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一章 公爵の結婚 1


 大陸の西に、エスティアという大国がある。
 三百年前に英雄王と呼ばれた、さる王家の庶子オーウェンが建国したというエスティアは、大陸でも有数の軍事力を誇り、近隣諸国から恐れられた。それから数百年もの時が流れたものの、エスティアの権勢は衰えず、今も大陸の列強として知られている。
 その西の大国エスティアの王宮――英雄王オーウェンが、多大な財を費やして建てたという白亜の宮殿だ。
 惜しみなく財を使っただけあって、高い天井から扉に至るまで細かな装飾が施され、大理石の回廊や宗教画を模したステンドグラスなど、誰もが感嘆するほどに美しい城だった。
 その華やかかつ豪奢な宮殿を守るのは、厳しい顔で槍をかまえた衛兵たちである。
 王族のそばで仕えることの出来る衛兵は、兵士たちの中では花形とされており、厳しい選抜によって選ばれた者が任に就くのが常であった。もし、誰か不審な者が一歩でも王宮に入ろうとすれば、彼らの鋭い槍に阻まれるだろう。
 四六時中、衛兵たちは休むことなしに、周囲に眼を光らせている。
 さて、王宮の平和を守る衛兵ではあるが、本当に優れた衛兵というのは空気のような存在だとも言われる。いざ有事となれば、迷わず槍を振るうものの、普段は邪魔に思われぬように、出来るだけ存在感を消しているのが望ましい。
 無論、そこで耳にした会話は、決して他言してはならない。
 そんな風に、職務に勤しむ衛兵たちではあるが、彼らとて人間である。時として、好奇心がうずくこともあるのだ――
 (……おや?)
 カツカツという靴音に、王宮の扉を守る若い衛兵は、おや?と首をかしげつつ顔を上げた。
 ――客人が来るとは、聞いていなかったが。
 そう思いながら、衛兵が大理石の回廊の先を見つめると、黒髪の青年がこちらに歩み寄ってくる。
 (あの青年は……エドウィン公爵か。相変わらず、目立つ人だな)
 黒髪の青年の顔を見て、王宮の扉を守る若い衛兵は、そう心の中で呟いた。
「……」
 黒髪の青年――エドウィン公爵は、無言……いささか不機嫌そうにも見える顔で、扉の方へと歩み寄ってくる。いや、単に元から愛想がない男なのかもしれない。
 だが、その愛想のなさを差し引いても、美丈夫ではあった。
 夜の闇のような漆黒の髪は、女ならば一度は触れてみたいと思うほどに見事であったし、その深い蒼の瞳は魅力的だった。顔立ちも、いささか冷たすぎるきらいはあるものの、美貌と言っていい。
 長身で均整の取れた体躯は、貴族の子弟らしい軟弱さを感じさせなかった。
 その青年の名を、ルーファスという。
 フルネームを、ルーファス=ヴァン=エドウィンといい、二十歳の若さで公爵の地位にあった。
 その美貌だけでも、王宮の暇を持て余した貴婦人方に、噂になりそうな彼――ルーファスであったが、実際に彼は有名人だった。そう、良い意味でも……そして、悪い意味でも。
「――ルーファス=ヴァン=エドウィン公爵だ。すでに許可は取っている。宰相殿にお取次ぎ願おう」
 黒髪の青年――ルーファスは、扉を守る衛兵の前に来ると、温度の感じられない声でそう言った。
 冬の海のような深い蒼の瞳に見下ろされて、衛兵は一瞬、怯んだものの、すぐに気を取り直す。コホンッ、と咳払いをした後、扉の中に向かって呼びかけた。
「宰相閣下。ルーファス=ヴァン=エドウィン公爵様がいらしています。お通ししてもよろしいですか?」
 衛兵が守る扉の中にいるのは、宰相――王族を除けば、エスティアで最上の地位にいる男だ。ほどなくして、「……どうぞ」という宰相の声が返ってくる。
 衛兵は扉を開けると、ルーファスを促した。
「どうぞ。お入りください」
 ルーファスは軽くうなずくと、扉の内へと入っていった。
 その背を見送り終えてから、衛兵はホッと肩の力を抜く。
 あの公爵と視線を合わせたことで、我知らず緊張していたようだ。
 (エドウィン公爵……さすがは若き切れ者と、王宮で噂されるだけの事はあるなぁ。眼が氷みたいだった)
 青年の蒼い瞳の冷たさを思い出して、衛兵はブルッとかすかに身を震わせる。
 ――氷の公爵。
 エスティア王宮において、ルーファス=ヴァン=エドウィンは、そう評されていた。
 それは容姿よりも、むしろ性格を表した言葉であるらしい。
 二年前、十八歳の若さで公爵位を継いだルーファスは、瞬く間に王宮で頭角を現し、若き切れ者と称されるようになった。
 彼の祖父――先々代のエドウィン公爵は浪費家で知られ、公爵家の財産は減ったと噂されたが、彼が継いだここ二年ほどで、領地の収入を一気に増やしたとも言われる。
 無駄を嫌い、実利を重んじる気質は賞賛されるべきものなのだが、その反面、逆らう者に対しては容赦がないという噂が、まことしやかに囁かれていた。その手腕は認められているものの、警戒されて敵も多い。
 有能だが、野心家で冷酷……彼・ルーファス=ヴァン=エドウィンが、そう評されるようになったのは、青年が十八歳の若さで公爵家を継いだことと、密接に関係している。
 (冷たい眼だった。さすがは……)
 若き公爵ルーファスの氷のような瞳を思い出して、衛兵は「やれやれ……」と、ため息まじりに呟いた。
「――さすがは、血の繋がった親父を、僻地に追いやるだけのことはあるな」
 父親を追い出した男。
 数あるエドウィン公爵の噂の中で、最も悪辣なものはそれだ。
 二年前に、ルーファスが公爵家を継いだ時、彼の父・ウォルターは存命であった。しかし、ルーファスは父親が精神を病んでいると主張して、遠い療養の地へと父を追いやった。そうして、彼は十八歳の若さでエドウィン公爵家を継いだのである。
 しかし、それが余りに突然のことであったこと、また余りにも手際が良かったことなどから、ルーファスが無理矢理に父を追い出したのではないか、という噂が流れたのも必然だった。
 噂は噂を呼び、真実は確かめようもない。
 ――切れ者ではあるが、肉親の情すらない男。
 エドウィン公爵の評価が定まったのも、その時だったろう。
「……」
 思わず無駄口を叩いていた若い衛兵だったが、ようやく本来の職務を思い出し、銀の槍をかまえた。
 ただの衛兵である彼には、扉の内の会話――宰相と公爵のそれを、知る由もなかったのである。


 ルーファスは不機嫌だった。
 元から愛想というものを、母親の胎内に置き忘れたような青年であるが、不機嫌な時は氷のような無表情になる。それがまた冷酷という噂に、拍車をかけるのだった。
 しかし、その冷ややかな無表情が示すとおり、若き公爵は本当に不機嫌だった。
 それもこれも全て――目の前にいるエスティアの宰相ラザールのせいである。
「――突然、こんな風に呼び出して悪かったですね。エドウィン公爵」
 王宮に相応しい豪奢な部屋で、公爵と宰相は向かい合っていた。
 床まで届く長い白髪に、白い髭をたくわえた白尽くめの老人。六十の齢は越えているだろうか――エスティアの宰相ラザールはそう言って、灰色の瞳をルーファスに向けた。
 どこか慇懃無礼な臭いのする宰相の言葉に、公爵の地位にある青年は、儀礼的に頭を下げる。
「いいえ。宰相殿のお呼びとあらば」
 心の中で舌を出しつつも、その返事に毒が混じることはない。
「ほほほ……年寄りに気を使わずとも結構ですよ。切れ者と名高いエドウィン公爵のことだ。色々と忙しいでしょう。ねぇ?」
 ほほほ……長い白髭を揺らして笑う老宰相は一見すると、好々爺そのものに見える。しかし、その内面が外見からは想像もつかないほどに、醜悪なものであることをルーファスはよく知っていた。
 ルーファスは氷のようと称される瞳を、白い髭をたくわえた宰相に向けて、心中で毒を吐く。
 (……この国政を牛耳る老狐が)
 ここ数年、体調を崩しているエスティアの国王オズワルトに代わり、この宰相が国の実権を握っているのは衆目の知るところだった。
 自分の娘が国王の側室であるのを利用し、意のままに振る舞っている。平たく言えば、国政を私物化しているのだ。
 手段がどうであれ、それが善政であるならばルーファスとて、まぁ文句はない。
 しかし、まるで王のように振る舞う宰相の独裁ぶりは目に余るものがあり、そのやり口に彼は嫌悪すら覚えていた。無論、それを口にするほど、ルーファスは正直でも愚かでもなかったが。
「……それで、私のような若輩者に宰相殿が何の御用ですか?まさか茶飲み話というわけでもないでしょう」
 一刻も早く不快な宰相の部屋を去りたいがために、ルーファスはそう尋ねた。
 宰相ラザールは「ええ。そうでしたね……」とうなずくと、
「――突然ですが、貴方に妻はいませんね?エドウィン公爵」
と、ルーファスに問いかけた。
「妻?……妻ですか?婚約者さえいませんが、それが何か……」
 予想もしなかった奇妙な問いに戸惑いつつも、ルーファスは答える。
 冷酷な性格の男と噂されていても、その端正な容姿と公爵という高い地位によって、彼は女に不自由したことは一度もなかった。
 ルーファス自身は女に執着することはなかったが、少しでも野心のある女は決まって彼に媚びを売るのだ。
 そんな束の間の恋人たちに、ルーファスが心を許すことはなかったが、それでも宰相に結婚についてアレコレ言われるほど、女っ気がないことはないはずである。
 (妻だと?人に見合いでもさせるつもりか……)
 宰相の意図が読めない。
 沈黙する青年公爵に、老狐と称される宰相は再び、「ほほ……」と好々爺然とした笑い声を上げた。
「それはそれは……重畳なことですね。美しい花との浮き名を流しているエドウィン公爵が、いまだ独身なのは意外ですが、実に運の良いことでした。そんな貴方に良い縁談があるのですよ……」
「縁談?どなたとですか?」
 ――婚姻は貴族の義務。
 そう割り切っているルーファスにとって、宰相の言う良い縁談とやらはさして魅力的な話でもなかったが、わざわざこの宰相が言うのだから、きっと何か裏があると思いつつ尋ねる。
「――喜びなさい。エドウィン公爵。国王陛下がセラフィーネ王女様を、貴方に降嫁させても良いと申されています。臣下として、名誉なことと思いなさい」
 王女を降嫁させる。
 宰相の口から出た余りに突然の発言に、さすがのルーファスも押し黙る。
 その話の内容もさることながら、このように重大な話が、王女の父である国王陛下からではなしに宰相の口から出るのも驚きだった。
 しかし、いつまでも黙っているわけにもいかず、自分に降嫁させると言われた王女の名を確認する。
「身に余る名誉ではありますが……セラフィーネ王女様ですか?」
 ――セラフィーネ王女。
 今の国王陛下には正妃との間の王太子を筆頭に、妾腹も含め幾人かの王子と姫がいるが……セラフィーネという王女の名は、ルーファスの記憶になかった。
「エドウィン公爵はセラフィーネ王女様を、ご存知ないかもしれませんね……。セラフィーネ王女は陛下が侍女に生ませた子で、公の場には殆ど出られませんでしたから」
 ルーファスの問いを予想していたのか、宰相ラザールはよどみなく答える。
 国王陛下が侍女に生ませた王女という宰相の説明に、公爵は一応は納得した。きっと、その手をつけた侍女とやらの身分が低いゆえに、表沙汰にしにくい王女であったのだろう。
 しかし、それにしても、公爵であるルーファスが顔すら知らないというのは少し奇妙なことだった。
 だが、それ以上に解せないことは、なぜ自分に王女を降嫁させるのか――
「なぜ自分に、セラフィーネ王女様を?」
 妾腹とはいえ大国エスティアの王女であるならば、もっと良い嫁ぎ先があるだろう。
 いや、王女本人の幸せではなくて――政略結婚の駒としてだ。
 国の重鎮たる公爵位にあるにしても、一介の貴族に過ぎないルーファスに、なぜ王女を降嫁させるのか。なぜ……?
「なぜという言葉は必要ありませんよ。エドウィン公爵。直に国王陛下の方からも、正式にお話しがありますが、主君の娘をいただくのは臣下としての最高の誉れ……貴方はただ喜べば良いのです」
 そう語る宰相の口調は優しかったが、反論は許さないということなのだと、ルーファスは悟った。
 (老狐め……一体、何を考えている?)
 何か嫌な予感を感じつつも、国王の臣下たる公爵である彼には、王女の降嫁を拒否することなど許されるはずもない。
 ルーファスは心の内を隠して、首を縦に振ったのである。
「――御意」
 そうして、ルーファス=ヴァン=エドウィン公爵は、いまだ顔すらも知らないセラフィーネ王女を、花嫁とすることが決まったのだった。

「旦那様っ!」
 ルーファスが王宮から出ると、従者のミカエルが馬車の前で主人を待っていた。
「ミカエル。待たせたな」
 そう公爵に声をかけられた従者――ミカエルは、まだ十三か十四歳くらいの幼さを残した少年である。
 金髪に淡い水色の瞳の愛らしい少年だ。
 しかし、育った環境によるものか、その瞳には無邪気さは薄い。公爵に拾われる数年前までは、路地裏で暮らす孤児であったのだから、それも仕方のないことかもしれないが。
 ミカエルと呼ばれた少年従者は「いいえ……」と首を横に振ると、探るような目をルーファスに向けた。
「いえ……それより首尾はいかがでしたか?旦那様」
 宰相との会話はどうだったと尋ねるミカエルに、主であるルーファスはククッと笑いながら唇を上げると、従者にとっての爆弾発言をしたのである。
「――セラフィーネ王女を、我が公爵家の花嫁として迎えることになった」
「……は?」
 何の説明もなしに、いきなり結論だけ告げたルーファスに、ミカエルは淡い水色の瞳を丸くする。
「ああ。そういうことで、結婚は三ヶ月後だ。それまでに、お前にも色々と動いてもらうことになるだろう。ミカエル」
「結婚!?」
 唐突な話の流れについていけず、驚く従者を置き去りにして、ルーファスはうっすらと冷ややかな笑みを浮かべた。
「――ああ。老狐の思惑で、セラフィーネ王女とやらも気の毒に。俺なんかの花嫁になるとはな」
 公爵の自嘲まじりの言葉に、従者である少年は何も言えずに、ただ沈黙したのである。


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