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七章 眠りの王子 10


 どうか、君は世界中の誰よりも、幸せになって。リリィ。
 無垢で穢れなく、やさしい心を持つ、君だけは。
 君が幸福になれるならば、自分はどれほど傷ついて、汚れようと構わない。

 自分を悪魔の子として、この世に生み出した無慈悲な神よ、それでも、一生に一度の願い位、叶えてくれたって、良いだろう。そうは思わないか?

 ディーの人生は、母親の胎から生まれ出た瞬間から、どうしようもない程に呪われていた。
 彼が生を受けたのは、南の貧しい村で、まだ少女といっていい齢だった母は、氏素性もよくわからぬ流れ者の男と交わり、ディーを身ごもった。
 おそらく、産みたくはなかっただろうが、彼らの部族が信仰する女神は、堕胎を禁じていたから、幼い母は周囲の圧力に負けて、しぶしぶ彼を産むことを選んだ。
 凄まじい苦しみを伴う陣痛の後、いまだ臍の緒がついた我が息子を見て、母親は悲鳴を上げた。
 生まれ出た息子の瞳は、常人にあらざる、金色をしていたからだ。
 強い魔力の証である、金の瞳は、その地方では悪魔の目と呼ばれ、忌まれていた。
 村に疫病や死を呼び込み、やがては、生まれ育った地を滅ぼすのだと。
 自分が悪魔の子を生み落したという衝撃から、若い母親は立ち直れず、日毎、ぶつぶつと意味の分からぬ独り言を呟くようになった。
 悪魔の子と関わりたい者など、村のどこにもおらず、誰にも育ててもらえなかったディーは、山羊の乳、その辺りの野草や木の実、獣の食い残しを食って、どうにか生き延びた。
 親族以外、誰も喋ってくれなかったから、まともに会話が成り立つようになったのは、十を過ぎた頃であった。
 そんな生活を送っているうちに、流行り病で村に死人が出た。
 皮膚が赤くただれる奇病で、原因もわからず、体力のない子供や年寄りがよくかかった。
 恐怖にかられた村人たちは、村で病が流行っているのは、悪魔の子であるディーのせいではないかと噂した。
 疑惑は膨れ上がり、恐怖の矛先を見つけた村人たちが、爆発するのは時間の問題だった。
 村人たちは、武器をかかげた暴徒となりて、ディーの家に押しかけると、まずは母親の髪を乱暴に掴み上げ、何人もで嬲り殺しにした。
 続いて、殺意は息子の、まだ幼いディーに向けられる。
 母親を殺されたばかりのディーが抵抗出来ないでいると、村人たちはディーの体を抑え込んで、目に火掻き棒を押し付けた。
 肉の焦げる、嫌な臭いが広がる。
「悪魔の子めっ!」
「死んでしまえ!!」
「お前が母親を殺したんだ!」
 悪意の刃が、心を切り裂いていく。
 この時、ディーの精神は一度、確かに死んだのだろう。
「あ、あ、あ、あ、ああ……」
 その後、村から、命からがら逃亡したディーは、若き時分、魔術をほんの少し齧った占い師に拾われて、進められるままに、流れの呪術師になった。
 悪魔の子は、魔術師の素養に恵まれている。だから、腕利きの呪術師になるのに、然程の時間は用しなかったし、人を慈しむ心を失くした者にとっては、ある意味、天職であっただろう。
 依頼人に求められれば、若者でも年寄りでも、誰でも呪い、そして、命を奪った。
 その中には、将来を約束した恋人がいる青年も、孫の誕生を心待ちにする老婆も、信仰厚く、多くの者から慕われる神官もいた。
 しかし、誰もが皆、ディーの呪いに心と体を蝕まれ、この腐敗した世の中を呪いながら、苦しみと失望の中で死んでいった。ただ一人の例外すらなく。
 依頼人は邪魔者の死を喜び、いくばかの侮蔑のこもった笑みを浮かべながら、ディーへの報酬を支払った。
 使い古しの金貨で、やや重くなったローブを引きずりながら、ディーは足がつく前に、次の町へと移動する。その繰り返し。
 何もしなくても、彼の元への依頼は、耐えることがなかった。己の欲望と憎しみの為だけに、誰かを呪って欲しいのだと、それだけ、この世は腐っているのだと。
 そんな生活に飽きつつも、ディーは呪術師としての仕事を、感情なくこなし続けた。
 続けるほどの面白さもなかったが、辞めるほどの理由もなかった。何より、ディーのような異相の者は、闇の世界でしか生きられない。

 リリィに出逢ったのは、そんな時だった。

 路地裏に倒れ伏し、雨に打たれる彼女を見た時、最初は死んでいるのではないかと疑った。
 ぴくりと身を震わせたリリィは、紫に変色した瞼を上げ、澄んだ薄青の瞳で、ディーを見つめる。
 そうして、まるで、この世の汚いものなど、何も知らないような屈託ない笑顔で、リリイは言った。悪魔の子であるディーに。
「お兄ちゃんのおめめは、とっても綺麗……」
 きらきらしていて、お日様みたいね。
 ――ああ。
 その言葉を聞いた瞬間、ディーは静かに悟った。己はきっと、この言葉を聞くためだけに、今日まで生き延びてきたのだと。
 ずっと、許されたかった。
 ただ、それだけのことだったのだ。

 リリイと出会い、共に旅することで、ようやく、ディーは生きている実感を得た。感情というものを覚えつつあった。だが、それも今日で終わりだ。
 ディーとリリィの道は分かたれた。そして、おそらくは、二度と交わることはないだろう。そうでなければならない。

 王都の裏通りを、ディーは走っていた。王太子の呪いを解いたのが、何者であるかは不明だが、その人物が、己を野放しにしてくれるとは、到底、信じ難い。
 リリィのことは気がかりだが、まずは逃げ延びなくては。
 幸いながら、このエスティアにも、かつての顧客が何人かはおり、それなりの弱みは把握している。秘密の隠れ家もあり、数年、身を隠すぐらいのことは出来るだろう。
 そう、なんとか王都を脱出してしまいさえすれば、後のことはどうとでもなるのだ。だが、それが今、一番の難関だった。
 追っ手の影を感じる。気配を殺してはいるが、間違いない。騎士や憲兵。犯罪者を捕える猟犬どもの臭いだ。
「行ったぞ!逃がすな!」
 鋭い命令が飛ぶ。
 応、と応じる声がいくつもあった。
 囲まれているのだと、ちっ、と舌打ちする。
 その瞬間、前方から、ディーに切りかかってくる男がいた。
 若く、こんな時でさえなければ、見惚れるような良い男ぶりだった。
 黒髪に、目の覚めるように鮮烈な、蒼の双眸。
 上等な仕立ての衣服は、あまり騎士らしくはない。
 白刃がきらめく。
 とっさに身をひねった、ディーのローブが切り裂かれた。
「……っ、くそ」
 紙一重で交わした、と思った時、背中に信じられないような激痛が走る。
 呆然と後ろを振り返ると、剣を構えた赤髪の男がいた。
 実直そうな緑の目が、厳しくこちらを見据え、その唇はきつく噛みしめられている。
 剣の柄には、べったりと赤い血がこびりついている。――誰の?
 決まっている。ディーのものだ。
 背中を刃が貫通し、赤い鮮血が滴っていた。
 大量の出血で、石畳の色が変わっていく。
 騎士が背中から剣を引き引くと、ごぼっと、ディー喀血した。
 ひゅうひゅう、と乾いた息がもれる。
 ディーの身体がゆっくりと、斜めにかしいで、地面に膝を屈した。
 その間も、絶え間なく血は流れ出ていた。致命傷なのは、確認するまでもなく理解できた。この傷では、助かるまい。
 大勢の罪もない人々を、手にかけてきたのだ。
 今更、死ぬのは、あまり怖くなかった。ただ、
「すまない。約束は、守れそうにない……」
 自分が死んだら、リリィはきっと泣くのだろう。
 それだけが、苦しかった。
「……ディー?」
 ふいに胸騒ぎがして、リリィは宿屋の天井を仰ぎ見た。
 宿屋の入口の方から、何やらガタガタと物々しい音と、宿屋の経営者である老夫婦の困惑した声、大勢の足音、何やら指示を飛ばしているらしい、ヘクターの声が聞こえる。「証拠の品を探せ」とか「怪しいものが隠されていないか、確認しろ」とか、そんな話し声がする。ディーの言葉通り、騎士達が彼を捕えに来たのかもしれない。でも、彼はもう、此処にはいないのだ。
 何処にいるの、何処か遠くに、リリィ手の届かない場所に行ってしまったの?
「ディー?」
 もう一度、名を呼ぶ。
 彼は何時だって、それに応えてくれたのに、いま、応じる声は聞こえなかった。


 数日後、広場の噴水のふちに腰かけて、リリィはブーツを履いた足をぶらぶらさせていた。
 寒空の下、長い時間、冷たい風にさらされた頬は赤い。
 はーっと両の掌に息を吹き付けて、わずかな暖をとる。
「ディー、早く戻ってこないかな。もう待ちくたびれちゃった……」
 どこか拗ねたように呟く彼女に、歩み寄ってくる金髪の少年がいた。
「リリィ」
「ミカエル」
 少年は淡い微笑を浮かべて、リリィの目線に合わせて身をかがめて、やさしく尋ねた。
「ディーさんが戻ってくるのを待っているの?もう何日も経つのに?」
「うん!ずっと待っているの」
「……そっか」
 笑顔のリリィと対照的に、ミカエルは表情を曇らせると、「悲しいけれど、ディーさんは、もう戻ってこないよ。旦那様が教えてくれた」と、告げた。 
 それを聞いても、リリィは泣き叫ぶこともなく、顔に笑みを張り付けたまま、だが、決してそこを動こうとはしなかった。
 ミカエルは彼女を真っ直ぐに見つめると、片手を差し出した。
 あの時、一度は手放してしまった手を、もう一度、繋がせてほしかった。君を独りぼっちにしたくない。救いがたい裏切り者の僕でも、きみが許してくれるならば、もう二度と絶対に離したりしないから、どうか、お願い。この手を取って。
「リリィ、良かったら、僕と一緒に来ない?」
 少女は金の睫毛を震わせて、薄青の瞳でミカエルを見つめ返すと、ふわりと微笑って、首を横に振った。
「ううん、リリィはディーを待っているわ」
「……そう」
「だって、ディーはきっと迎えに来てくれるもの。その時に、リリィが居なかったら、ディーはさびしいでしょう?」
 ミカエルはもう、何も言えなかった。
 時は、もう二度と戻らない。あの時の選択を無かったことには出来ないのだから。
 リリィはきっと選んだのだ。ディーが戻って来ても来なくても、彼を信じ続けることを選んだのだ。愚かでも苦しくても、何度、大切な人々に裏切られても、リリィは何時だって、人を信じ続けた。信じることを選んだ。
 それを、間違えているとは言えない。獣の目をしたあの男にとって、そして、ミカエルにとっても、この娘の在り様は確かな救いであったのだから。
 故に、胸が張り裂けそうな痛みを覚えながらも、少年は頷いた。
「そう、そうだね」
 長年の後悔に決着をつけると、ミカエルはリリィの額に、軽く口づけを落とした。
「さようなら、リリィ。ずっと、君の幸福を願っているよ」
 リリィは私も、とはにかんだ。
「ありがとう、ミカエル。大好きよ」
 それが、別れになると、ふたりとも分かっていた。
 ミカエルは踵を返し、リリィに背中を向ける。そして、二度と振り返らなかった。

「ディー。遅いなあ……」
 しんと凍える空気に、リリィは身を丸め、寒さに耐える。
 応えてくれる、彼の声がないのが、今、とても寂しい。
 先ほどから、ポツポツと降っていた雨は霙になり、やがて粉雪になっていた。ちらちらと舞う白い雪は、幻想的でとても儚い。
「眠くなってきちゃった……」
 寒さと疲れで、視界が霞んでくる。もう限界だった。このまま死んじゃうのかな。
 その時、遠くに背の高い人影が見えた。
 おいで、という風に両手を広げてくれている。
 リリィにはわかった。ディーだ!
「ディー!」
 立ち上がったリリィは一目散に、その広い腕の中に飛び込んでいく。そんな大小二つの影を、ちらちら舞う雪が、覆い隠していった。



「ミカエルは、大丈夫かしら……」
 窓枠に手をかけながら、長い睫毛を伏せ、不安げに言ったセラに、ルーファスは「大丈夫だろう」と答えた。
「あれは繊細だが、意外に芯はある男だ。知り合った時からそうだった」
 背中から抱きしめ、片手で妻の亜麻色の髪を弄ぶ夫に、セラは「そうなの」と、くすり、微笑う。
「聞きたいわ、ルーファス。貴方がミカエルと出会った時の話を。きっと、色々なことがあったのでしょうね」
「いずれ話そう」
 妻の願いを、ルーファスは請け負った。
 夫婦の会話が途切れ、沈黙が落ちる。
 それを破ったのは、ルーファスだった。
「例のディーという呪術師と、宰相ラザールの繋がりがわかった。宰相派の貴族が寝返ったからな。あの老狐も、今度ばかりは言い逃れが出来んだろうさ」
「……そう」
 セラは頷いて、一度、目をつぶると、瞼を上げ、覚悟を決めたように、翠の瞳で前を見据えた。
「いよいよね」
 今、彼女の腕は隠すことなく、袖がめくりあげられている。その腕はいくえに巻き付いた黒い鎖の痣で、いまやまっ黒に染まっていた。
 そのドレスの下の身体も、いまや似たような状態だ。
 共にあれる時間が、もう殆ど残されていないことは、セラにも、そして、ルーファスにも痛い程によくわかっていた。
「……ああ、いよいよだな。あの老宰相を斃さねば、われ等の未来はない」
 ルーファスも重々しく、同意する。
 あの庭園でセラと出逢った時、誰がこんな未来を予期しえただろうか。
 出会い、対立し、多くの出来事と時間を共にして、愛を知った。
 全てが宰相の企みの上であったとしても、己に後悔はない。
 ただ、全てが運命という気まぐれな神の、掌の上であるようなのは、気に喰わない。
 偽りを重ねた英雄王、凶眼の魔女の呪い、悠久の時を生きる金色の魔術師、呪われた王女、策を巡らす老宰相、そして、呪いに翻弄される人々、それらが皆、一本の線で繋がるのは偶然ではあるまい。
 運命の神がいるならば、ルーファスは、一言、言わせてもらうつもりだ。
 この先、どんな苛酷なそれが待ち受けていようとも、絶対に膝を屈さない。絶対に、愛する者の手を放してなるものかと。
 固い決意を込めて、ルーファスはセラの柔い手を握り締めた。
「ルーファス」
「ああ」
「宰相に会いに行こう。あたしの手で、この呪いを終わらせなきゃ。ずっと、何百年もの間、このエスティアを蝕んできた呪いを」
 セラの言葉に、ルーファスは微かな胸の痛みを覚えつつも、「わかった、王宮に行こう」と、頷いた。
 蜜月のような優しい日々が、永遠に続けばいいと願いつつも、セラの救いはそこにはないとわかっていたから、彼もまた共に戦うことを選んだのだ。
 


 エスティアの王城の一角には、歴代の王族が眠る、霊廟がある。
 初代・英雄王とその后の柩、彼のものの系譜に連なる者たちが、俗世の騒がしさから解放されて、静寂の中、永久なる眠りについている。
 霊廟の窓には、創世の神と、その伴侶である慈悲の女神がステンドグラスで描かれており、微睡みにつくいとしご達を、優しく見守っている。
 神の手によって生み出された我らは、誰もが皆、いとしき嬰児たちなのであると。
 霊廟の中心には、一際、立派な白い柩があり、それはあたかも寝台のような作りをしていた。純白よりもなお白く、光輝くそれは、在りし日の英雄王の姿をかたどっており、彼は胸に聖剣を抱いて、あたかも眠っているようだ。
 その隣には、彼が生涯、慈しんだという后の柩が、冥府でも離れぬようにと、睦まじく寄り添っている。光を取り込む霊廟は神々しく、神聖な場所であることを示していた。
「女神はひとのこを憐れみたもう、
愚かなる罪を赦したもう、
その腕で咎人を抱きたもう」
 静謐な空気の中、白銀の髪の老人の、祈りの聖句だけが静かに響く。
 粛々と続けられるそれは、神聖な儀式のようだった。
 ギイ、と重々しい音をさせて、霊廟の扉が開けられた。
 閉ざされていた霊廟に、外気が吹き込む。
 刹那、灰の瞳が眩しげに眇められた。
「ああ……、貴女を待っていましたよ。ずっと、ずっと、何百年もの間、気の遠くなるような長い時間をね」
 宰相ラザールは口角を上げて、不思議と安らいだような微笑を浮かべる。
 その声には、抑えようもない歓喜が滲んでいた。
 ああ、そうだ。ずっと、ずっと、待っていたのだ!英雄王の末裔と、こうしてまみえるこの瞬間を、我ら、凶眼の魔女の呪いを引き継ぐ者たちの悲願が叶う瞬間を!
「そう……、あたしも貴方と話さなくてはと思っていたわ。宰相ラザール、貴方の真の目的は、その願いは何なのかと。そして、王家が秘め続けた、忌まわしい秘密をね」
 太陽を背にして、セラとルーファスは、開け放たれた霊廟の扉の前に立っていた。
 これが最後になると、その場にいた誰もが悟っていた。
 

 さあ、ようやく舞台の役者は揃った。
 始めようじゃないか、三百年の時を経て、堕ちたる英雄と、呪いの魔女の最後の戦いを。


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