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一章 公爵の結婚 4


 公爵――ルーファス=ヴァン=エドウィンと、セラフィーネ王女の婚礼が行われたのは、エスティア宰相ラザールの口より降嫁の話が出てから、およそ三ヶ月後のことだった。

 公爵家の若き当主ルーファスと、妾腹の王女セラフィーネの婚礼は、彼らの身分を考えれば意外なほど質素に、慎ましやかに行われた。花婿と花嫁と二人が神殿で愛を誓う儀式を行った他は、華やかな宴も開かれず、式の参列者も宰相のラザールと少数の貴族だけ。
 何かにつけ、華やかさを好むエスティアの文化を考えれば、その質素さは異様なほどだった。
 花婿のエドウィン公爵家は英雄王オーウェンに仕えた名門であるし、花嫁のセラフィーネは妾腹ではあるが、大国エスティアの王女である。
 そんな彼らの婚儀とあらば、さぞ華やかなものになるのだろうと、おしゃべりな貴族たちは噂したが、実際には極めて地味なものだった。
 式の参列者である貴族たちも、花婿とも花嫁とも親しいわけでもないのに、義理で出席したような者ばかり。
 皆、やや退屈そうな顔で、酒ばかりを口にしている。
 おまけに、花嫁の父である国王オズワルトは持病が悪化したとかで、宰相のラザールを名代として、この場には姿を現していない。華やかなはずの婚礼が、いまいち盛り上がりに欠けるのも、仕方のないことだろう。
 (……茶番だな)
 ささやかな形ばかりの宴を、冷めた目で見つめて、花婿であるルーファスは思う。
 この結婚を、心から祝福している者など、この場には誰もいまいと。
「ルーファス殿。おめでとうございます」
「おめでとう。これで、エドウィン公爵家も安泰ですな」
「お美しい花嫁ですね。実に羨ましい」
 近寄ってきた貴族たちの、上辺ばかりに心のこもっていない祝福の言葉を受けながら、ルーファスはそう思う。
 ここぞとばかりに並べられたお世辞が、わざとらしい。
 しかし、まあ、このような社交界で生き抜くためには、必要とあらば、本心とはかけ離れた甘言を吐けることが肝要なのだろう。貴族の社会というやつは時折、ひどく馬鹿馬鹿しく、面倒なものだ。
 (……ご苦労なことだ。俺のような若造にも、気を使わねばならんとは。これが王家の威光というやつか)
 貴族たちの挨拶に、適当な言葉を返しながら、ルーファスの心は冷ややかだった。
 ――氷の公爵。
 そうあだ名される彼は、自分の評判が芳しくないことは、今さら誰かに言われるまでもなく承知している。周囲から、冷酷で人情味のない男と称されるのも、もう慣れた。自分でも、その通りの男だと思うから否定する気も、その材料もルーファスにはない。かといって、今さら態度を改めようなどと思うような性格ではなかったが。
 そんなルーファスに、なぜ位の高い貴族たちが媚びてくるか?
 答えは簡単だ。
 彼の花嫁が、妾腹とはいえエスティアの王女であり、この国の全ての貴族を支配する血に連なる人間だから。……それしかない。
「……」
 そこまで考えたところで、ルーファスは横に座った己の花嫁――セラフィーネ王女の横顔を見た。
 今年で十七歳になる少女の顔には、女官たちの手によるものだろう、うっすらとした化粧がされている。
 緊張からか、その翠の瞳は先ほどからずっと、伏せられがちだ。
 高く結い上げた亜麻色の髪には、色とりどりの花が散らされ、純白の絹のドレスには美しい花の刺繍と、小さな宝石がたくさん縫い付けられている。年頃の娘ならば誰もが憧れるであろう、豪華な花嫁衣裳だ。
 だが、それを着ている花嫁――セラフィーネ王女が、幸せそうかといえば……多分、違うだろう。
「おめでとうございます。セラフィーネ王女様」
「……ありがとう。ハイル卿」
 亜麻色の髪に翠の瞳の、まだ顔つきに幼さを残した花嫁は、いささか緊張した顔で貴族たちの挨拶に対応している。
 あまり社交の類は得意ではないようで、その対応はルーファスの目から見て、お世辞にも洗練されているとはいい辛い。
 王族としては珍しいタイプだが、日頃から公の場に出てこないために、秘された王女と呼ばれていたくらいだ。
 このような場で戸惑うのも、ある意味で仕方のないことかもしれない。
 重なる疲労のせいか、花嫁が目の前の果実酒にすら口をつけないのを見て、ルーファスは「……お疲れではないですか?王女様」とセラフィーネに声をかけた。
「――お疲れではないですか?王女様」
 ルーファスの問いかけに、彼の妻となったばかりの少女は、ゆるゆると首を横に振る。
 結い上げた亜麻色の髪が、それに合わせて揺れた。
「……いいえ。平気ですわ」
 小さい声で、セラフィーネは答える。
 緊張しているのだろう。無理もない。
 好きでもない男と、無理やりに結婚させられているのだから、さぞ憂鬱なことだろう。もっとも、この婚姻に何の思い入れもないというのは、ルーファスも同じことであるが。
「そうですか……」
 うなずいて、ルーファスが何か言葉を続けようとした時、スッと白髪の老人が彼らの前に立った。
 エスティア王国の宰相――ラザール。
 病に伏せがちな国王に代わり、国政を取り仕切る宰相であり、絶大な権力を握る老人だ。
 そして、この婚姻の立役者でもある。
 宰相は灰色の瞳で、セラフィーネとルーファスを交互に見つめると、親しげに花嫁に話しかけた。
「おめでとうございます。王女様……このたびの婚姻を、国王陛下も喜ばしく思っていらっしゃいますよ」
「……ありがとう。宰相」
 そんな宰相の言葉に、セラフィーネは硬い声で礼を言う。
 少女の表情はいつかと同じ、人形のような無表情であった。そんな彼らのやり取りを見て、ルーファスは「おや?」と首をかしげる。初対面の時も思ったが、宰相の前にいる時の王女は、どこか様子がおかしい。嫌っているというか、怯えているような……
「エドウィン公爵」
 ルーファスがそんなことを考えていると、ふいに宰相から名を呼ばれた。
 横を向くと、宰相の灰色の瞳と目が合う。
 白髪に髭をたくわえた老人は、好々爺然とした笑みを浮かべて、だが瞳には油断のならない光を宿して、ルーファスに言った。
「――このたびの婚姻で、国王陛下は貴方にたいへん期待をしておられます。どうか、その期待を裏切らぬように……まぁ、聡明と名高いエドウィン公爵のことですから、よくわかっているでしょうが」
 ルーファスは無言で、その視線を受け止める。
「……」
 期待を裏切るな。つまり逆らうな。宰相の言葉は、そういう意味だ。
 国王陛下と宰相は言ったが、それは宰相本人のことをさすのだろう。国王が病がちなのにつけこんで、国政を牛耳る宰相ラザール――そんな自分に逆らうなという、宰相の警告なのだ。逆らえば、容赦はしないと。
 実際、それを表に出すほど愚かではないが、そんな宰相のことをルーファスは決して快くは思ってはいない。どちらかといえば憎んでいる。そんなわけで、いつか、牙をむく可能性は十分にあった。
 だが、今は――
「宰相。この場では……」
 その緊迫した空気は、控えめな声によって崩された。
 控えめではあったが、どこか抗いがたい響きを持つ声だ。
 声を出したのは、花嫁衣裳をまとった亜麻色の髪の少女――セラフィーネだ。
 そんな王女の言葉に、宰相は「ほほほ……」と鷹揚な笑い声を上げると、「めでたい祝いの席で、無粋でしたな」とセラフィーネに詫びた。
 その灰色の瞳に、油断のならない光を宿したままで。
「ほほほっ。新婚のお二人に、年寄りが無粋なことを申し上げましたな。お許しを……それでは、また後で」
 軽く挨拶をして、貴族たちの席に戻っていく宰相の背を見送った後、ルーファスはその蒼い瞳を、隣のセラフィーネに向ける。
 あのタイミングで、宰相に声をかけるとは、ただ大人しいだけの少女ではないのかもしれない――と。
 (愚かなのか、賢いのか、どちらなのだろうな……)
 ルーファスの視線に気づいてか、セラフィーネは一瞬だけ彼の方を向いたが、すぐに翠の瞳は逸らされた。まるで彼の視線から、逃れようとするように。
 そんな態度に、ルーファスは眉を寄せたものの、結局、何も言うことはなかった。
  
 それから一刻ほどで婚礼の宴は終わり、ルーファスとセラフィーネの二人は、エドウィン公爵家の屋敷に向かったのである。


「……ここが、我がエドウィン公爵家の屋敷です」
 王宮には遠く及ばないとはいえ、十分に広いエドウィン公爵家の屋敷の前に到着すると、ルーファスはセラフィーネの手を取って、馬車から降りた。
「……はい」
 セラフィーネはうなずくと、翠の瞳に不安を宿して、嫁いできた屋敷の風景を見つめる。もう戻れない王宮を懐かしんでいるのか、その唇に笑みはない。
 初夏の風に吹かれて、少女の亜麻色の髪がサラサラと揺れる。
 そんなセラフィーネに、まずは使用人への紹介が先だろうと、ルーファスは声をかけた。
「王女様。屋敷の案内は、後で誰かにさせましょう。まずは、こちらへ」
「ええ。そうですね」
 ルーファスの言葉に、セラフィーネは素直に従う。
 そうして、彼ら二人が屋敷の方に向かうと、そこには屋敷の使用人全員が勢ぞろいしていて、主人の花嫁にして屋敷の奥方になる少女――セラフィーネを出迎えてくれた。
 執事から庭師まで、制服を着た数十人が整然と並んだ様は壮観で、さすがは由緒ある公爵家の屋敷だと思わせてくれる。並んでいる使用人の中には、従者のミカエルも女中頭のソフィーも、その姪であるメリッサの姿もあった。
 使用人たちを代表して、執事のスティーブがセラフィーネの前に進み出て、挨拶をする。
「――ようこそ、エドウィン公爵家へ。セラフィーネ王女様……いえ、奥方様でございますね。私が、当家の執事スティーブでございます。使用人一同、心を込めてお仕えさせていただきますので、どうか我が家と思ってお過ごし下さいませ」
 執事の挨拶にセラフィーネはうなずいて、
「よろしく頼みます」
と小さな声で答えた。
 執事のスティーブの挨拶が終わると、ルーファスは「ソフィー。メリッサ」と、女中頭とその姪の名を呼ぶ。
「はい。旦那様」
 そう返事をして、女中頭のソフィーは、セラフィーネの前に立った。
「女中頭のソフィーです……屋敷内のことは全て、執事のスティーブとソフィーに任せていますので、もし何かあれば彼女に声をかけてください……ソフィー。セラフィーネ王女様に、ご挨拶を」
 ルーファスの言葉に、ソフィーはうなずいて、にっこりと人好きのする笑みを浮かべた。
 大らかで世話好きな性格の彼女は、姪のメリッサと年の変わらない主人の妻に対して、出来る限り親切に接しようと、前々から心に決めていた。
 そうして、明るい声でソフィーは言う。
「女中頭のソフィーと申します。これから、王女様のお世話をさせていただくことになっております……屋敷内で何かありましたら、何でもおっしゃって下さい。出来る限り、ご希望に沿うようにさせていただきます。それから……メリッサ」
「はい」
 女中頭の叔母に名を呼ばれて、金髪碧眼の若い女中――メリッサは、いささか緊張した面持ちで、セラフィーネの前に進み出る。
 そうして、ソフィーに促されるままに頭を垂れた。
 普段のじゃじゃ馬ぶりはなりをひそめた神妙な声で、メリッサは言う。
「あの、王女様のお世話係をさせていただきます。メリッサと申します。至らぬところも多々あるかと思いますが、精一杯お仕えさせていただきます」
 緊張した様子でそう言うと、顔をあげたメリッサに、セラフィーネは小さくうなずく。
 そうして、メリッサが想像していたよりも、気さくな声で言った。
「……よろしくね。メリッサ」
「はい!」
 その声が、思ったよりも気さくなものであったことに、メリッサはホッと安堵する。
 旦那様の命令で、降嫁される王女様のお世話係を命じられた時は密に、気位の高い方や傲慢な方だったら嫌だなぁ、と思っていたが、どうやら杞憂に終わりそうだ。
 どのような御方であれ、使用人の立場で文句など言えるはずもないが、どうせなら親しみのもてる方が良いに決まっている。そういう意味で、メリッサの受けたセラフィーネ王女の印象は、決して悪いものではなかった。
 ――どうやら悪い御方ではなさそうだ。
 緊張のせいか、王女の口数はやや少なめだが、態度や言葉の端々からも傲慢さは見受けられない。
 その淡い翠の瞳は優しげで、メリッサは好感を持った。
「メリッサ」
 そんなことを思っていたメリッサだったが、主人に――ルーファスに名を呼ばれたことで振り返る。
「はい。何でしょう?旦那様」
 メリッサの問いかけに、ルーファスはうなずくと、セラフィーネの世話係である少女に命じた。
「王女様を、お部屋の方にご案内してくれ」
 そう命じた後で彼は王女の方を向き、
「婚礼の後で、お疲れでしょう。セラフィーネ王女様……夕食の時間まで大分ありますから、お部屋の方に案内させていただきます。どうか、ゆっくりと休息をお取りになって下さい」
と丁寧だが、どこか有無を言わさない声で言う。
 その声は、己の妻となったばかりの十七歳の少女に向けるには冷ややかなものだったが、セラフィーネは夫の冷淡な態度を気にする様子もなく、素直にうなずいた。
「……ええ。ありがとう」
 そして、お世話係であるメリッサの案内で、セラフィーネは屋敷の中へと歩いていく。
 彼女の背中が完全に見えなくなってから、ルーファスは傍らにいるミカエルに尋ねた。
 その蒼い瞳に、鋭い光を宿して。
「……どう思う?ミカエル」
「何がですか?旦那様」
 突然の問いかけに戸惑いつつも、従者の少年は問い返した。
 決して浅くはない付き合いだ。
 主である公爵の言いたいことは、ミカエルには何となく察せられるが、だからと言って口に出して良いものか、判断がつかない……。
 ルーファスはハァと息を吐くと、
「……あの王女様のことだ。アレの性格が、いまいち掴めん」
と険しい顔で続けた。
 婚約が決まってから結婚した今日まで、たったの数回しか会っていないのだから、当たり前のことではあるが、彼には妻となったセラフィーネ王女の性格が、よくわからなかった。
 大人しい性格……のように、ルーファスの目には映る。
 妾腹の王女という身分ゆえか、その振る舞いには高位のものにありがちな傲慢さは、今のところ感じられない。
 あくまでも想像に過ぎないが、王宮の中にあっても、きっと腫れ物にさわるように接せられていたのだろうと思う。卑屈と言うほどではないが、彼女の言葉や態度には、何処か遠慮がちなところがあった。
 それは良く言えば、親しみやすい。
 悪く言えば、人の上に立つ王族らしい威厳には、いささかならず欠けている。
 片方とはいえ王族の血を引いているということ以外で、セラフィーネ王女を特別たらしめているものはない。おそらくは市井の娘の中に混じったとしても、何の違和感もあるまい。
 そんな平凡な娘だ。
 だが……とルーファスは思う。果たして、それだけだろうか――
 (この婚姻に、何の裏もないとは思えん……)
 老狐――宰相ラザールの口から告げられた降嫁の話……それが本当に国王の好意によるものなのか、それとも婚姻に何らかの裏があるのか、いかに切れ者と呼ばれるルーファスでも、まだ判断がつかなかった。
「僕は……よくわかりません」
 主人に愛されないだろうと、わかっている花嫁の同情から、ミカエルは口をつぐむ。
 しかし従者の心境をよそに、ルーファスの続けた言葉は、ひどく残酷な響きを持っていた。
「――あの王女が、大人しいだけのお人形ならば、こちらにとっては好都合だがな」
 空虚な言葉は、そのまま彼らの関係を表しているようだった。


 一方、公爵と従者がそんな会話を交わしている頃、女中のメリッサはセラフィーネを用意した部屋へと案内していた――

 王宮には及ばないものの、十分に広く、また洗練されたエドウィン公爵家の屋敷。
 家具も調度品も全て、歴代の当主たちが惜しみなく財をつぎ込んで、一流のモノが揃えられている。その価値は半端なものではなく、売り払えば椅子ひとつですら、法外な値がつくだろう。
 現実的な暮らしやすさよりも、華やかさを重視した内装は、実のところ今の当主であるルーファスの趣味よりは、いささか外れていたのだが、改装するのも面倒なので、そのままになっている。
 そんな屋敷の中でも、ひときわ広い部屋に、メリッサはセラフィーネを案内した。
 部屋の扉を開けると、メリッサは少し誇らしげに説明する。
「こちらが、セラフィーネ王女様のお部屋になります。家具は私たちで揃えさせていただきましたが、何か足りないものがありましたら、おっしゃって下さい」
 そう言ったものの、メリッサは自信があった。
 女中頭の叔母と、お世話係である自分が用意したこの部屋を、王女様は気に入ってくださるだろう――という自信が。
 いささか少女趣味ではあったが、主人の妻のために整えられた部屋は、美しかった。
 薄紅色の薔薇が描かれた壁紙。
 窓辺を飾るのは、白いレースのカーテン。
 金の細工が麗しい鏡台に、飴色に輝く机や椅子……どれもこれも華美すきず、上品さと華やかさが見事に調和した部屋である。
 元々はルーファスの父――先代の当主ウォルターの部屋だったのだが、主の命令で改装したのだ。
(気に入ってくださると良いのだけど……)
 そんなメリッサの期待通り、その部屋に入ったセラフィーネは、小さく微笑んだ。
「綺麗な部屋ね……ありがとう」
 社交辞令ではなく本心からの言葉に、メリッサも笑顔になる。 
 そう言っていただければ、叔母と二人で頑張った甲斐があるというものだ。
 メリッサは微笑んで、セラフィーネに尋ねた。
「夕食の時間まで、こちらでゆっくりとお休みください。紅茶と……甘い菓子なども、お持ちしましょうか?」
 メリッサの提案に、セラフィーネは「ありがとう」と言ったものの、ゆるやかに首を横に振る。
「ありがとう。でも、大丈夫……代わりに頼みたいことがあるのだけれど、良いかしら?」
 その言葉に、メリッサは目を丸くした。
 王女様が直々に、自分に頼みごととは一体なんだろうと――だが、お世話係であるメリッサには、最初から拒否権はない。どうしても出来ないことは別として、彼女の望みを叶えることが、使用人である自分の仕事だ。
 首をかしげつつも、メリッサは首を縦に振る。
「はい。私に出来ることでしら……何でしょうか?」
 その問いかけに、返ってきたのは――意外な返事だった。
「……髪を」
 少し恥ずかしそうに、翠の瞳を伏せて、セラフィーネは言う。
「――髪を梳いてほしいの」
 その言葉を拒否する理由など、あるはずもなかった。
「……」
 メリッサは無言で、主人の花嫁となった少女の亜麻色の髪を、銀の櫛で梳く。
 サラサラとした王女の髪は、羨ましいほど癖がなくて、とかしやすかった。
 そうして髪をすいていると、セラフィーネの横顔が思っていたよりも、ずっと幼いことにメリッサは気づく。
 今年で十七歳だということだが、瞳の大きい愛らしい顔立ちは、実年齢よりもやや幼く見える。まだ少女のあどけなさを残した顔――だが、この少女はもう公爵の妻なのだ。……たとえ本人の望んだことでないとしても。
 (好きでもない男の妻となる……か。どんな気持ちなんだろう)
 政略結婚で、この屋敷に嫁いできた王女に、メリッサは同情の気持ちを抱いた。
 まだ十七歳……メリッサと同い年なのだ。
 もしかしたら、初恋もまだかもしれない。誰か好いた人もいたかもしれない。ひょっとすると結婚したくなかったかもしれない。だが、それでもセラフィーネはルーファスに――エドウィン公爵家に嫁いでくるしかなかったのだろう。
 妾腹の王女。
 政略結婚の道具という立場ゆえに。
「……」
 何も言わず、亜麻色の髪を梳く。
 王女がどんな思いを抱えているにしろ、メリッサはかける言葉を持たない。好きでもない男の妻になる、高い身分を持つとはいえ同じ年の少女にかけるべき言葉など、彼女は持っていないし、持っていたとしても口にすることなど出来まい。
 だから、ただ無言で髪を梳き続ける。
 銀の櫛で、亜麻色の髪を梳く。
 サラサラと髪が流れる。
 その穏やかな沈黙を崩したのは、意外にもセラフィーネの方だった。
「……ありがとう。もういいわ」
その言葉で、髪を梳いていたメリッサの手を止めると、セラフィーネは微笑んだ。
「貴女は髪を梳くのが上手ね。メリッサ」
 その微笑みは儚げで、メリッサは言葉を失う。
 特別な美人と言うわけではないが、透き通るようなセラフィーネの翠の瞳を綺麗だと、ただ綺麗だと――メリッサは思った。
「いえ……あの、厨房に行って、何かお飲みものを持ってまいります」
 今まで考えていたことを思うと、何となく気まずくなって、メリッサは適当な理由をつけて部屋を出ようとする。
 ふっと彼女が窓の方を見ると、すでに太陽が沈んでいた。もう夜だ。
 ――愛のない花嫁が怖れているであろう、初夜は近い。
 そうして、メリッサがセラフィーネに背を向けた瞬間に、「……ごめんなさい」小さな声が耳に届いた。
 その意味がわからなくて、メリッサは振り返る。
 ……ごめんなさい?
 なぜ王女様が謝るのだろうか。
「はい?何でしょうか?」
 振り返ったメリッサの問いに、セラフィーネは答えず、ゆるゆると首を横に振った。
 顔を伏せているので、その表情はわからない。
 ……泣いているのだろうか?
 一瞬だけ、メリッサはそう思う。だが、「……何でもないの」と言ったセラフィーネの声は、かすれても震えてもいなかった。
「……何でもないの。紅茶を持ってきてくれる?」
 そう頼まれたメリッサは一礼すると、セラフィーネの部屋を出て、紅茶の用意をするために厨房へと向う。それが、後でとんでもない事態を引き起こすなど、思いもせずに。

 しばらくして、紅茶と菓子のトレイを手にしたメリッサは、セラフィーネの部屋の前に戻ってきた。
 あいている片手で、コツコツと扉を叩きながら、部屋の中に向かって呼びかける。
「王女様。メリッサです。紅茶を持ってまいりました。入ってもよろしいでしょうか?」
「……」
「王女様?メリッサです」
「……」
 十分に声は届いているはずなのに、部屋の中にいるはずのセラフィーネからは、一向に返事がない。……まさか、寝ているのだろうか?どうする?メリッサは悩んだ末に、後で叱責されても仕方ないと割り切って、部屋の扉を勝手に開けることにする。
「失礼しま……」
 失礼します、というのは言葉にならなかった。
 なぜなら――入った時、その部屋の窓は全開で、夜風がゆらゆらとレースのカーテンを揺らしていて、部屋の中には誰もいなかったからだ。
「お……王女様……?」
 顔をひきつらせて、メリッサは部屋の中を見回す。居ないはずがないと、自分に言い聞かせて。
 机の下。
 衣装箪笥の中。
 寝台の中。
 まさかと思いつつも、寝台の下の隙間……滅茶苦茶に混乱しながら、絶対に居るはずのない場所まで探した末に、王女の世話係である女中の少女は、最悪の結論を出さざるを得なかった。王女様は部屋にはいない……逃げたのだと。
 ふらふらしながら、メリッサは全開になっている窓に近寄る。
 どうやって用意したのか、窓には縄ばしごが付けられていた。縄ばしごの先には、もう誰もいない。
 この縄ばしごを使って、セラフィーネ王女は外に逃げたのだろうと――メリッサは悟った。
 逃げ出した方法を悟ったところで、今更どうしようもなかったが。
「……逃げた。王女様が」
 あまりの事態に、しばし呆然としていたメリッサだったが、やがて「ボーっとしている場合じゃない」と我に返った。
 婚礼の日に花嫁が逃げ出したなんて、とんだ醜聞だ!というか、早く連れ戻さなければ!
「旦那様――――――っ!」
 そう叫びながら、メリッサがルーファスのいる広間に飛びこんだのは、それからすぐのことである。


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