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帰郷 2


 翌朝。
 見慣れたカナリヤ色のカーテンから差し込む朝陽に、ハロルドはいまだ眠りの世界にひたるように、何度か瞼を瞬かせる。
 ふわぁ、と瞼を擦りながら、欠伸をひとつ。
 フン、と身を起こし、カーテンを半分ほど開け、窓の外の青空を眺めた後、騎士の制服を寝惚け眼で探しかけ、何もかかっていないハンガーに、ポン、と手を打つ。
 (ああ、そうだ。今は、実家だったんだ……)
 普段の習慣で、早起きしたものの、休暇中の今は、そう早く起きる必要もなかったのだ。
 慌てて着替えずとも、まだ毛布にくるまっていて良いという、ある意味、人生最大の至福を噛み締めながら、ハロルドは「よいせ」と毛布を引寄せると、もう少し寝ようと目をつぶった。
 こんな姿は、己の部隊の者たちには見せられないが、たまの休暇だ。多少、気を抜いたところで、罰はあたるまい。
 再び眠りにおちようとしたハロルドだったが、残念ながら、そう甘くはなかった。
 ばたばた、と騒々しい足音がし、バーン、と扉が開け放たれる。
「ハロルド兄さん、起きて、起きて――!!」
「朝だよー!いつまで寝てるのー?」
 部屋に飛び込んできたのは、レイモンドとオリバーの双子だった。
 少年たちは、ぎゃあぎゃあと騒ぎながら、何の遠慮もなく部屋に踏み入ると、カーテンを引き、窓を開け放つ。
 朝の少しひやりとした空気が、室内に流れ込んできて、ハロルドは「うう……」と呻くと、まだ出たくないというように、寝台の内側にもぐりこんだ。――昨晩、さんざん疲れ果てるまで、遊んだというのに、この元気は何なのだろう。頼むから、あと少しだけ、寝かせてくれ……。
 貝のように、寝台にもぐりこんだハロルドに、レイとオリバーは顔を見合わせる。
「ハロルド兄さーん?」
「朝食、もう出来てるよー。アーヴィン兄さんが、呼んで来いって」
 呼び掛けながら、ゆっさ、ゆっさと毛布の上から揺さぶるが、効果はない。
 しばらく、二番目の兄の寝顔を眺めていた双子だったが、やがて、閃いたとばかりに「せーの……」と声を合わせた。
 急に静かになった弟たちに、嫌な予感を覚えたハロルドは、「待っ、おい……」と慌てて、身を起こそうとするが、もはや後の祭りだった。
「「せーのぉ!起――――き―――て―――!」」
 腹の上に飛び乗ってきた双子に、ハロルドは「ぐげほ……!」と、潰れた蛙のような悲鳴を上げながら、その重みに押し潰された。
「レイ、オリバー!いい加減にしろ、本気で怒るぞ!」
 ぴくぴくと眉間をひきつらせたハロルドに、双子たちは「わー、兄さんが怒ったー!」「逃げるぞ、オリバー」などと声を上げながら、二段飛ばしで階段を駆け下り、一階へと逃げてゆく。
「待て、この悪ガキども!」
 ハロルドの声と足音が、それに続いた。

 ひどく騒がしいその光景を、さっぱり興味がないフリで、一瞥すらせず、実際のところは聞き耳を立てていたユーリアンは、はらり、本の頁をめくった。
 昨日、土産として渡された書物、それは、とても興味深い内容であったのだけど、今の彼の頭には入らず、文字は目にする傍からすり抜けていく。
 集中力には自信があったのだけど、それがぽっかりと抜け落ちたようだった。
「アイツら、馬鹿じゃないの……朝っぱらから、ぎゃあぎゅあ騒いでさぁ」
 口から出るのは、自分でも聞き苦しいと思う、家族への愚痴だ。
 馬鹿じゃないの、ともう一度、悪態をつきかけて、仲睦まじいハロルドと双子たちの様子を想い、ひどく虚しくなる。
 本当は、わかっている。馬鹿なのも、意地を張っているのも自分だと。
 きっと、ただ羨ましいだけなのだ。ガキっぽい、嫉妬心。何も考えず、ただ素直に兄に甘えられる、双子の弟たちが、唯、うらやましいのだ。
 そんな年齢でもないのに、と自嘲せずにはいられない。四つも下の弟たちを相手に、何を考えているんだか……。
「ほんと馬鹿だな、俺……」
 椅子に片膝を立て、ユーリアンは背を丸める。
 だらん、本を持った左手が垂れさがった。
 あれほど焦がれていた書物さえも、今の彼にとっては重石でしかない。
 ――本当は、知っていた。自分を上の学校に行かせるために、長兄や次兄がどれほどの犠牲を払い、無理をしているか。それが、どれ程、皆の負担になっているか。家族六人、慎ましやかに暮らすだけなら、そんな必要は何処にもなかったのだ。
「何をしたいんだろ……」
 膝に爪を立てる、階下から聞こえる兄弟たちの声に、ユーリアンの胸は鈍く痛んだ。


 午前中、庭の雑草抜きやら、母の家事を手伝うと、ハロルドは散歩に出ることにした。
 早く早く、と両側から、繋いだ手を引くレイとオリバーに「はいはい」と相槌を打ちながら、ハロルドはさりげなく後ろを向くと、一定の距離を取ってついてくる、少年の姿に目を細めた。
 本を小脇に抱えたユーリアンは、むすっとした渋面で、時折、小石を蹴りながら、その実、こちらから離れようとはしない。
 家に居辛いから、外に出てきたのだろう。
 昨晩のことを、気まずく思ってか、頑なに自分の目を合わせようとしない弟に、ハロルドは「やれやれ」と肩をすくめた。
 兄の姿を見た双子たちが、「ユーリアン兄さんも、こっちおいでよー」「そんな変に距離とらなくてもさぁ」と呼びかけるが、ユーリアンはふん、とそっぽを向いて、「言っとくけど、たまたま俺の行く場所が、同じ方角なだけだ。勘違いするなよ」などと、妙な意地を張る。
 右手をレイ、左手をオリバーに預けながら、ハロルドは、こいつは昔から、こうだったな……と、何処か懐かしくさえ思う。
 (ユーリアンの奴、昔っから、こうなんだよな……普段、素直なくせに、妙なところで意地を張って、あげく引っ込みがつかなくなるんだ。変わったけど、根は変わってない)
 ごめん、の一言が、どうしても出てこなくて、よくアーヴィン兄さんの背中に張り付いていた。
 唇をぎゅ、と閉ざして、こちらに睨むばかりの目を向けていた、幼いユーリアンの横顔が、今の少年の姿と重なる。
「よっ。元気そうだな」
「おや、ハロルドじゃないか……こっち帰ってきたら、真っ先にウチに顔を出せって言ってるのに、水臭いね」
「そんなのより、ウチの店に寄ってけよ。久しぶりだ、サービスしてやる」
 双子と手を繋いだハロルドの姿は目立つのか、ご近所のひとびとが、我も我もと話しかけてくる。
 犬の散歩をする老人から、雑貨店のマダム、隣人の小さなお嬢さんに至るまで、皆、面倒見の良いハロルドを慕って、話しかけてくる。
 老若男女を問わず、ご近所の人気者であるらしい兄の姿に、ユーリアンは複雑そうな表情で、正面から目を逸らし、唇を噛んだ。
「ハロルドじゃないかい、帰ってきてたんだね」
 ユーリアンの視線の先、そう次兄に声をかけてきたのは、白の混じった金髪を、頭上でお団子にし、薄紫のショールを巻いた老婦人だった。
 斜め向かいの家に、独りで住む未亡人だ。
 悪い人ではなく、根は善良で親切なのだが、ズケズケと遠慮なくものを言う性格で、ユーリアンは苦手にしている。
 老婦人は、何やら、ハロルドに頼み事をしているところだった。
「うちの扉が上手く閉まらなくてね、修理してくれるかい?」
 その言い様に、ユーリアンは不快そうに顔を歪めた。
 修理したいなら、大工を呼べばいいじゃないか。わざわざ休暇中の兄に頼むようことかと、心中で毒づく。
 しかし、彼の気持ちに反して、ハロルドは「わかった。とりあえず、修理できそうか見てみるよ」と、二つ返事で引き受ける。
 笑顔でうなずいた兄に、老婦人は「助かるよ」と、ホッとしたように安堵の笑みを浮かべた。
 (下らない。そうやって、すぐ安請け合いするから、お人好しって言われんだよ)
 どんどん機嫌を降下させるユーリアンにも気づかず、ハロルドはさっさと双子をひきつれて、老婦人の家へと歩いて行った。
 扉を修理し、老人には酷な薪割りをしたところで、話は終わらなかった。
 噂を聞きつけた、近所のひとびとが器用なハロルドをあてにして、自分も自分もと列をなす。
 男手が必要な場所に駆り出されたり、自警団の青年の相談に乗ったり、ふと気が付けば、日がどっぷりと暮れていた。
 小川の水面を、すぐ横の道を、夕陽が照らしだし、手を繋いだ、大きな影と小さな影、数歩、離れて歩く影を映しだす。
 さわさわと小川のさざめきを聞きながら、ユーリアンは前を行く兄の背を、じっと睨らんでいた。
 そんな弟の目線に気づいてか、深緑の瞳が迷うように揺れ、唇からため息がもれた。
「レイ、オリバー、ちょっと先に行ってろ。すぐに追いつく」
「えー、何で?」
「説明してよ、ハロルド兄さん」
「いいから、今回は黙って言うことをきいてくれ。頼む」
 ハロルドの言い分に、双子は不満を募らせたものの、先程から、にこりともしないユーリアンの様子に、何か不穏なものを察してか、結局は、大人しく従った。
 チラチラ、とこちらに視線を送りつつも、道の先へと駆けていく双子たちの背中を、夕陽にとけゆくそれを見送り、ハロルドは足を止めた。
 振り返り、ユーリアンの顔を正面から見つめると、「何か、言いたいことがありそうな顔をしてるな。ユーリアン」と、問う。
 母似の優しげな顔が、無理して悪ぶろうとするように、きつく歪められる。
 眉を寄せ、ユーリアンは吐き捨てた。
「せっかくの休暇だっていうのに、さんざん良い様に利用されて、頭悪いんじゃないの。修理だ、薪割りだ、アイツら、ハロルド兄さんのことを、態のいい便利屋ぐらいにしか思ってないよ」
「……」
「そんなに、良い人に見られたいの?とんだ偽善者だね……俺、兄さんみたいにはなりたくない」
「ユーリアン……」
 兄のことが憎いわけも、嫌いなわけでもない。
 でも、口から出てくるそれは止まらなくて、ユーリアンは毒を吐き続ける。
「あの人だって、扉の修理なんて、わざわざ頼まなくてもいいのに……図々しい、だから、俺、あのお婆さん嫌いなんだ」
「――ユーリアンっ!」
 騎士、武官の兄に本気で怒鳴られて、その迫力に、ユーリアンは半歩、後ずさる。一瞬、ハロルドの顔によぎったのは、本気の軽蔑の色で、ユーリアンはうろたえた。今まで、そんな目を向けられたことは、ただの一度もなかったから。
 冷ややかなそれに、心臓をわしづかみにされたようだ。
「あ……ハロルド兄さん……」
 今の毒のある言葉が、兄の逆鱗に触れたことはわかる。でも、どうすればいいのか、わからない。
 ふぅ、と耳元でしたため息は、どこまでも苦かった。
「俺のことを、悪く言うのは構わない。それで、お前の気が済むならな……けど、関係もない人に八つ当たりをするのは、止めろ。みっともない、ガキの我がままなんぞに、付き合ってられるか」
 八つ当たりと断言されて、ユーリアンはカッ、と頬を赤らめる。
 悔しいが、図星だった。
 赤い顔で黙り込んだ弟に、ハロルドは強張っていた顔を緩めると、幾分、穏やかな口調で、諭すように続ける。
「図々しい、というけどな、お前は覚えてないだろうけど、親父殿が死んだ時、あのご婦人が随分と、お前たちの面倒を見てくれたんだよ……知らなかっただろう?」
「それは……」
「他の人たちだって、そうだ。アーヴィン兄さんが寝込んだ時、よく効く野草を譲ってくれたり、お前が上の学校に行く時、口添えしてくれたり……お前も、俺も、俺たち家族も、色んな人に支えてもらっているんだ」
 皆、子供のお前に気を遣わせないように、黙っていただけなんだよ、と告げられて、ユーリアンは己の過信から来た羞恥心に、居たたまれなくなる。
 恥かしくて、顔を上げる気になれない。
 なんで、信じ切っていたのだろう。己の目で見たものが全てだと。母も長兄も弟たちも、ハロルド兄さんも、その目線で、態度で、多くの事を教えようとしてくれていたというのに。
 目を背けたのも、意地を張り続けたのも、ユーリアン自身だ。
 言い訳ばかりして、周りのあたたかさから、逃げようとしてた。――弱虫。一番の馬鹿は、自分だった。
「……」
「なあ、ユーリアン」
 ハロルドは身をかがめ、自分よりも明るい緑の、ユーリアンの瞳を覗き込む。
 後悔と、意地と。
 弟の表情から全てを察しながら、ハロルドは「もう、無理しなくていい」と言う。
「もういいだろ、ユーリアン。お前が本当は、優しくて、他人を悪くなんて言いたくない奴だって、俺はよく知ってる……だから、そんな風に、心にもないことを、言わなくてもいいんだ」
 何もかも正面から受け止め、許すかのような次兄の器の大きさに、ユーリアンはカッとなり、手にした本を振り上げた。
 ほんとうは、この本をくれた兄の気持ちが、凄く凄く嬉しかった。でも。
「そんな風に、許すなよ……!これ以上、兄さん達に負担をかけるなんて、耐え切れないんだよ……!」
「ユーリアン、お前……」
「文官なんて、なれるかどうかわからないのにさ。何で、兄さん達は、俺の為にここまでしてくれるの……!」
 母も、長兄も次兄も、そんなことを一言も漏らさなかったけど、ユーリアンは知っていた。
 自分が上の学校に進まなければきっと、ふたりの兄さん達が、今のように苦労することはなかった。弟たちにも、もっと菓子やら玩具やらを、買ってやれたはずだ。
 懸命に努力を重ねたところで、王宮勤めの役人になるのは、狭き門だ。
 なれるかどうかだって、今の時点では全く分からない。なのに、アーヴィン兄さんも、ハロルド兄さんも、お前の好きなようにと、自由にさせてくれる。
 それは、とても幸せで、同じ位、心が痛むことだった。
「止めようよ、もう……!俺が文官になれなかったら、全部、無駄足じゃない。馬鹿みたいだよ」
 書物を抱え、こんな本いらない、と叫ぶ、ユーリアンの声は、足は震えていた。
 みっともない、などと思う余裕すらなく、その手から、書物が放り出され、小川へと落ちていく。――ああ。
 ユーリアンは、天を仰いだ。これで終わりなのだと、そう思いながら。
 水に浸かった書物は、駄目になる。次兄と自分の絆も。
 少年の手から、本が放り出されるのと同時に、隣の青年が動いた。燃えるような赤毛が、なんの躊躇いもなく、川に飛び込む。
 バチャン、と大きな水しぶきが上がり、波紋が広がった。
「え……」
 その手に書物を抱き止め、その代わり、膝まで水に浸かりながら、水の冷たさにぶるりと身を震わせ、ハロルドは「へーっくしゅん!!」と、鼻をすする。
 ぶんぶんと頭を振ると、髪についた水滴を振り払い、「喜べ、本は無事だぞ」と破顔する。
 そんな兄の笑顔に、ユーリアンは胸がつまった。何で。
「何で、そんなにまでしてくれるのさ。僕にそんな価値ないよ、ハロルド兄さん」
 水、つめた……などと言いながら、ずぶ濡れになった身体を、陸に押し上げていたハロルドは、きょとんと首をかしげ、何で、って言われてもなぁ、と頬をかく。
「――お前が、俺の大切な弟だから。それ以外の理由なんて、必要ないだろ」
「……っ。そんなの理由にならな……!」
「ユーリアン」
 優しく、穏やかな声で名を呼ばれて、少年は何も言えなくなる。
 恐る恐る、顔を上げると、穏やかな深緑と目が合った。
 兄の目は、見守る目だった。今日も、ずっと前から、ユーリアンはこの次兄にも守られていたのだ。
「きっと、お前が思っているよりも、俺はお前のことが好きだし、そして、信じているよ。――ユーリアン」
 立ち尽くした少年の喉から、嗚咽が漏れた。
 ……ごめんなさい、ごめんなさい、ハロルド兄さん。
 そう言った弟の声は、ひどく小さくて、でも、きっと伝わった。


 夜中、寝ている弟たちを起こさぬよう、足音をひそめるようにして、ハロルドは寝室へと入る。
 すうすう、と安らかな寝息が聞こえた。
 寝相が悪く、寝台からずり落ちそうになっているオリバーの身体を、そっと引き上げた。むにゃむにゃ、寝惚けて背中を蹴られそうになり、おっと、と避ける。
 双子たちの横の寝台では、ユーリアンがこちらに背を向けて、丸くなっていた。もう、眠っているようだ。
 色々あって、疲れたのだろう。
 その寝顔が、苦しげでないことに、安心しつつ、ハロルドはその栗色の髪に手を伸ばす。
 武骨な次兄の手が、頭を撫でると、ユーリアンは微かに身じろいだものの、目を開けることはなかった。
 ハロルドはいとしむように目を細め、ふ、と口元を緩める。
「……おやすみ」
 寝たふりのユーリアンは、こっそり薄目を開けると、兄の手が扉を閉める音を聞いた。

 
 台所に行くと、ペンを片手に唸っていたアーヴィンが、「聞いたぞ、濡れ鼠になったんだって」と、小さく微笑う。
 ハロルドは、この兄には叶わないという風にうなずくと、「へーっくしゅん!!」と、再び、大きなクシャミをする。
 そんな弟に、アーヴィンはくくっ、と喉を鳴らすと、用意しておいたホットミルクを渡す。
「ありがと。兄さん」
「ん」
 隠し味にジンジャーを入れた、どこかやさしく、懐かしい風味のするそれを味わいながら、ハロルドは「……懐かしいな」と目を和ませる。
「昔、風邪の時とかさ、母さんがよく作ってくれたっけ……いや、親父も一度だけあったか」
 そうだったか、と片眉を上げた長兄に、ハロルドはあったよ、とうなずく。
「ほら、ガキの頃、つまんない事で喧嘩してさ。お互い口も利かなかったことが、あっただろ。あの時だよ」
 病弱で、いつも青白い顔をした長兄は、されど、口は達者な人で、喧嘩をすると、ハロルドは常に惨敗だった。
 身体が弱い兄に、手を上げるわけにはいかず、けれども、流せるほどに大人ではなくて、赤髪の幼い少年は、膝を抱えて拗ねていた。
 そんな彼に、寡黙だった父は、無言でホットミルクを作り、その大きな手で頭を撫でてくれた。
 むくれながら、すすったそれは、甘くて、ちょっと苦くて……父の手は、あたたかかった。
「父さんと、同じ味だ」
 どこか嬉しそうに言うハロルドに、アーヴィンは、そうか、と静かに笑っただけだった。
「話は、変わるがな……お前が、ユーリアンにやった、あの本の事だけど」
 走らせていたペンを休め、そう切り出した兄に、ハロルドは首をかしげる。
「うん?」
「お前も気がついているだろうが、あれは、そう簡単に手に入るようなものじゃないぞ。友人からだと聞いたが……よくよく礼を言っておくんだな」
 兄の言葉に、ハロルドは「あー」と唸り、前髪を掻き上げる。
 正論だが、素直にうなずけないのは、何故だろうか。
 脳裏に、秀麗な美貌の青年が浮かぶ。まともに礼を伝えたところで、あの男の事だ。ふん、と冷ややかに嗤うぐらいが、関の山に違いない。
「捨てるから、もっていけ。俺は十年位前に読んだから、もういらない。書庫の整理が出来て、せいせいした……とか、フザケタことを抜かしてたけど」
 その時の言動を思い出し、ハロルドは頬を引きつらせる。
 自然、口調も皮肉めいたものになる。
 ――ルーファスという奴は、とことん素直じゃない。ユーリアンのような少年ならば、まだ可愛げがあろうが、自分よりもガタイの良い男では、可愛げも何もあったものじゃない。
 本を差し出しながら、肘掛け椅子で、無造作に長い足を組む姿すらも絵になるのが、むかっ腹が立つというものだ。
 その時のやりとりを思い起こし、何とも渋い顔をする弟に、アーヴィンは微笑し、
「良い友をもったな」
と、言った。
 何もかも見通したようなそれに、ハロルドもこの兄には敵わない、と唇に淡い笑みをはく。
「あら、アーヴィンもハロルドも、こんな所にいたの?」
 高い声がした。
 ふわふわの髪が踊って、子リスめいた、小柄な女性が台所に入ってくる。
 おっとりと、どこか少女めいた空気をまとわせた、その人は、談笑する上ふたりの息子たちの顔を見て、ふわり唇をほころばせた。
「母さん……」
 立ち上がり、椅子を譲ろうとしたハロルドに、小さく首を振り、息子たちに背を向けた母は、かちゃかちゃ、と食器を拭いて、茶葉のつまった缶を開けた。
 そんな母親の後ろ姿を見ながら、子供のように行儀悪く、こてんと机に頬をつけたハロルドは、「なー、母さん」と呼びかける。
「俺たち兄弟を育てるの、大変だったでしょ?」
 騒がしいし、喧嘩ばかりだし、と続けたハロルドに、振り返った母親は、「どうして、そんなことを言うの」と、おっとりと鷹揚に笑う。
 父が亡くなってから、女手ひとつで子育てをし、それなりの苦労を重ねてきたというのに、その微笑みに陰りは見えなかった。
 嫌になることも、辛いと思うこともあっただろうに、母は何の憂いもなく微笑んでみせる。
 息子たちの長所も短所も、受け入れて、包み込んで、見守って――少女めいたあどけなさを残す、この人はやはり、自分たち兄弟の母親なのだと、ハロルドは息を吐いた。
「アーヴィンも、ユーリアンも、レイモンドもオリバーも、皆、良い子で、母さんは幸せよ。勿論、貴方もね、ハロルド」
 おっとりとした、母親の声を背に聞きながら、ハロルドは睡魔に引きこまれるように目を閉じる。
 夢うつつの中、おやすみ、という兄の声を聞いた気がした……。


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