「――我がエドウィン公爵家に、セラフィーネ王女様が降嫁されることになった」
王宮から自分の屋敷に戻ったルーファスは、屋敷の使用人たちを前にして、そう告げた。
彼の前にいるのは、少年である従者のミカエルを除けば、古くから屋敷に仕えている古参の使用人ばかりだ。ルーファスの父・先代のエドウィン公爵が、新しい使用人を屋敷に入れるのを嫌ったので、自然とそうなったのである。
主である若き公爵の報告に、古参の使用人たちの中でも、最年長である執事のスティーブが、代表してルーファスに祝いの言葉を述べる。
「それは、名誉なことでございますね。おめでとうございます。旦那様」
今の公爵が幼い頃から、屋敷に仕える老執事は厳格そうな顔を崩さず、だが声には喜色をにじませた。
銀色がかった白髪に、六十近い齢になっても、シャンと背筋を伸ばした執事のスティーブにとって、主の結婚話はめでたいの一言に尽きた。それが幼い頃から世話をし、息子のようにも思っているルーファスであれば、尚更のことである。
主人を幸せにしてくれるならば、どんな女性であっても奥方として受け入れよう。
そう思っていた執事ではあるが、その結婚相手が王女というのは公爵家としても実に名誉で、文句のつけようもない。
(これで旦那様も、幸せになられると良いのだが、忌まわしい過去を忘れて……)
口には決して出さないが、心の中で執事はそう思う。
「ああ。まぁ、公爵家としては名誉なことだろうな。お前たちにも世話をかけると思うが、よろしく頼む……それで、ソフィー」
さして名誉とも思っていない口ぶりで言うと、ルーファスはソフィー――と名を呼びながら、金髪の中年女の方を向いた。
「はい。何でしょうか?旦那様」
ハキハキとした明るい声で答えるのは、やや小太りな中年の女――ソフィーだ。
彼女もまた、執事のスティーブと同じように長年に渡り、エドウィン公爵家に仕えている女中頭である。
その外見は、善良な肝っ玉かあさんといった風であり、実際に内面もその通りの人物だ。ルーファスにとっては、幼い頃から長年の付き合いであり、心から信頼できる使用人のうちの一人である。
そんな女中頭のソフィーに、公爵は高貴な花嫁を迎える支度を頼む。
「急だが再来月までに、執事のスティーブと協力して、セラフィーネ王女様を迎える支度を整えてくれ……家具は全て新調しろ。金のことは気にしなくて良い。公爵家の面子を潰さない程度に、花嫁を迎える支度を整えてくれ」
――金はケチるなよ。何せ花嫁は、王宮育ちの姫君だからな。
どこか皮肉気に、そう付け加えたルーファスに、これから迎える花嫁への愛情は欠片も感じられない。
実際、彼は嫁いでくる王女とやらに、微塵も興味がなかった。
若いエドウィン公爵にとって、必要なのは王女を娶るという名誉であり、それに伴う利益だけであった。国王陛下の娘婿というのは、それなりに魅力的な立場ではあったが、王女本人については大した興味がない。それが、偽りのないルーファスの本心である。
こんな愛情のない夫に、わざわざ降嫁させられるセラフィーネ王女とやらを、少し気の毒に思わないでもなかったが、逆を言えばそれだけである。
愛のある結婚などを、彼は信じてもいなかったし、信じようとも思わなかった。
花婿になるはずの主の冷淡な態度に、人の良い女中頭は少々眉をひそめたものの、公爵の性質は承知しているので、あえて文句は言わずに「ええ」とうなずく。
「ええ。わかっておりますよ。旦那様……王家から嫁いでいらっしゃる姫様ですもんね。腕の良い職人に頼んで、最高級の家具を揃えましょう。それで、そのセラフィーネ王女様の部屋は?どちらにいたしましょうか?」
女中頭の問いに対して、ルーファスは少し考えこむように、顎に手をあてた。
「そうだな。二階の……」
部屋を――その先は言葉にはならなかった。
二階には亡き母の部屋がある。
あの忌まわしい部屋が。
(死んだ母の部屋に隣に、妻を迎えるなどゾッとする……)
彼は亡き母譲りの蒼い瞳をスッと細めると、首を横に振った。
「……いや、父上の部屋を使わせてもらおう。屋敷中で、あの部屋が最も広いし、日あたりも良い。父上は療養中の身だから、問題はないはずだ」
父上と、家族の名を呼ぶ声に、あたたかさは皆無だった。まるで見知らぬ他人を呼ぶかのような、冷やかな声である。
しかし、エドウィン公爵家の親子が微妙な関係なのは、今に始まったことではなかったので、それに使用人たちが違和感を覚えることはなかった。ただ、少し寂しさを覚えるだけのことだ。
「旦那様……」
だが、年若い少年である従者のミカエルは、そんな主の言動に胸を痛めたようだった。孤児として生きてきた過去を持つ少年は、筋金入りの現実主義者である反面、家庭というものに甘い幻想を抱いているところがある。
そんなミカエルの性格をよく知る老執事は、「ミカエル」と名を呼んで言葉の先を制し、女中頭は黙って少年の頭を撫でた。
そして、執事スティーブは主に祝いの言葉を述べた時と同じように、使用人たちを代表して頭を垂れたのである。
「承知いたしました。全て、旦那様のご指示通りに致します」
老執事の言葉に、ルーファスは「ああ」と相槌を打ち、「頼んだぞ」と全てを任せたのである。
エスティアの宰相ラザールの口から、セラフィーネ王女の降嫁を告げられた翌日――
昨日に引き続きルーファスは宰相に呼ばれて、王宮へとやって来ていた。セラフィーネの王女の降嫁に関する準備のためだ。
恐れ多くも、一国の王女との結婚となれば政治上のこともあり、そうそう市井の者たちのように簡単にはいかない。王女の降嫁を許可してくださるはずの国王陛下が、数年前から体調を崩されてくることもあり、事前に様々な準備が必要だった。
宰相のことを、国政を意のままに操る老狐――と嫌っている公爵にとっては不快なことであったが、エドウィン公爵家の当主として、その呼び出しを断るわけにはいかなかったのである。
しかし、王宮に着いてみると、ルーファスを呼び出した宰相は所用とかで留守にしていた。
(人を呼び出しておいて……ずいぶんと勝手なものだ)
彼はそう呆れたが、呆れたところで、どうにかなるものでもない。
まさか無断で帰るわけにもいかず、ルーファスは王宮の中で、いつ帰るかもわからぬ宰相を待つことにした。暇を持て余した彼は、仕方なしに中庭をぶらぶらと散策する。
「相変わらず、見事なものだな……」
王宮の中庭を歩きながら、ルーファスは呟いた。
エスティアの建国の祖――英雄王オーウェンが、多大な財を費やして造り上げた白亜の宮殿。華麗にして精緻、と讃えられるそこだが、その細部に渡るこだわりは子孫にも受け継がれたようで、宮殿の内部に負けず劣らず、その庭も見事なものだ。
赤薔薇、白薔薇、白百合。異国の色あざやかな花々……季節を問わず、さまざまな花が咲き乱れ、常に数十人とも言われる庭師たちに管理されるそこは、完璧な調和が保たれている。
花は香り、鳥は軽やかにさえずる。実に見事な庭園だった。そう、この麗しい中庭を維持するために幾らの財がかけられているか、などと余計なことを考えなければ――素直に感心できる。
(この美しい庭を維持するのに、幾らの金がかかっているか……考えるのも、馬鹿馬鹿しいな)
ルーファスは美しい中庭を歩きながら、そう心の中で毒を吐く。
貴族の彼から見ても、この王宮の庭は贅が尽くされていた。
そして、この美しさを維持するための金が、どこから出ているかといえば国庫である。王宮の管理をするお偉方どもは、国庫は尽きないものだとでも錯覚しているのではないだろうか。馬鹿馬鹿しい。
(そろそろ老狐……宰相も戻ってきたころか?戻るか)
しばしの間、あてもなく王宮の庭を歩いていたルーファスだが、そろそろ宰相も戻って来る頃だろうと考えて、踵を返す。
その瞬間だった。
彼の耳に、その歌声が届いたのは――
「……歌っておくれ、白鳩よ。私の代わりに、あの人に愛を伝えておくれ……」
その、どこからか聞こえてきた歌声に、ルーファスは去ろうとしていた足を止める。
そうして、彼はやや怪訝な顔で、ぐるりっと己の周囲を見回した。
「……歌?」
ルーファスの困惑をよそに、その歌声は続く。
「守っておくれ、蔓薔薇よ。私の代わりに、その棘で優しい人を守っておくれ……」
それは、エスティアに伝わる古い恋歌だ。
決して、上手い歌ではなかった。むしろ、純粋な歌い手としての技量は並で、拙い部類に入るだろう。透明な歌声ではあったが、美しいと賞賛できるほどでもない。だが、ルーファスはその歌声の主に興味を引かれた。
それは歌よりもむしろ、こんな場所で……王宮の中庭で歌を歌っているのが、誰なのかということだった。一体、誰が……?
「あっちの方か……」
王宮の中庭で歌うなんて、どんな物好きな奴なんだ。
そう思いつつ、好奇心に引き寄せられるように、彼は歌声の方角へと歩を進める。
この王宮の中は大きく分けて、二つの区画に別れている。
王族しか立ち入ることを許されぬ場所と、一介の貴族でも出入りすることが許される場所。エスティアの王族専用の庭もあるが、この中庭は後者であった。
ここで歌っているということは、王族か貴族かどちらかだろう。そうは言っても、王族がこんな場所で歌っているとは思えず、歌声の主は貴族の誰かだろうと、ルーファスはあたりをつけた。
「伝えておくれ、我が剣よ。我が愛しき人に、永遠の想いを……」
歌声に導かれるように進むと、途中から噴水の澄んだ水音が混じった。
その歌声と噴水の水音が、重なり響き合う――
「ここか……」
歌声と噴水の音に案内されて、ルーファスは目的の場所までたどり着く。
王宮の木と草花の迷路のようなそこで、彼がたどり着いたのは、大きな噴水のある広場だった。
白薔薇の花壇に囲まれた円形の広場で、その中央では美しく飾られた噴水が、サーッ、サーッと涼やかな水音を奏でている。水を惜しげもなく使う、王宮ならではの贅沢だ。
「伝えておくれ――」
歌声は止まない。
その噴水の向こう側に、ルーファスは歌声の主の姿を見つめた。亜麻色の髪の、小柄な後ろ姿……
彼が一歩、その噴水の側に歩を進めると、人の気配に気がついたのか、唐突に歌声が止んだ。
そうして、ゆっくりと歌声の主が振り返る――
「あ……」
振り返ったのは、若い女だった。
亜麻色の髪に翠の瞳の、どこにでも居そうな平凡な容姿の娘だ。髪の色も瞳の色も、この国ではありふれたもので、その顔立ちも特に醜くも美しくもない。
年齢はルーファスよりも、二つか三つ下といったところだろう。まだ幼さの残る容貌は女というよりも、むしろ少女と言った方がしっくりくる。
その歌声の主――亜麻色の髪の少女は、ルーファスの出現に、驚いたように翠の瞳を見開いた。
堅い表情で「あ……」と戸惑った声を上げる少女に、ルーファスは「失礼」と声をかける。
「――失礼。驚かせたようだ」
そうルーファスが謝罪しても、亜麻色の髪の少女は堅い表情を崩そうとはしない。
彼女の澄んだ翠の瞳には、驚きと警戒の色が濃かった。
娘は平凡な容姿の中で唯一、美しいと言える翠の瞳を彼に向けて、かすれる声で尋ねる。
「……あの、貴方は?」
問われたルーファスの方は、少女の垢抜けない態度にわずかな失望を感じながら、己の身分を名乗った。
「私はルーファス=ヴァン=エドウィン。公爵だ……貴女の名を聞いてもよろしいか?」
一応は礼儀として名乗ったものの、ルーファスはこの亜麻色の髪の少女に対して、最初から大した感心を持ってはいなかった。
自分に対し、少し怯えたような頑なな態度を見せる平凡な娘――冷酷で情のない男という、貴族たちの噂を耳にしているのだろうと思えば別にルーファスは腹も立たなかったが、それでも好感を抱くはずもない。
いいや、そもそも公爵自身が人に好かれたいと心から努力した経験がないのだから、それも仕方のないことかもしれないが……。
若き公爵にとって、他人とはおおむね二つに分けられた。
一つめは冷酷な男という公爵の評判を恐れて、彼と距離を置こうとする者たち。二つめは彼の高い地位と財産を見込んで、甘い蜜を吸おうと群がってくる者たちだった――どちらも信用に値しないことは、語るまでもない。
さて、この亜麻色の髪の少女はどちらだろう?前者か、はたまた後者か。
そんな皮肉な思いを抱えつつ、ルーファスは蒼い瞳を少女に向けた。その翠の瞳に宿るのは、軽蔑か打算かと。
しかし、彼の名を耳にした少女の瞳に宿ったものは、そのどちらでもなかった。
「貴方がエドウィン公爵?じゃあ、貴方が……」
そう言う少女の翠の瞳に映ったのは――哀れみの色。
「何を……?」
一体、何を言いたい。
ルーファスが彼女の真意を問いただそうとした瞬間、背後からよく聞き覚えのある、しかし彼が最も聞きたくなかった声がした。
「……ああ。見つからないと思ったら、こんな場所にいらしたのですか。女官たちが探していましたよ」
そう言いながら、少女とルーファスの方へと歩み寄ってくるのは、白髭の老人――国政を操る老狐と、公爵が蛇蠍の如く忌み嫌う、宰相ラザールだ。
「あっ……ごめんなさい。宰相。少し、外の空気を吸いたくなって……」
ごめんなさいと宰相に謝る少女に、ルーファスは驚いた。
宰相が自らこの娘を呼びにきたという事実に加えて、一国の宰相に対等に接するということは、この亜麻色の髪の少女の身分は――
「奇遇ですね。エドウィン公爵。ご紹介しましょう。この御方こそが……」
そんなルーファスの驚きを見透かしたように、宰相が灰色の瞳を細めて、薄く笑う。
この御方こそが、と言いながら宰相ラザールが示したのは、黙りこんだ亜麻色の髪の少女だった。
「――この御方が、セラフィーネ王女様です。貴方の花嫁になる方ですよ。エドウィン公爵」
宰相に紹介された少女――セラフィーネ王女は、感情を殺したような無表情で、そっと翠の瞳を伏せた。
「……」
その人形のような王女の――セラフィーネの態度に、ルーファスは釈然としないものを感じて、眉をひそめる。何かが不自然だ。
(先ほど歌っていた時とは、まるで別人だな……)
そう思いながらも、まさか本音を口に出来るはずもない。
ルーファスはセラフィーネ王女に向き直ると、
「お目にかかれて、光栄でございます。セラフィーネ王女様」
と臣下としての礼を取る。
それが、冷酷な切れ者と噂される公爵と、彼の花嫁となる王女の出会いだった。
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