女王の商人

モドル | ススム | モクジ

  十章  聖剣と商人 11−3    

「小娘、いい加減、起きなさい。もう伯爵家の領地ですよ」
 うつらうつら、舟をこいでいたシアは、セドリックの声と、微かに揺すられた肩に、はっと目を覚ました。ふわぁ、と小さく欠伸をすると、「もう着いたの?」と右手で寝ぼけ眼をこする。
 あぁ、とアレクシスがどこか誇らしげに、微笑みを浮かべて、続けた。
「――ようこそ、我がハイライン伯爵領へ」

 遥々王都からの長い旅路が終わり、シアとアレクシス、セドリックを乗せた、ハイライン伯爵家の紋がついた馬車は、伯爵領へと到着した。
 窓から見える景色は、長閑な農村地帯そのものだ。
 野菜畑が広がり、羊や牛の親子がのんびりと草を食む、王都の舗装された煉瓦とは異なり、砂埃の舞う道をロバが荷台を引いて横切った。見える家々は小さく、色とりどりの屋根で、まるで絵本の国ようだ。
 田舎といえば田舎なのだが、そんな風景を見慣れていないシアにとっては新鮮であり、窓に頬を寄せると、青い瞳を好奇心でキラキラと輝かせる。
 そんな彼女を見たセドリックは、「そんなに面白いものもないでしょうに……」と呆れた風に言い、ぐるりと凝った肩を回すと、「若様、お先に荷物をおろします」と、重たげな革のトランクを片手に、颯爽とタラップを降りる。
 その足取りが、心なしか軽やかで、故郷に戻ってきた喜びを感じさせる。
 口を開けばやいのやいのと、飽きもせず、子供のじゃれ合いのような事をしているシアからしても、今のセドリックの姿は、いきいきとして、普段よりも気安く感じられた。おおらかで自由で明るい、それが彼本来の、否、この土地が持つ雰囲気なのかもしれない。
「あれは――伯爵さまの馬車だっ!」
「おおっ、セドリックが歩いてくるぞ」
「若様だっ、若様がお戻りになられたんだ」
 その時、畑を耕していた農夫や、家畜の世話をしていた若者たちが、何かに気づいたように、一斉に声を上げた。「おーい、セドリック!」と干し草の山の上から、手を振る一団もいる。若様と呼ぶ声には、敬意とそれ以上に、心からの親しみが込められていた。
 まるで家族に対するような、あたたかさを感じるそれに、シアは驚きを隠せなかった。青い瞳が見開かれる。
 王都で生まれ育ったシアにとって、貴族とは古い権威の象徴であり、貴くも恐れの対象であった。アレクシスと出会い、共に行動するまでは、はっきり言って、貴族のことが大嫌いだった。
 貴族と平民は血統からして異なる、両者の間には身分という高い壁があり、決して交わることはない、はずだ。けれど、この光景は何だろうか。
 アレクシスやセドリックの周りには、旧知の中であろう領民たちが集まり、まるで家族の 帰郷を喜ぶように、気さくに話しかけ、時に馬鹿笑いをしたり、はたまた冗談を言ったり、あまりにもあたたかな出迎えだった。
 ここには、王都のような華やかさや、最新の建物も、流行りの劇場もない。けれども、シアが生まれた時から感じていた、貴族と平民の壁など、ここには存在しないようだった。
 グッ、と喉の奥からこみ上げてくるものをこらえて、少女は前を向く。
 その目線の先には、領民たちに囲まれた黒髪の青年が、晴れやかな顔で笑っていた。
 生き生きとした青年の姿に、シアはほんの少し誇らしいような、面映ゆい気持ちになる。――ここが、彼の育った土地なのだ。
 いつまでも続くかに思えた歓待の中、わちゃわちゃと旧知の知人たちに囲まれたアレクシスが、何とか人の輪を抜け出してくる。
 ずいぶんと手荒い歓迎だったのか、普段、きちんと整えられた前髪が、わずかに乱れていた。乱れた髪を直すこともせず、アレクシスはシアの方に足早に近づくと、すまなそうに詫びた。
「シア、待たせてすまない」
「ううん」
 少女は首を横に振ると、少しばかり背伸びをして、乱れた青年の黒髪をちょいちょいと直してあげる。
 柔らかな手のひらの感触に、アレクシスは少しばかり目を細め、「ありがとう」と照れることもなく、自然な風だ。

 ほのぼのとしたそれは、どちらにとっても特別な行為ではなかったのだが、周囲はそうは思わなかったようだ。
 若者は赤面し、アレクシスに向いていた注目は、俄然シアへと集まる。
「あの娘っ子、若様の嫁か?」
「人形みてぇ、えっらい美少女だな」
「若様、大人しい風に見えて、意外とやるもんだな」
 すっかりアレクシスが嫁を見つけてきたというような、そんな流れになりつつあるのに、セドリックがむかっとしたように「違いますよ、まったく……こんなじゃじゃ馬娘が、若様の嫁に相応しいはずないじゃありませんか!」と、必死に否定するものの、領民たちは、平和な田舎に久々の面白い話題だと盛り上がって、むきになるセドリックの声にまともに耳を傾ける者は、誰一人いなかった。
 鍬をかついだ農夫やら、ニワトリを抱いた中年女やら、シアとアレクシスの周りを取り囲んで、すっかり祝福ムードである。
「あのおチビちゃんだった若様がなぁ、めでてぇじゃねぇか」
「それで、式はいつなんだい?」
「だ、か、ら、誤解ですってばっ!!!」
 ちょっと、皆、聞いてます?ねえ、いつも思うんですけれど、仮にもハイライン伯爵家の従僕である自分の扱いが、ちょっとばかし雑すぎませんか?などと、もはや誰にも相手にしてもらえないセドリックを、少しばかり哀れに思いつつも、シアは同じ年頃の娘たちに、瞳をきらきらとさせながら、「若様とは、どこで知り合ったの?」「貴女のとっても綺麗なドレスねぇ、王都ではみんな、こんなのを着ているの?」と、ひっきりなしに話しかけられるのに、目をパチパチと瞬かせた。
 ハイライン伯爵家の領地で生まれ育った彼女たちにとっては、きらびやかな都会から来たらしいシアは、まさに憧れの象徴なのだ。
 話題の主役は今度はシアに移って、当分、抜け出せなくなりそうなのを察し、アレクシスがこほんっ、と咳払いをし、さりげなくシアを庇うように前に立つと、「みな、聞いてくれ」と呼びかけた。
「あたたかく出迎えてくれて、嬉しく思う。久しぶりに、皆とゆっくり話したい気持ちはあるが、客人もお疲れだろう。一端、伯爵家に屋敷に戻らせてもらう」
 アレクシスの発言に、ややガッカリとした様子の農民たちを、「紹介はまたいずれ」と
 なんとか納得させると、彼は「今のうちだ」とシアに囁くと、促すように華奢な少女の腕を引いた。
 どうやら、シアが考えていたより、領民とアレクシスははるかに気安くものを言い合える関係らしい。
 旧知の者たちと大騒ぎしていたセドリックだが、本来の役目を思い出したのか、アレクシスとシアの背中を、「若様、追いていかないでください!」と叫びながら、トランクを片手に追いかけてくる。
 なおも未練ありげな領民たちを、どうにかこうにか振り切ると、一行は一路、ハイライン伯爵家の屋敷へと急いだ。
 セドリックの弁によると、屋敷に居る彼の妹、エミリー宛てに出した手紙が、少し前に届いているはずだという。
 本邸のメイドである妹は、今の時間も仕事中で、屋敷に居るのでは、という事だった。
「妹さんって、あたしと年齢が近いんでしょう?仲良くなれたら、嬉しいわ」
 セドリックの言葉に、シアが頬を緩めて、声を弾ませる。
 大商会のひとり娘という、特殊な立場ゆえに、メイド三人娘や見習い三つ子のエルトたちは別としても、シアは同世代の友人が多いとは言えない。
 父や祖父について、商人としてのいろはを学ぶ中、一回りも二回りも上の老獪な商人たちと、蝶よ花よと可愛がられ、また時には好敵手として渡り合ってきた。
 そんな彼女にとって、まだ見ぬセドリックの妹とは、友達になれるかも、と期待をするには十分だった。
「仲良くですか……我が妹ながら、とんだはねっかえりですかねぇ、まぁ、小娘とはもしかしたら気が合うかもしれませんが」
 ぶつぶつと渋い顔で応じるセドリックに、シアは「何よ、その言い方は!」と、リスのようにぷっくりと頬をふくらませる。
 二人がそうこう話しているうちに、数歩先を歩いていたアレクシスが「もうすぐ着くぞ。あれが、ハイライン伯爵家の屋敷だ」と、前方を指差しながら、振り返った。
 青年の言葉に、シアは前方を見て、青い瞳を大きく見開く。
 緑に囲まれるようにして、巨大な邸宅が目の前にあった。
 王都で壮麗な建物を見慣れたシアから見ても、一目で歴史と風格を兼ね備えたものとわかる、そんな屋敷であった。百人ほどは住めるだろうか、端から端まで歩くだけでも大変そうな巨大さである。
 よく手入れされた庭園、花の咲き乱れる其処とは別に、裏には薬草園もある。庭園には小川も流れており、水車が回っていた。馬小屋や家畜小屋さえも、広々としたものである。
 季節には、バラの生け垣が一斉に咲き誇るのだろう。
 田舎という事もあろうが、とにかく広く、驚くほどに立派な屋敷である。
 森を背にした屋敷は、立派のみならず、美しくもあった。
 王剣ハイラインとの異名を持ち、騎士の中の騎士と、歴代の王に寵愛された、ハイライン伯爵家の本邸は、その名に恥じぬ威厳あるものであった。
 シアが屋敷のあまりの立派さに、半ば惚けている間にも、アレクシスとセドリックは勝手知ったる我が家、スタスタと正門の方へと歩いていく。
 蔦の絡みついた黒い門を押し上げようと、アレクシスが手を伸ばした時だった。
 そんな青年たちと少女の姿を見つけたのか、花壇の手入れをしていた庭師が、植物の苗を抱えながら、慌てた様子で駆け寄ってくる。
 日に焼けた顔の、いかにも善良そうな中年の男だ。
 庭師は息を切らせながら、アレクシスたちの元に駆け寄ってくると、「おや、まあ!」と声を上げた。
 顔は驚いているが、声には喜色がにじんでいる。
「アレクシス坊ちゃんと、セドリックでねぇですか!おかえりなさいまし、はるばる王都から、聞いていたより、早いお戻りでやんすね」
 男の名は、ハインツ。
 ハイライン伯爵家に仕える庭師である。
 やや訛りのある喋り方は、両親が異国の出身だからだ。
「驚かせて、すまないな。ハインツ……奥方も息災か?」
 アレクシスの問い掛けに、庭師は顔をくしゃりと、親しげにゆがめた。
「ええ、おっかあも相変わらずでさぁ、アレクシス坊ちゃんがお帰りなさっと聞いたら、喜んで、木苺のパイを焼きますよ。お小さい頃、大好物だったでしょう?エミリーと、口回りをべとべとにして、我先にと頬張って」
 身振り手振りを交えて、懐かしそうに幼い頃の思い出を語る庭師に、アレクシスも「そうだった、懐かしいな」と黒い瞳を細める。
 ハインツの奥方が焼いてくれる木苺のパイは、サクサクとしたパイ生地、甘酸っぱい木苺のソースがとろりと輝いていて、まるで宝石のようだった。
 本当に絶品で、セドリック、エミリーの兄妹と共に、先を争うようにして、お腹いっぱいになるまで、食べたものだ。
 小川の流れる森をピクニックしながら、幼い子供たち三人で、奥方お手製のパイやサンドイッチの詰まったバスケットに、わあ!と歓声を上げる。木々の間を差す陽光が、まばゆい程にきらめいて。時折、シルヴィアがそれに加わる事もあった。
 貴族としての重圧も、騎士としての苦悩も、何もかも感じておらず、ただ父母や周りの使用人たちに愛され、守られていたあの頃、それは少年時代のアレクシスにとって、もっとも幸福な記憶であった。
 しばし懐かしい過去への追憶に浸っていたアレクシスたちだったが、ハインツがちらちらと興味深そうにシアを見て、「ところで、アレクシス坊ちゃん、そちらのお嬢さんは……?」と尋ねた事で、事態は慌ただしく動き出した。
「こちらは仕事の同僚で、シア、王都のリーブル商会のご令嬢だ」
 アレクシスの紹介に、ハインツは「おやまぁ、はるばる王都からよく来てくださいましたなぁ」と、親しみのこもった声で言い、アレクシスにはこっそり「あんまりな別嬪さんで、びっくらしました。坊ちゃんの良い人ですかい?」などと、耳打ちする。
 サラサラと絹糸のような銀の髪と、輝くような白い肌、ふかい湖面を思わせるような青い瞳、最近、とみに女らしくなってきたシアの美貌は、庭師の度肝を抜くには十分すぎる程だった。
 我らが敬愛するハイライン伯爵家の坊ちゃん、アレクシスもきりりと凛々しい顔立ちといい、すらりと均整の取れた体躯といい、そんじょそこらにはいない良い男ぶりだが、それにしてもまあ、随分な美少女を連れて帰ってきたものである。
 後ろに控えたセドリックが、ぎりりと歯噛みして、今にもハンカチを噛みそうなそぶりなのは、何故だかわからないが。
「セドリック、何でそんなしかめっ面をしとる?長旅だったけぇ、腹でも下したんか?」
「うぐぐっ、何でもありません、何でも」
 ハインツは何やら、おどろおどろしいオーラを纏ったセドリックに、内心ドン引きしつつも、「んなら、よかっだべ」と言うに留めた。
 ずっと庭先で喋っていたアレクシスたちであったが、その賑やかさが耳に届いたのか、屋敷の扉が開いて、メイド服を着た若い娘が、勢いよく飛び出してくる。
「兄さんっ!セドリック兄さん!」
 飛び出してきたメイドの少女は、金の髪に若草色の瞳をしていた。年は、大体シアと同じくらいだろう。
 整った目鼻立ちは、セドリックとよく似ており、きりりとした眉は意思の強さを思わせる。ダッと一目散にこちらに駆け寄ってきた彼女は、くわっと眦を吊り上げると、
「屋敷の中に入りもしないで、いつまで外で喋っている気よ!セドリック兄さん。若様とお客様も、遠路はるばるお疲れでしょうに」
と、兄であるセドリックに詰め寄った。
「エミリー……お前こそ、由緒正しいハイライン伯爵家のメイドとして、もう少し慎みというか、落ち着きを持ったらどうだ。そんなに大声で叫んで、みっともない」
 伯爵家のメイドとしては、お転婆と名高い妹の態度に、セドリックは苦い顔で小言を言う。
「あのー……、そちらは?」
 突然のことに呆気に取られていたシアだったが、セドリックに詰め寄る彼女が誰なのか気になり、そう尋ねる。
 シアの目線に、気がついたのだろう。
 メイド姿の少女は、ぱっとセドリックから距離を取ると、先ほどの剣幕が嘘のように、にこりと可憐な微笑みを浮かべて、優雅な礼をした。
 白いフリルの縁取りの、紺色のスカートがふわりと風に翻る。
「こほんっ。若様のお客人ですね、お見苦しいところをお見せいたしました。わたくしは、ハイライン伯爵家にお仕えするメイド、エミリー=ローウェンと申します。セドリックの妹です」
 メイドの少女の勢いにペースを握られつつも、その真っ直ぐな気性を表すような、快活で生き生きとした表情に、シアは好感を抱いた。
「初めまして、エミリー。シア=リーブルよ。よろしくね」
 シアが名乗ると、エミリーはにこりと愛嬌のある笑みで応じた。
「はい、シア様ですね。いつも兄がお世話になっております」
 急に淑やかに振る舞うエミリーに、セドリックは呆れ顔で、「まったく……我が妹ながら、常々外面だけはいいな」などと、ぶつぶつと愚痴る。そんな愚兄の足を、エミリーは靴の踵で思いっきり、容赦なく踏んづけた。うぎゃあああっ、と憐れな断末魔の悲鳴が上がるが、気のせいだ。たぶん、きっと。
「あらあら、坊ちゃまも、セドリックも、そんなところで立ち話なんてなさって……エミリー、ほら荷物を受け取って、早くお屋敷の中に、ご案内しなきゃダメじゃない。ねえ?」
 そう、おっとりした声が響く。
 シアたちがそちらに顔を向けると、屋敷の扉の方から、歩いてくる人影があった。
 ひとりは、セドリックと似た顔の、優しげな中年の女性だ。妹であるエミリーにもよく似ており、一目で血の繋がりがあるとわかる。
「奥方様、母さん!」
 セドリックが、そう声を上げた。
 空色の上品な日傘を持ち、楚々として優雅ながら、堂々とした足取りで、こちらに歩み寄ってくる貴婦人――その名は、ルイーズ=ロア=ハイライン。先代のハイライン伯爵家夫人にして、アレクシスの母親だ。
 淡い金髪と、灰色の瞳。
 美しく凛とした貴婦人と、シアは王都で顔を合わせて以来の再会となる。
 端整だが、どこか冷たさを感じるような美貌が、ふっ、と緩む。
 ルイーズはよく通る声で、
「お久しぶりね、シアさん」
と、再会の挨拶をした。
モドル | ススム | モクジ
Copyright (c) 2019 Mimori Asaha All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-