ススム | モクジ

  異邦の月、泡沫の夢 【前編】  

 我が夫君は、あの碧海の向こう、外つ國より来たのだという――。

「……良いわね?珠々、いい子だから、上手くやるのよ」
 ちょこん、と床に座りこんだ小猿に、膝を折り、目線を合わせた玉蘭はそう言い聞かせた。
 小猿の珠々は、葡萄のようなつぶらな瞳で、女主人を見上げてくる。ウキッ、と小首をかしげる様も、愛らしく、思わず、主人である少女の頬がゆるむ。
 ちりちり、と珠々の首に巻いたの蕉紅色の紐、金の鈴が鳴る。
「上手くやれたら、ご褒美にとっておきの、干し杏をあげるわ。ご主人様の為にも、頑張るのよ、珠々」
 白檀の机に置かれた、干し杏の壺を指差しながら、玉蘭は念を押す。
 ご主人様の為、という彼女の言葉が、どこまで響いたかは謎だが、干し杏を見た小猿はウキッ、と嬉しそうに鳴いた。
 その甘えるような仕草に、心を動かされなかったといえば嘘になるが、玉蘭はゆるゆると首を振ると、「ご褒美は、ちゃんとやり遂げてからよ」と、やわらかく、艶のある毛並みを撫でる。
 甘えて、身をすり寄せてくる小猿を、よしよしと撫で、玉蘭は、
「さぁ、行くわよ、珠々。今日こそ、あの人を……ぎゃふんっ、と言わせてやるんだから」
と、力強く言い切る。
 そう言った玉蘭の黒曜石の瞳には、強い決意の光が宿り、白磁の面には微かな薄紅がさしている。
 しゅららん、とぬばたまの髪に挿した、珊瑚の箸が揺れた。
 おいで、と珠々を腕の中に抱き上げると、玉蘭は居間へと向かう。
 今日こそは、今日こそは絶対に、あの人に参ったと言わせてみせる、との自信を胸に宿しながら、少女は青蓮紫の長い裳を引きずった。

 居間に赴くと、茉莉花茶の良い香りがする。
 ふわり、と鼻先をくすぐるそれに、珠々を抱き上げた玉蘭は目を細めた。
「あら、玉蘭お嬢様……」
 お茶の支度をしていた、侍女の桂花が、玉蘭の姿を目に留めて、「あら……」と頬に手をあてる。そのまま、少女に抱きかかえられた小猿へと視線を移し、珠々も連れてきたんですの、と続けた。
 楚々とした所作で、茶壺やら茶杯やらを整える桂花に、玉蘭は「碧秀は、どこ?」と尋ねた。
「ええ、碧秀様なら、あちらにいらっしゃいます……ちょうどようございました。お嬢様の分も、支度いたしますわね」
 桂花が笑顔でそう答えるや否や、玉蘭は待ちかねたように、侍女が教えてくれた方へと向かう。
 青蓮紫の裳の下から、ばたばたと貴人にあるまじき沓の音が響いて、桂花が「玉蘭お嬢様、李家の若奥様ともあろうお方が、はしたのうございますわ」と眉を顰める。
 玉蘭は、「桂花ったら、もう童子ではないのだから、わかっているわ。ね、珠々?」と応じ、沓の音が響かぬよう、せいっぱい淑やかさが心がけた。
 彼女が子供の頃から、李家に仕えてくれる桂花は、よく気が利いて、心優しい、玉蘭の姉代わりのような存在であるが、お小言が多いのが玉にきずである。
「――――碧秀!」
 花鳥の刺繍が施された沓で、とんとんと舞うような音を奏でながら、玉蘭は「碧秀」と男の名を呼んだ。
 茉莉花の香りと混じって、墨の匂いがただよっている。
「……玉蘭?」
 彼女の声に、長椅子でくつろいでいた若い男が、顔を上げた。
 李家の邸宅内とあって、日頃、常に身に着けている官服ではなく、雪藍の深衣を身に纏っている。
 例の如く、詩作に励んでいたのか、その手には筆が握られており、机上には墨と硯が並んでいた。
 小猿を抱えた玉蘭と目が合うと、その男、碧秀はゆるりと目を細め、やわらかく微笑する。
 琴の弦をつまびくにも似た、低く、のびやかな声音が、玉蘭、と妻の名を口にする。
「どうかしましたか、玉蘭」
 ほほ、と夫の問いかけに、玉蘭は勝ち誇ったように、笑った。
 ぱっと華やいだ顔は、麗しさの中に、乙女らしい無垢さや、どこか童女めいたあどけなさをも残していて、大層、愛らしい。
 相変わらずな妻に、碧秀は唇にのせた笑みを、深くする。
 玉蘭はコホンッ、と咳払いひとつ。
 勿体ぶって、高笑いを止めると、ずずぃ、と赤子のように、大切に大切に腕に抱えた小猿を、男の眼前へと突き出した。
「いーい?この子をよーく見なさい、碧秀!ほら、珠々!」
 女主人の声に、抱きかかえられていた小猿は、するすると身軽に、長い装束を伝って床に降りた。
 ぴょんぴょん、と珠々が毬の如く跳ねるたび、首についた金の鈴が、軽やかな音をさせる。
 何をするつもりか、と首をかしげ、興味深げな顔をする碧秀に、玉蘭は挑むような眼差しを投げた。
 いつも、いつも、この年上の夫が、余裕綽々の態度を崩さないのが、腹立たしい。
 夫の驚いた顔や、怒ったり、声を荒げたところなど、夫婦の縁を結んでから、一度も目にしたことがない。
 それが悔しくもあり、歯痒くもある。
 絶対に、ぜったいに、今日という今日は、驚いた、参りました、と言わせてやるのだ。
「頑張って、珠々……上手くできたら、あとで干し杏よ」
 そう玉蘭が約束すると、言葉が通じるわけでもなかろうが、小猿はウキッ、と嬉しそうに鳴いた。そうして、ピョン、と大きく飛び跳ねると、墨や硯ののった机を飛び越え、碧秀のいる長椅子に飛び乗る。
 おやおや、と男は微かに瞠目し、玉蘭と小猿を交互に見やった。
「ほら、珠々……逆立ち、それから、二回転宙返り!」
 少女が手を打ち鳴らすと、その声に応じたように、小猿が逆立ちで数歩歩いて、その後、大きく宙に舞う。
 くるくると空中で器用に回って、長椅子に着地した珠々に、碧秀は「ほぉ……」と感嘆の息をもらした。
「わあわあっ、よく出来たわ!凄いわ、珠々!いっしょに、いっぱい練習したものね……!」
 大成功よ、と興奮気味に叫んで、満面の笑みを浮かべた玉蘭は、小猿を抱き上げた。
 褒めて、とばかりに、すりすりとご主人様にすり寄ってきた珠々を、思う存分、撫で回し、よいこよいこ、と頬ずりをする。
 うれしくてうれしくて、桂花が綺麗に結い上げてくれた、黒髪が乱れるのも、余り気にならなかった。
「よく仕込みましたね、玉蘭……それだけ教えるのは、大変だったでしょう?」
 感心したように言う碧秀に、玉蘭は小猿に頬ずりしたまま、えへんっ、と胸を張った。
「そうよ。すごいでしょう、私も珠々も、すごーくすごーく頑張ったんだから!……驚いた、参りましたって言うなら、素直に言ってもいいのよ。碧秀」
 ――ねえ、珠々?
 ご褒美の干し杏に夢中になる小猿に、玉蘭は声をかえた。
 驚いたなら、驚いたと素直に負けを認めなさいな、花の顔をつん、とそむけて、そう言った幼い妻に、夫である青年はククッ、と楽しげに喉を鳴らす。
「ええ……驚きました。貴女には、参りましたよ。玉蘭」
 驚いた、と口にしながらも、碧秀の表情も声音も、実におだやかだった。
 まるで、波風の立たない、水面のようだ。
 それが不満で、玉蘭は柳眉を寄せて、唇をとがらせる。
「ちょっとも、驚いたって顔をしてないわ。碧秀……あなたをぎゃふん、と言わせるために、桂花にも内緒で、珠々に教え込んだのに……」
 むすっと残念そうに、眉を曇らせる玉蘭に、碧秀は迂闊にも、ほころびかけた口元を押さえた。
 彼の妻である玉蘭は、落雁美人と謳われる容姿もそうであるが、中身もたいそう、可愛らしいひと、なのである。
 いかにこの国広しといえども、ただ夫を驚かせる為だけに、ここまでするのは、この少女くらいだろう。
「そんなことはないですよ、本当に。だから、そんな風に落ち込まないでください、玉蘭……貴女にそんな顔をさせたとあれば、お父上に叱責されてしまいます」
 碧秀の言葉に、頬をふくらませた玉蘭は、ゆるゆると首を横に振った。
「お父様は、そんなことなさらないわ。最近は、婿殿、婿殿……って、碧秀のことばっかり!李家の当主たる自覚があるのか、怪しいものだわ!」
「ご当主殿は、碁のお相手を欲しているだけですよ。貴女がそんな風に言われたら、ご息女を溺愛していらっしゃる、御父上がお気の毒だ」
 妻の言い分を、夫である青年は、やんわりとたしなめる。
 舅が、一人娘で、妻の忘れ形見である玉蘭を、蝶よ花よ、と目に入れても痛くない程、溺愛しているのは周知の事実だ。
「むぅ……」
 玉蘭は悔しげに唸って、キッ、と夫である青年を睨む。
「次こそは、絶対に、驚かせてやるんだから……覚悟してね、碧秀。この前の人魚の木乃伊は、偽物だったけど、もう失敗しないんだから!」
 声も高らかに宣言した妻に、碧秀は「それはそれは、楽しみなような、恐ろしいような……」と穏やかに微笑んで、長椅子から立ち上がった。
 そのまま、男は玉蘭の方に、すう、と手を伸ばした。
 衣に焚き染めた、伽羅の香が薫る。
 筆まめの出来た、大きな掌が、少女のぬばたまの黒髪をひと房、愛おしむように梳いた。
 指先が、箸に触れ、珊瑚の玉飾りが揺れる。
 かがみこんだ碧秀が、玉蘭の耳元に頬を寄せた。
「私の贈った箸が、よくお似合いです。珊瑚と金細工が、貴女の美しい黒髪に、よく映える……」
 囁かれたそれは、言いようもなく、あまい。
 カッ、と焔が燃ゆるように、顔が熱くなるのを感じて、玉蘭はわざとそっぽを向いた。
 こちらは恥ずかしくて、恥ずかしくて、逃げ出したくてしょうがないのに、ちらと横目で碧秀を見れば、わずかも赤くなっていないのだから、癪だった。
 こんな時、夫である青年がたまらなく憎たらしく思えて、玉蘭の唇から、思ってもいない言葉が紡がれる。
「か、勘違いされたら、困るわ。夫の贈り物を大切にするのは、妻としての礼儀だもの……そう、そうよ。私は、李家の娘たる礼節を守ってるだけなの!」
 わかっているの、碧秀!?語気も荒く、必死にそう主張してくる少女に、どうにも微笑ましいものを感じて、男はくく、と小さく笑い、
「なるほど……では、そういうことにしておきましょう」
と、含みのある声で言う。
 可愛いらしいひとだ。
 意図せずか、碧秀の口から出た一言に、玉蘭は眉をつり上げた。
「本当よ。貴方の国ではどうでも、この国の礼儀は、そうなんだからね!」
「ご心配なく。私の生国でも、愛する女に贈り物をするのは、男の甲斐性というものです。勿論、身につけてもらえたなら、それ以上の喜びはありませんよ……ねぇ、玉蘭お嬢様?」
 碧海の向こう、異郷より渡ってきた青年は、そう涼しげな顔でいい放ち、墨の匂いがする指先で、そっと、珊瑚の箸に触れた。
「……っ。碧秀、貴方、本当は性格悪いわよね。皇帝陛下の覚えも目出度い官使だなんて、信じられないわ」
 玉蘭の嫌みに、碧秀はそれは心外、と大仰に肩をすくめた。
「生国で、朝廷に出仕していた頃も、私は正直者で通っていたのですよ。海の向こうの国では、ね」
「貴方の言葉だけだもの。信じられないわ」
 海の向こうの国のことなんて、わからないわ、とあからさまな虚勢を張る妻に、誤解を解こうという熱意はないのか、碧秀は微苦笑を浮かべ、さらりと手を離す。
 そのまま、墨と硯を手に、何処かに行こうとする青年の背中を、玉蘭が呼び止めた。
「……何処へ行くの?」
 喉から出たのは、自分らしくもない、細く頼りない声だった。
 不安にかられる己が嫌で、少女は唇を噛んだ。
 振り返った碧秀は 、いつも通りの柔和な笑顔で、脇に抱えた巻物を示す。
「貴重な史科を見つけたもので、覚えているうちに、書き残しておこうかと……これでも、国費で留学した身ですから」
 帰る見込みのない祖国の為にね、という言を、青年は舌にのせることはなかった。
「そうなの……」
 安堵したような、なぜだか不安なような、不思議な気持ちをもて余しながら、玉蘭はうなずいた。
「また後で、一緒にお茶でもいかがです?玉蘭」
 碧秀の誘いに、玉蘭はなんだかぼんやりとした風情で、ええ、と首肯する。
 夫である男が、雪藍の裾をひるがえし、居間を出ていってから、彼女はようやく我に返る。
「あ――――!」
 急に大きな声をあげた主人に、するすると肩にのぼった珠々が、ウキッ、と耳を押さえる。
「急に、いかがなさったのですか?玉蘭お嬢様」
 はたはたと裾をひらめかせ、侍女の桂花が、歩み寄ってくる。
 よほど驚いたのか、その手には、茉莉花茶の茶壺を抱えたままだ。
 玉蘭はぎゅ、と珠々を抱き締めて、不服そうに、
「今日も駄目だったわ。今日こそ、今日こそは、碧秀を驚かせて……ぎゃふんと言わせるはずだったの」
と、言う。
「また、そのようなことをおっしゃって……まだ諦めておられなかったのですか、玉蘭お嬢様」
 碧秀様が、動揺されたところなど、一度もお見かけしたことがございませんもの。きっと、無理ですわ。
 諦めなさいませ、と乳母子のよしみで、やんわり諭そうとする桂花に、玉蘭は「嫌よ」と首を横に振った。


 玉蘭の夫、碧秀は、海の向こうの異国から、やって来た官使だ。
 何でも、東の果て、碧秀の祖国はまだまだ未開の、叔父様曰く、蛮族の地らしい。
 その国には、我が国のような進んだ学問も、洗練された文化もないのだとか。
 故に、碧秀や彼の国の同胞の者たちは、船の難破や嵐、様々な危険な海路を越えて、最も文化のすすんだこの国に、はるばる東の果てから、教えを乞いに来たそうだ。
 要するに、自国に碌なものがないから、そのようなことになるのよ。これだから、蛮族の国は……と酒杯を傾け、蔑むように言ったのは、叔父様だった。
 碧秀が生まれ故郷で、どのような立場にいたのか、玉蘭は知らない。
 知ろうと、努力したこともない。
 玉蘭は刺繍が得意だし、琴の腕前も悪くない。だけれども、殿方のように、漢詩をそらんじることも、国の行く末について語り合うことも出来ないのだ。
 であるから、碧秀の言う、
「朝廷に出入りを許されるだけの、下っ端の役人でしたよ」
というのが、どのような地位なのかも、判然としない。
 ただ、彼の口ぶりからして、きっと、余り高い身分ではなかったのだろう。
 彼と同朋達を乗せた、東の果ての國より来た船は、半数が難破して、海の藻屑となり、残り一隻が海賊に襲われて、辿り着いたのは、碧秀の乗った一隻だけだったそうだ。
 何故、そのような危険を冒してまで、彼と同朋たちがこの国を目指したのか、玉蘭には一生、わかりそうもない。
 もう二度と、生きて故郷の土を踏めぬかもしれぬ、と考えたら、怖くて、寂しくて……きっと、足がすくんでしまう。
 そんな碧秀が、玉蘭の夫君となったのは、これまた奇縁によるものだった。
 玉蘭の父、李青峰が宴席で意気投合し、婿として連れて来たのだ。
「――碧秀殿は、異国の出ながら、我が国の難関である科挙に合格し、陛下の覚えも目出度い官使だ。漢詩に通じ、碁の名手でもある。武芸は、まあ、誰しも得手不得手はあるとして……ともかく、李家にとって、これ以上の良縁はない!」
 そこまで熱弁をふるった父だったが、最後にボソリ、と「碁の勝負に負けてな、掌中の珠を……」と呟いた時、玉蘭は心底、父を恨んだものだった。
 叶うなら、古代の刑罰のように、蛇のいるたい盆に突き落としてやりたいくらいだったが、そうもいかない。
 十四の歳を数えるまで、王家の信頼厚く、代々、要職を勤めてきた李家の一人娘として、何不自由なく、蝶よ花よ、と育てられた玉蘭である。
 今は亡き李夫人譲りの美貌と、性格は少々、お転婆であるのが難点としても、それこそ、引く手あまたであったのだ。
 本人が望めば、後宮に入り、女としての栄華栄達を極めることすら、叶わぬ生まれではない。
 それなのに、ああ、それなのに、なにが悲しくて、十も歳の離れた異国の男と、父の言葉ひとつで、婚姻を結ばねばならぬのかと、玉蘭は腹立たしくてしょうがなかった。
 ――そもそも、出会いからして、一筋縄ではない。
「お初にお目にかかります、お嬢様。碧秀、と申します。ところで……そんな狭い場所で、何をなさっておいでですか?」
「……」
 そう、碧秀に初めて声をかけられたのは、庭から飛び出しかけた珠々を追いかけて、壁の隙間から、顔の出した時のことだ。
 黒髪は乱れて、裳は泥まみれ、我ながら、女として酷い有様であっただろう、と玉蘭は思うが、碧秀はにこやかに笑っていた。
 貴族の娘としてあるまじき縁談相手にも、眉すら顰めず、鷹揚に笑っている男の姿に、小猿を掴まえようと、手を伸ばした少女は困惑する。
 正直、玉蘭が碧秀の立場であったなら、どんな良縁であっても、受け入れ難いであろう。
 いかに、李家が名門であり、陛下の信頼厚い家柄といえど、限度というものがある。
 しかし、その異国人の青年は、そんな少女の様子に気を悪くした風でもなく、ひょい、と逃げた珠々を掴まえると、抱きかかえ、玉蘭へと差し出した。
「そのお姿も、悪くはありませんが……ああ、失礼」
 クスリッ、と碧秀の唇から、笑声がこぼれた。
 男の指が、玉蘭の鼻先に触れて、ほんの瞬きをする間に離れていく。
「鼻の頭に、泥がついておいででしたよ。……玉蘭お嬢様?」
 それは一瞬のことであったのだけれども、父様以外の男に、そんな風に触れられたことのなかった玉蘭は悲鳴を上げ、真っ赤になって、そこから逃げ出した。
 戻っていた主人の狼狽ぶりに、侍女の桂花が、まあ、お嬢様、と驚いていた。
 おまけに、裳を駄目にしてしまい、くどくどと説教を受けたものである。
 しばらくしてから、父がその男、碧秀を縁談相手として連れてきた際には、本気で破談を願ったものだった。
 あんな姿を見せたのだから、破談にならない方がおかしいと、玉蘭はタカをくくっていた。
 であるが、結局、碧秀は父の望み通り、李家の婿となり、そして、今に至る。
 最初こそ、どうにか根を上げさせようと、さまざまな他愛もない悪戯を仕掛けていたのだが、碧秀はといえば、あの手この手、どんな手を使おうとも、にこにこと、穏やかに笑っているだけだ。
 見た目は、何処にでもいるような、これといって特徴のない風貌であるのに、あまたの漢詩を諳んじると言われるだけあって、玉蘭が何をしようとも、難なく丸めこまれてしまう。
 最初は、相手に根を上げさせようと、いろいろ仕掛けていたはずだ。
 でも、あまりにも、碧秀が動じないものだから、最近の玉蘭の目的は専ら、夫を驚かせ「……参った」と言わせることになりつつある。
 今のところ、連敗記録を更新し続けているが、李家の人間たるもの、そうそう敗北を認めるわけにはいかない。
「いつか、ぜーったい、碧秀をぎゃふん、と言わせて見せるわ……」
 決意も新たに、そう宣言した玉蘭に、賢明なる侍女の桂花はふぅ、とため息を零し、「お嬢様ったら、また……もう何を申し上げても、無駄ですわね」と、それ以上の説得を断念した。
 
 そうよ、諦めるなんて、どうしても嫌だわ。
 私の夫は、あの碧海の向こう、東の果ての国から、此処へ来たのだという。
 ならば、もしかして、いつの日か、彼は……
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