BACK NEXT TOP


一章 公爵の結婚 3


 エドウィン公爵家の毎朝の食卓は、いつも完璧に整えられる。

 焼きたてのパンにバター、卵料理に黄金のトロリとした蜂蜜。
 新鮮なミルクに、瑞々しい季節の果実の盛り合わせ……それらは毎朝、寸分の狂いもなしに、公爵家の食卓に並べられるのだ。もちろん、その完璧な食卓の裏には、使用人たちの日々の努力があることは言うまでもない。
 しかし、かつてはルーファスの父や母や祖父たちで賑わった食卓に座るのは、今や当主である若き公爵ただ一人だ。ルーファスの父――先代のエドウィン公爵は、ある事件を境に心を病んで療養中の身であり、他の家族は今は亡い。
 長いテーブルの上に、一人分だけ用意された朝食。そのことが、完璧に整えられた食卓を、いささか寂しげに見せていた。
 そうして、いつもと同じように朝食の支度がされた頃に、エドウィン公爵家の当主であるルーファスが起きてきて、純白のテーブルクロスが敷かれた食卓へと腰をおろした。
 冷酷な切れ者と噂される公爵だが、意外にも朝は弱いのか、その蒼い瞳にいつもの鋭さはない。
 焼きたてのパンを一口かじった後、涼しげなガラスの器に盛られたオレンジに手を伸ばしたルーファスに、彼の従者の少年――ミカエルが、主人のためにいれた紅茶のカップを片手に歩み寄った。
「おはようございます。旦那様。良い朝ですね」
 従者の少年の手から、紅茶のカップを受け取りながら、公爵はああ、とうなずいた。
「ああ、おはよう。ミカエル」
 低い声で挨拶をすると、ルーファスは紅茶のカップに口をつける。
「もう一杯、紅茶のお替りはいかがですか?旦那様」
 カップが空になったのを見て、主が朝に弱いことをよく知る従者のミカエルは、そう声をかけた。
 まだ少年と言える年齢だが、気が利く従者なのである。
 空になったカップに再び、ティーポットから琥珀色の液体が注がれる。
 食卓にふわり、と豊かな香りが広がった。
「そうだな。もらうか。ああ、そういえば……」
 カップを手にしながら、ルーファスは「そういえば……」と、何かを思い出したように言う。何気ない口調。しかし、続けられた一言は、ミカエルを驚かせるものであった。
「――そういえば……昨日、王宮の庭園で、セラフィーネ王女に会ったぞ」
 まるで世間話のような、公爵の軽い口調に、仰天したのは従者の方だ。
 セラフィーネ王女――それは主の花嫁となる人の名である。
 淡い水色の瞳を見開いて、ミカエルは驚きの声を上げた。
「会ったんですかっ!?旦那様が、セラフィーネ王女様に!」
 そう言って派手に驚く従者に、主人にして王女の夫となるはずのルーファスは、解せないといった風に柳眉を寄せた。
 (……そこまで驚くようなことか?)
 首をかしげながら、彼は疑問の声を上げる。
「ずいぶんと驚くな……ミカエル。俺がセラフィーネ王女と会ったのが、そんなに不思議か?」
 からかうようにルーファスに言われて、ミカエルはバツの悪そうな顔をした。
 狼狽したのが恥ずかしかったのか、その白い頬を赤くして、従者の少年は「いいえ……」と否定の声を上げる。
「いいえ……そういうわけじゃないんですが。いくら結婚相手の旦那様でも、そんなに簡単にセラフィーネ王女様に会えるとは、僕は思わなかったんです。その……聞いていた噂とは、だいぶ違うみたいですね。僕が王宮の女官から聞いた話だと、セラフィーネ王女様は滅多に、人前に姿を現さないらしいって、噂だったんですが……」
 ――セラフィーネ王女に関する、王宮の女官たちの噂話。
 ミカエルが口にしたそれに、ルーファスは「ほぅ」と相槌を打った。
 王宮に仕える女たちの噂……それを単なる女たちの噂話と片付けることは、彼には出来ない。女という生き物は時として、無能な男たちよりよほど狡猾で、生きる術に長けているものだ。ましてや、権謀術数うずまく王宮で生きていくということは、口で言うほど容易なことではない。
 それに王宮という場所は、それ自体が小さな箱庭のような、閉鎖された世界だ。
 この国の全てはそこで始まり、そこで終わる……。
 女官というのは、そんな場所で生きている女たちだ。美貌や教養はもちろんのこと、一筋縄ではいかない者たちが多い。のみならず、それなりに知恵の回る女官ならば、王宮の裏にも表にも通じている――そんな者たちの噂話とあれば、耳にする価値があるというものだ。 
 王宮という伏魔殿において、人脈と情報は何よりの武器なのだから。
 ルーファスは蒼い瞳を鋭く光らせると、ミカエルに話の続きを促した。
「なるほど……では、そのセラフィーネ王女の関する噂とやらを、聞かせてもらおうか。ミカエル?噂の真偽はさておき、未来の夫としては、花嫁のことを知っておくのは義務だろう?」
 花嫁。
 愛情の欠片も感じられない声で言う公爵に、従者の少年はハアと息を吐いた。
 そうして、ミカエルはゆるゆると首を横に振る。
「ですから、ただの女官たちの噂ですよ。旦那様。あてにならないと思いますが……」
「噂の真偽は、俺が判断する。それで、セラフィーネ王女の噂というのは?」
「ですが……」
 仮にも王族の一人に対して、曖昧な情報を言うのが気が引けるのか、ミカエルの口は重い。だが、主人であるルーファスは、それを叱責することはしなかった。代りに闇色の髪をかきあげると、うっすらと笑みすら浮かべて言う。
「心配するな。ミカエル。お前は賢い子だ。だから、あの泥沼のような場所でも生き延びてこれた……今のお前を見て、路上で暮らす孤児だったと思う者は誰もいない。自信を持て。お前の情報にはいつだって、高い価値がある」
 若き公爵の言葉に、ミカエルは唇を引き結ぶと、神妙な顔でうなずいた。
「はい。旦那様」
 うなずいた従者の横顔を、ルーファスは見つめた。
 ――そう、公爵にとってミカエルは信頼できる従者であると同時に、優れた手足でもあった。情報を手に入れるという一点において、この幼さの残る従者は、優れた才覚の持ち主である。
 今から三年前に、ルーファスが路地裏で拾った孤児――ミカエルは賢い子供だった。
 幼い頃から辛酸を舐めてきたせいか、年の割に知恵が回り、自分を生かすことに貪欲だった。生来のものか、性格的には少々甘いところがあるものの、それでも部下としては十分に使える器だ。何より、人に警戒されないのがいい。
 (人は見た目で判断する生き物だからな。このミカエルを疑う輩は、滅多にいない)
 そう思いながら、ルーファス唇に冷ややかな笑みをのせる。
 彼自身は人から怜悧と評される美貌の持ち主であったが、ルーファスとは違った意味で、従者のミカエルもまた愛らしいと評される容姿の少年だった。
 金髪に淡い水色の瞳の、愛らしく整った顔立ち。
 まだ成長期を終えていない少年は、どこか中性的な印象であり、王宮の女官たちからは壁画の天使のようだと、きゃあきゃあと黄色い声で騒がれている。
 公爵のお共で王宮に行くたびに、暇を持て余した女官たちから呼び止められて、甘い菓子やら果物やらを手渡されているのも見慣れた光景だ。
 そんなミカエルだからこそ、王宮の噂話を耳にすることなど造作もない。
「――それで、セラフィーネ王女の噂とは?」
 主人であるルーファスの再度の問いに、ミカエルは息を吐くと、王宮の女官から聞いた噂をそのまま語りだした。
「はい。僕がアレン殿下付きの女官から聞いたのは……セラフィーネ王女様は、秘された王女だって話です」
「――秘された王女?何だそれは?」
 耳慣れない言葉に、さすがのルーファスも戸惑う。
 (秘された王女……?どういう意味だ?)
 そんな主人の疑問を、もっともだと思ったのだろう。
 従者の少年はうなずいて、話を続ける。
「はい。女官たちが言うには、セラフィーネ王女様は公の場にはほとんど……というか、全く姿を現さない方だそうです。それどころか、王宮の中すらも滅多に移動しないで、いつも自室で過ごしていると……それは王女様の意思なのかもしれませんが、まるで人の目から、故意に隠されているようなので……」
 なるほど、とルーファスは合点して、ミカエルの言葉の続きを引き取った。
「――なるほどな。それで、秘された王女というわけか」
「はい。それで、セラフィーネ王女様が人前に出てこない理由は……女官たちの噂なんですが、その、病弱だからとか、性格や容姿に難があるとか……」
 主人の花嫁――セラフィーネ王女の悪い噂を、その花婿であるルーファスの耳にいれることに、少なからず抵抗があるようで、ミカエルの歯切れは悪い。
「あぁ。そっちの噂の方は話にくいなら、話さなくて良いぞ。ミカエル……女たちの噂話なら、大体の想像はつく。その信憑性もな」
 ルーファスはひらひらと手を振り、話の先を制した。
 大概の場合、噂というのは悪いものほど広まりやすい。
 ましてや、王女が決して公の場に出ない理由――出れない理由を考えれば、悪意のある噂が陰でささやかれるのも、仕方のないことだろう。いや、そもそもの原因はセラフィーネ王女が、謎が多いことにあるはずだ。
 (いくら妾腹の王女といっても、公の場に全く出てこないというのは、不自然だ。そもそも公爵たる俺が、一度も名前すら耳にしたことがないとは……)
 不自然を通り越して、何か裏があるのではと勘ぐりたくなる。
 沈黙して考えこむルーファスに、ミカエルは遠慮がちに尋ねた。
「あの、それで旦那様は昨日、王宮でセラフィーネ王女様に会ったんですよね?どんな方でしたか?」
 公爵に対して遠慮はあっても、噂のセラフィーネ王女がどんな人なのか、ミカエルだって気になる。
 秘された王女と呼ばれる、セラフィーネ王女。
 女官たちの噂を聞く限りでは相当な変わり者か、あるいは公の場に出れない事情があるのか……。
 しかし、その問いかけに対してルーファスの返した答えは、従者の予想を裏切るものだった。
「――普通だな」
 セラフィーネ王女の印象は?と問われた公爵は、さして面白くもなさそうに答える。
「は?普通ですか?」
 きょとんとした顔をするミカエルに、ルーファスはあぁ、とうなづいて言葉を続けた。
「あぁ、普通だな。セラフィーネ王女には挨拶しかしていないが、どこにでも居そうな平凡な娘に見えた。別に美しくも醜くもないし、頭が切れるという風にも見えなかったが、馬鹿という感じでもない……印象を一言でまとめるなら、平凡な娘だった」
 昨日、王宮の庭園で歌っていた亜麻色の髪の少女――セラフィーネのことを思い出しながら、ルーファスは語った。
 平凡な娘という言葉に嘘はない。
 彼自身が恵まれた容姿の持ち主だったし、ルーファスのそばには美しいと評判の貴族の令嬢たちが、それこそ吐いて捨てるほどいた。華やかに飾りたてた美人を見慣れたルーファスにとって、王女の容姿は特筆するものではない。
 性格の方はよくわからないが、少し話した限りでは、賢さや特別な教養というものも見いだせなかった。だから、普通。ただ……
 噴水の奏でる澄んだ音。
 それと重なり合う歌声。
 そして、振り返った少女の、曇りのない翠の瞳――
 (あの翠の瞳だけは綺麗だったな……)
 全てが平凡な印象の薄い王女ではあったが、その透き通った翠の瞳だけは綺麗だった。
「仮にも王族に対して、平凡って……相変わらずですね。旦那様。いつか不敬罪で捕まっても知りませんよ」
 そう言って、ミカエルはハァと呆れたように息を吐く。
 彼にとってルーファスは、孤児だった自分を拾ってくれて、のみならず従者にしてくれた恩人ではあるのだが、その辛辣とも取れる公爵の言動には、ついていけないことが多々あった。
 まぁ、それでも嫌いにはなれないのだが……。
「そうか?」
 だが、首をかしげる公爵にはその自覚がないようだった。
 そうですよ、とミカエルは続ける。
「そうですよ。旦那様。それに、普通だとか平凡って言われますが……そのセラフィーネ王女様は、ご自分の花嫁になられる方じゃないですか」
 口には出さないが、愛情はないのかと言いたげなミカエルの言葉に、ルーファスは薄く笑う。
「――愛情の全くない政略結婚だがな。多分、セラフィーネ王女も承知しているだろうさ」
 そう、ルーファスには花嫁となるセラフィーネ王女に対して、愛情も……また愛する気もない。
 お互いの利益のみを考えた政略結婚――それを寂しいという輩もいるだろうが、あいにくと彼はそうではなかった。
 花嫁が、セラフィーネ王女が望むなら、華やかなドレスも輝ける宝石も財を尽くして揃えてもいい。もし恋愛の真似事がしたければ、醜聞にならない程度に適当な愛人を与えよう――ただ、ルーファスが花嫁を愛することはない。絶対に。
 薄く笑うルーファスにとって、それはすでに確信であった。


「ハア……」
 公爵の部屋を出たミカエルは、重い足取りで廊下を歩きながら、いささか憂鬱そうに「ハア」とため息をつく。
 従者の少年の目から見て、主人の――ルーファスの結婚は多分、上手くいかない気がした。
 いや、非礼を承知で言うなら、上手くいく要素がないと言ってもいい。
 秘された王女と呼ばれるセラフィーネ王女が、本当はどんな方なのか、ミカエルは知らない。耳にしたことがあるのは、女官たちの噂話のみだ。いくら女官たちが、王宮の事情に通じていると言っても、会ってみないことには実際のことはわかるまい。
 だが、王女がどんな方だとしても、ルーファスは理想的な夫とはとても言えないだろう。それぐらいは、少年であるミカエルにもわかる。
 それは別に、ルーファスに問題があるという意味ではない。
 むしろ、従者の目から見ても主人である公爵は、人並み以上に優れた才の持ち主である。
 容姿は、夜の闇のような黒髪に、深い蒼の瞳の怜悧に整った美貌……。優しそうとはお世辞にも言えないが、見る者を否応なしに惹きつける。
 主人が優れているのは、その外見だけではない。
 二十歳で公爵の地位にあるルーファスは、若き切れ者として、王宮においてもすでに一目おかれる存在だ。
 父の跡を継いでから、わずか二年で領地の収入を一気に倍近くまで増やした手腕は、奇跡的ですらある。王宮のウルサイお偉方ですら、生意気な若造よ、と舌打ちしても、その実力については渋々ながら認めるしかない。
 それに加えて、エドウィン公爵家は英雄王に仕えたという、由緒ある家柄である。
 地位も容姿も頭脳も申し分ない。
 だが、それでも結婚相手としてはどうかと、ミカエルは思う。
 従者の立場から見て、拾ってもらった恩を抜きにしても、主人としては決して悪い人ではない。多少、冷酷な一面があるものの、使用人に無理難題を押し付けたりすることも、ことさらに見下すような言動を取ることもない。貴族階級の中には、使用人を人間扱いしないような輩も少なくないことを考えると、自分も含めこの屋敷の使用人は運がいいのだろう。
 甘い人ではないが、きちんと働けば、正当に評価してくれる良い主人だ。
 しかし、それでも良い夫になるには、ルーファスには何かが欠けているのではないかと思わずにいられない。
 先ほど、花嫁となるセラフィーネ王女について話した時の、主人の冷ややかな態度と言葉が、ミカエルの胸をよぎる。
 公爵の冷ややか過ぎる態度や言葉は、これから夫となる人にしては、あまりにも感情のないものであった。
 ――所詮、愛のない結婚だ。花嫁も……セラフィーネ王女も、それは承知しているだろう。
 さも当然のように、ルーファスは言った。
 公爵にとって、この結婚は王女を娶る、それ以上でもそれ以下でもないのだろう。結婚の相手である、セラフィーネ王女の人柄なんて、どうでもいいに違いない。これは愛のない結婚だ。公爵は愛なんてものの存在を信じていないし、また信じる気もない。
 それを思うと、嫁いでくる王女様が少し気の毒だと、ミカエルは思う。余計なお世話かもしれないが。
「ハア……」
 従者の少年が、再び重いため息をつこうとした瞬間、背中から若い女の声が響いた――
「ため息なんてついて、どうしたのよ?ミカエル」
 ミカエルは振り返ると、その言葉に返事を返す。
「別に大したことじゃないよ。メリッサ」
 メリッサ――そうミカエルが呼んだのは、十七か十八くらいの少女だった。
 公爵家に仕える女中であり、女中頭の姪でもあるメリッサだ。
 少し日に焼けていて、すらりと背が高い。活発そうな娘だ。金髪碧眼の愛嬌のある顔立ちは、もう二十年もすれば、きっと叔母であるソフィーに似てくることだろう。
 女中の少女――メリッサはニコッと笑うと、手に持っていた箒を壁に立てかけて、ミカエルに話しかけた。
「そうなの?みょーに深刻そうな顔して、ため息なんてついてるから、あたしはまたてっきり……」
「てっきり……?」
 メリッサの楽しそうな声とは裏腹に、ミカエルは嫌な予感を覚えて、じりじりと後ずさる。
 ミカエルはメリッサのことが嫌いではなかった。
 ただし、からかわれなければという条件が付くが。
「――ミカエル坊やが、恋でもしているのかと」
 メリッサの言葉に、ミカエルはぶんぶんと首を横に振ると、少し言い難そうに答える。
「ぶっ!!違う!違う!……旦那様のことだよ」
「旦那様のこと?」
 ミカエルの返事に、メリッサは一瞬きょとんとした表情を浮かべたが、すぐに「ああ」と納得したように言う。
「ああ。それって、例の結婚話のことでしょ?ミカエル。ソフィー叔母さんに聞いたわ」
「……そうだよ」
 メリッサの問いかけに、ミカエルは渋々とうなずいた。
 使用人の身分で、まっ昼間から旦那様の噂話に興じているなど、厳格な執事のスティーブに見つかったら、こっ酷く叱られることだろう。おまけに女中のメリッサは、掃除の最中なのだ。だが、だからと言って、少女の好奇心に歯止めがかかるはずもない。
 青い瞳をきらきらと輝かせたメリッサは、主人の結婚についての詳細を聞くまで、ミカエルを解放してくれる気はなさそうだった。
 (やれやれ……)
 ため息ひとつ。
 ミカエルは諦めて、メリッサの話に付き合う。
 従者の彼が口を閉ざしていても、主人の結婚話は女中から庭師まで、すでに屋敷中に広まっている。今更、何かを隠しおおせるものでもない。結局のところ、この主の結婚に期待や不安を抱いているのは、使用人たちの共通の気持ちなのだ。
 この屋敷の主人――ルーファスの結婚する女性は、エドウィン公爵夫人であり、同時に屋敷の奥方様になるのだ。これから仕える相手の人柄が気になるのは、当然のことだろう。
 ましてや、その花嫁が王女様とあれば、使用人たちがソワソワするのもうなずける。
 もちろん、メリッサも例外ではないようで、「あ、そうそう……」と言うと、ミカエルに尋ねた。
「そうそう。実はあたし、旦那様の命令で、セラフィーネ王女様のお世話をすることになってるのよ。嫁いでこられる王女様が、あたしと年が近いっていう理由でね……そういうわけで、セラフィーネ王女様がどんな御方なのか、知ってる?ミカエル」
 この屋敷に嫁いでくる王女様の、お世話係になるのだというメリッサの問いに、ミカエルは「うーん……」と唸った。
「うーん……よくわからないな。旦那様の話を聞いた限りじゃ、大人しい方なのかなと思うけど」
 悩んだ末に、ミカエルはそう答える。
 いくら結婚する相手とはいえど、まだ挨拶しかしていないというルーファスの話から、王女様の人柄を察するのは不可能だ。だが、公の場に滅多に姿を現すことがないという噂から考えると、大人しい方なのかなとは思う。
 あくまでも噂からの印象なので、余りあてにはならないが……。
「ふぅん。大人しい方か……王女様も、お気の毒な方よねぇ」
 無難と言えば無難なミカエルの返事に、メリッサはちょっと複雑そうな表情で言った。
「お気の毒な方?王女様が?」
 そう言って、首をかしげるミカエルに、メリッサは「そうよ」呆れたように肩をすくめる。
「そうよ。考えてもみなさい。そりゃあ、ウチの旦那様は文句なしに美男だけど……妻を大切にするようなタイプじゃないわ」
 メリッサは断言する。
 それは、別に彼女が屋敷の主人を――ルーファスが嫌いだからとか、そんな理由ではない。むしろ、雇い主としては何の不満もないが……夫にしたいかと問われれば、いくら地位と財産があっても、ご免こうむるというだけだ。
 家族でも友人でもない。だが、四六時中そばに仕えている使用人だからこそ、理解できることもある。
 そんなメリッサの目から見て、主人である若き公爵は決して悪人ではなかったが、かといって善人と評するには、性格が冷たすぎる。結婚したぐらいで、その性格が変わるとも思えなかった。妻を大切にしよう、などと考えるような性格ではない。
「うぐっ……確かに……」
 メリッサの言葉に、ミカエルは反論できなかった。
 ――花嫁は、幸せになれないだろう。旦那様が、変わらない限りは。
 主である公爵に対して不敬だと思うが、彼自身も心の中でそう思っているのだから、否定のしようもない。
 いや、彼やメリッサだけではあるまい。
 それは使用人たちが皆、口に出さずとも思っていることだろう。
「でも……」
 真剣な顔をしたメリッサが、さらに言葉を続けようとした瞬間――
「……ぺちゃくちゃと何を喋っているんです?貴方たちは仕事中のはずでしょう。ミカエル?メリッサ?」
 背後から響いた声に、メリッサは飛び上がった。
 恐る恐る振り返ると、そこに立つ老執事の名を呼ぶ。
「ス……スティーブさん……」
 公爵家に仕えて数十年になる老執事――スティーブは、メリッサの呼びかけに、厳めしい顔でうなずくと低い声で命じた。
 決して声を荒げたりしないのだが、それがかえって迫力がある。
「無駄口を叩いている暇はありませんよ。ミカエルは旦那様のところへ。メリッサは掃除の続きを……わかりましたね?」
 使用人の中で最年長であり、屋敷の一切を取り仕切る執事の言葉に、ミカエルやメリッサが逆らえるはずもない。
「「はい!」」
 従者の少年と若い女中はそう声を揃えると、バタバタとした騒がしい足音を立てながら、言われた場所へと走って行った。
 そんな彼らの背中を、厳格な執事であるスティーブは、やれやれと思いつつ見送る。彼らのような若い使用人たちが多いのは、屋敷が明るくなって良いことだが、いささか落ち着きが足りない。
 しかし、今の状況を考えれば、仕方のないことかもしれなかった。
「……このエドウィン公爵家に、王女様が嫁いでこられるとあらば、騒ぐなという方が無理な話でしょうね」
 ミカエルたちの背中が、遠くなったのを見届けて、スティーブは呟いた。
 主の結婚というのは、使用人にとっては極めて重要なことだ。仕える相手が、もうひとり増えるということなのだから。若い使用人たちが、わいわいと騒ぐ気持ちも、まぁ理解できる。だが、スティーブ自身の感情は、それとは異なるものであった。
 主人の結婚を、喜ばしく思う気持ちはもちろんある。しかし……
 スティーブの口から出た言葉は、どこか苦かった。
「――彼らの言う通りかもしれませんね。旦那様が、花嫁を愛されることはないでしょう……母君のことを……忌まわしい過去を、忘れえぬ限り」
 そんな執事の独白を、耳にした者は誰もいない。


BACK NEXT TOP


Copyright(c) 2009 Mimori Asaha all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-