水盤の都

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 人の時間にして数年、精霊には瞬くほどの月日が過ぎて、あ奴は十三を数え、成人の儀を迎えていた。
 幼子の時のように、足繁くとはいかなくなったが、それでも、ルイスワーンは暇さえあれば、奥庭にやってきて、水盤を覗き込む。
 妾は気が向けば、顔を出すし、出さずともあ奴は気にせず、沙羅双樹の幹にもたれかかっていることも、時折、戯れに、弦をつま弾いていることもある。昔は、聞くに堪えなかったそれは、いつしか、耳に心地よいものになっていた。最早、からかい甲斐のないことだ。
 昔は、五月蠅い程に騒がしかった末の王子は、いつしか凪のように落ち着いた空気を、身に纏うようになった。
 誰も近寄らず、鳥のさえずりしか聴こえぬ奥庭で、書物を紐解き、思索に耽る姿は、かつて、水鏡で垣間見えた亡き兄の面影と重なる。
 幼子から少年へと変わる中で、心の在り様も移りゆこうが、しばらぬ会わぬうちに、茎のように伸びゆく背や、子供の殻を一枚、一枚、脱ぎ捨てていくようなそれは、蝶の羽化にも似て、鮮烈でさえあった。昔と変わらぬのは、あの瑠璃の瞳ぐらいだ。
「久しいな。ルイスワーン」
 青草に腰をおろしたあ奴に、妾は、睡蓮咲く水盤から首だけ出して、そう声をかけた。
 朝露を、睡蓮の葉がはじく。水面が、光きらめいていた。
「リルファ」
「ひと月近くも、姿を現さぬからな。ついに酔狂な奥庭通いも飽いたのかと、妾も、胸を撫で下ろしていたところだというのに」
 忙しかったんだ、とルイスワーンは肩をすくめ、
「しばらく、ナーラーイ兄上のお手伝いをしていたんだ。最近、ラーナヤーナ川の向こう岸が、騒がしいからな」
と、続ける。
 くつろいだ様子で、「翡翠宮殿の中でも、此処は静かでいい」と呟くと、あ奴は、髪を縛っていた翠玉の飾り紐をほどいた。
 上の王子チャンルーが世を去って以来、残された二人の王子にかかる重石は、より増したらしい。
 ルイスワーンの言と、水鏡からの憶測であるが。
 異母兄弟であり、普通ならば王位継承争いで、多くの血が流されていてもおかしくないが、兄弟仲睦まじく、また、こ奴自身に野心もないことから、兄であるナーラーイとは、争わずに済んでいるようだ。
 しかし、やがて年老いた父王が退位し、後継者を定める時、内紛が起きないと、誰が言えよう。
 ――二番目の王子は、謀で命を落す。故に、おぬしは王となるのだ。
 妾の先見が正しくば、未来は既に決まっている。
 それはそれとして、ルイスワーンの言が、少しばかりに気にかかった。
「川の向こう岸に、何があるというのだ?」
 ああ、とあ奴が応じる。
 久しく見せたことない、険しい目をしていた。
「そちらで暮らすキナ族が、力をつけているんだ。最近、強引に領土を広げているし、もしかしたら、戦になるかもしれない」
 戦か。
 妾には、よくわからぬ。
「奪ったり、殺し合ったり、人というのは騒がしいな。どうせ、精霊と比するば、はかなく短い生よ。そう、散らすこともなかろう」
「別に、殺し合いたいわけじゃない。誰が悪いわけでも。ただ守りたいもの、守らねばならぬものがあるから、剣を取るだけだ」
 ルイスワーンは物分りの悪い教え子を、諭すような声音で言ったが、妾には、外の世界のことはよくわからない。
 幾千幾万の夜を越え、どれほど長く生きようとも、水盤に閉じ込められた水妖には、人の争いなど、遠い夢の如き出来事であった。
 象に乗り、猛々しく剣を振るう将兵たちも、流されるであろう夥しい血も、打ち捨てられるであろう骸も、全てが遠い。
 こ奴は、そんな妾を責めるでもなく、慈しむような、ひどく優しい目をしていた。――リルファは、それでいい。どうか、そのままでいて。
 その、齢十三とは思えぬ、悟ったような言が気に食わず、妾は水盤の淵まで身を乗り出した。
「他人事ではあるまい。そうなれば、おぬしも戦に行くのであろう?」
「ナーラーイ兄上を、戦死させるわけにはいかないからな。私が行くさ」
 淡々とした口調だった。恐れもなく、怯えもない。
 ただ、己が役目を、在るがままに受け止めているような。
 それに、とルイスワーンが続ける。
「あの夜、誓っただろう。ナーラーイ兄上を、必ず、守り抜くと……ラフナにも、そう約束した」
「義理堅いことだ。ラフナ……ああ、あの口の利けぬ娘のことか」
「そうだ」
 ルイスワーンは、頷く。
 かつて、翡翠宮殿(エスディアル)を水鏡に映した時、二番目の王子の傍らに常に控え、慎ましやかに微笑んでいた、側仕えの娘。
 こ奴の兄という以外に、ナーラーイという名に、さしたる印象があるわけではない。
 腕は良いのに、狩りに行く度に、獲物を逃がしてしまうと、ルイスワーンが語っていたぐらいであるから、弱きものに情をかける性質なのであろう。
 しかし、それだけではなく、側仕えの娘を見る王子の眼差しと、王子を見つめる娘の目は、同じものであった。
 大勢の者にかしずかれていても、二人だけに心通ずる、絆のようなものがあるのであろう。
 たとえ、言葉を交わさずとも、それを、人は恋と呼ぶのかもしれなかった。
「感心な心掛けだが、象使いの娘が、王子の妃にはなれまい?お前たちは、やたら血筋というものを、重んじたがる」
 妾がそう尋ねると、ルイスワーンは小さく首を傾げて、関係ないさ、と応える。
「昔、父上がおっしゃっていた。人には、魂の伴侶がいて、男でも女でも、身分が違っても、その相手に出逢えることは、至上の幸福だと。私は」
 あ奴の言葉を、最後まで聞き終えぬうちに、妾は水盤の底にもぐった。
 機嫌を損ねるであろうことは、承知の上だ。
 リルファ。
 リルファ。
 遠く、ルイスワーンの呼ぶ声が聞こえる。あやつが、勝手に付けた名ぞ。妾は、水の精霊(ジン)。名などいらなかった。
 先祖が妾の真名を奪い、この檻に閉じ込めた。
 その末裔たる王子が、仮初めの名を与える。
 愛しいのか、憎いのか。
 奪い、縛り、与える。お前たちは、何なのだ。――わからぬ。わからぬ。
 リルファ。
 声は、泡ととける。ひかり届かぬ水盤の底に沈んで、妾は瞼を閉じた。


妾が、姿を見せても、見せなくても、ルイスワーンの態度は些かも変わらなかった。
 ラーナヤーナ川の向こうで、勢力を広げているという、キナ族。
 その緊迫した状況を物語るように、昔より訪れる頻度は減っていたが、奥庭でひとりの時間を過ごしては、ぽつり水盤に言葉を投げかけていく時もあり、ただ黙して、青い睡蓮の花を愛でている時もある。
 周辺の部族を統合し、進軍を続けるキナ族とは、いつ戦が起こってもおかしくない、とルイスワーンは眉を曇らせていたが、ある日、「今度、キナ族から和解の為の使いが、遣ってくることになった」と、零した。
 妾は、姿を見せぬ代わりに、「キナ族には、気をつけよ」と、その背中に声をかけた。
 あ奴は、懲りるというのを知らない者だったが、そう、愚かではなかったようだった。

 ――水鏡に映るは、翡翠宮殿。

 数年ぶりに見る宮殿では、キナ族の使者たちを迎えて、華やかな宴が開かれているようだった。
 楽師達の音色に合わせて、薄紗だけを身に着けた踊り子たちが、優雅に舞い踊る。
 卓上には、花の形に彫りぬいた、野菜や果物が積み上げられ、着飾った淑やかな美女たちが、使者達の目を楽しませる。
 しかしながら、キナ族はともかく、迎える水盤の王国の者たちに笑顔はなく、使者を歓待する言葉すら、どこか寒々しい。
 上座では、水盤の都の老王が、武芸に長けると名高い次男、ナーラーイ王子に脇を支えられるようにして、なんとか挨拶をしているところだった。
 数年前に長子チャンルーを亡くし、自らも病を得て以来、すっかり気弱になり、覇気のない老王と比べて、キナ族の使者達は皆、堂々としたものであり、また支配する者の驕りを感じさせた。
 使者たちを率いるのは、キナ族の長の甥にあたるという、眉目秀麗な若者だった。
 すらりとした見目は、荒々しいものを感じさせなかったが、その隙のない身のこなしは、熟練の武人たるを感じさせる。
 宴もたけなわといったところで、スアと名乗った若者は、立ち上がると、張りのある美声で王に語りかける。
「水盤の都を治める、尊き御方に、我が君より貢物がございます。どうか、お納めくださいませ」
 その言葉と同時に、キナ族の者たちが、紫の布に包まれた荷を持ってくる。
 スアは、その者たちに任せず、荷を片手に自ら王の元に赴いた。
 よろよろと杖をつく父王に代わり、ナーラーイ王子が席を立つと、使者と向き合う。
 荷を手にしたスアは、にこりと晴れやかな笑みを見せると、紫の布をほどいて、そこに隠した刃を、ナーラーイの首筋に向けようとした。
 しかし、暗殺という凶行は、その寸前で食い止められる。
 屈強たる、キナ族の将の腕を掴んだのは、黒髪の麗しい乙女だった。鼻先でかおる甘い香に、スアは眉を寄せる。
 宴の最中、給仕をしてくれた少女に、見覚えがあった。
 紅い紗からのぞく黒髪が美しく、瑠璃の瞳が印象的だったので、目を惹かれたものだ。しゃら、と黄金の耳輪が揺れる。
 黒髪の乙女は、愛くるしい微笑みを浮かべると、「異国の将軍殿、宴の席で無粋なものを持ち出すものでは、ありませぬ」と、やや低い声で言った。
 同時に、頭に被っていた、紅い紗が天井高く舞った。
 どうしたことかと、固唾を呑んで見守っていた者たちから、悲鳴が上がる。
 ひときわ高い声を上げたのは、間一髪のところで、命を救われたナーラーイ王子だった。
「ルイスワーン……お前っ!」
 兄に迫られたルイスワーンは、しまったと舌を出し、されど、悪びれない声で言う。
「宴の席での戯れです。ナーラーイ兄上、スア殿、寛容な御心で、お許しを」
 おどけたようなそれは、凍りついた場の空気を和ませる。
 勇猛果敢で知られるキナ族の戦士らしく、スアは即座に平静さを取り戻すと、男か、と苦笑する。
「残念だ。匂うような咲き初めの蕾かと思えば、とんだ食わせ者であったな。いや、獅子の子か」
「騙したことは、詫びねばなりませんね……マハタート王の第三子、ルイスワーンと申します」
 唖然とする周囲を置き去りに、ルイスワーンは歴戦の将に対しても、臆することがなかった。
「くくくくっ、かーはははっ、お前らしくもない、見事にいっぱい喰わされたな。スア」
 その時、キナ族の客人たちの中から、愉快がるような笑声が上がった。
 この状況で笑い転げるなど、恐ろしい程の度胸である。
 部族長の甥であり、一族を代表する戦士のスアに、そのような物言いができる相手は、限られている。
 豪快に笑う髭面の大男に、キナ族の勇者は額を押さえた。
「我が君……」
 笑い転げていた髭面の大男は、あご髭を撫でると、笑うのを止め、鷹のような鋭い眼光で、周囲を睥睨した。
 支配者然とした威厳に、誰もが息を呑む中、ルイスワーンだけが、正面から、その男を見つめ返す。
 その恐れもない、敵意もない、なんとも形容し難い眼差しに、我が君と呼ばれたキナ族の長は、嬉しそうに口角を吊り上げた。
「少年の身で、我がキナ族を誇る勇敢な将、スアを謀るとは、大したものだ。ルイスワーンとやら」
「キナ族の長にお褒め頂くとは、恐れ入ります」
「その死をも恐れぬ度胸に免じて、此度、水盤の都に攻め入るのは、潔く諦めよう。ただし……」
 条件がある、とキナ族の長は、言葉を続けた。
「そなた、我が末の娘、シャラクーダを娶るがいい。親の欲目を抜いても、聡く、美しい娘だ。そなたとなら、似合いの夫婦になろう」
 長の突きつけた条件に、ルイスワーンは一瞬だけ、躊躇うような素振りを見せた。
 されど、その瞬間、酒を満たした卓上の杯が、大きな波紋を描く。
 吐息を吐き出し、面を上げた時、末の王子の顔に迷いはなかった。

 そう、それでいい。

 ふたつ季節が巡りて、マハタート王は、第三王子を王太子と立て、次男、ナーラーイ王子は、側仕えの娘ラフナを妻とし、臣籍へとくだった。
 王太子となったルイスワーンは、キナ族の長の娘シャラクーダと婚姻を結び、数年の後、王として即位し、王妃との間に子も授かり、安定した治世を築いた。
 重臣と共に、精力的に政務に携わり、民から敬愛された。
 その間、水盤の妖の元を訪れることは、一度としてなかった。

 賭けは、引き分けだな。ルイスワーン。兄は謀で命を落とさずにすんだ。だが、おぬしは、王になっただろう?
 あ奴が即位した日、妾は、水鏡を見るのを止めた。
 もう二度と、未来(さき)を視ることもあるまい。


精霊(ジン)からすれば、わずかな時間、人の歳月にして、十年程が経った時だろうか。
 あれ以来、訪れる者もなかった水盤にあ奴がやってきたのは。
 月あかりの眩しい夜だった。睡蓮の葉の間から、妾が貌をのぞかせると、今や、王としての威厳を備えた青年が、嬉しそうに破顔した。
「リルファ」
 初めて、水盤をのぞいて溺れかけた時、こ奴は五歳になったばかりの幼い子供だった。
 黄金の飾り帯、金剛石を嵌め込んだ宝剣、王としての風格を纏い、精悍な面立ちから、あの幼い日を回顧するのは難しい。
 それなのに、瑠璃の瞳の曇りなさと、妾を見る眼差しだけが昔と同じだから、嫌になる。
 王となった今、昔のように、奥庭でふらふらしている身分でもあるまい、と妾は呆れ果てた。
「何をしに来た、おぬし。暇なら、王としての責務に励むがいい」
「つれないな。気を惹く為の、そなたの表情も、実に魅惑的だが」
 昔、どこかで聞いた覚えのある台詞であった。
「……おぬし、やはり、馬鹿なのではないか?いや、育て方が悪かったのか」
「相変わらずだな。十年ぶりの逢瀬だというのに」
 そっけなく応じてやると、ルイスワーンは肩を落とす。
 こ奴のこういった性分は、歳月を経ても、変わらぬらしい。
 それで、と妾は先を促した。
「もう一度、問おう。おぬしは、何の為に来たのだ」
 ルイスワーンは真顔になり、賭けの決着をつけにきた、と真摯な声で告げる。
「賭けは、引き分けだ。おぬしの兄は助かった。その代わりに、おぬしは、王となった。妾の先見も、及ばなかったな」
「ならば、リルファ……何故、賭けに負けるように仕向けたんだ?水盤に閉じ込めた我ら血族を、厭うていただろう」
「慈悲でなくば、気まぐれだ。おぬしは、王として、全てを得たのだから、不服なぞ口にするでない」
 違う、とルイスワーンは、少し哀しげに首を横に振る。
 若く、自信に溢れた王とは思えぬ、寄る辺のない子供のような顔だった。
「私は、全てを手に入れた。だが、一番、叶えたい願いだけは、叶わなかった。そなたを、解放したかったよ。この、人の業が作り出した檻から」
 下らぬことを言う、と妾は嗤った。
 水妖の力なくして、この都は栄えぬ。
 そうだろう、ルイスワーンよ。
「リルファ」
「女々しいぞ。王たる者が、幼い子供のような頑是ない我が儘を言うな」
「許してほしいとは、言わない。どうか、恨んで、憎んでくれ」
 世話のかかる奴だと思いながら、妾は久方ぶりに、水盤から身体を出すと、少女のなりを取った。
 ルイスワーンの前に立つと、見下ろすような体躯の差に、過ぎ去った年月の重みを感じる。
 精霊(ジン)にとっては、瞬く間、その短い歳月で、人は生まれ、育ち、命を繋いで、最後は水ながるる処に還っていく。
「不甲斐ない、おぬしの為に、妾が最後の先見をしてやろう。よいか、よく聞くがいい、まことに最後ぞ」
「先見……?」
「おぬしは、頼りないなりに王として、盤石の治世を築き上げるだろう。子孫にも恵まれて、この水盤の都の王として長寿をまっとうし、幸せな生涯を送る……どうだ、水の精霊の、有難い言葉ぞ。深く感謝するがいい」
 精霊に愛された王よ、幸いであれ。
 決して、口にはしてやらぬ。
 妾の。
「リルファ」
 唇が寄せられた。
 精霊に触れることは、叶わぬ。それでも。
「さようなら。――私の愛した水妖」


 水盤が、ゆらめいた。
 あれから、どれほどの歳月が過ぎ去っただろうか。あ奴が好んだ、青い睡蓮も枯れてしまった。
 こぽりと泡を吐き出しながら、妾は、水盤から貌を出した。
 ふと気が付くと、奥庭の景色はすっかり変わっていた。
 草は伸び放題になり、敵が侵入したのか、翡翠宮殿の柱は、無残に崩れ去っている。あれほど美しかった宮殿は、かつての名残もなく荒廃し、誰もいなかった。
 水盤のそばには、首が取れ、無残に破壊された王の石像が転がっており、戦火の爪痕を感じさせる。
 妾を、ここに縛り付けていた鉄の板も、すでに効力を失いつつあった。都が滅び、廃墟となったからかもしれぬ。
 ルイスワーンが居なくなってから、二百年は経っているだろうか。
 いつしか数えるのも、止めてしまった。
 幾千、幾万の夜、囚われ続けた水盤から出ると、妾は天を仰ぎ見た。
 白い月が、輝いている。
 ――逢いたい。
「其処に、いるのか。ルイスワーン」
 荒れ果て、残骸が散らばる草の上を、妾は歩み出した。闇夜を照らすような、一筋の月明かりを頼りに。




 繁栄を極めた都市は、敵軍による十ヶ月の包囲の末、一夜にして攻め滅ぼされた。
 今は亡き都を、水盤の都と呼んだという。
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