「――呪われたの?」
セラフィーネ王女――今は《解呪の魔女》と呼ばれている娘の問いかけに、その黒い霧のようなものに全身を覆われた男は、苦しげに「あうぅ……」と呻き声をあげる。
それが、返事の代わりだった。
黒い霧のようなものに全身を覆われた男――ルーファスは信じられないものを見る目で、それを見つめた。辛うじて、人であるということはわかるが、あの黒い霧は何なんだ……?
(……呪い?アレがそうなのか?)
まさかと思いつつも、その黒い霧に覆われた人間の姿を目にしては、ルーファスとて信じるしかない。
黒い霧のようなものに、全身を覆われた男。
それは確かに、呪いとでも言わなければ、とても説明ができないものだったからだ。
呪術。
そう呼ばれるものの存在は、ルーファスも知識としては知っていた。
魔女や魔術師たちが得意とするそれは、実物を見たことこそなかったものの、幾度も書物で読んだことがある。毒殺や暗殺者と並んで、時の権力者を恐れさせたというそれ。
だが、三百年前の英雄王オーウェンによる魔女狩り以来、このエスティアでは魔女や魔術師といった存在は国を追われ、土地を追われ、表の世界で生きることは許されなくなった。
それでも、国に留まろうとした者たちは、容赦なく処刑された。
自分を裏切った≪凶眼の魔女≫を、自ら聖剣ランドルフで成敗しても、英雄王は魔女を決して許さなかったからだ――
何とか魔女狩りを生き延びた魔術師たちは、暗殺者に身を堕としたり、安住の地を求めて東方に流れたりしたという。
――それから三百年の月日が流れた今でも、裏社会には魔術や呪術を使いこなす者たちがいる。大金を積めば、彼らが憎い相手を呪ってくれるとか、あるいは呪術を教えてくれると……。
そんな噂は耳にしていたものの、自分に関係のないことだと、今までルーファスは思っていた。
(……憎い相手ならば、己の手で倒せば良い。呪術なんかに頼らんでもな)
実際、彼にはそうするだけの自信があり、また実力もあった。そんなルーファスにとって、裏社会の魔女やら呪術やらは、己には関係ない世界のことだったのである。
そう、今の瞬間までは。
だが、黒い霧に覆われた男……あの人間とは思えない姿が、化け物のようなあれが、呪われた人間のなれの果てだというなら、それは――
「……そう」
呪われたの?と、黒い霧に覆われた男に尋ねたセラフィーネは、「……あぅぅ」と答えた男に、悲しげな表情でうなずいた。
「……そう。呪われてしまったんだね。可哀想に……苦しいでしょう?」
王女は哀れむように言うと、その化け物にしか見えない黒い霧のかたまりに、ゆっくりと歩み寄っていく。
その翠の瞳に哀れみはあっても、怯えはない。
先ほどまで「魔女さま」「魔女さま」と言って、セラフィーネの前に列をなしていた貧民街の住人たちが、その化け物のような黒い霧を恐れて、じりじりと後ずさるのとは反対に、王女は――《解呪の魔女》は黒い霧に覆われた男に、自分から近づいていく。
その化け物のような姿を恐れもせず、一歩、一歩、ゆっくりと確実に。
呪われたのだという男に、その黒い霧のかたまりに向かって、歩み寄っていく。
そのことに、ルーファスは息を呑んだ。
(……恐ろしくはないのか?何をする気だ?)
その場の異様な空気にのまれて、彼は王女の行動を見守ることしか出来なかった。
呪いやら魔女やら、ルーファスには理解できないことばかりだ。いや、それよりも、あの王女は何者なんだ――?
「……少し我慢していて」
黒い霧に覆われた男に歩み寄ったセラフィーネは、そう声をかけると、両手にしていた黒い手袋を外して、男の周りを覆っている黒い霧にそっと手を伸ばした。
白い指先が、黒い霧に触れる――
「……っ!」
その瞬間、黒い霧が消えていくのを見て、ルーファスは「……っ!」と息を呑む。
セラフィーネの指先が触れた場所から、まるで今までのことが悪い夢だったかのように、その男を覆っていた黒い霧が薄れ……消滅する。
――それは、まるで奇跡のように。
「う……あ……」
しばらくして、男を苦しめていた黒い霧が、完全に消え去った時、そこに居たのは――痩せて衰弱した様子の中年の男だった。
黒い霧から開放されたその男は、衰弱しきった様子で、脱力したように地面へと座りこんだ。
怯えたような瞳、よだれのたれる口元、青白い顔。
実際は、五十にもならぬだろうが、そんな男の姿は老人のようにさえ見える。
呪いとは、人の身体のみならず、心まで蝕むものなのか。
そうルーファスは思った。
まるで廃人のような男に、貧民街の住人たちが、恐れと好奇の入り混じった視線を向ける中で、セラフィーネは座りこんだ男に、そっと手を差し伸べた。
同時に、真剣な顔で話しかける。
「……立てる?苦しいだろうけど、もうちょっと我慢して。貴方の呪いを解かなきゃいけないから。今はただ、呪いの効力を薄めただけ……呪いそのものを、きちんと解かないと意味がないから」
そう言って、衰弱しきった様子の男を助け起こすと、セラフィーネは懐から、短剣を取り出した。
柄に翠の石が飾られた短剣を、少女は己の指先にあてて、スッと何でもないような自然な仕草で、短剣で己の指を切った。
――浅くつけられた傷。だが、刃は指先を傷つけて、赤い血が流れ出す……。
唐突な行動に、ルーファスは目を見張って、その場を飛び出そうかどうか悩んだ。
(何だ?何をする気だ?)
しかし、迷う彼を置き去りにして、事態は進んでいく。
「……っ」
一瞬だけ、血を流す指の痛みに眉をひそめた後で、セラフィーネは血を流す指先を――
「さわるよ」
先ほどまで、黒い霧に覆われていた男の額にあてた。
「ああ……」
苦しそうに呻く男に、「我慢して」と囁くと、セラフィーネは翠の瞳を伏せて、まるで歌うような声で言った。
「【古の魔女と人の王の盟約において、血の契約を受け継ぎし者、我が命じる。その魂に刻まれし呪いよ、その者を開放し、あるべき混沌の淵へと還れ】」
それは、魔術を知らぬ者がすれば、意味のわからぬ呪文である。
隠れていたルーファスはもちろんのこと、遠巻きに見ていた貧民街の住人たちも、意味がわからなかった。だが、それが意味のあるものであったことを証明するように、男とセラフィーネの周りが、白い光に包まれた。
白くて、あたたかい光に。
まるで奇跡のような、それ。
それは一瞬のこと――
「……ふぅ」
その白い光が消えた後、セラフィーネは安堵したように、息を吐いた。
「あれ……?」
一方、男の方は――
先ほどまで黒い霧に覆われて、ずっと苦しんでいた男は、その白い光に癒されたかのように、目に正気の光を取り戻し、きょきょろと周囲を見回す。恐る恐る手を動かす姿は、己の身に起こった変化が、信じられないようだった。
黒い霧が、呪いが、消えた。
それを悟った男が、声を震わせて、喜びの涙を流す。
「信じられん。消えた。あの黒い霧が……嘘みたいだ」
呪いから解放されて、涙を流し続ける男に、セラフィーネは≪解呪の魔女≫と呼ばれる娘は、微笑んで言った。
「貴方の呪いは、解けたよ。もう大丈夫だと思う」
それは、決して己の手柄をひけらかすようなものではなく、控えめな声であったのだが、貧民街の住人たちは歓声をあげた。
魔術や呪いなど何も知らぬ貧しき者にとって、それは確かに奇跡だった。何が起こったかわからずとも、苦しむ男を≪解呪の魔女≫が救ったのだということは、はっきりしている。
そして、それこそが貧民街の住人たちにとっては、何よりも大きいことだった。魔女は苦しむ人を見捨てない。救いの手を差し伸べてくれる、と。
飢えや病に苦しむ者に、国王や貴族など関係ない。
目の前に差し伸べられる手こそが、ただ一つの救いなのだ。
「奇跡だ……」
杖をついた老人の声に、周りにいた者たちもうなずいて、セラフィーネに歩み寄った。
幾人もの人々が、救いを求めて、魔女の名を呼ぶ。
「魔女さま」
「ああ、魔女さま……」
「助けてください。どうか……」
己を讃える声と、救いを求める手に、セラフィーネは淡い微笑みを浮かべた。
呪いに苦しむ男を救ったというのに、その翠の瞳に宿るのは、深い深い悲しみの色。
しかし、そんな憂いを秘めた表情は一瞬だけで、セラフィーネは再び何事もなかったかのように、住人たちの相談に耳をかたむける作業を再開した。
そんな王女――婚姻を経て、今は己の妻となった少女の姿に、ルーファスは唖然とした。
これは、夢か幻か――。
そう信じたいところだったが、残念なことに全て現実だ。
彼が娶ったセラフィーネ王女は、どうやら普通の姫君とは、程遠い存在らしい。
何やら、とんでもない秘密がありそうだった。
(わからん……一体、あの王女は何者なんだ?)
今宵、何度も何度も繰り返し思った疑問が、彼の頭を支配する。
ルーファスは改めて、花嫁であるセラフィーネについて、己が何も知らないのだということを自覚した。
そう、彼は何も知らない。
セラフィーネの性格も、嫁ぐまでにどんな人生を歩んできたのかも、ルーファスは知らなかったし、今まで知りたいとすら願っていなかった。
――これは、政略結婚だ。愛情などない。
冷ややかに、そう断言する若き公爵にとっては、王命で娶った妾腹の王女など、はっきり言って道具のひとつに過ぎなかった。
最低限の礼儀として、何不自由ない生活は約束するつもりだったが、逆を言えば、それ以上のことは何もするつもりがなかったのである。
セラフィーネ王女が、それに不満に思わないような大人しい性格の姫であればいいと、そう望んでいた。だが、それがとんでもない誤りであるということを、彼は認めるしかなかった。
「……」
ルーファスは黙って、貧民街の住人たちに「魔女さま」「魔女さま」と呼ばれるセラフィーネの姿を、遠くから見つめた。
ここの住人たちは誰一人として、彼女が王女という身分にあるということを、知らないだろう。本来ならば、言葉を交わすことすら叶わない高貴な身分だとは。
「お兄さん。お兄さん!」
背後から、そう声をかけられて、ルーファスは振り返る。
「……俺のことか?」
「そうだよ。色男なお兄さん」
そう言って、にぃ、と真っ赤な紅をぬった唇をつり上げて笑ったのは、三十くらいの女だった。
特別に美しいというわけではないが独特の色気があり、豊満な体つきと、鼻をくすぐる女の甘い香りは、男を惹きつける。
身にまとう雰囲気から、娼婦だと知れた。
女は誘うように指を伸ばすと、ルーファスに尋ねる。
「こんな場所に、どうしたんだい?お兄さん。女でも買いに来たのかい?あたしだったら、安くしとくよ」
「……お誘いは有り難いが、ここには別の用事で来たんでな」
ルーファスが首を横に振ると、女は残念そうに息を吐いた。
「そうかい。お兄さんみたいに、若くて良い男なら、安くしておくつもりだったんだけど……」
女はまんざら嘘でもなさそうな口調で言うと、ルーファスの漆黒の髪や蒼い瞳を残念そうに見て、「じゃあ……」と言葉を続けた。
「――じゃあ、お兄さんは解呪の魔女さまに用事かい?」
解呪の魔女。
女の問いかけに、ルーファスはスッと眉を寄せる。
そうして、ワザと何も知らないフリをして、彼はセラフィーネの方を指差した。
「解呪の魔女……?それは、あそこにいる黒い服の女のことか?」
黒い服の女――と、あえてセラフィーネの名を出さずにルーファスが問うと、女はあっさりとうなずく。
「ああ。そうさ……お兄さんも魔女さまの噂を聞いて、助けてもらいに来たんじゃないのかい?」
「いや……だが、興味はあるな。その解呪の魔女さまとやらは、どんな人なんだ?」
「魔女さまは魔女さまさぁ……二年くらい前からかねぇ、ああして時折、ここの住人たちに薬草をくれたり病気の相談にのってくれたりするようになったのは。それに、あれは魔術っていうのかい?この辺りで、妙なことが起こったら、大抵は魔女さまに相談するよ」
魔女さま――セラフィーネのことを語る娼婦の口調は、心なしか誇らしげだった。
その時、女の方を向いたルーファスは、女の腕にひどい火傷の痕があることに気づく。
最近のものではなさそうだが、焼けただれた腕は、客を取るにはいささか不自由なように思われた。しかし、それには触れず、ルーファスは魔女の話題を続ける。
「ずいぶんと褒めるんだな。この国で、魔女が忌まれていることを、知らないわけではないだろう?」
英雄王と《凶眼》の魔女。
エスティアを建国した英雄王オーウェンに仕えた魔女は、英雄王を裏切った末に、聖剣で命を絶たれた――
その因縁を知らないわけでもないだろう?
ルーファスの問いかけに、女は腕をそっと撫でながら、穏やかな表情で首を横に振って言った。
「関係ないね。あたしみたいなもんには、王様や貴族様なんか関係ないし、ここの住人たちは皆そうだよ……あたしが火傷で苦しんでた時、助けてくれたのは魔女さまさ。嫌う理由なんて、何もないね」
あたしにとって、魔女は命の恩人だ。
そう語る女の言葉に、ルーファスはうなずいた。
「……そうか」
「聞きたいことは、それだけかい?なら、あたしはもう行くよ。色男なお兄さん……飢えないためにゃあ、また次の客を探さなきゃいけないもんでね」
そう言って、背をむけた娼婦の女の背中に、ルーファスは財布から取り出した銀貨を投げた。
投げられた銀貨は綺麗な放物線を描いて、女の手へと落ちる。
降ってきた幸運に、女は驚いた顔で、ルーファスの方を振り返った。
「……どういうつもりだい?」
怪訝な顔をする女に、ルーファスはニヤリと笑う。
「それは礼だ。気にするな。俺も……」
そうして、彼は貧民街の住人たちの相談にのっている――セラフィーネの元へと歩を進める。
解呪の魔女の秘密を解き明かし、王女の真の姿を知るために。
「――その魔女さまに、会う必要があるからな」
夜明けまでは、まだ時間がある。
いつになく長い夜になりそうな、そんな予感がした。
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