、彼はハーッとため息をついて、参った、というように、くしゃり、と赤毛を掻き上げた。
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