桜花あやかし語り

三章【招かざる客人、異国より、襲来す】 [2]

 今は滅びし、西の将軍直参、藤堂家にはある定めごとがある。
 藤堂家の当主である巌の亡き妻、修一郎、鷹二郎、佐保、の生母である人の月命日には、家族そろって、かの人の墓に参るのだ。
 如月の頃。
 その名の通り、岩のようにいかつい、威厳あふるる顔をした巌は、亡き愛妻の墓を前にして、静かに手を合わせた。
 かの人を偲ぶような沈黙のあと、太い眉がふっ、とゆるみ、意外にも優しい眼差しがあらわになる。
「今月も参ったぞ、芙蓉。なかなか来れず、寂しい想いをさせたな」
 生きていた頃と同じように、かの人に語り掛ける巌の声は、あくまでも柔らかで、やさしい。
 昔からそうだったと、父の半歩、後ろで母の墓に手を合わせながら、鷹二郎は過去を回顧する。
 末っ子で蝶よ花よ、と溺愛された佐保とは異なり、長男の修一郎と次男の鷹二郎にとって、巌は厳格な父であった。理不尽に手を挙げられることこそまれであったが、将軍家直参、藤堂家の男児として、決して恥ずかしからぬ振る舞いをせよ、と二人の息子たちに言い聞かせ、わずかでも狡い真似をしようものなら、容赦なく特大の雷が落ちた。
 いわゆる、頑固親父である。
 お姫様のように父に溺愛された佐保や、長男らしい責任感を持ち、真面目で父に従順な兄とは違い、冒険心に富み、やや奔放な所がある鷹二郎は、よく親父殿と衝突したものである。
 その証拠に、帝桜大を首席で卒業し、父の言うとおり、藤堂家の事業を手伝い始めた兄とは反対に、馬鹿な真似をするな、と父に諌められても、警官の道に飛び込んだのが鷹二郎だ。
 よく減らず口や、つまらぬ意地を張っては、虎と子のように唸る巌と鷹二郎を見て、母・芙蓉は「まぁ、ととさまと鷹二郎は、似た者親子だこと」と、ころころ鈴を鳴らすように、上品に笑っていた。
 そんな妻に、頑固親父である巌は、頭が上がらず、まるで借りてきた猫のように大人しくなる。
 旧士族の娘だった芙蓉に一目惚れし、口説いて口説いて、ようやく結婚へとこぎつけた巌は、母の前だけは別人のように、恋する男になってしまうのだった。きっと、心底、惚れていたのだろう。
 幼い鷹二郎の目から見ても、母は美しい人だった。
 色白の瓜実顔、涼やかで切れ長な瞳、凛と背筋伸びた立ち姿の佳人である。
 立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花とうたわれたのも、あながち世辞ではなかろう。
 すらりとした美貌の母と、岩のような強面、背の低い巌が並ぶと、子供心にも、見た目はずいぶんと不釣り合いに映ったものだ。故に、幼子の無邪気さで、鷹二郎は母に尋ねたことがある。
「ははうえは、どうして、ちちうえと結婚なさったの?」
 すると、日頃、凛と気品あふれる佇まいだった母上は、ふわり相好を崩し、「それはね……」と、まるで、少女のような顔で言った。
「巌殿が、誰よりも私を想ってくださって、誰よりもあなたたち三人の子を、慈しんでくれる殿方だからよ」と。
 亡き母の幸せそうな語り口を思い出し、墓前に手を合わせる父の、広くはないが逞しい背中に、鷹二郎は目を細める。
 その言葉の通り、父は今でも亡き母を愛し、いとおしんでいるのだろう。
 出逢った時も、子を産んだ時も、昔も今も、この先の歳月も、きっと。
 しばし、気がすむまで亡き妻との逢瀬を楽しんでいた巌は、やがて名残惜しそうに、妻の墓前から離れた。
 その時にはもう、普段と同じ、岩のような厳めしい頑固親父の顔であった。
「修一郎、鷹二郎、もう芙蓉への挨拶はすませたか?咲希子さん、今日も付き合ってくれて、有り難う」
 長男の嫁である咲希子に、ねぎらいの言葉をかけて、巌は下駄の音を響かせて、スタスタと歩き出す。
 舶来ものを好み、西洋かぶれと鷹二郎に揶揄される巌だが、洋装と靴だけは毛嫌いし、いまだに一度も身につけたことがない。
「いいえ、私こそお義母さまにご挨拶が出来て、良かったですわ。連れてきてくださって、有り難うございます。お義父さま」
 その名を通り、さながら花が咲いたような可憐さで、嫁の咲希子は微笑む。
 義父に気を使ったわけではなく、心からそう思っているようだ。
 そんな義姉の素直な気性を、鷹二郎は好ましく思っていた。
 妹の佐保が神隠しにあって行方知れずになり、母・芙蓉は胸の病で儚くなった後、残されたのは妻を亡くし悲嘆に暮れる巌と、二人の息子、修一郎と鷹二郎だ。
 そのまま男だけの生活をしていたら、表面上は平静を装ってはいても、皆、どこがギスギスしたものを抱えていたことだろう。そんな家中の空気を、嫁いできた咲希子が、自然と和やかにやわらげてくれた。
 義姉の柔らかな雰囲気に、鷹二郎は今は亡き母の面影を重ねる。
 凛と気丈であった母と、お嬢様らしい、おっとりとした咲希子では、気質が正反対にも思えるが、どこか似ているのだ。愛情深く家族を見守り、あたたかいもので包んでくれるあたりが、特に。
「咲希子」
 修一郎は妻の名を呼ぶと、その華奢な首筋に、自分の貂(テン)の襟巻きを巻いてやった。
 羽織をはおっているとはいえ、ようやく節分を過ぎたばかりの今、外は肌寒い。
 夫の心配りに、咲希子は嬉しそうに、でも、ちょっと困ったように苦笑した。
「修一郎さん……有り難うございます。でも、貴方が寒くなってしまうのは、困りますわ」
 妻の反論に、修一郎は「いや」と頑固に首を横に振った。
「僕は、いいんだ。それより、貴女が風邪を引くようなことがあったら、困る。あまり丈夫な性質じゃないんだから」
「修一郎さんったら……心配性が、過ぎますわ」
「これぐらい普通だろう」
 夫婦らしいじゃれあいのような会話を繰り広げ、甘い空気を醸し出す二人にあてられそうになった鷹二郎は、前を歩く親父殿に追いつこうと、歩調を速めた。
 藤堂家の跡取り息子である修一郎と、裕福な商家の娘であった咲希子は、いわゆる見合い結婚ではあるが、今のところ、とても上手く言っている。
 不器用ながらも、お互いを思いやる若夫婦の姿は清々しく、鷹二郎にとって、真面目で苦労性の兄の幸せは喜ばしかった。
 佐保がいなくなってからというもの、藤堂家を長男として支えなければと、生真面目に拍車がかかったのを知っていればこそ、なおのこと。
 兄夫婦に気を使って、歩調を速めた鷹二郎は、前を行く父の背中にすぐに追いつく。
 巌は健脚だが、西欧留学時代も、学友たちに引けを取らなかった長身の鷹二郎とでは、歩幅に歴然とした差があるのだ。
 半歩、後ろまで迫ったところで、巌がふいに鷹二郎の方を振り返り、眩しげに目を細めた。
「鷹二郎、お前、最近、ますます芙蓉に似てきおったな……」
 些か唐突な父の言葉に、鷹二郎は瞠目した。
「はい……?母上にですか?」
 確かに小柄で童顔な兄の修一郎と比べても、長身できりりと引き締まった顔をした鷹二郎は、母御によく似ている。
 通った鼻筋や、涼やかな目元は、母親譲りだとよく親族から言われても、鷹二郎自身は、母のような美形というわけでなく、いまいちピンとこないのであった。
「母上と自分は、似ていませんよ。俺は、母上のように美しい人は知りません……」
 いや、違いますね。と鷹二郎は、はにかむように微笑う。
「母上が美しくあれたのは、きっと、親父殿がいたからですね。愛し、愛されている女人は、誰よりも美しい」
 息子は世辞を口にしたつもりはなかったが、巌は照れ隠しのように、ふん、とそっぽを向く。
「知ったような口を利きおって、小倅が」
「それは失敬、減らず口は親父殿ゆずりですよ」
 軽口を叩いた鷹二郎に、巌はカラカラと下駄の音を響かせながら、「そういうところが、芙蓉に似ておるのだ」と、嘆息する。
「あれも意外に頑固な女だった」
 愛情あふれる父の言葉に、鷹二郎は目を伏せた。
「佐保、佐保、あの子は何処にいるの?」
 亡くなる寸前まで、居なくなった妹、佐保のことを気にかけていた母。
 青ざめた顔を、両手で隠して、悲嘆に暮れていた。
「鷹二郎。あの子はね、神隠しにあったのよ」
 ーー母上、佐保のことは、この鷹二郎が必ず探し出します。たとえ、命に代えても。


 非番の鷹二郎が、最早、慣れた様子で 『小料理屋・こうめ』と記された、朱色に白抜きの暖簾を片手で持ち上げると、ワイワイガヤガヤ、元気な子供たちの声が聞こえた。
「鬼はそとー!福はうちー!」
「違うよぉ!鬼はうちー!福もうちー!」
 節分はとっくに過ぎたというのに、童たちの豆まきの掛け声と、忙しない足音、きゃいきゃいと壁に豆をぶつけるような音が響いている。
 一体、何事だろうかと、鷹二郎は目を見張った。
 普段のこの店は、一目、童女にしか見えないが働き者の店主・こはるが、季節の食材を供した料理を並べ、ヒトの社会に紛れた妖たちが、酒と料理に舌鼓を打つような、大人のためのしっとりした小料理屋だったはずだが、今日はいささか異なる趣だった。
 畳敷きの土間を、赤や茶色い顔をし、虎皮の腰巻きを履いた子供たちが、元気よく走り回っている。
 火鉢の前を指定席とばかりに陣取り、むっちりとしたクチナシの臀部に、垂涎の目を向ける翁はいつも通りだとしても、 そんな好色爺……もとい猫又を膝にのせ、藍染の半纏を着込んだツネはといえば、狐の尻尾に似たひとくくりの髪を、頭に鋭い角の生えた子供たちに、ぐいぐいと引っ張られるのを、鷹揚に笑って、なすがままにしている。
 一方、店主のこはるはといえば、子供たちのためにか、火鉢に網をのせて、焼おにぎりをやいてやっている。
 素焼きの壺から取り出した、秘伝のタレを白米に刷毛でたっぷりとぬると、ぷぅぅぅんと焼けた味噌と、醤油の香ばしい匂いが、鼻をくすぐった。
 矢車草の着物を、たすき掛けしたこはるは、焦げ目のついたおにぎりを皿に取ると、ふぅ ふぅと息を吹きかけ冷ましてやって、角を生やした子供に渡してやる。
 わらわらと寄ってきた鬼の子は、目を輝かせると、焼きおにぎりにかぶりついた。
 はふはふ……、こんがり焼き目のついたおにぎりを頬張る顔は、実に幸せそうだ。
 そう、赤や緑の顔色をして、頭に小さな角を生やした童たちの姿は、節分の鬼の子そのものだった。
 鬼の童たちが、美味そうに焼きおにぎりを頬張る横では、狸顔の紳士ではなく、人に化けたタヌキの社長が、こうめ特製の牡蠣鍋に舌鼓を打っている。
 ぐつぐつと煮えた鍋は、大粒の牡蠣と豆腐、白菜、香り付けの刻み柚子が食欲をそそる。
 先代店主仕込みの昆布と鰹節のだしは、ふわりと優しく、牡蠣や白菜と混じると、えもいわれぬ風味がある。
「うむむ……この牡蠣は絶品ですぞ。どうです?クチナシさんもおひとつ」
 鍋をつつく社長の勧めに、クチナシはしなを作ると、婀娜っぽい笑みを浮かべた。
「あら、社長ったら、お優しいのね。ありがとう、牡蠣は好物なのよ。いただくわ」
 こちらは、しっとりと大人の空気だ。
 わらわらと元気いっぱいに騒ぐ鬼の子たちを見回して、鷹二郎は「おやまあ」と、小さく苦笑した。
「節分が終わってどうしたかと思えば、鬼の童たちは、こんな処に居たんですね」
 鷹二郎の台詞に、翁は別れた猫の尾をふりふり、ふん、と鼻を鳴らす。
「ほんに、ヒトは阿呆じゃな。ーー鬼も福の神も、本来は同じものよ。区別するのは、ヒトだけじゃ」
 神も鬼も、本質は同じ。人ならざる、霊の世界の住人。それを、ヒトが勝手に神だの鬼だの名付けているだけだのだと、翁は語った。
 なる程、と鷹二郎は神妙な顔つきで頷く。
 珍しく、翁が良いことを言っている気がするが、裂けた尻尾をふりふり、クチナシの尻から目を離さぬままでは、どうにも説得力には欠けていた。
「そういうものだよ、タカさん。わからなくてもいい、それはそういうものなんだ」
 穏やかに語るツネの一言は、不思議と、鷹二郎の心に染み入った。
 柔和に笑んだツネの手は、優しく、慈しむように己に纏わりつく鬼の子の頭を撫でている。
 その時、がらりと引き戸が開いて、嵩に八尺はあろうかという巨大な影が、首をかがめてこうめの暖簾をくぐった。
「迎えに来たよ、お前たち。よい子にしていたかい?」
 朱塗りの盆のように赤い顔、もじゃもじゃの毛、頭に生えた二本の角は成人らしく、童たちとは比べものにならないほどに立派だ。
 まだまだ幼い鬼の童たちとは異なり、金色の眼孔は、人を震え上がらせる、れっきとした大人の鬼である。
 しかし、その迫力ある鬼の姿に、遊びに夢中だった鬼の子たちは、ぱっと顔を明るくすると、喜びの声を上げた。
「「「あっ、母ちゃん……!!」」」
 わらわらと駆け寄ってきた子供たちを、母鬼はしっかりと、抱き留めてやる。
 その母性に溢れる様を見れば、最早、恐ろしい鬼ではなく、子を大切にする母親にしか見えない。
「待たせたね、お前たち……さぁ、そろそろウチに帰ろうか」
 我が子に優しく語り掛けると、母鬼はこはるに向き合い、「騒がしい子らを、預かってくれて、ありがとうね。おはるちゃん、これ少ないけど」と、丁重に礼を言うと、砂金の入った小袋を、こはるのちんまい掌にちょこんとのせた。
 母鬼の頭すら見えないほど、小さい店主は、だからといって 怯える様子もなく、「いいえ」と、頬を緩める。
「鬼さんたちをお迎え出来るのは、節分のこの時期だけですから、毎年、先代もとても楽しみにしていたんですよ」
 喋りながら、こはるはこの店の先代にして己の養母である、小梅さんのことを思い出し、目を細める。
 盲の代わりに、常人とは異なる心の目を持ったかの人は、ヒトを愛し、ヒトではない妖を愛し、灰瞳の、桜花国の民とは思えない赤ん坊のこはるを拾って、養女として慈しんだ。
 ツネと長年の友人であったかの人は、何より愛情深い人だった。
 ヒトの社会で居場所を探す妖たちのために、美味しい料理を振る舞い、癒され、くつろげる場所を作ったのだ。
 ヒトからも妖からも、小梅さんと慕われた、春の日溜まりみたいな人だった。
 母鬼も、そんな先代店主の人柄を愛した者だったのか、自分の腰までも届かぬ、こはるを優しい目で見下ろし、目を合わせるように、そっと膝を折る。
「また来年の節分に、チビたちを連れて、此処に来るよ、おはるちゃん。それまで達者でね」
「はい、鬼さんたちもお元気で」
 母鬼の言葉に、こはるはやわく、ヒトには見せない優しい顔で微笑み、来年までの別れを惜しむように、手を振った。

 母鬼と子鬼たちが去った後、店主のこはる、ツネと翁、社長とクチナシ、鷹二郎という常連客のみが残ったそこは、一転して、静寂に包まれる。
「あの母鬼は、優しそうな御方だったな。鬼の童たちも、ああした母御ならば、健やかに育つだろう」
 社長と対面で、ちびちびと熱燗を味わいながら、上機嫌の鷹二郎がそう言う。
 母の墓参りの後だからか、母鬼と子鬼の姿に、己と母を重ねたのかもしれない。とはいえ、文字通り、鬼の形相をした母鬼を恐れず、そんな風に気負いもなく言えるのは、人ならざる店の常連客たちも認めた、鷹二郎の並々ならぬ胆力あってのことだろう。
 とかく、藤堂鷹二郎という男は、まだ若いにもかかわらず、妙に落ち着き払ったようなきらいがあった。
「うむ、タカさんの言うとおりですな。来年の節分は、あの鬼の童たちも背が伸びて、大きくなっていることでしょう」
 ホロ酔い加減の社長が、赤い顔で相槌を打つ。
 空になったお猪口に、クチナシがお酌をしてやった。
「鬼といえば……今朝の桜花日報に、妙な記事が出てなかったかしら?桜鳴館に吸血鬼とか何とか」
 クチナシが顎に指をあて、色っぽく首を傾げる。
 紅の着物、肌襦袢の間から、ちらりと白い胸が覗いた。
「吸血鬼、なに奴よ。ワシはよく知らんが、異国の妖か?」
 ツネの膝に陣取った翁が、背を撫でさせながら、暇そうに目を細むる。
「吸血鬼……たしか西洋の妖ですな。いまだ会ったことはありませんが、噂は聞いたことがありますぞ。何でも、数多くの眷属を従える美貌の妖で、妙齢の乙女の血潮を、ことのほか好むとか……女人の中には、その美しい吸血鬼とやらに進んで、身を差し出す者もいるとか」
 いやはや羨ましい、と続けようとした社長は、こはるの冷ややかな目線を察し、ごほんっ、ごほんっ、とわざとらしい咳払いをした。
「ごほ、ごほっ……いやはや、吸血鬼とは恐ろしい。いや、若い娘の貞操観念を思えば、嘆かわしいことですな」
 わざとらしく言い直した社長に、こはるは料理の仕込みで、気づかなかったフリをしてやる。
 ツネは、社長から受け取った桜花日報を膝に広げ、センセーショナルな煽りの記事に目を通す。『桜鳴館に吸血鬼、現る ……!』と、でかでかとした文字で書かれたそれには、桜鳴館での舞踏会の夜、熊谷男爵夫人が、謎の男に襲われて、血を吸われそうになった顛末が記されていた。
 記事には、その男が人とは思えない美貌であったこと、熊谷男爵夫人の興奮気味の語り口などか、面白おかしく書かれている。
「吸血鬼ねぇ……物騒な世の中になったものだ」
 他人事ながら、しみじみと言うツネに、クチナシが、そういえば……と、不快そうに、片眉を上げた。
「十年くらい前も、惨い事件があったわね。ほら、小さな女の子ばかり狙われた……あれも、鬼の仕業なんて言われたものだけど」
 昔を思い出したのか、社長は「あぁ……」と苦い顔になる。 十年余り前、帝都を震え上がらせた、連続幼女殺傷事件。
 幼い女童や、その親たちを脅えさせ、その惨さは筆舌尽くしがたいものだった。
 自然と、滑らかだった社長の口も重くなる。
「あれは、実に痛ましい事件でしたな。年端もいかない女児ばかりが狙われて、まさに鬼の所業でしたよ」
 帝都を恐怖の坩堝に陥れたそれは、幾人もの容疑者を取り調べたものの、結局、犯人は捕まらず、事件は迷宮入りしてしまった。
 社長の話を聞きながら、鷹二郎は真顔で俯いていた。

 ーーほどけた白いリボン。舶来ものの高級品だと、佐保が自慢していた。
 ーー地面に広がる血溜まり。横たわる白い身体。佐保。佐保。佐保。

 あの日に、何を見たのか思い出したら、駄目だ。思い出したら駄目だ。思い出すな。思い出すな。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。駄目だ。思い出したら、壊れる。
「藤堂さん……大丈夫ですか?」
 はっ……、と鷹二郎が弾かれたように面を上げると、憂うような灰色の瞳と目が合った。
 既に店に常連客となりつつある鷹二郎だが、店主のこはるだけは、他の客よりもやや慇懃に接してくる。
 それが、少しばかり寂しくもあったが、生真面目だが根が優しい少女の気質を、 他の客たちと同じく、彼もまた好ましく思っていた。
「顔色が、あまり良くないですよ。お水でも、持ってきましょうか?」
 こはるのそれは、素っ気ない言いようながら、鷹二郎のことを案じているのが伝わる。
「あ、あぁ。大丈夫だ。ありがとう」
 店主の気遣いに、我に返った様子の鷹二郎の横では、社長が桜花日報を畳んで、くぃと杯を傾けた。
「吸血鬼ねぇ……しばらくは帝都を賑わせそうな怪事件ですな」
と。

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