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若木の時代(1)


 少年時代を回顧し、あれは若木の時代であったと、アレンは思う。
 しなやかで、傷つきやすく、されど、青々しく、天に向かって伸びゆく、生命力に溢れた枝。
 蒼灰の瞳を細めれば、今も鮮やかに浮かび上がる。脆くも、輝かしい、若木の頃、あの男と出逢えたのは、至上の幸運であったと、王太子は思うのだ。

 
 アレンの母である王妃が亡くなったのは、彼が立太子の儀に立つ直前、十の誕生日を迎える前だった。
 母、アンネローゼは、息子の目から見ても、聡明な人であった。
 ふくよかで、しなやかな体つきは母性に溢れ、金髪は輝くよう、その声は穏やかなれど、犯し難い威厳を供えていた。愛情深く、国と国民に事を我が子のように、慈しんでいた。
 何より、夫である国王を献身的に愛し、影となり日向となり支えていた。優しいが、意志薄弱な夫を支える母の姿は、伴侶というより、母親か姉のようであったけれど。
 従兄弟でもあった父の、繊細な部分をも理解し、息子であるアレンの目から見ても、仲睦まじい夫婦であったと思う。
 病に倒れ、先は長くないと悟った母は、寝室にアレンを呼び寄せ、強く生きるように諭したものだ。

「ははうえ、お加減はいかがですか?」
 幼少の頃、近習に手を引かれて、母の見舞いに訪れたアレンはいてもたってもいられず、天蓋のおりた寝台へと駆け寄る。
 一刻も早く、母の声を聞きたくて、母の顔を見て安心したくて、その柔らかな腕に抱きしめてもらいたかった。
「……アレン。会いに来てくれたのね」
 ややかすれた声がして、息子とよく似た面立ちの、妙齢の女性が、天幕の内から顔を出す。
 王妃に相応しい、煌びやかで気品あるドレスは、病人らしい絹の寝衣へと変わり、侍女の手によって結い上げられていた、光を集める蜜の髪は、常と異なり、ゆるやかに背に流されていた。
 侍医の許しを経て、久しぶりに対面できた母は、やや面やつれしていて、それでも、湖面の色の瞳は、記憶と同じ、穏やかで優しい色をしている。
 こちらへおいでなさい。
 母の手に導かれるまま、アレンがそろそろと寝台に歩み寄ると、そっと胸のうちに抱きしめられる。
 細くなった腕が、以前より儚さを増した母の身体が、病が命を縮めていることを感じさせて、苦しくなった。母の胸にやさしく抱き留められて、目をつぶったアレンは、トクトクと刻む鼓動に耳を傾ける。――命の音がした。
 しばらく、そうしていると、母が「アレン」と、彼の名を呼ぶ。
「わたくしが居なくなったなら、どうか……陛下を、父様を守って差し上げてね。本来ならば、幼い貴方に頼むことではないのだけれど、陛下の周りにおられるご婦人方には、お引き受けいただけなそうだから」
 陛下はお優しいけど、少し御心の弱いところが、おありだから、と少し寂しげに微笑した母は、父を深く愛しつつも、自分が居なくなった後のことを、予期していたのだろう。聡い人だった。友であるルーファスと同じく、その聡さが、時に哀しみに繋がるほどに。
「母上、そんなことを仰らないでください。母上が居なくなられたら、父上が悲しみます。僕も、乳母のアマリエも、侍女のリリーも、みんなみんな寂しいし、泣いてしまいます。だから……どうか、養生なさって、お元気になってください。ははうえ」
 胸の奥から、こみ上げてくるものを堪えながら、アレンは痩せた母の手を、ぎゅっと握りしめる。柔らかく、春の陽だまりのような優しさで、自分や父を包み込んでくれる母上……そのぬくもりが失われてしまうなんて、考えたくもなかった。
 いじましく、必死に言い募った息子に、母、アンネローゼは目を細め、ありがとう、と囁くような声音で言った。アレン、貴方は優しい子ね。
 刻一刻と迫る、命の刻限を悟りながらも、母は毅然とした態度を崩そうとはしなかった。それは、息子である彼にも同様で、最期の最期まで、気品ある王妃であった人であった。
 息子を抱きしめて、アンネローゼは病を感じさせぬ、凛とした声で、言い聞かせた。
「よくお聞きなさい、わたくしの愛しい子……宮廷は力なき者に、優しくはありません。わたくしが儚くなった時には、お前の周りは、おそらく敵ばかりになることでしょう。老人も若者も、次の国王である貴方にすり寄り、益を得ようという者は少なくありません」
 なればこそ、と母は続けた。
「甘言を囁く者を、誰をも疑いなさい。同時に、貴方の思う真実を、何よりも信じ、決して裏切ってはなりません……富と偽りに塗り込められた世界にも、信じるに値するものは、必ずあります。貴方はわたくしの誇り、そして、愛した陛下の子、そのことを忘れないで」
「母上……」
 王妃は息子の頬に両手を添えると、ふわり、やわく微笑んだ。
 母を喪い、ひとり過酷な宮廷で生き抜かねばならぬであろう息子に、母は厳しかった。同時に、優しかった。
「友を作りなさい。アレン……誰よりも信頼できる、友を。優しいばかりでは駄目、貴方の弱さをも、目を背けずにいてくれる。それこそ、真実の友人というものです」
 愛する母の遺言とも言うべきそれは、深く深く、アレンの胸に刻まれることとなった。
 それから、三月も経たぬうちに、幼いアレンを残して、母は帰らぬ人となる。


 葬儀は母の人柄を偲ぶような、厳かでしめやかなものだった。
 王妃の喪が開け、母を亡くしたアレンが宮廷へと戻ると、大臣や近習の者たちの自分を見る目が、以前とは微妙に異なることに気付いた。
 母が生きていた頃、王子を敬いつつも、親身に接してくれたはずの者たちが、どこかよそよそしい。 こちらから話しかければ、丁寧に応じるものの、その差は歴然としていた。
 彼らの視線は今や、アレンでも、最愛の伴侶を亡くし、深い悲しみに暮れる国王でもなく、宰相ラザールへと向けられていた。
 妻の死に伴い、政務への気力を無くした王に代わり、勢力を伸ばしたのは、常に口元に温和な微笑をたたえた老人であった。
 一見、穏やかな好々爺にしか見えぬラザールであったが、権力を握るなり、その風貌に似合わぬ冷徹さで、己に逆らう者を厳粛していった。 同時に、弱った国王に寄り添い、言葉巧みに、その心を掌握していったのである。
 宮廷人たちは権勢の移り変わりに敏感で、そんな王の心変わりを、肌で感じ取ったのだろう。
 それまで、母を亡くした幼い王子を慰めんと、言葉を尽くしていた近習が、同じ口で、亡き王妃の悪口を舌にのせる。
 ひそひそ。囁く声が、悪夢のようだった。
 ――そういうことなんだ。
 生前、母の遺した言葉の意味を察し、 アレンは虚しさのあまり、目を伏せた。
 わたくしが死ねば、貴方の周りは敵ばかりになることでしょう。
 多くの近しい者たちが離れ、その代わり、言葉巧みに、王の子を利用しようという者たちが群がってくるはずです。疑いなさい、心の底より疑いなさい。そうして……
 ――ええ、母上のおっしゃっていたことは、全部、正しかったのです。僕の周りには、誰もいなくなりました。
 正統なる王の嫡子でありながら、アレンは孤独であった。
 父を頼ろうにも、母を亡くしてからというもの、国王は抜け殻のような有り様で、政務もおぼつかぬ。
 我が物顔で、王の代理人のように振る舞う、宰相ラザールに、幼子のように甘え、頼りきりなのだ。息子が父に会いたがったところで、宰相の側近たちに、すげなく追い払われるのが、目に見えていた。
 ――母上が、母上さえ生きていてくださったならば、父上だって、あんなことには……!
 悔やんでも仕方ないことながら、幼い王子はぐっ、と唇を噛んで耐えた。
 アレンは宮廷人たちの輪から、そっと静かに離れると、とぼとぼと、重い足取りで城の中をさまよい歩く。目的など、何もない。ただ、一刻も早く、その場から離れたかった。
 後宮、大理石の回廊を歩いていると、柱の影から、子供がすすり泣くような声が、聞こえる。
 かあさま。かあさま。
 母を乞うそれは、泣きじゃくるような、寂しさを帯びていた。
「誰だ……?」
 訝しさを覚えたアレンは、眉を寄せ、柱の陰へと歩み寄る。
 彼の蒼灰の双眸に映ったのは、きらびやかなドレスを纏うた貴婦人と、その足元にすがりついて、ぐずぐずと愚図る幼子の姿だった。
「かあさま、かあさま、いっちゃいや……さびしいの、そばにいて……」
 裾の広がった幼児服を、重たげに引きずりながら、幼い男の子は、目を赤くしながら、貴婦人の膝元にすがりついた。
 薄茶の髪に、砂色の瞳、優しげで、女の子のような顔には、見覚えがある。
 父の、国王の側室の子、アレンにとっては異母弟にあたる、セシルだ。
 生母が異なるが故、あまり接点はないが、確か、当年、4つか五つ、かそこらであっただろうか。
 ふわりとまろやかな頬を、赤くして、金糸銀糸の刺繍がなされた、ドレスの裾を摘まむ仕草も、いとけない。
「良い子だから、裾をお離しなさい。セシル……母さまは、忙しいのよ」
 愚図る息子をなだめる母の横顔にも、覚えがある。
 宰相ラザールの娘、国王の側室である人だ。
 華やかな目鼻立ち、ややつり上がった目元と、濃い化粧がきつい印象を与えるが、泣き黒子にえもいわれぬ色気があり、かなりの美女である。
 流行りのドレスを着て、大粒の孔雀石の首飾りを身につけた彼の人の顔色は、されど、華やいだ装いとは裏腹に、冴えなかった。
 綺麗に塗った爪を噛み、苛々と、離れたくない、と愚図る息子にうんざりとしているのが、傍目にも明らかだ。
 己のドレスを掴んだ息子の指先を、無理やり引き剥がすと、セシルの母は冷ややかに言った。
「あまり、手間を取らせないでちょうだい。もう行くわ……リト、後は任せたわよ」
 パンパンッと手を叩き、乳母を呼びつけると、セシルの母は泣きじゃくる幼子を、床に置いて、さっさと歩き去ってしまう。
 ――そんなに、社交界の遊びが大事かと、アレンは苦い気持ちになった。
 宰相の娘の金遣いの荒さと、放蕩ぶりは有名で、国王の側室となり、息子を設けてからも、その振る舞いは、改まるということを知らなかった。
 かあさま。かあさま。哀切な声は響けど、ドレスの裾を引きずる背姿は、遠ざかるばかりで、息子を顧みることはない。
 ぐずぐず。顔を涙と鼻水でべたべたにしながら、なおも、愛情薄い母を求めるセシルの姿が哀れで、アレンはつい、柱の後ろから進み出ると、異母弟の名を呼ぶ。
「……セシル」
「だぁれ……?」
 アレンの声に、声を震わせ、目にいっぱい涙をためたセシルが、振り返った。
 そのいとけない表情を見た時、胸の奥から、何とも表現しようのない感情が沸き上がって、アレンは切ないような、泣きたいような気持ちにかられた。
 少年は怖がらせないように、ゆっくりと異母弟に近寄ると、そぉ……と手を伸ばし、その小さな身体を抱き上げる。
 抱き上げた弟の身体は、十を数えたばかりのアレンには重かったけれど、そのぬくもりに、欠けていた何かが、じわりと満たされていく。
 ようやく泣き止んだ 異母弟に、アレンは笑いかけ、優しい声で言った。
「僕は、アレン。お前の兄だよ……セシル」
 兄。
 そう口にしてみれば、不思議な程にしっくりと、それは少年の胸に馴染んだ。
 指の腹で涙をぬぐうと、幼子はふるり、と頭を振った。
 ――守らなければ、この力なく、されど、愛しい存在を。
 誰に言われるでもなく、アレン自身が、そう誓った。
 セシルは、己と同じだ。
 王の子という立場に生まれながら、母には愛されず、必要とされていない。
 庇護者だった母を失い、孤独になったアレンが、同じく孤独を抱える異母弟に、心を寄せたのは、自然なことであっただろう。
 しかし、ようやく見つけた存在を引き剥がすように、セシルの乳母リトが渋面を浮かべ、異母兄弟の間に割り込んでくる。
「セシル殿下……こんな所にいらっしゃったのですか?ご心配しました。まあ!アレン殿下にまで、ご 迷惑をおかけして、何たることでしょう!」
 アレンの腕に抱かれたセシルを目にするなり、乳母はきいきいと金切り声を上げ、セシルが愚図るのもきかず、強引にその身体を奪い取った。
 あからさまに不機嫌な乳母に、抱かれたセシルは、怯えていた。
 それを見かねたアレンが、何か言おうとしたのだが、乳母は聞く耳を持たない。
 非礼ともいうべき強引さで、セシルを抱いた乳母は、足早に立ち去る。
 宰相の娘付きである乳母は、亡き王妃の息子であるアレンに、あまり、良い感情を抱いてはいないのだ。
「さぁ、セシル殿下。お部屋に戻りましょう」
 アレンは伸ばしかけた手をおろし、黙って、乳母の背中を見送った。砂色の曇りない瞳が、彼を映している。
 小さな手のひらが、兄に向かって伸ばされたが、それが繋がることはない。
「……」
 立ち尽くす少年の後ろに、スッと立つ、大柄な影があった。
「今はお辛いでしょうが、耐えられることです。アレン殿下」
 そう声を掛けてきたのは、地味だが、忠臣として知られる文官ゲーリーだった。
 王妃の死に伴い、宰相派に鞍替えする者が多い中で、王妃の遺児であるアレンに変わらぬ忠義を誓い続けている。
「……ゲーリー」
 気を許せる、ある意味で父親のような存在に、アレンは少し肩の力を抜く。
 ゲーリーは口角を上げ、力強く請け負った。
「いずれ、来るべき時がきましょう。アレン殿下は、王の器を備えておられる。来るべき時まで、お力をつけておかれるべきです」
 力強く、将来を信じるようなゲーリーの言葉に、アレンはモヤモヤと胸を覆っていた陰りが、晴れるような気持ちになった。
「そうだな、努力しよう」
 顔を引き締めると、アレンは堂々と、少年の身ながら、威厳すら感じられる横顔でうなずいた。
 貴方の歩む道は、易しくはないと、教えてくれた亡き母。
 それは、その通りであったけれど、それは決して絶望ばかりではないのだ。
 ひかりふる。
 庭園の若葉のきらめきを宿した光に、蒼灰の目を細め、アレンはしっかりとした足取りで歩き出した。
 道すがら、ゲーリーに尋ねる。
「ゲーリー、あなたの息子の名は何といったか?」
「ディオルトでございます。アレン殿下……気の利かぬ愚息ではありますが、いずれ、御前に参ることでしょう」
 うん、と珍しく、年相応の無邪気さで、アレンは笑んだ。
「楽しみだ。待っているよ」
 数年の後、その約束は、叶えられることとなる。


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