桜花あやかし語り

プロローグ【始】

 花、ひとひら。
 どこまでも抜けるような晴天に、桜の花びらが舞っていた。
 薄紅の花がひらひらと、さながら、細雪のようであり、散りゆく花が春の嵐を想わせる。
 いまだ春爛漫と称するには、肌を撫でつける風は寒く、冬の名残りを残しているものの、ようようと土から出てきたフキノトウ、愛くるしい蒲公英、穴からのそのそと姿をのぞかせた蛙を見れば、春の訪れは疑う余地もない。
 障子を開けた途端、目に飛び込んできた風景のあざやかさに、清冽なる朝の息吹に、鷹二郎は目を細めた。
 朝冷えに、すぐに赤みを帯びる頬は幼く、ふわりと丸みを帯びているものの、その目元や口元は母御に似て、きりりと引き締まったものであった。
 そのまま、口をあけると、少年は春の匂いがするそれを、存分に吸い込んだ。
 桜の匂いのみならず、それは、どこか甘いような気さえする。
 彼はいま少し、その桜ふる風景をよく見たくて、縁側に出ると、子供の足には大きい下駄をつっかけ、庭におりた。
 とうに春分を過ぎたとはいえ、朝晩は冷える為に、庭では霜がとかけており、鯉の泳ぐ池には薄い氷が張っている。
 灰青の単衣に、若草色の袴を身に着けた少年は、庭で花咲かす桜の木の中でもいっとう立派な、ほかに先駆けて花を咲かした染井吉野へと一歩、歩み寄ろうとした。
 竹刀を振ろうと早起きしたものだが、この清冽なる朝の空気の中でのそれは、また格別だった。一人で愉しむには惜しい、と鷹二郎は、いささか子供らしからぬことを考える。
 昨晩も、部屋にこもって遅くまで勉強していた、兄の修一郎を起こしてやるか、母上や婆やのタキによくよく言い含められても、寝坊癖が治らぬ妹の佐保に声をかけて、これを自慢せねばなるまい、と彼が思った時だった。
「兄さま、ちい兄さまぁ」
 甘えるような、子供の声がした。
 鷹二郎が後ろを向くと、桜の精と見まごうような、桜模様の着物をきこんだ童女が、胸に飛び込んでくる。
 足元には、ちりちりと鈴のついた、ぽっくり下駄。
 純和風の装いでありながら、ふわふわの癖っ毛には、舶来の品と思しきレースのリボンが結ばれている。
 予期せぬ闖入者に、童女を受け止めた鷹二郎は、目を丸くしながら、それでも、そんな行動には慣れっ子になっているのか、ため息をひとつ零しただけだった。
 風でみだれた、ふわふわの髪を撫でつけてやりながら、少年は佐保、と妹の名を呼んだ。
「……佐保」
 佐保と呼ばれた幼女は、いつか見た舶来のビスクドールのような愛らしい顔に、にぱぁ、と満面の笑みを浮かべる。そうして、そのまま甘えるように、兄の鷹二郎に身をすり寄せた。
 お転婆な妹ではあっても、そんな姿は可愛くて、兄である少年は言おうとした小言を口の中で飲み込んでしまう。
 その代わり、呆れたように眉を下げ、またか、と口にした。
「また、部屋から勝手に抜け出して来たのか、佐保……タキが心配するぞ」
 たとえ屋敷の中といえども、末妹の佐保が姿を消せば、婆やのタキが心配し、探し回るであろうことは想像に難くない。
 いつもお転婆な妹に手をやいている、婆やの顔を思い出し、鷹二郎はそう言った。
 そんな彼の言葉を、ちゃんと聞いているのかいないのか、ぬくぬくと兄の腹に引っ付いて暖をとっていた佐保は、えへへ、と舌を出しただけだった。
「えへへ……ごめんなさぁい。ちい兄さま。でも、佐保、ちい兄さまに会いたかったのに、どこにもいないから、探してたのよぉ」
 早く会いたかったのにい、と頬をふくらませる四つ違いの妹に、鷹二郎は首をかしげた。
「僕を、探してた?こんな朝っぱらから、ねぼすけなお前がか、佐保」
「……ねぼすけじゃないもの。佐保はちょっと、お布団が好きなだけなんだもん」
「ああ、はいはい。悪かった、悪かった……それで、何で僕を探してたんだ?何か用事?」
 むぅ、と再び、機嫌を損ねかけた佐保を、ぷにぷにと頬をつまんで黙らせると、兄の少年はそう尋ねる。
 鷹二郎の問いに、幼い妹はふふんっ、と胸をそらすと、一人前の淑女を気取ってか、くるり、とその場でワルツのようなターンを踏んだ。
 動きに合わせて、薄紅色の袖が揺れ、赤い蝶結びの帯が舞う。
 昨今、流行りの舞踏会の真似事か、あるいは近頃、佐保が夢中になっている異国の絵本の姫君のように、くるくると韻を踏んだ幼女は、まだ何も言われないことに焦れたのか、ちらちらと兄に視線を向けてくる。
 そんな妹の必死さが、おかしくも可愛くて、鷹二郎はぷっ、と小さく吹き出した。
 くく、と喉をふるわせながら、少年はこれ以上、妹の機嫌を損ねる愚を犯すまいと、「わかってるよ」とうなずく。
「見せたかったものは、そのリボンか、佐保……うん。よく似合ってる。可愛い、可愛い、お前の大好きな異国のお姫さまみたいだ」
「遅いわ、ちい兄さま。もっと早く気づいてくれなくちゃ……めるひぇんの王子さまなら、ぜったい、まっさに気づいて、硝子の靴をくれるもの」
 そうじゃなくちゃ、お姫さまに好かれないわ。
 つんと得意げに胸をそらした幼い妹に、鷹二郎はくくと笑みがこぼれそうになる口元を、片手で抑えた。
 笑ってしまえば、めるひぇんのお姫さまになりきっている佐保は、また機嫌を悪くするだろうから。
 彼よりも四つ年下の妹は、ようやく六つを数えたばかりだというのに、時折、周りの大人が驚くくらいマセた口を利くが、まだまだ、お伽噺の王子さまを本気で信じている。
「厳しいなあ、佐保……どうせなら、修兄さんに見せに行けば良かったじゃないか。兄さんは、お前に甘いから」
 長兄の名前を出すと、佐保はだめ、と首を横に振る。
「おお兄さまは優しいけど、勝手に部屋を出てきたのがばれたら、いっぱい叱られるもの。それに、いっつも難しいご本と、睨めっこしてるもの。王子さまとは、違うの!」
「それ、兄さんには言うなよ。佐保……泣くぞ」
「佐保、おお兄さまに、そんなこと言わないもん!ちい兄さまだから言っているの!」
 子供というのは、時に無邪気ゆえに残酷なものだ。
 少々、年の離れた佐保を溺愛している兄が、今の台詞を利けば、さぞ落ち込むだろうと、鷹二郎は同情の念を深くした。
 この藤堂家の人間は、軒並み佐保には甘いから、尚更だ。
 それでも、朝早くから自分を探し回ってまで、会いに来た佐保がかわいくて、おさまりの悪い頭をなでると、ゆるんだリボンを結び直してやる。
 くすぐったい、と身をよじる妹に、鷹二郎は「このリボン……」と尋ねた。
「このリボン、父上からもらったのか?舶来ものだろう」
 旧士族の生れである兄妹の母は、昨今、流行りの洋装には詳しくないし、どちらといけば、保守的な性質である。
 幼い佐保は知るまいが、とかく、舶来ものは値が張るのだ。
 むしろ、子供にこんな高価なものを、と諌める側であろう。
 勿論、自分でもなければ、兄でもない。となれば、答えは、東宮の異国への留学を機に、急に西洋かぶれになった父しかあるまい。長男と次男には、厳しい躾をしいた父も、末の娘である佐保には、甘いのだ。
 鷹二郎の言葉を肯定するように、佐保はにっこり、うれしそうに微笑った。
「そうよ。お父様に、いただいたの。ひらひら、お姫さまみたい……今日は、これに薄桃のワンピースを着て、お父様とお買いものに行くのよ……だって、もうすぐ佐保のお誕生日ですもの」
 もちろん、お母様も、おお兄さまも……ちい兄さまも一緒よ。
 そう続けて、佐保はちいさな紅葉のような手を伸ばすと、ぎゅっ、と兄の袖を掴んだ。みんないっしょがいいの、とその手が言っていた。
 ひら、ひらり、桜の花びらが散る。
 朝もや晴れたあと、蒼天に映え、雪にも似たそれは、いとしく、儚い。
 ぎゅ、とにぎりしめた、頼りない手。ちいさな妹から伝わってくる体温が、あたたかく、鷹二郎はわけもなく切ないような感情を覚えて、つと目を細めた。
 約束よ、と佐保が言う。
「わかったよ。約束するよ。佐保」
 そう答えた鷹二郎は、腕を伸ばすと、妹の頭に乗った花びらを取ってやる。
 掌にのせた薄紅のそれは、風に吹かれて、どこぞに飛んで行った。


 それが、鷹二郎が妹と交わした、最後の約束になった。
 一緒に買い物に出かけた先、鷹二郎の目の前で、佐保は忽然と姿を消した。
 ほんの一瞬前まで、一緒に手を繋いでいたとうのに、どれほど探しても、薄桃色のワンピースの小さな背中は見えない。
「佐保、佐保、どこにいる……!」
 狂ったように、屋敷中を探しても、何処にも見慣れたその姿は見つからなかった。我がままも言わない。声も聞こえない。
 ひと月たっても、一年たっても、十年たっても、妹は、佐保は帰って来なかった。
 父は母は兄は、沈痛な表情で、佐保はもう帰って来ないのだと、鷹二郎に告げた。

 ――あの子は、神隠しにあったのだ、と。

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