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八章 深すぎる闇 1


 ――さあ、むかし話を始めようか

「あぁ――貴方には、随分、焦らされましたよ。エドウィン公爵、いえ、ルーファス=ヴァン=エドウィン。あの隻眼のヴィルフリートの末裔よ」
 霊廟の扉をあけ放ったセラと隣に立つルーファスに対し、宰相ラザールはどこか高揚した様子で、親しげに語り掛けた。
 穏やかに細められた灰の瞳といい、王国の覇権を巡り、激しい対立をする政敵に向けるものというより、あたかも積年の友に対するようであった。
「当代一の切れ者と名高い貴方ならば、もっと早く真相にたどり着けるかと思っていましたよ。遠回りをしましたね。ねえ、そうは思いませんかな?セラフィーネ王女」
 からかい交じりに問いかける老宰相のそれに、セラは警戒した表情を崩さなかった。ドレスの裾をつまんだ手が、小刻みに震えている。
 背後から差す光が、彼女の亜麻色の髪を柔らかく透かしている。
「それは、買い被りというものだ。宰相ラザールよ」
 ルーファスは自信に満ちた笑みを浮かべ、セラを庇うように一歩、前に出ると、宰相ラザールへと歩み寄る。
「全ての真実を知るには、与えられた情報が少なすぎる。現に、いまだに貴様が何故、国王を意のままに操り、この国を腐敗させたのか、わからん。強大な権力が欲しかったからか、あるいは貴様の孫のセシルを王位に就けたかったからか、否、どれもピンとは来んな。何故ならば……」
 ルーファスは深い蒼の瞳で前を見据え、宰相ラザールの胸を指差し、彼の導き出した真実を告げた。
「貴様は心の底から、この国エスティアを増悪し、その滅びを願っているからだ」
 一体、どこの誰が思うだろうか。
 醜悪なほどに権力に執着し、甘言を弄して国王を操り、娘の産んだ王子セシルを、謀略を駆使して国王の位に就けんとする、その宰相ラザールこそが、誰よりも、この国の存在を憎み、その滅亡を願っているなど。
 傍らで聞いていたセラでさえ、そのルーファスの言動は信じ難いものであった。しかし。
「……何故、そう思うのです?あの子、セシルは私の孫です。自らの血を引くものに、王位を願うことは、ごく自然なことでしょう。多くの貴族が、そうやって王家との繋がりを濃くし、権力を握ってきたのですから」
 宰相は長い顎ひげをさすると、ルーファスを試すように言った。
「それは違うな。宰相、貴様はこの国の王位なんぞ、何とも思っていないだろう。第一
、セシル王子、否、セシルに王位を継ぐ資格はないはずだ。あれは――貴様の孫あっても、国王陛下の種ではないのだから」
 急所で出せば、切り札となるであろうカードを、ルーファスはあっさりと明かす。
 しかしながら、最大の秘密をさらされたはずの老宰相は、薄く微笑んだのみだった。
狼狽することも、声を荒げることもなく、ただ静かに「いつから気づいていたのですか?」と問う。
「怪しんだのは、もう数年前になるか。王太子殿下は、何もかもご存知だ……すべてを承知のうえで、セシル殿下を弟として、慈しんでおられる」
 老人の、いっそ不気味なほどの落ち着きぶりを、内心、訝しく思いながら、ルーファスは鋭い目つきでラザールを睨む。
 そう、アレンは全てを知っている。されど、血を同じくしないセシルを守るために、口をつぐんだのだ。強靭なほどの意思と、愚かしい程の優しさと、自分を慕うセシルへの、純粋な愛情ゆえに。たとえ、それが自らの王位を脅かし、命を狙われると、誰よりもよく知っていながら。
 情に溺れるは、愚かである。けれど、あの御方は、アレン殿下は、そういうお人なのだ。
「だからこそ、解せん。貴様が何を目的としているのか、な。自分の娘を側室として後宮に上がらせながら、愛人の子を産ませて、セシルを国王の御子と偽った目的はなんだ?」
 静かな霊廟に、凛としたルーファスの声だけが響く。

「王位も、富も、権力も、貴様を動かしたものではあるまい」

「貴様の行動から感じるのは、憎しみだ。この国への、強い強い増悪だ」

「さあ、教えてもらおうか。宰相ラザール、果てのない憎しみの、その理由を」

 ルーファスの言葉に、無言で耳を傾けていたラザールは、ふ、と口角を緩めた。ふふふ、とその唇から、笑声が漏れ出る。齢に似合わぬ、無邪気で、あどけなくさえあるそれは、愉し気でさえあった。
「ふふふ、あははははは……っ!」
 唐突に笑い出した宰相に、うすら寒くなるものを感じながら、ルーファスは、
「何がおかしい?」
と、かたい声で尋ねた。
「いえいえ、つい、とても嬉しかったものですからね……わかりますか?エドウィン公爵、わたくしは、否、我らはずっと、ずっと、待っていたのですよ。この瞬間を。三百年もの、長い長い時を重ね、憎しみの螺旋を繋げながらね」
 灰色の瞳に、喜色がにじむ。
 嬉しくてしょうがないとでも言いたげな宰相の態度を、訝しく思いながら、セラは「一体、何を言っているの?」と、言葉の真意を問う。
 緊張感を崩さないセラたちとは対照的に、ラザールはゆったりと鷹揚に笑って、「わたくしは……」
と、続けた。
「あなた方のことが好きですよ。セラフィーネ王女、エドウィン公爵……いいえ、いっそ愛していると言ってもいい。何故なら」
 宰相は一度、そこで言葉を切ると、いとおしむように優しい眼差しで、セラとルーファスを交互に見やる。
「あなた達は、私と同じ立場だからだ……ああ、可笑しくて、可笑しくてたまりませんね。エスティア建国より三百年余り、英雄王と凶眼の魔女、その因縁に連なる者たちが、此処にこうして集うとは」
 どこまでも柔らかく、されど、絶対的に乾いた老人の狂気の声に、セラはぞっと粟立つものを感じた。キモチワルイ。キモチワルイ。これは何だ。
 ふらついた少女の肩を、隣のルーファスが支えた。
 唾液を呑みこみ、カラカラに乾いた喉から、彼女は何とか声を絞り出す。
「なっ……何を言っているの?貴方は一体、何を知っているの!答えてっ、宰相ラザール!!」
 セラの魂の慟哭というべきそれに、宰相は見慣れた微笑を浮かべ、唇を開いた。
「ええ、可哀想なお姫様、貴女が心より望むのならば、お伽噺の裏側を語って差し上げましょう。英雄に弑された魔女、憐れな女の、その呪いの行く末をね」


 かつて、魔女は謡った。
 最大の哀しみは、何だと思う?
 愛するひとを憎むこと、愛するひとに増悪されることよ。

「伝え聞くところによると、もともと、魔女というのは、とある部族の名称だったそうです。森に暮し、精霊たちと言葉を交わし、眷属たちを従える。時に、巫女とも同一視される、神聖な存在であったそうです……」

「かの凶眼の魔女は、その一族で最も力の強い乙女だった。艶やかな漆黒の髪と、まばゆい金色の瞳をした、それはそれは美しい娘であったそうですよ。百年や千人にひとりとも称された魔力の強さから、部族の者からも敬われ、また畏れられていたと……」

「当時から、魔女は日陰者として、ときに忌み嫌われる存在でした。人里との交流も乏しかった。凶眼の魔女はそのような状況に心を痛め、里人たちと会話を試みたそうですが、魔女と唯人の隔たりは大きく、失敗に終わりました。そんな折のことです、彼女が――」

 宰相ラザールの語り口は、ゆったりと穏やかに、それでいて臨場感に溢れており、瞼の裏に情景が浮かび上がってくるようだった。
 木漏れ日差す、魔女の棲む森の奥深く、花咲きみだれ、銀の魚がはねる小川のほとり、青年と乙女は出逢った。
「――若き日の英雄王オーウェンと出逢ったのは」

「黄金の髪に翡翠の瞳を持つ、凛々しい若者であったそうです。オーウェン、のちの英雄は、凶眼の魔女の警戒をほぐすように、やさしく微笑みながら、片手を差出し、こう彼女に誘ったそうです」
「美しい魔女、僕が王位に就くには、君の力が必要だ。僕を信じて、共に戦ってほしい。その代わり、僕が王冠を抱いたあかつきには、君たち部族が決して、謂れなき迫害を受けないように力を尽くそう」
「だから、この手を取って」
 黄金の瞳が見開かれる。畏れるように、唇がわなないた。されど。
 ひかりふる、木漏れ日を映したような男の翡翠の眼差しに、幸福なる未来を夢見て、魔女は白い手をそっと、男のそれに重ねた。
「初めて現れた己の賛同者に、凶眼の魔女は心を赦し、若い男女が恋仲になるまで、時間がかからなかったことでしょう」
 それが、伝説の始まり。
 悲劇の序曲。
 三百年余りの呪いのプロローグ。
「凶眼の魔女を仲間に引き入れた英雄王は、彼女の魔術を使い、戦において快進撃を続けました。反対派を仲間に引き入れ、時には女子供ごと根絶やしにし、権力への階段を確実にのし上がっていったのです」
「魔女の一族の中には、人間に協力することを反対する輩も多かったそうですが、それらは凶眼の魔女自らの手によって、粛清されました」
 凶眼の魔女は己の掌を見つめて、あぁ……と、血の涙を流す。人間に魔女と疎まれ、愛する同族すら殺め、わたくしはどこに向かおうとしているのだろう。
この血は、この涙は誰が為に流される。
それも全て、愛する人のため……?
「愛している。私が王位に就いた暁には、お前を妻として娶ろう」
「オーウェン様……お慕いしております」
 白い両手を染める敵味方の血を見て見ぬふりをして、魔女は英雄王の逞しい腕に、その身を任せる。
魔女の嘆きを覆い隠すほどに、英雄と呼ばれる青年は若く、雄々しく、麗しく、何より、覇者たる輝きに満ちていた。
宰相は語る。
「ああ――悲劇のきっかけは、何だったのでしょう?わかりますか、エドウィン公爵、セラフィーネ王女さま」
「歯車が狂い始めたのは、いつからか、あるいは最初から狂っていたのか、ねえ」
「狂った歯車は、元には戻らないのですよ。決して、決してね……誰が罪を犯したのかわらかぬうちに、悲劇は起こるのです」
 ねえ、エドウィン公爵?
 はははっ、骨のように痩せた身体を大きく震わせて、老宰相は哄笑する。
「悲劇が悲劇を生み、負の連鎖は途切れることなく、その血筋をも蝕んでいく、貴方が、貴方の父母がそうだったようにね。エドウィン公爵」
明らかな挑発に、ぴく、とルーファスの眉が動いた。無意識に剣の柄に触れた彼の手を、そっと手を重ねることで制し、セラは、だめ、と首を横に振る。
ここで激昂しても、何の解決にもならない。
妻の柔らかな手のぬくもりに、ルーファスは吐息一つ、眉間の皺を緩めた。
「おやおや、お二人は仲睦まじいことですね。いやはや……私がそう仕組んだとはいえ、皮肉なものだ。英雄王の末裔と、その片腕たる隻眼のヴィルフリートの子孫が、愛し合い、いまだに繋がっているとはね」
 ラザールの皮肉めいた言い回しに、ルーファスは逆に興味を引かれた。故に問う。
「俺の先祖が、どうかしたのか?ラザール、貴様に何の関係がある?」
 隻眼のヴィルフリート。
 英雄王オーウェンの幼馴染であり、唯一無二の片腕にして、彼と生涯を共にした盟友。
 異国の娼婦の母を持ち、浅黒い肌と、蒼い瞳、冷たく整った容姿。天才的な剣の才を持ち、その容赦のなさから、戦場の死神とも謡われた男。
 英雄王を賛美するエスティアにおいて、その存在は、かなり美化されているが、その実、かなりの戦好きで、人を斬る瞬間や、積み上げられた屍の山、血の海を見て興奮し、高笑いするような、ひどく危険な男であったというのが、身内であるルーファスの伝え聞くところだ。
大方、英雄王に付き従ったのも、好きなように敵を始末させてくれたからだろう、と子孫であるルーファスは考えている。そんな狂人の血が自分に流れていると思うと、ひどく微妙ではあるが。
「ええ、関係はありますよ。たっぷりとね……」
 ラザールは勿体ぶる様に言葉を切ると、セラとルーファスに向かって、両手を広げた。
「さあ、ここで、歴史で語られなかった、ある道化の話を教えましょう」
「その道化は、あの凶眼の魔女の妹……」
「銀のロザリーと呼ばれた娘です」

 
――ロザリーは思う。愛することと憎むことは、とてもよく似ている。どちらも強い強い、身を滅ぼすような激情のうちにある。そうでしょう?だから、私のしたことは間違ってなんかいない。ねえ、答えてよ、姉さま。

ロザリーは、醜い幼女だった。
 魔女の里で親にも捨てられ、銀の髪はボサボサで、ノミやシラミがたかり、痩せ細った身体に拾ったぼろ布を巻いて、靴もないから裸足で歩いていた。
 足の裏は傷だらけで、いつも血が滲んでいた。
猫と一緒に民家から出る残飯を漁り、里人たちと目が合えば、忌まわし気に石を投げられて、追い払われる日々。
 そんな折だった。ロザリーが姉と慕うことになる、凶眼の魔女と出会ったのは。
「あなた、怪我をしているの?」
 痛覚のなくなった片足を引きずりながら、ロザリーが里を歩いていると、そう声をかけられた。鈴を鳴らすような、凛と澄んだ可憐な声だった。
「……ぁ」
 振り返ったロザリーが目にしたのは、とてもとても美しい少女だった。
 鴉の濡れ羽のような漆黒の髪、白い肌に映える真っ赤な唇、疵ひとつない伸びやかな手足、けれど、何よりも、その金色の瞳が。
 誰よりも、何よりも強い魔力の証である、黄金の双眸がロザリーを見つめていた。
 美しい乙女はふわり微笑むと、ロザリーに手を差し伸べる。
「あなた、お名前は?」
「……ロザリー」
「そう、良い名前ね。おいでなさい、足の手当てをしてあげるわ」
 怪我をしたロザリーの手を引きながら、気遣うようにゆっくりと歩き出した凶眼の魔女を見上げ、ロザリーは恐る恐る、その手を握り締めた。
 それが始まり。
 親に捨てられ、里人たちから醜いと謗られたロザリーは、その日から美しい魔女の妹になった。――愛しているわ、姉さま。


 数年後、英雄王の手を取ることを選んだ魔女に、妹のロザリーも着いていくことになった。
しかし、ロザリーは姉の恋人である英雄王のことを、好いてはいなかった。否、嫌ってすらいた。
 確かに、英雄王オーウェンは美しい青年であり、比類なき戦術家であり、戦場における勇者でもあった。しかし、ロザリーはどうしても、その男のことを信じることが出来なかったのだ。
 男の澄んだ翡翠の瞳の奥深く、昏く燃える業火が見えた。耳に心地よい美声も、柔らかな微笑さえも、どこか作り物めいた胡散臭さがただよう。
 ロザリーは気づいていた。ロザリーだけが気づいていた。
 英雄王は姉さま、凶眼の魔女のことをちっとも愛しておらず、ただ利用しているだけなのだ。
 姉さま、どうして、どうしてわからないの……
 あの男はね、姉さまを愛してなんかいない。
 お願い、どうか、どうか目を覚まして……

 そうして、あの運命の日。
 英雄王は凶眼の魔女を裏切り、その身を聖剣で貫いて、殺した。
 殺した。殺した。殺した。
 死んだ。死んだ。姉さまが、ロザリーの姉さまが死んだ。
「あぁ、お姉さまああああああああああっ」
 ロザリーが、誰よりも愛した魔女は死んだ。
 最愛の人の裏切りによって、最も残酷な形で、虐殺の全ての汚名をかぶせられて死んだ。
 死後も、その名が忌まわしきものとして、数百年もの間、辱められることとなる。
 英雄王の名声が高まれば高まるほど、彼を裏切った凶眼の魔女は、悪しき者として語られる。歴史は改変される、勝者に、生き残りし者に都合の良いように。

 魔女が英雄王に弑された後、魔女の妹であるロザリーは王に刃向う逆賊として、地下牢へと幽閉された。
 苔むす牢獄は暗く、淀んだ空気に満ちており、あちらこちらから、罪人たちの怨嗟の声が響く。足元では、ちょろちょろとネズミが駆け回っていた。
最愛の家族を殺されて、生きる希望を失い、虚ろな目をしたロザリーは、凍えた石床で膝を丸め、うずくまっていた。ここに監禁されてからというもの、三日三晩、食事はおろか、ろくに水さえ与えられていないが、最早、そんなことはどうでも良かった。
恩人にして、最愛のひと、姉さまのいない世界に、もはや意味などない。こんな世界、滅びてしまえばいい。
あの美しく、気高い心の持ち主を辱め、死してなお汚名を着せようとする国など、亡べ。
「おや、まだ生きていたのか、意外としぶといな。魔女の狗よ」
 カカッ、と靴音と共にした声に、ロザリーはのそり頭をもたげた。
 その瞳が驚愕に見開かれる。
「ヴィル……フリート」
 艶やかな黒髪に、浅黒い肌。
 怖い程に、冷ややかな美貌の男は、口角を上げて酷薄に笑った。
「お前っ、よくも私の前に顔を出せたな!」
 ロザリーは憎しみを全身にみなぎらせ、猛然と吠えると、鉄格子越しに、英雄王の片腕である青年に噛みついた。
「この人殺しっ!知っていたんだろう、あの男が、オーウェンが姉さまを裏切ることを!殺したんだ、お前が姉さまを殺したんだ!」
「あぁ、知っていたさ」
 ロザリーの怒りを真正面から受けても、ヴィルフリートは顔色一つ変えなかった。それどころか、薄ら笑いを浮かべている。
「それがどうかしたのか、ただ馬鹿な女がひとり、恋人に騙されて殺されただけだろう。あの魔女の頭が足りなかっただけさ……王になるためとはいえ、あの化け物を抱くのは骨が折れたと、英雄王サマがおっしゃっていたぞ」
「貴様っ……この下種っ、貴様、姉さまを愚弄するなああああああっ!」
 度を通り越した怒りのあまり、目の前が真っ赤に染まる。
 殺意が頭を支配する。
 されど、ロザリーにとって、真の地獄はそれからだった。
「いいな、その憎しみに染まった目。俺にとっては、何よりのご馳走だ」
 ヴィルフリートはそう愉し気に言い、上唇を舐める。
 牢の鍵が開けられて、男が一歩、押し入ってきた。
 反射的に恐怖を覚え、ロザリーは壁際まで後ずさる。
「貴様、ヴィルフリート、何を……」
 ロザリーの細い手首を、男の浅黒い手が握り締める。
 隠しきれない情事の予感に、ロザリーの身体は震えた。
 そんな彼女を地面に組み伏せ、ヴィルフリートは整った面に愉悦を浮かべた。
「俺は気性の荒い犬を、力づくで屈服させるのが好きなんだ。せいぜい、恐怖で泣き叫べ、憎しみを募らせろ、この薄汚い雌犬が。その憎悪こそ、俺の糧になる」
 狂っている。やはり、この男はどうしようもなく。
 最初から、とうにわかりきったことだったが。
「止めろっ、わたしに、私に触れるな……あ、ぁ」
 姉さまの敵に組み敷かれ、獣のように犯される。それは、ロザリーにとって、死にも勝る生き地獄だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。
 殺して、この男の慰み者になるくらいならば、一思いに縊り殺された方がずっと良い。
 お願いだ。誰か、わたしを殺し…
 祈りも願いも空しく、身勝手な欲望を満たして、男は牢を去った。
 服をはぎとられた姿のまま、涙も乾ききった瞳で天井を仰ぎ見るロザリーの唇から、「ははは」と乾いた笑い声が漏れる。
「ははは、あはは……っ」
 その瞬間、ロザリーは誓ったのだ。復讐の悪魔となることを。
 呪ってやる、あの英雄の仮面をかぶった男が、私を壊した男が支えるこの国を。
 この王国を呪ってやる。
 亡べ、内側から醜悪に、裏切りによって滅びるがいい。
 たとえ、何百年かかろうとも、わたしの、わたしの子孫であろうとも、絶対に、この復讐を果たしてやる。必ず。

 覚悟さえ決めてしまえば、することは決まっていた。
「ねえ、看守さん。少しだけ近くに来てくれない、なんだか胸が痛いの」
 少女の殻をはぎとられたロザリーは、蠱惑的に微笑み、年若い看守を誘惑する。自分自身を復讐の道具にすることに、最早、何のためらいもなかった。
 その為ならば、汚らわしい人間とすら交わってやる。
 かくして、看守をたぶらかしたロザリーは、看守の若者と共に牢屋から脱獄し、遠い異国へと逃げた。
 エスティアから遠く離れた異国で、看守だった青年と共に、小さな家で暮し、赤子を産み、育てる。平和な日々。
「ただいま、ロザリー」
「おかえりなさい。坊やは良い子にしてたわ」
 いまやすっかり母の顔をしたロザリーは、いとけない幼子を抱いて、幸せそうに笑う。
「可愛い坊や、大切な私の……」
 私の大切な、復讐のための道具。
 ロザリーは我が子を愛している。いつか、あの忌まわしい王国へ、復讐を遂げる者として。
 その為に、大嫌いな人間と交わり、子まで成したのだ。
「可愛い坊や、覚えておきなさい。いつか、あなたはエスティアに復讐するの。あなたが果たせなければ、あなたの子も、あなたの孫の代になっても……たとえ、何十年、何百年かかったとしても必ず、必ず、あの王国を最も残酷な方法で滅びへと導くのよ」
 あいしてるわ、約束よ。
「胸が悪くなるような話でしょう……?私の先祖にあたる女は、そうやって、生まれたばかりの赤子に、エスティアへの憎しみを繰り返し、繰り返し、刷り込みのように語り続けました……その孫にも、年老いてロザリーが死んでからも、繰り返し、繰り返し、三百年もの間、その憎しみの連鎖は続いたのです」
 復讐を、復讐を、王国へ復讐を!
それだけがお前の産まれた意味なのだから。
 あいしている、繰り返されるそれは、呪いと何が違うのだろうか。
「私こそ、その魔女の妹、ロザリーの子孫なのですよ。生まれた時から、いつか、この王国に復讐せよ、そう繰り返し聞かされ続けてきました」
 宰相ラザールの告白に、ルーファスは憮然と一言、「狂っている」と吐き捨てた。しかし、ラザールは鷹揚に笑い、「おやおや」と目を細める。
「貴方がそれを言うのですか、エドウィン公爵?あなたも私と同じ、呪いに縛られた者でしょうに」
 何か言い返そうとしたルーファスを片手で制したのは、意外にも、それまで大人しく沈黙を守っていたセラだった。
「……あなたの言いたいことは、それだけ?宰相。それが、貴方の知っている真実の全てなの」
 宰相は、ゆるり首を振る。
「まさか、これはまだ序章に過ぎませんよ。セラフィーネ王女……何より、貴女の秘密を語っていないでしょう」
 宰相はセラとルーファスに、着いて来いと仕草で示すと、次なる場所へと繋がる扉に手をかけた。
「さあ、いまこそ明かしましょう。英雄と呼ばれたあの男が、この王国にかけた呪いをね」


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