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序章 魔女の呪い


 ――魔女は呪っていた。この世の全てを。

「オーウェン様……いいえ、国王陛下。貴方は私を裏切るのですね?」
 そう言った自分の声が、みっともなく震えているのを、若い魔女はどこか他人事のように感じていた。
 黒曜石の髪も、人にあらざる金色の瞳も、美しい女であったが絶望が全てを台無しにしている。
 目に映る光景が、どんどんと灰色に染まっていくのを、魔女は呆然となすすべもなく見つめた。もちろん、その場は何も変わっていない。暗くなっていくのは、彼女の心。世界が暗く、重く沈んでいく、絶望だ。
 人というのは、過ぎたる絶望の前にはあまりに無力なのだと、その時に初めて悟った。
 その魔女は、人を遥かに超えた力を持ってはいたが、それでも絶望の前には無力だった。
 愛した人に裏切られる。その絶望を前にしては。
「どうして……」
 視界が暗くなるほどの絶望を前に、魔女は震える唇で、必死に言葉を紡いだ。かつて愛した人に。今も愛している人に。
 ああ、なんと無様なことか……。
 かつて、英雄王と呼ばれた男と共に、幾多の戦場を駆け抜けて、この国――エスティアの建国に一役かった魔女が、その女が無様に情けなく、ただの女のように震えている。手も足も指も、凍りついたようだ。一度も剣を振るったことのない小娘ですら、今の自分よりは毅然とした態度が取れるだろう。
 ほんの数年前には、英雄王の片腕として、敵に恐れられていた≪凶眼の魔女≫が子羊のように震えている。
 ああ、なんと情けない……。
 それでも、そんな無様な自分の姿に、死にたいほどの絶望を感じつつも、魔女は「どうして……」と問わずにはいられなかった。魔女が魔女であることを捨てるほどに愛した人が、どうして自分を裏切ったのかと。
 愛してくれると約束したのに。
 王妃として迎えてくれると、誓ったというのに。
 英雄王とその妃として、この国を治めていくのだと――
 共に駆けた戦場でも、その身を敵兵の血に染めようとも、たとえ遠く離れていようとも、魔女はその誓いを忘れたことなど、ただの一度もなかったというのに。それなのに、あの日の誓いは≪英雄王≫と≪凶眼の魔女≫の誓いは、全て嘘であったと、偽りであったというのだろうか。そんなはずはない。そんなことは、あってはならない!そんな残酷な裏切りが、この世にあってたまるものか!
 だから、彼女は金色の瞳を――≪凶眼≫と呼ばれる瞳を、眼前に立つ英雄王へと向けた。
 彼女が愛した人へ。
 大国エスティアを治める若き覇王。英雄王オーウェンへと。
「なぜなのです?オーウェン様。私を王妃にしてくださると、生涯そばにおいてくださると、約束したではありませんか!あの誓いは、全て偽りだったのですか!」
 英雄王の片腕――≪凶眼の魔女≫。
 かつて、共に戦場で生き抜き、恋人でもあった魔女の悲痛な叫びに、英雄王はオーウェンは後悔するように眉を寄せた。
 黄金の髪がわずかに乱れ、翠色の瞳に後悔の色が宿る。そんな迷いが見える英雄王の姿に、魔女はわずかな希望を抱いて、胸を高鳴らせる。
 ――もしかしたら、もしかしたら、彼は誓いを思い出してくれるのではないか、と。
 淡い期待だった。叶わないと知っていた。口に出したことは、全て実行してきたからこその英雄王なのだと、共に生きてきた魔女だからこそ、よくわかっていた。それでも一瞬、もしかしたらと希望を抱いた。
 それは、恋する女の哀れさであったかもしれない。人を愛することになれぬ魔女ゆえだったのかもしれない。絶望を知りつつも、なお一筋の光明にすがらずにはいられなかった――
 だが、英雄王オーウェンは、彼女のかつての恋人は首を横に振った。
 その瞬間、魔女は希望が潰えたことを悟った。彼の、英雄王オーウェンの心は、すでに自分のものではないのだと。彼はもう自分を愛することはないのだと、認めるしかなかった。それは彼女にとって、死の宣告にも等しいものだった。
 絶望する魔女に、英雄王は告げる。
「残念だが、お前を王妃に迎えることは出来ない。エスティアは巨大な国になりすぎた……もし、今この国が滅びれば、すぐに戦乱の世が訪れることだろう。それは何としても避けねば……この国には、未だ魔女を良く思わない者たちがいる。今、内乱の種を抱え込むことは出来ない。だから……」
 聞きたくないと、耳をふさぐ魔女に、英雄王は無慈悲にも告げる。その一言を。
「――私はお前と共に生きることは出来ない」
 それは決別を意味していた。
 かつての恋人の無慈悲な言葉に、魔女は震える声で反論する。その無意味さを知りながら。
「誓いを破られるのですか?英雄王ともあろう御方が」
 魔女の言葉に、王は沈黙した。
「……」
「私が王妃に相応しくないというのは、私が血で汚れているからですか?戦場で貴方の敵を殺めたからですか?私は貴方のために……」
 同族すら殺めたというのに、という言葉を、魔女は喉の奥でのみこんだ。
 エスティアを建国する際、敵方についた魔女は殺した。英雄王がそれを望んだから。
 同族を、魔女を殺めることに、迷いがなかったと言ったら嘘になる。それでも彼女は魔女を殺めて、禁忌を犯し続けた。
 英雄王が、彼女が愛した人が、それを望んだから。戦場とはそういうものだのだと。弱いことが罪なのだと、そう自分に言い聞かせて。
 ――かまうものか。どうせ私は≪凶眼≫は魔女に、同族にすら忌避される身だ。
 罪悪感を押し殺し、自らにそう言い聞かせる。真実から、己が忌まわしい同族殺しであることから、目を背けるために。
 巨大な魔力を持つ反面、その魔力の制御が難しい――≪凶眼≫。
 その気になれば、一国を焦土に変えることすら不可能ではない。
 忌まわしく、恐るべき力を持つがゆえに、魔女の同族からすら忌避される≪凶眼の魔女≫。そんな彼女に唯一、手を差し伸べて、暗闇から救い出してくれたのが、英雄王オーウェンなのだ。たとえ、その目的が彼女を利用することだったとしても、≪凶眼の魔女≫にとっては救いだったのだ。それだけではない。王は誓ってくれた。
 ――もし、平和な理想の国を建国できたなら、お前を王妃に迎えようと。その国では誰も憎しみで人を殺めたり、呪ったりしないのだと。
 夢物語だと知りつつ、魔女はその夢を信じた。英雄王の愛を信じた。≪凶眼≫として生まれ、同族にすら愛されぬ呪われた身。それでも、幸せを求めても良いのかと――
「――それなのに、貴方は私を裏切るのですか!」
 魔女の絶叫に、英雄王オーウェンはうなづくと、腰の剣を抜いた。エスティア王の証にして、英雄の証――聖剣ランドルフを。
 ≪凶眼の魔女≫を殺められる唯一とも言える武器を、彼は抜いた。
「……ああ、私はお前を裏切る。英雄であるためにな」
 英雄王が冷やかな声で言うのと、彼の剣――聖剣ランドルフが、魔女の胸を貫くのは、ほぼ同時だった。
 聖剣が魔女の心臓を貫く。
 人より頑丈な魔女と言えども、致命傷だった。胸から真紅の鮮血が吹き出し、唇から血があふれ出す。ぼたぼた、と血が床を汚した。
 英雄王が剣を引き抜くと、魔女の胸に大穴があく。
 魔女と言えども、死は逃れられぬ傷。
 けれども、魔女は金色の瞳で、燃えるような炎を宿した≪凶眼≫で、英雄王オーウェンを――かつて、愛した男を睨みつけた。
 愛ではなく、血も凍るような復讐心ゆえに。
「……私を殺すのですか?貴方が王であるために」
「ああ。そうだ。私の王国を守るために……お前の力は、その≪凶眼≫の力は、そばにおけねば危険すぎる。お前が私を裏切った時に、私には止める術がない」
「そうですか。貴方の王国のため……私が死ねば、それは容易に叶うのでしょうね。人々から尊敬されて、慕われる英雄王……平和な王国を治めて、やがては相応しい王妃を迎えて、優れた皇子を世継ぎとして……理想の王国を築くのでしょう……」
 胸から大量の血を流しながらも、魔女は目を閉じて、夢見るように語った。かつては自分が、その理想の国の王妃でありたいと願ったものだ。だが――今はもう、どうでもいい。
 全てが憎い。自分を殺すこの男も。≪凶眼≫を持って生まれたというだけで、自分を疎んだ同族の魔女たちも。何より、自分を裏切った男が、英雄王と呼ばれる男が憎い!憎い!憎い!
「――呪ってやる」
 最後の力を振りしぼって、魔女は呻いた。金色の瞳を、英雄王の翠の瞳に重ねながら。
 呪ってやると。
「何を……」
 眉をひそめる英雄王に、魔女は笑った。くっくっくっ、と血を流しつつも、魔女は笑い続ける。ああ、おかしい。なんて滑稽な終わり方だろうか。人を愛した魔女の末路は!
「英雄王オーウェンよ、私はもうすぐ死ぬのでしょう。貴方の手によって殺されて……でも、ただで死にはしない。愛しい貴方に、死よりも重い呪いを捧げましょう……貴方の死後も、子孫代々、貴方の血筋が絶えるまで続く呪いを。そうして、貴方の王国が、永遠に呪われますように――」
 魔女はもうすぐ死ぬとは思えぬほどに、饒舌に語ると、その震える指で魔方陣を描いた。彼女の体から流れた赤い血で。
 英雄王オーウェンと、エスティアの王族――彼の血を受け継ぐ者たちに呪いあれ。魔女を殺して、迎える王妃。その汚れなき女の腹から生まれる子に、魔女の呪いを――
「――エスティアの王族。その最初に生まれる子に、玉座を継ぐべき皇子に、魔女の呪いをかけましょう。その子はいるだけで周囲に災厄を集めて、王国に不幸をもたらし、やがては最も愛する者を手にかけ、死ぬことでしょう」
 それが魔女の呪い。王を愛し、裏切られた女の呪い。英雄王の血を受け継ぐ者に、私と同じ苦しみを。
「――貴方の子も、その子の子も呪われる。災厄を集め、愛する者も道連れにして、そして呪いは続く。永遠に」
 そう英雄王に告げると、魔女は息絶えた。その≪凶眼≫を、金色の瞳を見開いたままで。
 魔女が、と王が呟く。恐れるように、憎むように。
 そうして、忌むべき魔女は死んだ。エスティアの王家に、恐るべき呪いを残して。それから三百年以上に渡り、エスティア王家を蝕む魔女の呪い。それが、全ての始まりだったのだ。悲劇と呪いと憎しみの。
 ――エスティア王の長子は、王位を継ぐべき皇子は呪われる。いるだけで災厄を集めて、愛する者を手にかける。
 その呪いを恐れた人間が、さらなる愚を犯した時、再び悲劇は繰り返されることになる。
「おぎゃあ!」
 それより三百年後。
 エスティアの王宮の片隅で、一人の赤子が産声を上げた。英雄王オーウェンの血を受け継いで、魔女の呪いをも受け継いだ子が。その身に背負う災厄も知らず……。

 ――そうして、魔女の呪いは続く。その呪いを解く者が現れる日まで。


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