ルーファス=ヴァン=エドウィン。
建国以来、エスティアの中枢を担ってきた、エドウィン公爵家の嫡子。
かつては外交で才を発揮し、有能と謳われながらも、妻を亡くして以来、すっかり無気力になり、屋敷に籠もりきりになったという、当代・エドウィン公爵――その一人息子。
その名を、アレンが知ったのは、学友の一人としてだった。 幼少の頃より、王の子であるアレンの周りには、遊び相手として、また将来の忠臣を育てるために、名門貴族の子息たちが、集められていた。
学友たちは、実家の期待を背負ってくるだけあって、皆、礼儀作法をわきまえ、見目もよく、才に長けた者たちであった。
五歳、六歳から共に在るのが当たり前であった学友たちの中に、少し遅れて、十を過ぎた位のルーファスが仲間入りしてきた。
端整な顔は、美形という表現では生ぬるかったが、それ以上に、迂闊に触れるのをためらうような、冴え冴えとした気配を纏うのが、ルーファスという少年だった。
冷ややかで、その癖、油断すれば喉元を食い千切られるような、獰猛な獣を奥に飼っている。
「ご尊顔、拝謁賜りまして、光栄でございます。王太子殿下。此度、共に学ぶ許しを授けられました、ウォルター=ヴァン=エドウィンが一子、ルーファスと申します」
教師による授業の合間に、学友らが他愛ない雑談に興じているところ、ルーファスはそこらの貴族などおよびもつかぬ、洗練した所作で、アレンの前に跪くと、低く、朗々とした美声で名乗った。
大人の貴族たち顔負けの、優美で堂々とした振る舞いに、あどけなさを残した学友たちは、目を丸くしていたものだ。
しかし、学友と共に机を並べる中にあって、アレンとルーファスの距離は、そう近しいものではなかった。
否、近しくなりようがなかったというべきか。
ルーファスは学友として、王太子アレンに敬意を払いつつも、媚びやお追従を口にすることもなく、決して、自ら距離を縮めようとはしなかった。
むしろ、殊更にアレンにおべっかを使い、王太子に取り入ろうとする者たちを、小馬鹿にするように、鼻で嘲笑っていたフシさえある。
そんなルーファスの態度が、せいぜい十代半ばの少年たちにとって、鼻持ちならないものであったことはいうまでもない。
しかしながら、学友に選ばれた貴族の子弟の中でも、ルーファスは群を抜いて優秀で、他の追随を許さなかった。
政治、天文、語学、 何をやらせても水準の遙か上をいき、時には教授すら言い負かす。
既に、家庭教師に学んだことであるのか、退屈そうに欠伸をしていることも、しばしばだった。
「気に食わない奴だ」
学友のひとりが、生まれに似つかわしくなく、舌打ちをした。
アレンは黙し、口汚い罵りを、聞こえぬふりで流してやった。
ルーファスを妬んだ伯爵家の次男が、剣の実技の際、汚い手を使って、彼を陥れようとし、挙げ句、返り討ちにあったと聞かされた。
悔しそうに、腕を包帯でぐるぐる巻にした伯爵の息子の、左隣の席では、美貌の少年が実に涼しい顔で、古代詩を翻訳していた。
「本当、嫌みな奴」
学友たちの罵り声が、高くなる。
アレンはといえば、それらの言動に安易に同調はしなかったものの、当時からルーファスの味方であったかといえば、そうでもない。
むしろ、お互いに一定の距離があった。
己の前で卑怯な真似をすることは、アレンの性格上、許さなかったが、特別に庇い立てすることは、ルーファス自身が、望んでいないように思えたからだ。
二つ年長で、子供から少年へと殻を脱ぎ捨て、しなやかな若木のような瑞々しさを持ち、されど、輪から外れ、孤高に生きようとするルーファスの姿は、アレンには何か別の生き物のようで、興味を引かれた。 きっと、学友たちのいう、鼻持ちならぬ、に通じるものであっただろう。
当時、アレンを含めて、ルーファスと学友たちの間には、絶対的な壁があった。
それは、ルーファスがまとう孤独や、冴え冴えとした気配のせいかもしれないし、甘やかされ、苦労知らずに育った貴族の息子たちとの差だったのかもしれない。
いずれにせよ、ルーファスは己に向けられる好奇の視線など、歯牙にもかけなかったし、アレンも、その少年が持つ何かに心引かれつつも、自ら、それに踏み込もうとはしなかったのである。
あの日、あの光景を目撃するまでは。
帝王学の授業の合間のことだ。
いつものように、近習を伴い、廊下を歩いていたアレンは、ふと窓の外が騒がしいことに気付いて、歩調を緩めた。
「……?いかがなさいましたか?王太子殿下」
前触れもなく、唐突に足を止めたアレンに、近習が不思議そうな顔をする。
少年は小さく「しっ」と唇前で指を立てると、窓枠に手をかけ、子供らしい身軽さで、窓の下、中庭を覗き込んだ。
万が一、王子が落下したら斬首だと、青ざめた家臣が、慌てて手を伸ばし、その腰を支える。
「エスティアが大国となったのは、僕はなんといっても、英雄王の功績が大きいと思う。領土拡大、特に軍事面での活躍は、歴代の国王と比べても、特筆するべきものだ」
残暑厳しい日差し、大樹の日陰をあてにするように、太い幹の周りに車座になりながら、王太子の学友たちは思い思いの議論に興じていた。
今まさに熱弁をふるっているのは、将軍を父に持ち、学友たちの中でも身分が上の少年である。
エミルという名の少年は、武人である父の影響もあってか、軍事の天才と称された英雄王に対して、崇拝めいたものを抱いているらしく、時に恍惚と語っては、 周りの失笑を買うことも少なくない。
しかしながら、今、エミルを囲んでいるのは、彼よりも家格で劣る家の子息が大半で、尚且つ、このエスティアにおいて、建国の祖・英雄王オーウェンの名は特別なものだ。故に、異論を唱える者はいなかった。
そう、ただ一人を、のぞいては。
「……クッ」
少年たちの集いには似合わぬ、皮肉めいた笑いが漏れた。
皮肉気に口角をつり上げたのは、珍しく、学友たちの輪に参加していた、黒髪の少年、ルーファスだった。
艶やかな黒髪の下、蒼い瞳が、嘲りめいた色を宿している。
「下らんな」
エミルやそれにお追従をいう学友たちを、取るに足りないもののように見回し、ルーファスはそう、冷ややかに吐き捨てた。
「失礼だな。何が下らないんだ」
興が乗っていたところに水を差されたエミルが、ルーファスを睨みつけ、気色ばむ。
考えの浅さが、だ。
黒髪の少年は、素っ気なく続けた。
学友たちの中にあって、一人立ち上がったルーファスは、異彩を放っている。
怒りに顔を赤くしたエミルとは対照的に、黒髪の少年はあくまで淡々と応じる。
その落ち着きは、齢十三の少年とは、到底、思えぬ。
「英雄王の武勲を、必要以上に賛美するのは、貴様の勝手だが……考えてみろ。攻め滅ぼした国を迎合し、まとめ上げた、かの王の手腕を。戦に明け暮れて、内政に目を向けない国の末路など、たかが知れている」
考えの浅さや、思慮の拙さを暗に指摘され、エミルは「う、うるさい……!」と更に顔を赤くした。
ついでとばかりに、手が出る。
ルーファスは上半身をひねり、それを難なく避け、軽いお返しとばかりにエミルの顔面に突きを見舞った。
鼻血が吹き出し、悲鳴が上がる。
いろんな方向から、少年たちの手が出、足が出、大乱闘となった。
ひとりが興奮のあまり、わんわん泣き出し、後はもう酷い大騒ぎだった。
全てを見届けていたアレンは、やれやれと肩をすくめると、近習の制止も聞かず、廊下を走り、中庭へと駆ける。
適当なところで収めなければ、落としどころがなくなるとわかっていた。
「そこまでだ!」
大樹のところにやってきたアレンが、学友たちにそう叫んだ時、乱闘の空気はすでに去り、毅然と立つルーファスひとりを残して、あとは泣きわめいたり、起き上がれず、地面に倒れたりしていた。
挑発したルーファスにも非があるが、数の優位がありながら、ひとり残らず、叩きのめされた学友たちも情けないことである。
アレンは呆れる内心を隠し、ハンカチで拳をぬぐうルーファスに、にこり、と笑いかけた。
「話を聞こうか?ルーファス=ヴァン=エドウィン」
「罰は恐ろしくはありません。王太子殿下に、御不快な思いをさせたこと、お詫びいたします。どうぞ、何なりと処罰を」
王太子の自室に連れてこられたルーファスは、弁解するでも、言い逃れするでもなく、実にあっさりとしたものだった。本当に、処罰を恐れていないらしい。
アレンは困ったように首を傾けると、違う、と否定した。
「私は、おまえに罰を与えるために、此処に連れてきたわけではないぞ。ルーファス」
ルーファスは、いささか虚をつかれたような表情をして、「では、何の為に?」と、訝しげに問う。
背高な少年を見上げて、アレンは意識して、余裕ある笑みを作った。
「先ほどのあれは、エミルに対抗したわけではなく、本心か?英雄王のくだりだ」
エスティアにおいて、英雄王オーウェンの存在は、特別な意味を持つ。
英雄王を戦場の猛者ではないと称した、ルーファスの言は、英雄王への賛美とは言えず、むしろ、その功績に疑問めいたものを投げかけている。
それでも、その英雄王の末裔に、問われたのだ。
否定するか、言い訳を口にするかと、アレンは思った。しかし。
「ええ、英雄王が真に有能だったのは、滅ぼし、併合した国をまとめ上げた政治力でしょう……今のエスティアには、それがない。故に、膨れ上がった領土を、持て余しているのです」
今の宮廷は、我が身かわいさに保身に走る者ばかで、腐敗している。
ルーファスは王太子であるアレンを前にしても、臆することなく、きっぱりと自分の意見を口にする。
容赦ない辛口は、王太子にとっては、耳の痛いものであった。
ルーファスの言葉にはおそらく、妻の死後、生きる気力を失った国王への非難も、またそれをいいことに専横をふるう宰相ラザールへの痛烈な皮肉も込められているようだ。
そうか。アレンは重々しくうなずくと、面を上げ、正面からルーファスを見据えた。
「私と考えを同じくする者が、学友たちの中にいるとは思わなかった……では、もう一つ、尋ねたいことがある。ルーファス」
「……何で、ございましょう?」
「お前の目から見て、王太子である私は、どう映る?」
しばしの沈黙の後、アレンの蒼灰の瞳を見つめ返し、ルーファスは唇を開いた。
「理想的な王太子であろうと、必死に足掻いている、無力な子供……そう見えます」
遠慮も何もない、否、なさすぎるそれに、アレンは思わず、ぽかんと口を大きくあけ、まじまじとルーファスの顔を見つめた。
理想的な王太子たらん、と彼が気を張っているのは確かだが、そこまで言う相手に、出会ったのは初めてだった。
きょとんと目を丸くし、次にこみ上げてきたのは、笑いだった。
なんて正直な男だろう!
嘘偽りにまみれた宮廷には、恐ろしい位に、似合わない!
アレンは肩を震わせ、くっくっくっ、とついには腹を抱えて、笑い転げる。
こんな風に笑ったのは、母上が儚くなられる前以来のことだ。
「あっはははは、くくく……!」
無邪気に、屈託なく笑い転げるアレンを見て、ルーファスは怪訝そうに首を傾げた。
「王太子殿下……?」
ああ、すまない。アレンは目尻に滲んだ涙をぬぐうと、改めて、ルーファスに向き直り、手を差し出した。
「改めて、友となってくれないか?ルーファス……友と、そう呼びたいんだ」
戸惑い顔のルーファスが、ゆるりと手を伸ばしてくるのを、アレンは満面の笑みで見守った。
ようやく、見つけましたよ。母上。
私の強さも弱さをも見抜くだろう、真実の友と言える存在を――。
後にエスティアの導き手となる、王太子アレンと、ルーファスは、こうして無二の臣下としての道のりを、ゆっくりと歩み出すこととなる。
彼らが、しなやかに成長していく合間の、 ほんの一時。
いまだ若木の時代のことである。
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