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一章 公爵の結婚 5


「だだだ旦那様―――――っ!」
 まるで猟師に追われた猪みたいな勢いで、大広間に飛び込んできたメリッサに、ルーファスは形の良い眉を寄せた。
 ……騒々しい。一体、何事だというのだ?
 バタバタと騒がしい足音をさせて、主人の居場所に飛び込んでくるなど、公爵家の使用人としては及第点とは言えないが、それを叱責するほどルーファスは狭量な主人ではない。というか、ぜえぜえと荒い息を吐いているメリッサを見れば、そんな気も失せる。
「ぜえぜえ……旦那様……王女様が……」
 そう息切れしたまま喋ろうとするメリッサに、少し落ち着け、とルーファスは声をかけた。
「少し落ち着け。そんなに慌てて、何があった?」
「そんな落ち着いている場合じゃ……王女様が、王女様が逃げ……」
 焦りすぎて、一向に要領を得ないメリッサの説明に、ルーファスはハアと息を吐くと「ミカエル。水を」と命じた。
「はい。旦那様」
 ミカエルはうなずくと、そばにあった水差しを手にとって、水をいれたコップをメリッサに手渡してやる。
 同時に、いまだゼエゼエと息を切らせた少女の顔を見て、心配そうに問いかけた。
「……大丈夫?メリッサ」
 問われたメリッサは、焦った顔で「大丈夫なわけないわよっ!」と怒鳴る。
「大丈夫なわけないわよっ!さっきセラフィーネ王女様が、縄ばしごで外へ……窓が開いてて、時間は少し前で……」
「……頼むから、要点だけ話せ」
 相変わらず、混乱したままのメリッサの説明に、ルーファスが呆れたように言う。その言葉に、ようやく我に返ったのか、セラフィーネ王女付きの女中である少女は、やや青い顔で叫んだ。
「――だから、王女様が逃げ出したんですってっ!」
 結婚初日に、花嫁が逃げ出した!
 その余りにショックな報告に、ミカエルは思わず、持っていたコップを床に落とした。
 バシャン、と水がこぼれて、空になったコップがコロコロと床を転がるが、それを気にも留めないほどに従者の少年は動揺していた。婚礼の日に、降嫁された王女が逃げ出すなんて、とんでもない醜聞だ!ミカエルは天使のようなと称されるほどに、あどけない顔を引きつらせて、「――嘘!?」と叫んだ。
「嘘!?嘘だろ?メリッサ!」
「嘘なわけないでしょーがっ!あたしだってねぇ、こんな公爵家の一大事に、冗談を言わないくらいの分別はあるわよ!とにかく王女様は外に行っちゃったの!」
 あわあわと狼狽するミカエルに、メリッサは不機嫌そうに言う。
「わかってるよ!だけど……」
 反論しかけて、ミカエルは口をつぐんだ。
 ――公爵家の一大事だ。
 早くも最悪の事態が胸をよぎり、少年は頭を抱えた。
 婚礼の夜に、花嫁が逃げ出す。すわ駆け落ちか!――もし吟遊詩人がいれば、泣いて喜びそうなドラマチックな展開ではあるが、実際その当事者となってみれば迷惑なことこの上ない。というか、決して大袈裟ではなくて、エドウィン公爵家の存亡の危機である。
 貴族であれ庶民であれ、花嫁が逃げ出すというのは人生を揺るがす一大事だろうが、今度の場合それだけではすまない。
 主人の妻となったセラフィーネ王女は、妾腹とはいえ歴とした国王陛下の娘だ。
 ただの花嫁が逃げ出したというのとは、わけが違う。
 考えたくはないが、逃げ出した王女の身に万が一のことがあった場合、エドウィン公爵家にどんな処分が下されるのか――ただの従者であるミカエルには想像もつかないが、それが軽いものではないだろうことは、少年にも理解できる。
 最悪の場合、爵位の剥奪や投獄もすら考えられる……。
 たとえ王女様が自ら逃げ出したと言っても、責任は問われることだろう。
 王女様の身に、何かあったら――最悪の事態を想像し、ミカエルはサーッと顔を青ざめさせて、震える声で主人に尋ねた。
「だ、だ、旦那様?……どうしましょう?」
「……慌てるな」
 公爵家の一大事だっ!と、慌てるミカエルやメリッサと対照的に、彼らの主人であるルーファスは冷静だった。
 もちろん、彼とて事態の深刻さは理解している。
 このエスティアにおいて、王族とは絶対の存在だ。
 たとえ王女が自分の意思で逃げたとしても、誰かが王女に危害を加えれば、ルーファスの――ひいては公爵家の責任は免れまい。それを十分に承知していて、冷静にしていられるのは、今更ジタバタしても仕方ないと知っているからだ。
「……ミカエル」
 ルーファスは椅子から立ち上がると、従者の名を呼んだ。
「はい!旦那様」
 返事をしたミカエルに、外出用のマントをはおりながら、王女の夫である若き公爵は命じた。
「執事のスティーブと女中頭のソフィーにだけは、セラフィーネ王女のことを知らせておけ。他は誰にも言うな……王家の名誉にも関わることだ。事を荒立てるわけにはいかん」
「わかりました……それで、あの旦那様は……?」
「――俺は、セラフィーネ王女を探しに行く。心配せずとも、若い女だ。そう遠くには行っていないだろうさ」
 ミカエルの問いかけに、ルーファスはきっぱりと答えた。
 大貴族の当主である青年の立場からすれば、王女の捜索に人を使うことは容易であるし、むしろ自然なことだ。だが、そうすることは王女の逃亡を多くの人に知られることであり、その結果として、公爵家と王家の面子は潰れることになるのだ。
 そうなってしまえば、もう何もなかったことには出来ない。それを避けて、事を穏便に収めるためには、公爵である彼が逃げた王女を探し出して、屋敷につれ戻すことだ――たとえ王女自身が、それを望まないとしても。
「でも……」
 なおも何か言いかけたミカエルだったが、ルーファスが「すぐに戻る」と言って、扉の方に向って歩き出したことで、口を閉ざした。
 公爵がそう決めた以上、従者の立場としては何も言うことはない。
 代わりに、ただ「……お気をつけて」とだけ言って、主人の背中を見送ったのである。


 ルーファスが屋敷から出ると、辺りは真っ暗な闇に包まれていた。
 気がつけば、太陽はとうに沈んで、空には金色の月が浮かんでいる。
 淡い月光が、闇夜の街並みを照らす。
 そうは言っても夜の街は暗くて、ランタンの灯りに頼らなければ、逃げた王女の姿を探すことなど、とても不可能だろう。
「……」
 灯りをかかげて、王女――セラフィーネの姿を探そうと歩き出す青年の頬を、夏のなまあたたかい夜風が撫でた。
 闇夜のよう、と貴婦人たちから評される黒髪が、風に吹かれて揺れる。
 ――降嫁した王女が逃げ出した。
 己の、そして公爵家の一大事だというのに、意外にもルーファスに動じる素振りはない。
 それは物事に動じることの少ない彼の性格も、多少なりとも影響しているが、一番の理由は逃げたセラフィーネ王女を連れ戻すことは容易だと、ルーファスが思っているからだ。
 心配せずとも、若い女の足だ。そう遠くにはいけまい。
 そうミカエルに言ったことに、嘘はないはずだ。
 いくら女中のメリッサが王女が逃げ出したことを告げに、大広間に飛び込んでくるまで時間があったといっても、その短時間で遠くまで行ったとは考えられない。事前に逃げる準備をしていたとしても、仮にも王女の身分にある娘が街中を歩き慣れているわけもないし、こんな夜更けに若い娘が一人で道を歩いていれば、必ず目立つ――セラフィーネ王女を見つけるのは、容易なはずだ。
 そんな彼の考えの正しさは、それから一刻とたたずに証明された。
 ルーファスが屋敷を出て街中で、逃げたセラフィーネを探し始めてからすぐに、路地裏を歩いていく亜麻色の髪の少女……王女の後ろ姿を見つけたからである。
 あの真っ直ぐで、長い亜麻色の髪は――セラフィーネ王女のモノだ。
「……」
 きょろきょろと周囲の様子をうかがいながら、暗い路地裏を歩いていくセラフィーネに追いつくことは容易だったはずが、なぜかルーファスはそうしなかった。
 逃げた花嫁を己の屋敷に連れ戻すのが目的であったはずなのに、なぜか彼はつかず離れず、セラフィーネ王女に気づかれないようにしながら、黙って彼女の後をつけていく。
 王女を見つけた以上、一声かければ逃亡劇は終わるはずなのに……。
 セラフィーネの歩む速度に合わせて、ルーファスも歩を進める。
 王女が休めば、彼も立ち止まる。
 それは、まるで尾行のようだ。
 ルーファスが、そんな不可解な行動に出たのは、ある理由があってのことだった。
 (屋敷に連れ戻すのは容易だ。だが、逃げ出した理由がわからなければ、意味がない……)
 ここで王女を連れ戻したところで、逃げた原因がわからなければ、また同じことの繰り返しになるかもしれない。
 ルーファスは、それを危惧する。
 ――セラフィーネ王女はどうして、危険を犯してまで、屋敷を抜け出したのか?
 政治的な理由だけで、愛情の欠片もない結婚に嫌気が差してのことか。
 あるいは他に誰か好いた男がいて、駆け落ちでもしようとしているのか。
 それとも、ただ単純にルーファスが嫌いで逃げたのか……。
 いずれにせよ、セラフィーネ王女本人に聞かねば、本当のところはわからないだろうが。
 そんな風に王女が逃げた理由を考えつつも、彼は怒ってはいなかった。自分の元から逃げたことに怒るほどの執着も、王女に抱いているわけもなかったし、この婚姻に何の喜びもないのは、お互い様だと思っていたからだ。
 政治の道具として、利用された花嫁。
 哀れな妾腹の王女。
 そんなセラフィーネ王女が、自分の屋敷から逃げ出したのも、当然のことだろうとルーファスは思う。
 氷の公爵――そのように呼ばれる男の妻に、誰が進んでなりたいと思うだろうか?
 真に王女の幸福を願うならば、このまま逃がしてやるべきなのかもしれない。
 しかし、その方がセラフィーネ王女の為になるかもしれないと理解していても、そうする気はルーファスにはなかった。エドウィン公爵という立場が、それを許すことはないし、また王女を逃がしてやる義理も彼にはない。
 それに、仮に逃げ出した王女を放っておいたとしても、彼女が幸せになるとは考えられなかった。
 籠の鳥が逃げたところで、外の世界で生きていけるなどという幻想を、彼は信じない――
(……そうだ。籠の鳥は、籠の中でだけ生きていけば良い。餌をもらって生きてきた小鳥は、雨風にも寒さにも、耐えられまい……それでも、外の世界を望むなら、俺の母の二の舞になるだけだ)
 籠の鳥は外の世界で、幸福にはなれない。
 だから、ルーファスがセラフィーネ王女を連れ戻そうとするのは、正しいことなのだ。
 たとえ王女がそれを幸福だと、思わないとしても……。
「……」
 そんなことを思いながら、ルーファスは一定の距離を取りながら、無言でセラフィーネ王女の後をつけていた。
 セラフィーネが何の目的で、屋敷から逃げ出したのか、それを見極めるために。
 一方、王女の方は彼の尾行には気づいていない様子で、暗い路地裏の道をキョロキョロと周囲を警戒しながら、だが迷いのない足取りで歩んでいく。まるで、何度か歩き慣れた道のように。
 ランタンの灯りをかかげて、道の奥へ奥へと、入り込んでいく。
 そうしていくうちに、徐々に都の中心部からは外れていき、あまり治安の良くない場所へと向かっていることに気がついて、ルーファスは蒼い瞳に険しい光を宿した。
 王女がこのまま歩いていけば、道の果てにあるのは――貧民街であるはずだ。
「なぜ?あんな場所に……」
 王女の意図が理解できず、ルーファスは眉をひそめた。
 彼女の歩む先にあるのは、王都でも貧しい者たちが住む場所であり、治安はお世辞にも良いとは言えない。ましてや、セラフィーネのように王女の身分にある娘が、間違っても足を踏み入れるような場所ではない。
 華やかな王都の中にあって、影のような場所。
 エスティアは豊かな国ではあるが、光があれば闇が存在するように、富める者と貧しい者が存在するのはどうしようもない現実である。
 貴族たちが舞踏会を開いて、華やかな遊戯にうつつを抜かす影で、明日の食事にも困っている者たちもいる。たとえ病にかかっても、薬すら与えられずに命を落とすもいる。それはエスティアの貴族連中が目を背けて、無いものとして扱ってきた国の暗部だ。
 そんな貧しい者たちが、肩を寄せ合って暮らす地区――王女が向かおうとしているのは、そんな場所である。
(……止めるか?)
 それに気づいたルーファスは一瞬、王女を止めようと足を踏み出しかけ、結局それを思いとどまった。
 セラフィーネ王女の身の安全を考えるなら、お世辞にも治安の良いとは言えない場所に向かうのを、言葉を尽くしても止めるべきだろう。実際、ここにいたのがミカエルならば、そうしたはずだ。
 だが、彼には目的があった。王女がどこに向かっているのか、そして何をしようとしてるのか、それを知らなければならないという目的が。
 悩んだ末に、ルーファスは黙って、王女の後を尾行することにした。
「……」
 それからしばらくすると、黙々と歩き続けていたセラフィーネの足が、ピタッと止まった。
 王女の足が止まったのは、貧民街の入り口の辺りである。
 立ち止まると、王女は翠の瞳でキョロキョロと周囲の様子を見回した後、スッと建物の影に消えた。
「……っ!?」
 ルーファスは焦ったが、声を上げるわけにもいかない。
 仕方なしに、セラフィーネが消えた辺りを見つめるが、何軒か店のようなものが並んでいるということしかわからない。……あの店のどれかに、王女は入ったのだろうか?
(……どうする?)
 セラフィーネを追うべきか、ルーファスは悩んだが、結局のところ彼の心配は杞憂に終わった。
 それから、いくばくもしないうちに、王女が再び建物の影から姿を現したからである。
 しかし、姿を現したセラフィーネの格好を見て、ルーファスは息を呑んだ。ごくっ、と唾をのんだ後で、何だアレは?……という呟きが、彼の唇から出る。
「何だ?あの格好は……」
 再び建物の影から姿を現したセラフィーネ王女は、どこか店に入って着替えたのか、先ほどまでとは全く違う服装をしていた。
 ――魔女。そんな言葉が、頭に浮かぶ。
 公爵家の屋敷から逃げ出した際には、白い服を着ていたはずが、今は黒いローブのようなものを身にまとっている。
 両手には黒い手袋。
 その右手には、銀の鈴をつけた木の杖。
 まるで、魔女か魔術師のようだ。
 黒いフードは顔の上半分を覆っており、たらした亜麻色の髪が見えなければ、追ってきたルーファスですら本人と断言できなかっただろう。それほどまでに、先ほどまでとは様変わりしている。
 彼は呆然として、王女の姿を見つめた。だが、それは驚きの序章に過ぎなかったのである。
「……すぅ」
 王女は気分を落ち着けるように、息を吸うと、銀の鈴がついた木の杖をゆっくりと揺らした。
 リーン、リーン、と澄んだ音が、貧民街に響き渡る。
 その鈴の音に反応するように、周囲に変化が起こった――
「……」
「……」
「……」
「……」
 リーン、リーン、という鈴の音色に引き寄せられるように、周囲の家や建物の影から、次々と人が出てくる。
 老人から子供まで、男女を問わずワラワラと出てくる様子は、異様ですらあった。
 ヨロヨロと、杖をついた老人もいた。
 辛そうに、包帯を巻いた足をひきずる女もいた。
 病気の母親の手を引いた幼い子供の姿もあった。
 そんな彼らは一様に、澄んだ鈴の音に引き寄せられるように、魔女のような黒いローブをまとった女――セラフィーネの前に、列をなして並ぶ。
 その奇妙な光景に、ルーファスは言葉もない。
 (一体、何なんだ?これは……)
 目の前の光景を、全く理解できない彼を置き去りにして、事態は進んでいく。
 セラフィーネの前に並んだ人々は、一様に必死な形相で、王女に向かって己の辛さを訴えた。
 苦しい!苦しい!どうか助けて!と。
 ヨロヨロと杖をついた老人が、祈るように言う。
「解呪の魔女さま。どうか、ワシの娘の病を治してください……」
 セラフィーネ王女の身分を、知らないのだろう。 
 王女のことを、《解呪の魔女》さまと呼んで、老人は助けを求める。
 老人の後ろに並んだ幼い少年も、同じ意味の言葉を続けた。
「解呪の魔女さま。母が病気で苦しんでいるんです。どうか、薬を……」
 その少年の後に並んだ者たちも、同じ言葉を繰り返した。
「解呪の魔女さま。どうか、あたしの父の病を……」
「魔女さま。助けて下さい……」
「魔女さま」
「魔女さま……」
 列に並んだ十数人にいっせいに訴えられても、セラフィーネは落ち着いた様子で、静かな声で並んだ者たちを諭した。
「――落ち着いて下さい。薬はちゃんと、人数分あります。だから順番を守って、列に並んで下さい。絶対に老人や子供を、押しのけたりしないように」
 そんなセラフィーネの言葉に、並んでいた者たちは「おおっ!」と感嘆の声をあげた。
「魔女さま」
「解呪の魔女さま……」
 列に並んだ人々から、まるで聖者を見るような眼差しを向けられようとも、セラフィーネ王女は至って淡々とした様子で、列に並んだ人々から事情を聞いていく。
 そうして病で苦しんでいると言う者には、懐から薬を取り出すと、ロクな対価も要求せずに薬を渡してやる。
 その度に、魔女さま!魔女さま!と尊敬と感謝の眼差しを向けられても、本人はそれには大した興味はないようで、ただ黙々と列に並んだ人々の相談にのる作業を続ける。
 そんな王女に声をかけることも出来ず、ルーファスは影から、その光景を見つめていることしか出来なかった。なぜ――?という想いが、公爵の胸を支配する。
 なぜセラフィーネ王女は貧民街で《解呪の魔女》などと呼ばれながら、病に苦しむ者に薬を渡しているのか。
 屋敷から逃げてまで、ここに来た真意は?その目的は?――考えれば、キリがない。
 だが、貧民街の者たちを助ける行為はともかくとしても、解呪の魔女と呼ばれるセラフィーネに、ルーファスは胡散臭さを感じないわけにはいかなかった。
 このエスティア王国では、英雄王オーウェンの時代より、魔女の存在は禁忌とされている。
 かつて忌むべき《凶眼の魔女》が、英雄王オーウェンを裏切り、その命を奪おうとした――そう伝わっているがゆえに、エスティアでは魔女の存在は恐れられ、忌まれ、唾棄すべき存在とされる。
 それにも関わらず、なぜセラフィーネは《解呪の魔女》などと呼ばれて、こんなことをしているのか?
 疑問が尽きることはない。
「何者だ?あの王女は……」
 ルーファスがそう呟いた瞬間、フッと周囲の空気が変わった――
「……な!?」
 その時、貧民街の奥から出てきたモノに、彼は隠れていることも忘れて、思わず声をあげた。
 蒼い瞳を見開いて、貧民街の奥から出てきたソレを凝視する。
「……」
 無言で、ずるずると体を引きずりながら、貧民街の奥から歩いてきたソレは――人間の男だった。もっとも、到底そうは見えなかったが。
 例えるなら、それは黒い霧のように見えた。
 その男の体の周りには、黒い霧のようなものがベッタリと張り付いて、体の大半を覆い隠している。
 顔も体も手も足も黒い霧に覆われて、その表情すら見ることは叶わない。苦しいのか、霧の奥からは時折、「あぅぅ……」という苦しげな呻き声がもれている。
 体格から、かろうじて男と判断できるが、若いのか年寄りなのか、それすらわからない。いや、そもそも、この姿を人間と言っていいものか。
 黒い霧に覆われている――その姿は人間というよりも、化け物に見えた。
「何っ……だ!あれは……」
 呆然とするルーファスの前で、その黒い霧に覆われた男はずるずると体を引きずって、セラフィーネの前に進み出た。
 そうして、黒い霧の奥から、苦しげな声で言った。
「だ……助けてくれ……解呪の魔女……苦しい……」
 化け物のようなソレが近づいてきたことで、王女の前に列をなしていた人々は「わ――っ!」と悲鳴をあげて、散り散りになる。だが、その黒い霧を前にしたセラフィーネは怯えることもなく、フードをあげると悲しげな声で言った。
「――呪われたの?」
 全身を黒い霧に覆われた男は、「あぅぅ……」と苦しげに呻く。
 それが、返事の代わりだった。


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