桜花あやかし語り

三章【招かざる客人、異国より、襲来す】 [1]

 十九世紀、花の都、巴黎――


 東の最果て、大陸より遥か遠くの島国・桜花に、西洋近代化の波が押し寄せる少し前、欧州の社交界では、やがて迫るであろう、戦争の凱歌を想像せぬように、夜毎、華やかな舞踏会が開催されていた。
 古き善き純血を受け継ぐ貴族たち、彼らに取り入り、媚びを売るフリをして、強かに成り上がり、富を吸い取っていくブルジョワジー。
 着飾った紳士、淑女が手を取り合い、優雅に舞い踊るダンスホール。
 星々の光を放つ、豪奢なシャンデリア。
 金にいとめをつけず、食べ切れないほどに用意された、キャビアにフォアグラ、東西の珍味、次々と積み上げられる、空の皿の数々。
 大枚をはたいて、わざわざ欧州でも評判の楽団を呼び寄せ、次々と演奏されるそれには、主催者である男爵も、満足げだ。
 その爵位も金で買ったものであり、そんな恰幅の良い男爵の隣では、古き善き血筋の若い娘、さながら針のように細い奥方が、細い腰を更にギュウギュウとコルセットで締め付けて、自信なさげな面持ちで、主人の顔色をうかがっている。
 伝統に溺れ、徐々に力をなくしていく貴族たち。
 したたかに富を蓄え、それに取って代わらんとする成り上がり《ブルジョワジー》。
 東の島国にまで、変革の風が吹かんとする頃、欧州もまた、ひとつの時代が移り変わらんとしていた。
 そのように歪なものを、内側に抱え込みながらも、夜会はどこまでも華やかだ。
 黄金の細かい泡が、無数に浮かぶシャンパン。
 美酒と色事、下世話な醜聞と話の種は、いつまでもいつまでも、尽きることもなく……。 きらびやかで、甘く、空虚な夢。
 果ての見えぬ饗宴。

 ――さあ、遊ぼう。踊り明かそう。どうせ、人生は戯曲のようなもの。心の不安をかき消したくば、踊れ、踊れ、踊り続けろ!命つきる、その瞬間まで!



 マリー=アルノーは、淑女と呼ばれる、その実、己に自信がない、ただの小娘だった。
 ちぢれた癖のある赤毛は、彼女の悩みの種であったし、十七にしては、貧相な体つきも、豊満な胸をした姉妹たちと並ぶと、柱の影に引っ込みたくなるほどだ。
 アルノー家にしては珍しい、青みがかったエメラルドグリーンの瞳は、稀に、ごく稀に殿方から魅力的と評してもらうこともあったが、それだけだ。
 それが、幾つかの鉱山の採掘権を持ち、中堅どころの貴族ながら、裕福なアルノー家の末娘に対する、精一杯のお世辞だとわからぬほど、マリーは子供ではなかったし、愚かでもなかった。
 アルノーの家のみそっかす。
 その証拠に、美貌と話術、華やかさを持ち、このような夜会の場では、何人もの殿方に囲まれている三人の姉たちと比べて、彼女に話し掛けてくる紳士は、せいぜいひとりかふたり。
 しかも、壁の華であるマリーに、気を使って話し掛けてくれた彼らでさえ、話題を振っても、赤くなってもじもじとするだけで、気の利いた返しも出来ないマリーに失望し、ちょこっと話しただけで、そそくさと去っていってしまう。
 容姿も頭も良くない自分の自業自得とはいえ、ひとり取り残されたマリーは落ち込み、劣等感に苛まれずにはいられなかった。
 愛情深いが、名誉心が強く、口うるさい両親や、美しく魅力的な姉たちの、呆れる顔が目に浮かぶ。
 あぁ、愛しい、わたしのマリー。何で、お前はいつも姉さまたちのように、上手く出来ないの?
 アルノー家の名を辱めないようにな、マリー。
 マリー、殿方を夢中にさせるのなんて、簡単よ。にっこり笑って、お慕いしています、って言えばいいの。
 マリー、マリー、マリー。
 ……ああ、もうっ!わかっているわ。お父様、お母様、お姉様。気が狂いそう!
 悪意ある幻聴が、聞こえる。
 ズキズキと鈍く痛む額を押さえて、青い顔をしたマリーに、 そっと伸ばされた手があった。
「具合でも悪いのですか?お嬢さん《レディ》」
 いつになく、穏やかで優しい声に、マリーは青ざめた顔を仰向けだ。
 胸の内には、期待と失望が入り混じっている。
 アルノー家の美人四姉妹。
 華やかな美貌の長女、淑やかで気品ある次女、明るく話し上手な三女。
 おのおの纏う雰囲気は異なれど、魅力的な三人の姉たちを知る人々は、マリーを見ると一様に、失望したような表情を浮かべるのだ。
 そうして、それを曖昧な微笑で、わざとらしく誤魔化す。
 勝手に期待されて、勝手に失望されるのは、もう、うんざりだった。
 今回もまた、そうかもしれない。
 半ば覚悟しながら、顔を上げたはずのマリーはその瞬間、惚けたような顔で、大きく目を見開いた。
 柔和な微笑を浮かべ、そこに立っていたのは、マリーが今まで出会った中で最も、美しい男だった。
 すらりと均整の取れた体躯、さらさらの黒髪、長めの前髪から覗くのは、深海の如き碧《ブルー》だ。
 マリーより、五つ、六つ、年上だろうか。
 青年、と言って差し支えない。
 しかし、年とは不釣り合いな、洗練された雰囲気は、熟練の紳士を思わせた。
 流行の先端からはやや遅れた、古い型の夜会服が、絵画の中から抜け出してきたような、その青年には、よく似合っている。
 マリーはしばらくの間、気分の悪さも、 愛する家族への鬱屈した思いも忘れて、青年に見惚れていたが、「レディ……?」と気遣うような声に、はたと我に返った。
「ご気分でも、悪いのですか?何か、グラスをお持ちしましょうか?」
 優しい声は、とろけるように甘く、マリーの胸に響いた。
 アルノー家の末娘としてではなく、殿方から、そんな優しい言葉をかけてもらうのは、生まれて初めてだった。
 これ以上ない程、真っ赤な顔で、マリーは、ぶんぶんと首を横に振る。
「い、いいえ……ありがとうございます。もう、大丈夫ですわ」
 美貌の青年を前に、余計な醜態を曝すまいと、マリーは早口で言った。
 男は形よい柳眉をひそめると、憂い顔で、マリーの耳朶に唇を寄せ、「無理は良くない」と、囁く。
「は、はい……」
 恥ずかしさと緊張で、心臓が止まりそうになりながら、マリーは陶然とうなずいた。
 夜空の煌めきを想わせる、男の瞳を見つめながら、箱入り娘であるマリーは、この美しい殿方は、どこのどなただろうと、考えをめぐらせる。
 この美貌、この気品!
 マリーが今まで出会った誰よりも、高貴という表現が、相応しい気がする。
 貴族である事は、間違いないだろう。おそらく、アルノー家より、遥かに格式の高い家柄に違いない。
 ただ……これ程の美貌の青年の噂が、人の口にのぼらないとは、あまり考えられない。
 いや……そもそも、何故、この会場にいる誰も、マリーに話し掛けているこの青年に、注目しないのだろう?
 まるで、その青年の姿は、誰の目にも映っていないかのようだ。
 周囲には、数え切れないほどの、紳士、淑女が手を取り合い、ダンスを踊っていたり、愉しげに談笑していたりするのに。
 ぽぉ……と青年に見惚れたマリーは、その不自然さに、気付けない。
 美貌の男は、にこりと魅惑的に笑うと、 彼女の腰に手を回した。
 そうして、いかにも優しい声音で、マリーを促した。
「バルコニーに出て、少し夜風にあたった方がいい。そうすれば、きっと、気分も良くなる。――さぁ、お嬢さん《レディ》?」
 その誘いは甘美で、抗い難かった。
「は、はい……」
 まるで、魅入られたように首を縦に振ると、マリーは男に支えながら、ふらふらとした足取りで歩き出す。
 その先に、何が待ち受けているのか、薄々、察しながら……。


「あ……っ」
 白い首筋に鋭い歯が突き立てられた、その瞬間、マリーは小さな悲鳴を上げた。
 それは微かなもので、夜会に浮かれる、誰の耳にも届かなかったけど。
 美貌の男に、首を吸われながら、マリーは恍惚と潤んだ瞳をし、そのまま眠るように意識を失った。
 ちゅうちゅうと、何かを吸い上げるようなそれだけが、夜の静けさに音を与える。
 若い女の血は、ことのほか上質で、美味い。
 特に混じり気のない、処女の血は格別だった。
 しばらくすると、男は赤く血に染まった唇を手の甲で拭いながら、マリーの首筋から顔を上げた。
 その碧《ブルー》だったはずの瞳は、暗闇の中にあって、爛々と金色に輝いている。
 男の名は、ノワール。
 誇り高い夜の眷族にして、人々の生き血を欲する、吸血鬼であった。
 男――ノワールの腕の中で、マリーは気をやり、ぐったりしている。血の気が失せ、青い顔をしているものの、死んではいない。
 死なせてしまえば、あとで色々と面倒なことになると、齢を重ねた吸血鬼は、よくわかっていた。故に、意識を失ったマリーを腕に抱いたまま、ノワールはバルコニーから、漆黒の闇に包まれたパリの街並みを睥睨する。
 昼間の世界は、人のもの。
 そして、夜の世界は、我等のものだ!
「同胞たちよ……我の声が聞こえるか」
 ノワールは低い声で、仲間たちに呼び掛けた。
 その呼びかけに応じるように、漆黒の闇の中に、幾つもの赤い目が浮かび上がる。
 無数の声が、唱和した。

「「「同胞たちよ……我の声が聞こえるか」」」

「「「太陽の世界は人のもの、月の世界は我等のもの……!」」」

「「「――麗しき夜の女王に、真なる忠誠を!!!」」」

 パリの宵闇に響き渡る、同胞たちのそれに、ノワールは黄金に染まった目を細めた。
 睫毛を伏せ、瞳を閉じる。
 息を吐いて、まぶたを上げた時には、パリの街は静寂に包まれており、同胞たちの声は、何処からも聞こえなかった。
 全ては、ノワールの願望が見せた幻だ。
 ――それも、当然である。
 彼、ノワールが最後に同胞である夜の眷族とあいまみえたのは、もう百年以上も昔のことだ。
 その同族の姿ですら、いつの間にか見えなくなった。
 かつては、夜の世界の支配者であった吸血鬼が、この大陸から姿を消して、久しい。
 街の至るところに、きらきらしい電飾が灯り、工場から煙が立ち上るいま、人にあらざる夜の眷族たちは、急速に居場所を失いつつある。
 昼の世界は人のもの、夜の世界は我等のもの!
 そう高らかに叫んでいた百年前とは、時代が変わってしまったのだ。……ノワールにとっては、認めたくないことだが。
「……探さなくては、我と血を同じくする者を」
 いまや欧州に残る数少ない吸血鬼となったノワールは、そう言うと、マリーを抱いたまま、バルコニーから飛び降り、パリの闇へと、その身を踊らせた。


 場所は変わり、東の島国・桜花――

 英明と名高い東宮の留学以来、この東の国の民にあって、西洋文化への傾倒は、およそ、とどまるところを知らない。
 街には電灯がともり、ミルクホールには洋装の紳士、淑女たちの行列、袴にブーツ姿の女学生たちは、流行りの自転車を颯爽と乗り回す。
 その最たるものが、桜鳴館だ!
 欧州で名のしれた建築家を招いて、鳴り物入りで作られたそこでは、日夜、桜花を代表する男女が、着飾った洋装で集い、手に手を取り合って、不慣れなダンスを踊っていた。
 遊学経験のある一部のものは、所詮、欧州社交界の出来の悪いままごとよ、と冷ややかな目を向ける者も多かったが、そんなことは重々、承知ながらも、彼らは彼らなりに、慣れぬ西洋文化に馴染もうと必死だったのだ。

 今宵も、桜鳴館では夜会が開催されていた。
 色とりどりのドレスに身を包んだご婦人たちが、殿方と手を繋いで、踊っている。
「失礼、ハンカチを落とされましたよ。奥様《マダム》」
 低く、耳通りの良い声に、熊谷男爵夫人は、後ろを振り返った。
「まあ……!」
 思わず、感嘆の声が上がる。
 絹のハンカチを手に、そこに立っていたのは、一目で異国の出とわかる青年だった。
 艶やかな黒髪と、極上の宝石のような碧(ブルー)の瞳。
 にこりと甘く微笑んだ彼、ノワールは、 男爵夫人に囁いた。
「どうか、一曲、私と踊っていただけませんか?奥方(マダム)?お美しい方を前にして、緊張しているのですが」
「え、ええ……喜んで」
 とろんと蕩けた目をした男爵夫人は、夢見心地で、差し出された、美しい青年の手を取った。
 その先に、何が待ち受けているのか、薄々、察しながら……。


 ――翌々日の桜花日報には、不可解な化け物に襲われた被害者として、熊谷男爵夫人の名が、紙面に載ることとなる。

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