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  異邦の月、泡沫の夢 【後編】  

 李家の庭園は、庭師が丹精込めて世話をする故、たいそう見事なものである。
 春夏秋冬、四季折々の花々が、あでやかに咲き乱れ、蝶やら、鶯やらが飛び回り、楽の音にも似てさえずる。
 池には蓮の花が浮かび、夏の宴の折には、ここで櫂をこいで舟遊びをし、その周りを蛍が飛び回る。
 満開の花が咲き誇る春には、毎年、大臣である李青峰の呼びかけで、百官、知識人を招いて、飲めや歌えや、盛大な酒宴が催される。
 また秋には染まりゆく葉に詩を詠んで、冬は枝に降り積もる、真白き雪を愛でるのだ。
 玉蘭の母、先代の李夫人は、庭の花々を慈しみ、風雅を好んだ人柄だったという。
 娘が物心つく前に、鬼籍の人となったので、その記憶は乏しいが、母が好んだという李家の庭を、玉蘭もまた愛していた。
 春爛漫、今の李家の庭の主は、匂ふ紅梅だ。
 厳しい冬を乗り越え、花を咲かせた可憐な蕾は、今を盛りとかぐわしい香を放っている。
 梅の枝で囀る、小鳥の鳴き声に耳を傾けながら、玉蘭は侍女の桂花と共に、小猿の珠々とたわむれていた。
 ちりちり、と白磁の鈴を鳴らしながら、小猿は女主人の手ずからあたえられた、すももを口いっぱい、美味そうにほおばっている。
 瑞々しい果実は、よほど魅力的なのか、いつもならば、庭を跳ね回るはずの小猿は、梅の枝に見向きもしない。
 そんな珠々の有様に、桂花は、
「そんなに慌てなくても、誰も取ったりなんかしないですわよ……珠々ったら」
と、目を和ませる。
 満腹になった小猿は、今度は睡魔に囚われたのか、主人である玉蘭の膝の上に転がり込むと、うとうと午後の午睡をむさぼり始める。
 少女があやすように、背を撫でてやると、珠々はくうくうと寝息を立て始めた。
「あらあら……お腹がいっぱいになって、眠くなったのね」
 そう言って、己にもたれかかってくる小猿に、玉蘭は優しく、慈しむような眼差しを注ぐ。
「もう、そろそろお屋敷の中に戻らせた方が、よろしいかもしれませんね……」
 肌を撫でる風が、やや涼やかになったのを感じて、桂花はそう眠りこけた小猿を抱き上げた。
「私、一足先に、この子を邸内に連れて戻りますわ。玉蘭お嬢様」
「そう?お願いね、桂花」
「はい」
 侍女は頷くと、腕に珠々を抱きかかえたまま、静々とした足取りで庭を去る。嫩草緑の裾が、風にひらめいた。
 ひとり、庭に取り残された玉蘭は、息を吸い、梅の匂いのする風を愉しんだ。
 はらりはらり、と白い蝶が、ぬばたまの黒髪に羽を休め、再び、蒼天へと舞い上がる。
 母の形見である翡翠の箸が、漆黒に殊の外、映え……
 睫毛を伏せ、梅の匂いを堪能していたが、ふと、一際、見事な紅梅に心惹かれ、玉蘭はそちらへと歩み寄った。
 梅の精に心を奪われたように、鳳仙紫の袖を上げ、傷一つない、なめらかな少女の手が、梅の枝へと伸ばされる。
 黒曜石の瞳には、夢とも現ともしれぬ、儚いまでの危うさが宿っている。
 指の先が、梅の枝に触れようとした刹那、背中から声をかけられた。
「――――玉蘭」
 ぴくり、と少女の指先が震えた。
 脇から伸ばされた男の腕が、梅花薫る細枝を一振り、躊躇いもなく、手折ってしまう。
 梅の匂いが強くなった。
 捧げるように、目の前に差し出された細枝に、玉蘭は柳眉を寄せ、顔を顰める。
「……無粋な」
 いじましくも、可憐に咲く花を手折るなど、貴人のすべきことではない。
「古来より、花盗人は罪にならぬ、と言いますよ」
 無粋だと詰ってくる妻に、碧秀は微笑を浮かべた。
 言い訳よ、と顔をそむける玉蘭の胸に、あまやかな匂いただようそれを預けて、男は耳朶に唇を寄せる。
「もしも、貴女が梅花の精であったなら、このまま攫ってしまうのに……」
 梅の匂いに酔う、囚われる、それはひどく甘い。
「……ぅ。あなたはいつも、私をからかってばかり……」
 首まで赤くして、いやいや、と頭をふる玉蘭へ、碧海の向こうから来た男は、どこか寂しげな目を向けた。
「からかってなどいませんよ、玉蘭……それに、梅は私にとって、祖国を思い起こさせる花なのです」
「……碧秀?」
 一度も見たことのないような、碧秀の顔に、玉蘭は不安を煽られる。
 彼の表情があまりにも寂しげだったものだから、名を呼んで、手を伸ばさずにはいられなかった。けれど……
「いえ……何でもありませんよ。玉蘭」
 そう応えた碧秀がいつも通り、ないだ水面のような、穏やかな風情だったので、結局、続けるべき言葉を見失った。

 
「はぁ……」
 数日後、鏡台の前に腰をおろした玉蘭は、紅をはいていた筆先を休め、ふぅ、とため息を零した。
 豪勢なる家具、牡丹や薔薇、色とりどりの刺繍が施された紫薇花の深衣に身を包み、梅の匂いを纏わせながら、少女の顔色は冴えない。
 あの日、見た碧秀の寂しげな横顔が、頭から離れないのだ。
 故郷のことを口する時、彼はいつも、そういう顔をする。
 あんな顔を見てしまったら、いつものように、他愛もない悪戯を仕掛ける気にもなれない。
 文机の上にある、珊瑚の箸に目を留めると、何とも言い難い気分になる。
 玉蘭は、憂う。
 碧秀の波間の向こう、東の果ての航路を辿った、異邦の者だ。
 いつの日やらもし、祖国への耐え難い郷愁にかられたならば、彼は国に帰ってしまうのだろうか……?
 不安は消えない、どうしても。
 埒もない想いに囚われそうになった玉蘭は、ゆるりと首を横に振り、螺鈿細工の文箱へと腕を伸ばした。
 どうしたって、気分は晴れないのだから、このもやもやを払うためにも、伯母上に文でもしたためようと思う。
 しかし、運悪くというべきか、あいにくと墨が切れていた。
「はあ、残念ね」
 玉蘭は嘆息すると、立ち上がり、常に傍に控えている侍女の桂花の姿を、探そうとした。
 しかし、いつもならば必要な際、呼ぶ手間すらなく現れてくれる彼女が、今日にかぎって、何処にも見当たらない。
 桂花ー?と声を上げてみても、返事はなかった。
「今朝、お客人だと言っていたから……そちらかしら?」
 首をひねった少女は、そうひとりごちると、ならば自ら探しに行こうと、扉に手をかける。
 ウキッ、と肩に飛び乗ってきた珠々に、青磁の器から桃を与え、待っててね、と頭を撫でた。
 そっと扉を開けて、渡り廊下へと出る。
 千人の美女が暮らすという、後宮には遠く及ばずとも、数十の部屋を擁する李家の邸内は、十分に広い。
 普通ならば、迷うことは避けえぬ造りだ。
 しかし、さすがに生まれた時から暮らしている玉蘭は、そんなことはなく、すいすいと歩んでいく。
 最初こそ、貴族の娘らしい、淑やかな、静々とした歩みであったが、とんとん、と軽やかな沓の音が響くまで、さほどの時間はかからなかった。
 侍女の姿を探そうと、邸内を歩き回っていた玉蘭だったが、ある部屋の前で、声が聞こえた気がして、足を止める。
 話し声だ。
 男の、憤ったような、怒鳴るような声がする。
 何かを叩くような、器が割れるような、大きな音も重なった。
 それを窘めるような、穏やかな男の声も。
 調子に乗るなよ、若僧が……!と恫喝するような言葉が聞こえて、玉蘭は柳眉を顰める。
 ――碧秀。
 彼の名が耳に飛び込んできたことで、少女はいてもたってもいられなくて、はしたない真似を知りつつ、扉に頬を寄せる。
 耳をそばだてると、荒々しい男の声は、子供の頃からよく耳に馴染んだものだった。
 叔父の声だ。
 碧秀を蛮族の生れ、と蔑んだ叔父の。
 事の成り行きを察し、玉蘭は息を呑む。扉にあてた手に、ぐっ、と力をこめた。
「兄上は、どうかしておられる……異国の、蛮族の男に掌中の珠を下げ渡すなど……っ!」
 碧秀をなじる叔父の声に、耐え切れず、玉蘭は扉を開け放ち、部屋の中へと飛びこんだ。
「待って、叔父様……!」
 彼女が部屋に飛び込むと、叔父が「玉蘭、どうして……」と呟きながら、呆然とした顔をしていた。
 今の会話を、姪が聞いているとは、夢にも思わなかったのだろう。
 驚愕した様子で、こちらを見る叔父をキッ、ときつく睨みつけて、玉蘭は怒りのままに叫ぶ。
「酷いわ、叔父様……!私のいないところで、コソコソと……碧秀を侮辱するなんて、そんな人だとは思わなかった……!」
 幼い姪からの軽蔑の眼差しに、叔父はひどく狼狽したようだった。
 先程まで、碧秀を罵倒していた時の、意気軒昂さはいずこにいったのか、気まずそうに顔をそむける。
 ごにょごにょと「玉蘭、私は、お前の為を想って……」などと言い訳じみたことを口にする姿に、狡さを感じて、玉蘭は眦を吊り上げた。
「叔父様、まだ言うの……!」
「――もういいんですよ、玉蘭……だから、叔父上を責めるのは、およしなさい」
 怒りにまかせて、叔父を詰ろうとする彼女を、碧秀の声が押しとどめた。
「碧秀……」 
 玉蘭が顔を上げると、こちらを案じるような目で見る碧秀と、眼があった。
 夫である青年は、叔父に「失礼を」と詫びを言い、玉蘭の腕を引く。
 いつになく強引なその腕に、いやいや、と首を横に振った彼女は、無理やりに部屋の外へと連れ出される。
 常に柔和な笑みを浮かべ、穏やかな態度を崩さない碧秀の態度とは、信じられぬ。
 振りほどくことの叶わない腕の力が、ずんずんとした早い足取りが、男と女の差を思い知らされているようだ。
 それが、ひどく悔しくて、悔しくて、ううと唸った玉蘭は、強く唇を噛み締める。
 前を行く碧秀の背中が、ひどく遠く見える。
 目元が潤んで、目に映る世界が歪んでいく。
 気を付けなければ、ふせた瞳から、涙があふれそうだった。
「少しは、落ち着きましたか……玉蘭?」
 頑なに掴んでいた腕を離し、そう尋ねた碧秀が、玉蘭の顔をのぞきこんだのは、しばらく経ってからのことだった。
 力をこめすぎましたか、わずかに赤いあとがついた腕に、心配そうな目を向ける彼に、玉蘭は怒りを抑えきれなかった。
 碧秀の気遣いは、わかった。
 叔父から引き離したのも、あれ以上の醜態を、玉蘭に晒させないためになのだと。
 でも、玉蘭は、彼女自身は、そんなこと、ちっとも望んでいなかったのだ。
 喉が震える。
「何で止めたの?あなたは何も、恥じ入ることなんてないのに……叔父様に、あんな風に蔑まれる理由なんて、ひとつもないわ」
「玉蘭……」
「異国の出身なのに、李家の後ろ盾もなしに頑張っている碧秀の方が、ずっとずっと立派だわ……なのに、どうして、何も言い返さないの……!」
 悔しくて、悔しくて、玉蘭の胸は張り裂けそうだった。
 己のことを馬鹿にされるよりも、ずっとずっと。
 東の果ての地からやってきた碧秀が、この国で官使として身を立てるのは、大変なことだ。
 いつもにこにこと穏やかな笑顔を見せる、夫の姿からは、想像もつかないが、並大抵ではない苦労をしてきたであろうことは、箱入り娘の彼女だってわかる。
 きっと、蝶よ花よ、と李家の娘として育てられた己には、想像もつかぬような経験をしてきたのだろう。
 玉蘭は、許せなかった。
 そんな彼を蛮族の国の者と、蔑む叔父の傲慢ぶりが。
 何より、そんなことすら思い至らず、無知であった己の愚かさが……どうしても許せない。
「どうか、泣かないでください。お嬢様……貴女に悲しい顔をされると、どうしたらいいのか、わからなくなる……」
 そう言うと、碧秀は困ったように微笑う。
 伸ばされた彼の腕を、玉蘭は「さわらないで!」と強い口調で、跳ね除ける。
 叫んだ瞬間、少女の頬を何か、あたたかいものが伝った。
「あ……」
 涙だ。
 自覚した途端、あふれて止まらなくなったそれが恥かしく、玉蘭は袖で目元を押さえ、身をひるがえした。
 玉蘭、と伸ばされた手を振り払い、廊下を走り抜けた少女は、自室へと駆けこんだ。
 そのまま、寝台に身を躍らせて、枕に顔を突っ伏して、嗚咽をもらす。
 気の遠くなるほど泣いて泣いて、心配していて部屋の前までやってきた、侍女の桂花もそっと、水差しだけ置いて立ち去った。
 夢うつつ、すまなかったと詫びる叔父の声と、「玉蘭」という優しい声が聞こえたような気がした。


 いつの間に、眠ってしまったのだろうか。
 そう思いながら、玉蘭は涙をこぼしすぎて、腫れぼったくなった瞼をこする。
 ふと気づけば、灯火のない室内は、すっかり暗くなり、窓辺からは月光が差しこんでいた。何処からか、あまい花の香がただよう。
 花びら散る、春の宵だ。
 一体、いつの間に夜になったのであろうか、と玉蘭が呆然としていると、コツコツ、と扉を叩く、客があった。
「――玉蘭?……今は、起きていますか?」
 碧秀の声だった。
 夫の声に、少女はびくっと身を震わせたものの、返事をするのは、あまりにも気まずくて、無言で寝台にもぐりこむ。
 頭から布団をかぶって、もぞもぞと体を動かす。
 何の返事もしなかったというのに、気配でそれを察したのか、「入りますよ」と一声、扉が開けられた。
「……玉蘭、起きているのでしょう?」
 そう言いながら、碧秀が部屋に入ってきても、玉蘭は寝台の奥深くにもぐりこんだままだった。
 あんな会話の後で、しかも、散々、泣き腫らしたひどい顔で、彼とまともに目を合わせる気などなれない。
 しかしながら、穏やかな声音で「顔を出してくださいませんか……貴女の顔が見たいのです。玉蘭」と口にした碧秀は、寝台に傍らに立ち、その場を去ろうとしない。
 一刻も過ぎた頃だろうか、いい加減、顔を出せないのも息苦しくなって、とうとう根負けした玉蘭が、もぞもぞと布団をはぐ。
 満足そうに頷く碧秀に、何とも言えぬ敗北感を抱きながら、少女はボソリッと低い声で尋ねた。
「……いつも、叔父様や他の人から、あんな風に言われていたの?碧秀」
 問いかけに、異国の臣である青年は目を細め、是、とも、否、とも答えなかった。
 それが、答えだった。それ以上は、問うまでもなかった。
 玉蘭は、ああ、と呻く。
 私は。
「そんなのってないわ。何も知らなかった私が……愚かすぎるもの」
 喉の奥から声を絞り出し、少女は俯いた。
 長い睫毛が、白い貌に影を落とす。
 どれほど辛くとも、それを認めるしかなかった。
 きっと、誰もが知っていた。気が付いていた。
 最後の最後まで気付かなかったのは、玉蘭だけだ。

 碧秀は、あの碧海の向こう、東の果てより来たのだ――。

 幾度もの嵐を乗り越えて、船の難破で同朋を失いながら、ただ一縷の望みを捨てず、此処までやってきたのだ。
 二度と祖国の地を踏めやらぬかもしれぬ、と覚悟して、難関と言われる科挙に合格しても、蛮族の生れと蔑まれ、それでも。
 尽きぬ祖国への思いを、身を引き裂くばかりの郷愁を、その胸の内に抱えながら――。
 言葉に出来ぬ程、悔いが残る。
 穏やかに微笑う、碧秀の優しさに溺れて、たしめるような父や桂花の双眸から、何も察しなかったのは、己の罪だ。
 恥かしさと申し訳なさで、面を上げることすら、躊躇われた。
「少しだけ、そのまま、じっとしていてくださいね。玉蘭」
 寝台から出ない玉蘭に、碧秀はそう声をかけた。
 意味の分からぬそれに、少女は小さく首をかしげる。と、急にふわりと体が浮き上がり、目線が高くなる。唖然として、玉蘭は何度も瞬きをすると、してやったり、とでも言いたげな碧秀と目が合った。
「碧秀、何をするの!!」
「このまま寝台から、出ないつもりなのでしょう?ならば、私が運びますから、少しだけ散歩に行きましょう……どうか、お付き合い願えますか、お嬢様」
「嫌よ。あなた、文官でしょ。絶対に落とすわ!」
「ご心配なく。玉蘭は軽いですからね、非力な私でも、難なく運べますよ」
 そういう問題じゃない、と叫ぼうとした玉蘭だったが、抱きかかえられたまま、碧秀が一歩、踏み出したことで、きゃ……!と、甲高い悲鳴を上げる。
 慌てて、振り下ろされぬよう必死に、青年の肩にしがみついた。
 そのまま、彼女は部屋の外へと連れ出された。


 渡り廊下を抜け、連れて行かれたのは、李家の奥庭だった。
 折々で、祝宴をひらく庭園とは切り離された、ひっそりと、まるで人目を憚るような、白木蓮が咲き乱れる其の場所。
 喧騒の届かぬ、穏やかな静けさに包まれた其処は、李家の邸内で、玉蘭が最も愛する場所だった。
 ――月光の下、白い清楚な花が、愛でる者を知っているように、ひっそりと薫る。
 言葉もなく、空気が澄み、ただ夢のような。
 孤高に咲き誇る花を、ただ月星だけが愛でている。
 美しい、というだけでは表現できぬ、さながら夢のような風景だった。
「この白木蓮はね……」
 慈しむように、その幹に触れながら、玉蘭が口をひらく。
「私が生まれた時に、父様が植えさせたの……亡くなった母様が、最も愛した花だったから」
 そうなのですか、と碧秀が頷く。
「李家のご当主も、粋な計らいをなさる……これは、人が愛でるには惜しい。月に捧ぐに、相応しい風景でしょう」
 男の言葉に、玉蘭はただ黙って、白木蓮の枝を、それを照らす月を仰ぐ。
 この光景を前にしては、くどくどと語ることなど、無粋だ。
 月と星と、この庭と、そして、傍らの碧秀さえ居れば、後は何もいらない。
 しばらくの間、二人は寄り添って、月を愛でていた。
 やがて、思い出したように玉蘭が「私ね、」と唇をひらいた。
「私ね、碧秀……あなたの故郷のこと、何も知らないの……海の向こうには、一体、何があるの」
 東の果て、碧海の向こう、其処に碧秀の故郷がある。
 家族、友人、彼の愛した人々がいる。
 風がそよぎ、花が咲いて、四季が巡り、日が沈み、月が昇るのだ。此処と同じ、人の営みも、月も星も何も変わりはしない。
 だからこそ、怖かった。不安で、いつもいつも、何かせずにはいられなかった。
 ――いつの日か、碧秀はこの国を捨て、祖国に帰ってしまうのではないかと。
「海の向こうとて、何も変わりませんよ……月も星も風も、そして、人の想いも」
 碧秀は言葉少なに答えて、再び、月を仰ぎ見た。
 故郷と同じ風景。
 されど、天に輝くは、異邦の月だ。

 泣いてすがる父母を置いて、薄情者と詰る許嫁と別れ、多くの同胞とも共に、異国へ渡る船へと乗った。
 嵐の夜、親友を乗せた船は、波間に沈んでいった。
 ゆらゆら、ゆらゆら、あの男が最期に夢見たのは、華やかなりし、異国の幻であっただろうか。
 四隻のうち、無事に辿りつけたのは、一握りの同胞だけだった。
 多くのものを失いながら、それでも、この地を目指したのは、自らの探究心と、そして、祖国の為だった。いつか、懐かしい、故郷の地へ帰るまで――。
 五年後、迎えに来た祖国の船に、彼は乗れなかった。
 お前ならば、この国でも十分にやっていけよう、とさっさと船に乗った上役、すまなそうな顔をした同朋たち、彼らもまた故郷へ辿り着くことなく、波間の露と消えたのだと、風の噂に聞いた。
 何故なのだろう。
 何故、我らは碧海の向こうに、泡沫の彼方に、見果てぬ夢を見たのだろうか。

 狂おしいまでの郷愁にかられて、月を仰ぐ。
 異邦の月を。
 ただ、そうすることしか出来ない。

「……帰りたいの?」
 白木蓮が薫る中、玉蘭が問うてくる。
 碧秀は儚い笑みを浮かべて、「いいえ」と答えた。
「父母にもらった名を捨て、祖国を捨て、同朋を亡くしました……もう帰れませんよ」
 海の向こうの故郷には、もう二度と。
「碧秀……」
「ああ……なつかしい、懐かしい月ですね」
 男は嗚咽を漏らすことも、肩をふるわせることもなかった。
 ただ愛おしげに、月を見つめていた。
 その瞳から、こぼれたる一滴は、海の味がするのだろうか。
「……泣かないで」
 玉蘭は腕を伸ばして、碧秀を抱きしめた。
 殿方が泣くのを見たのは二度目で、どうしたらいいのか、わからなかった。けれども。
 ねえ、碧秀、と心の赴くままに、少女は語りかける。
「この国にも、月があるわ、花があるわ、あなたが失ったものを、ひとつひとつ、拾い上げるの……それでは、駄目?」
 その時、初めて、碧秀が驚いたような、虚をつかれたような顔をした。
「玉蘭……」
 ようやく、彼の素の表情を見れたのが嬉しくて、玉蘭はふわりと花開くような笑みを浮かべる。
 白木蓮より清らかで、梅よりも香り、月星よりもなお求めてやまぬ、そなたの名は。
「――そして、いつか二人で、碧海の向こう、外つ國の夢を見るの」
 男の腕が、玉蘭を抱き寄せた。
 ええ、いつか、と碧秀は言う。
 身を寄せた彼の鼓動は、波の音にも似ていた。



 幾星霜の歳月を経て、男の残した史跡は、碧海の向こうへと伝わることなる。
 異邦の月を乞うた男が、泡沫の向こうに、何を想ったのか、今はまだ、花と愛でられた女しか知らない。
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