モドル | モクジ

  竜の翼 下  

 その夜、村の全ての家々から灯りが消えて、家畜も眠りについた頃、コンコン、と窓を叩く音がした。
 窓を叩くそれに起こされたクルクスは、ごしごし寝ぼけ眼をこすりながら、カーテンに手をかけた。
 その間も、窓には小石が、カツンカツン、とあたり、ささやかな音を奏でている。
 カーテンを引いて、窓を開けた。
 途端、凍てつくような夜の空気が、部屋に吹き込んでくる。
 瞬く星々と、白くぼんやりとした月の下、エインが「よっ」と片手を上げた。
 何のつもりが、毛皮の上着を羽織った少年は、にこにこと笑っている。
 大人たちにバレたら大目玉だろうに、それを気にかける素振りはない。
「ばっ、エイン……!」
 馬鹿エイン、今、何時だと思ってるんだ!と怒鳴りかけ、クルクスは慌てて、両手で口を押さえた。
 こんな場面を、父に見られた日には、拳骨ぐらいではすまない。
「こんな時間に何だよ、エイン……朝にしろよ」
 クルクスが声をひそめると、エインは不敵に唇をつり上げて、今じゃなきゃ駄目なんだと言った。
「甘いな、クルクス……誰にも見咎められない今が、好機なんだろう」
 おりてこい、とエインは言った。
「東の森に行こう。竜の翼に触れて、あいつらの鼻を明かしてやろうぜ」
 クルクスはすぅ、と息を吐いて、怒鳴りかけたのを我慢した。
「馬鹿、馬鹿、訂正するよ、お前は、大馬鹿だ。エイン」
 何が、東の森だ。
 何が、竜の翼だ。
 あんなヨタ話を真に受けるなんざ、愚か者としか言いようがない。
 ふんっ、とクルクスは鼻息を荒くした。
「……お前は、英雄になりたくないのか?」
 ひくっ、とクルクスは喉を鳴らした。
 彼の心を見透かしたように、窓の下、コバルトブルーの双眸が、クルクスを射抜く。
「認めさせてやりたいだろう。……あいつらに」
 あいつら、とは村の子供たちか。
 己を決して受け入れようとしない、村の大人たちか。
 それとも……

 渋々と持っている服のなかで、一番厚い鹿の毛皮を着込んで、クルクスは裏木戸をくぐった。
 麦穂の髪の少年は、待ちくたびれたように、掌でぽーんぽーんと、白い小石をもてあそんでいる。
 その石は闇夜にあって、白く鈍い光を放っていた。
 何だよ、とクルクスが問うと、エインは、
 「この石、暗闇で光るんだよ。森の中で迷ったら、これが帰り道を教えてくれる」
と、事も無げに言った。
「……変な石だな」
「親父の遺した鞄をあさったら、出てきたんだ……何でも、特別な石だって、高値をつけて売りさばいていたらしい」
「……うさんくさい。嘘っぱちじゃないのか?」
 胡散臭いと眉をひそめるクルクスに、エインはハハハッ、と愉快そうに笑った。
「ばーか、これが、そんな特別な石だったらなぁ……きっと、親父だってもうちょっとマシな人生が送れたさ」
 そこから先は、お互いに黙り込んで、何も喋らなかった。
 エインが道々で光る石を落としながら、東の森へと向かう。
 村のすぐそばと言っても、鬱蒼とした森の前まで来ると、足がすくんだ。
 竜の棲む森には、近づいてはならぬ。
 そう言われる東の森は、昼間でも好きこのんで近づきたくないのに、夜の闇に包まれたそこは、よりいっそう不気味に見える。
 遠くから、獣の遠吠えがした気がした。
 この先に進めば、一生、森から出られないんじゃないか、そんな錯覚を抱きそうになる。
 足がすくんで、どうしても一歩、前へと踏み出せない。
「……来ないのか?クルクス」
 振り返ったエインが、首をかしげる。
「うるさい。お前こそ、臆病風に吹かれるなよ。エイン」
 足が震えるのを悟られたくなくって、クルクスは胸を張ると、わざと足早に歩いた。
 梟の鳴き声が聞こえる。
 暗く、静謐で、どこか犯しがたい雰囲気に満ちた森の中。
 暗い暗いそこを、奥へ奥へと入り込んでいく。
 エインが道々、光る小石をおとしていなければ、とっくの昔に帰り道を見失っていただろう。
 小さな灯火のようなそれは、互いの姿すらよく見えず、ひどく心細い。けれど、鬱蒼としげる森の中、それが唯一の光源で、命綱だった。
 東の森には、竜が棲む。
 竜の翼に触れられれば、どんな願いだって叶う。
 そうすれば、エインもクルクスも――
 深く、深く、森の奥へ。
 ガザガサッ、と木々の枝が揺れて、バサッ、と羽音がした。
 頭の上を、黒い影が横切る。
 蝙蝠だろう。
 驚いて、心臓が止まりそうになる。
 これ以上、進んだら、戻れなくなるんじゃないか……クルクスは不安になる。
 あれから、数時間は歩き続けている。なのに、自分と同じだけ歩いているはずのエインは、平然としていた。
 その背中に、もう引き返そう、という言葉がクルクスの喉をつきかける。けれど、意地だけで、拳を握りしめた。
 少年たちが疲れはて、時間の感覚が曖昧になってきた頃だっただろう。
 森の木々の隙間から、細い光が降ってくる。
 空が夜の黒から、暁の色へと移り変わっていく。
 薄紫の、夜がとけゆく空の色の……。
 ――夜明けだ。
 クルクスは思った。
 もうすぐ、夜が明けるのだ、と。
 森が、視界が、夜の闇が晴れていく。
「クルクス……」
 あれ見えるか、エインが天を指差した。
 風が凪いだ。
 黒い翼が悠然と空を切り裂き、それは飛翔していく。
 なにかもわからぬ、巨大な黒い鳥のようなものが見えた。
 大きな翼が羽ばたいて……夜明けの空を舞う。
 後になって思い返せば、ただの目の錯覚だったのかもしれない。
 クルクスもエインもほぼ徹夜で森を歩いていたし、あれは、ただの幻だったかもしれない。
 ただ、その時、彼らは信じた。
 ……あれが、竜だ。
 あれが、竜なのだ。
「クルクス、走れ!」
 エインが高らかに叫んだ。
 そうして、言葉通り、彼は疾風の如く走り出した。
 疲れなど微塵も感じさせず、地面を蹴りつけ、森を駆け抜けて行く。
 速く、速く、竜を一目……!
「待てよ!エイン!」
 クルクスもその背中を、追おうとした。けれど、出来なかった。
 一晩、道なき道を歩き続けた足は、鉛のように重い。
 もう一歩だって、歩けない。
 動けない。
 クルクスは地面に手をついた。
 ちくしょう、がらがらにかすれる喉から絞り出す。
 頬をしょぱいものが伝った。
 苛立ちのまま、拳を木に叩きつける。

 ……馬鹿だ。お前みたいな馬鹿、見たことないよ。エイン・エンドワース。
 なんで、そんな風に自分を信じられるんだよ。
 ……嫌いだよ。
 僕に絶対に出来ないことをやる、お前が。

 そんなクルクスの目の前で、エインは黒い翼が見えた方角へと、風と同化しながら走っていく。
 なびく髪も、吐息も、風にとけて。
 駆けて、駆けて、駆けて、少年の足が地面を蹴りつける。
 そうして、夜明けの空に手を伸ばしながら、エインは――翔ける。
 
 それを見た瞬間、クルクスは悟った。
 きっと、理屈じゃない。
 英雄になるのは、何かを成し遂げるのは、馬鹿げた幻想を掴むのは、賢い奴でも、物わかりのいい奴でもない。
 翔べ、と言われたその瞬間、何かも失っても、迷いなく、その道を駆け抜けられる奴なのだと――。
 ……ああ。

 彼が己の限界を悟ったのと同じくして、窪地に落ちていたエインが、そこからよじ登ってきた。
 その後、彼らふたりが、どうやって家に帰りつくことが出来たのか、クルクスはさっぱり覚えていない。


 数年後、十五になった年の冬、エイン・エンドワースは軍に入るために、村を出て行った。
 旅立ちの日、見送りに来た人々は、ひどく少なかった。
 つい最近、村長の息子であるカイが、医学の勉強に励むため、村を出立した際には、村人総出で見送ったというのに……大した差だ。
 それでも、旅人の装いをしたエインは気にした様子もなく、わざわざ見送りにきたクルクスに、「来なくても、良かったのに……意外と暇だな。クルクス」などと、のたまわった。
 不思議そうな表情からみるに、満更、冗談でもなさそうだ。
 ――ふざけるなっ!僕がいなきゃ、エイン、お前の見送りに来てるのは、ちょっと頭の螺子がゆるんできてるジーベ婆さんだけだ!
 そう怒鳴りつけてやりたいのを、クルクスはあらん限りの忍耐で、それこそ必死に耐える。そうでなければ、旅立ちの朝だというのに、自分以外、見送りの者がいないエインが可哀想だと思ったからだ。だというのに、とことん、人の気遣いを無にする男である。
 父と同じように、村を捨てていくエインに対して、村人たちは冷淡だった。
 あんなロクデナシの息子が、村を出て行ってくれるなら、歓迎すべきことだ、と村長が息子を送り出す宴の席で呟いたのを機に、村の大人たちはエインに対して、よりいっそう辛く当たるようになった。
 子供たちも、親に従い、その結果がこれである。
 冬の印を呼ぶ風が、枯れ木を揺らすのを横目で眺めながら、エインの旅立ちに暗い影を感じて、クルクスは白っぽい息を吐く。
 皆、馬鹿馬鹿しい、と思った。
 もうすぐ、子供とは言えない年齢になるのに、いまだに軍で出世し、英雄になるなどという夢物語を口にするエイン・エンドワースも。
 父親の影を引きずるあまり、まともに彼を見ようとしない村人たちも。
 なにより、村のガキの英雄が本物の英雄になれるわけないと知りながら、それを止め切れない自分の愚かさも、何もかも腹立たしかった。
 馬鹿だ、馬鹿だな、エイン。
 お前やお前の親父みたいな、無謀な賭けに出る奴が、世の中には腐るほどいるんだよ。そんぐらい、わかってろよ。
 だから、クルクスは言ってやったのだ。エインに。
「いい加減、目を覚ませよ。エイン……お前は、英雄なんかになれないよ。ただ、ここから逃げたいだけじゃないか?」
 お前、いつまで、親父の影を追いかけてるんだよ。そんなもの、何処にもないんだよ。だって、だってな、エイン――
「竜の翼なんて、結局、見つけられなかったじゃないか……」
 エインは。
 いまや、すっかり体格の良くなった麦穂の髪の少年は、クルクスの言葉を否定しなかった。
 その代わり、親しげに、だが、どこか寂しげに微笑った。
 なあ、クルクスと。
「お前は、俺のことを嫌いだったかもしれないけどな、クルクス……俺は、お前のことがずっとずっと、心底、羨ましかったさ。自分の居場所があるお前のことが……憎くて憎くて、でも、憧れてやまなかったよ」
 妬ましかったよ、と言いながら、エインは笑っていた。
 くしゃり、と顔を歪めて、泣く寸前の表情で、口元だけが笑っていた。
 じゃあな、と震える声が言う。
 エインの革靴が、赤茶けた土を踏みしめる。少年の背中が木々の間にまぎれて、遠ざかってゆく。

 それっきり、エインは二度と、村に帰ってくることはなかった。


 ……日記の日付けは、そこで途切れている。
 次の頁に傷がつくほど、殴り書きのようなものがあったはずの頁は破かれて、今や、その痕跡すらも薄れつつある。
 クルクスが再び、また何事もなかったかのように日記を書き出すのは、あの日から、一年も経ってからだ。
 失ったものの大きさを示すように、何かの意地に囚われたように、その後、彼の日記にエイン・エンドワースの名前が登場することはない。
 エインが村を去った日からも、クルクスはリンツ牧師の伝手を頼って、細々と学び続けた。
 あれから、十余年あまりが過ぎた今、彼は村の子供たちに簡単な読み書きを教え、今も生まれ故郷の村で暮らしている。
 幼馴染の娘と結婚し、ささやかながら家庭を持った。
 少年の頃、思い描いていた未来とは、まったく違うが、これはこれで、そう悪い日々ではない。
 ――クルクスが愛し、嫉妬し、焦がれた人々の話をしよう。

 頑固で口うるさかった父は、すっかり老いた。
 男の唇から、最早、エインの名が紡がれることはない。
 毎日、毎日、泣きもせず、笑いもせず、ただパンを焼くことのみで、家族を守り続けた父の背中は、もう、ずいぶんと小さくなった。

 エインの母親は、都から出世した息子の迎えがよこされて、意気揚々と故郷の村を出て行った。
 村を捨てる瞬間、女は誇らしげに胸を反らせ、ひどく美しい横顔をしていた。
 クルクスが物心ついてから、あの人の笑顔を見たのは、その、一度だけだったと思う。

 村の子供たちの英雄、大人たちの鼻つまみ者だった、エイン・エンドワースは。
 大望を抱いて、村を飛び出した少年は軍に入り、その勇敢さで軍人としての名声を得た。
 少年のことを、口先だけのロクデナシの息子と蔑んだ大人たちは、エインの勇名が轟くや否や、ころりと手のひらを返したように、彼のことを讃え、あまつさえワシが面倒を見てやったなどと、誰しもわかる大ぼらを吹いた。堂々と、恥かしげもなく。
 バツの悪い顔をする者も、いないではなかったが、少数派だった。
 そんな身勝手な年寄りたちを、エインの昔の仲間や、クルクスは冷めた視線で見ていた。けれど、そうしている間も、本物の英雄となったエインが、故郷の土を踏むことは、決してなかったのだ。
 武勲を上げ続けたエインが、バルザール将軍に気に入られて、婿養子になったのだと風の噂で知った。
 しかし、権力に近づき過ぎたのが災いしたのか……その後の政変で、側近に毒を盛られ、あっけなく命を落とした。
 英雄とまで呼ばれた男の最期としては、あまりにも皮肉すぎる。
 自分の存在を、周囲に認めさせる為だけに、足掻き続けた少年の末路としても。

 おい、エイン。
 エイン・エンドワース――!!お前はこれで、良かったのか?
 お前が掴みたかった未来はもっと、お前が目指した頂はもっと、もっと……!

 湧き上がってくる感情が抑えきれず、もはや青年とも言えぬ年齢となったクルクスは、震える手で、ポケットの小石を握りしめた。
 あの竜の姿を探しに行った夜、エインが持っていた光る小石だ。
 子供の手にちょうど、ひびわれた大人の手には、小さすぎる。少年だった彼の日、ひどく眩く、闇夜に灯火のように見えたそれは、昼間、陽の光を受けると、ただの白い石だった。
 奇跡は、起こらない。竜の姿を見ることは、もう二度と叶わない。
 当たり前のそれが、無性に哀しくて、クルクスは自嘲気味に笑った。

 やっぱり、お前のことは嫌いだよ。エイン、エイン・エンドワース。
 英雄になろうが、なんだろうが……だって、お前、ほら吹きだろう?
 嘘つきエイン、お前、まだ竜の翼を掴んじゃない。……悔しかったら、否定してみろ。なあ。

 一瞬だけ、クルクスのまぶたの裏に、麦穂の髪の少年の幻影が浮かんだ。
 エインは空の色合いの双眸をすがめて、困ったように、肩をすくめている。
 そうして、最後は目を逸らす。しょうがないだろう、と言いたげだった。馬鹿、馬鹿エイン、そんな顔で許すと思ったら、大きな間違いだぞ。
「……許さないって言ったって、結局、許すんだろう?お前は、そういう奴だよ。クルクス」
 どこからか、居るはずもないエインの声が聞こえた気がして、クルクスはまぶたを上げた。
 そうした瞬間、幻想を追い求める少年の慟哭は消え去り、物わかりのいい、ちょっとくたびれた大人の顔が戻ってくる。
 扉を開けて、外へ出る。
 クルクスの目に飛び込んでくるのは、何処までも広がる、青い、青い、あの少年の瞳によく似た空だ。コバルトブルーの双眸。
 たなびく白い雲は、掴みきれなかった竜の尾にも似ていた。
「先生――!」
 村の外れから、生徒である少年が駆け寄ってくる。
 頬を上気させ、実り過ぎた麦穂の如き髪を、風になびかせて。
 風が、吹いた。
 あの日よりも更に青い空を見て、クルクスは子供に手を振りかえすことで、こみ上げてくる感情に耐える。
 もれることのない嗚咽が、誰がためのものか、彼には終ぞわからなかった。
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