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八章 深すぎる闇 2


「――さあ、この先にあるものを見るのです」

 宰相の手によって、開けられた扉。
 床はなく、むき出しになった土。
 そこに広がっていたのは、墓、墓、墓、数え切れぬほどの無数の墓であった。
 地下霊廟に仰々しく祀られていた王族の柩とは異なり、そこにあるのは、簡素な墓標のみのものが大半だ。ひどいものは墓石の表面が削れて、ろくに名も読めぬ有様だった。
「っ」
 予期せぬ光景に、さすがのルーファスも絶句する。
 墓。墓。墓。
 いくつあるかもわからぬ墓は、相当な歳月を経ているようだ。王族ゆかりのはずの霊廟、にしてはどの墓も粗末すぎる。
 一体、ここには誰が眠っているのか。
 青い顔をしたセラは震える声で、薄ら笑いを浮かべたラザールに問う。
「まさか、これは、今までの……身代わりたちの墓なの?」
 身代わり?
 セラの言葉に違和感を覚えたルーファスは、隣に立つセラの横顔を見つめたが、彼女の翡翠の瞳はただラザールと、眼前に広がる墓へと向けられている。
「ええ、これこそが、英雄王が犯した罪の証、凶眼の魔女の呪い……そして、誰に知られることもなくエスティア三百年の歴史を支え続けてきたモノ、使い捨てられた子供たちの墓ですよ」
「ここの墓に眠るのは皆、あなたの兄弟というべき者たちですよ。セラフィーネ王女」
「貴女と同じように、不幸になることを望まれて、ただ呪いを引き受けて、死ぬためだけに生まれてきたのだと」
 宰相の声は謡うように、憐憫のそれすら帯びていた。
「おいっ、」
 たまらずルーファスは声を上げる。
 悔しいが、宰相とセラは互いの言葉の意味をよくわかっており、彼だけが蚊帳の外であった。知りたい。だが、知ってはいけないと、本能がけたたましい警鐘を鳴らす。
 ラーグが、あの金色の魔術師が出合い頭から、幾度も幾度も、事ある毎に忠告してきた。
 真実など、知らない方が良い。知ったところで、救いなど何処にもないのだと。
 彼の魔術師なら、あの琥珀の瞳に深い闇を宿して、こう嗤うのだろうか。

「だから、言っただろう?知らない方がいいって、知ったところで君に出来ることは何もないんだよ。エドウィン公爵」

 ――この王国が抱える闇は、何だ?
 ――凶眼の魔女の呪い、英雄王が犯した罪とは?
 ――それがセラの命を脅かし、数多くの悲劇を生んできた元凶なのか。

「ふふっ、真実を知りたいですか?……でも、何も知らないのと、すべてを知ったうえで何も出来ないのと、果たして、どちらがマシでしょうね。ねえ、エドウィン公爵」
「貴様……っ」
 揶揄するような宰相のそれに、ルーファスは拳に力をこめ、まなじりを吊り上げる。白皙の面が、怒りからか朱に染まっていた。
 そんな彼の指に、細い指先をそっとからめて、セラはラザールの前へと進み出る。
「焦らさないで、宰相―-たとえ嫌だと言っても、あなたは話すのでしょう。だって、その為に貴方は、あたし達を呼び寄せたのだから」
 宰相は目を細め、首を縦に振る。
「ええ、教えましょう。凶眼の魔女の最期と、英雄王の犯した罪の顛末をね」
 

「オーウェン様……いいえ、国王陛下。貴方は私を裏切るのですね?」
 黒曜石のような髪と、金色の瞳の美しい魔女の唇は、小刻みに震えていた。
 恐怖ではなく、最愛のひとの愛を失うという、身も凍るほどの絶望ゆえに。
 ≪凶眼の魔女≫として、あまたの戦場を駆け抜け、強力な魔術を操り、他国の兵から畏怖されていていても、そこにいるのは、ただの無力で憐れな女だった。
「どうして……」
 最早、手遅れであることはわかっていた。けれども、魔女は足掻かずにはいられなかった。
「なぜなのです?オーウェン様。私を王妃にしてくださると、生涯そばにおいてくださると、約束したではありませんか!あの誓いは、全て偽りだったのですか!」
 まばゆい黄金の髪に、翡翠の瞳の美丈夫、オーウェン、後世に英雄王と語り継がれることになる青年は、整った柳眉を寄せ、首を横に振る。
「残念だが、お前を王妃に迎えることは出来ない。エスティアは巨大な国になりすぎた……もし、今この国が滅びれば、すぐに戦乱の世が訪れることだろう。それは何としても避けねば……この国には、未だ魔女を良く思わない者たちがいる。今、内乱の種を抱え込むことは出来ない。だから――私はお前と共に生きることは出来ない」
 行き過ぎた絶望は、いっそ喜劇にも似ている。魔女の喉の奥からは、くぐもった笑いがもれた。
 彼女は愛する恋人オーウェンの為に、その手を血に染めた。敵を屠り、屍の山を築き上げ、必要とあらば、同族の魔女さえも手にかけた。それはすべて、純粋な愛ゆえに。
 あぁ、なのに、それなのに、その結末がこれなのだろうか。
 愛していたのに、身も心も全て捧げたというのに、それなのに、あぁ、それなのに……
「――それなのに、貴方は私を裏切るのですか!」
 魔女の慟哭はさながら、魂が引き裂かれているようだった。
「……ああ、私はお前を裏切る。英雄であるためにな」
 冷淡につげたオーウェンの剣が、その刹那、魔女の心臓を貫いた。
 聖剣ランドルフ。
 人に非ざる魔女を殺せる、唯一の武器。
 殺せ。殺せ。殺せ。裏切り者の魔女を殺せ。
 英雄であるために、英雄でありづけるために。
 歴史は勝者が作る。敗者の屍を踏み越えて、生き残った者だけが正義を語れる。故に、恋人を殺した男の名は、後世に語り継がれた。
「――呪ってやる」
 最後の力を振りしぼって、魔女は呻いた。
 その金色の瞳を、英雄王の翠の瞳に重ねながら。
「英雄王オーウェンよ、私はもうすぐ死ぬのでしょう。貴方の手によって殺されて……でも、ただで死にはしない。愛しい貴方に、死よりも重い呪いを捧げましょう……貴方の死後も、子孫代々、貴方の血筋が絶えるまで続く呪いを。そうして、貴方の王国が、永遠に呪われますように――」
 魔女はもうすぐ死ぬとは思えぬほどに、饒舌に語ると、その震える指で魔方陣を描いた。彼女の体から流れた赤い血で。
 英雄王オーウェンと、エスティアの王族――彼の血を受け継ぐ者たちに呪いあれ。魔女を殺して、迎える王妃。その汚れなき女の腹から生まれる子に、魔女の呪いを――
「――エスティアの王族。その最初に生まれる子に、玉座を継ぐべき皇子に、魔女の呪いをかけましょう。その子はいるだけで周囲に災厄を集めて、王国に不幸をもたらし、やがては最も愛する者を手にかけ、死ぬことでしょう」
 それが魔女の呪い。王を愛し、裏切られた女の呪い。英雄王の血を受け継ぐ者に、私と同じ苦しみを。
「――貴方の子も、その子の子も呪われる。災厄を集め、愛する者も道連れにして、そして呪いは続く。永遠に」

 強すぎる憎しみは、もはや愛にも似ている。
 貴方が、永遠に私のことを忘れませんように。
 この命が尽きようとも、貴方を縛り続けると。
 きっと――それが、魔女の望んだこと。
「……かくして、悪しき魔女は、英雄王によって倒された。最期に恐ろしい呪いを残して、ね。けれども、その続きを、貴女はよくご存知でしょう?セラフィーネ王女」
 思わせぶりな老宰相のそれに、セラはええ、と苦い顔でうなずく。
「真に醜悪なのはね、その後、英雄王の犯した罪の方ですよ」

 凶眼の魔女が死したことで、エスティアにおける英雄王の地位は安定した。
 しばらくの後、美しく、慎ましやかで、高貴な血筋の、非の打ちどころのない妻を娶り、王妃とした。そうして、盤石の治世を築くために、次なる問題となるのは、世継ぎの存在だ。
 幸いにも、若い王妃はすぐに英雄王の子を身ごもった。王国の未来における、大切な跡継ぎだ。
 しかし、英雄王にはひとつ憂いがあった。魔女が最期に残した≪呪い≫のことだ。
 黄金の瞳を潤ませて、魔女はこう言い残した
「――エスティアの王族。その最初に生まれる子に、玉座を継ぐべき皇子に、魔女の呪いをかけましょう。その子はいるだけで周囲に災厄を集めて、王国に不幸をもたらし、やがては最も愛する者を手にかけ、死ぬことでしょう」
 それは、死に際の捨て台詞ではないことを、凶眼の魔女と行動を共にし、その魔力を利用した英雄王はよく知っていた。あの女が、無意味な戯言を口にしないことも。
 貴方の子は、呪われる。
 世継ぎの皇子は王国に不幸をもたらし、愛する者を手にかけて、死ぬことでしょう。
 大切な世継ぎに死なれるのは、国王として困る。ましてや、建国したばかりのエスティアにとって、正統なる後継者は、絶対に欠かさざるべき存在だ。
 英雄王の頭にあったのは、父親としての我が子よりの愛情よりも、冷徹なまでの支配者としての理論だった。王妃の子を、呪わせるわけにはいかない。
 そう考えた英雄王の宮廷には、当時、お抱えの魔術師がいた。
 金色の髪に、琥珀の瞳の、若々しく、傲岸不遜とも言えるほどの自信にあふれた男。
 弱冠二十にして、師を退け、宮廷魔術師の頂点まで登りつめた青年、不世出の天才、金色の魔術師と称される男、その名をラーグ。
「あの男を呼べ、金色の魔術師を」
 英雄王が命じると、ほどなく、まばゆい金の髪をなびかせ、白いローブを羽織った男が、王の御前へとはせ参じた。
 そのラーグという男、顔の造作は格段整っているというわけではないのに、何故か人の目を惹きつけてやまぬ、不思議な存在である。
 あふれんばかりの魔力で、幼いころから育ててくれた師を退け、その地位を乗っ取ったという評判だ。さもありなん、深い琥珀色の瞳の奥には、仄かな焔が宿っていた。
 ラーグの背後には、若者というにはややトウが立った魔術師が、おどおどと彼の顔色を窺うようにしながら、付き従っている。
 ローブをひるがえしたラーグは、堂々、生まれながらの貴族のような、優雅な所作で礼を取ると、うやうやしく英雄王に尋ねる。
「宮廷魔術師筆頭、ラーグが参りました。何の御用でございましょう?オーウェン陛下」
 慇懃に挨拶する魔術師に、英雄王は冷ややかな眼差しを向け、支配者然とした口調で命じた。行け好かぬ男であっても、魔術師としての技量は本物だ。
「ラーグよ、お前を呼んだのは、呪いを解いて欲しいからだ。我が子にかけられた、忌まわしき呪いを、な」
「……呪い?」
 凶眼の魔女の死後、宮廷に召し抱えられたラーグは、琥珀の瞳に不思議そうな色を宿した。英雄王は「そうだ」と頷いて、事の次第を語る。
 いま懐妊中の王妃、その腹に宿る子にかけられた、恐るべき呪いのことを。
 やがて、全てを聞き終えた金色の魔術師は、「ほぉ」と面白がるように口角を上げたあと、
「さすれば、わたくしに妙案がございますよ。オーウェン陛下」
と、甘い声で囁いた。
「妙案だと……?申してみよ」
「ええ……陛下の御子にかけられている呪いは、まことに強力なもの。魔女が最期の最期に、命を賭した魔術とあれば、それを打ち消すのは、用意なことではありません。もし失敗すれば、御子ともども、王妃さまの御命すらも、危険でございます。ただ、」
 含みをもたせて、ラーグは続ける。
「呪術にも、抜け道がございます。裏の裏というべき秘術が……無論、相応の犠牲は伴いますが、それでもよいのならば……」
 相応の犠牲、という言葉が気になったものの、最早、手段を選べる立場ではなかった英雄王は眉を顰め、「その秘術とは?」と、問う。
 おおそれながら、とラーグは過剰にへりくだったような口調で続けた。
「陛下には愛人がいらっしゃると、風のうわさに聞きました。異国の娼で、美貌の娘であるとか……その娘の腹には、子が宿っていると」
 何を言いだすかと思えば、と英雄王は整った面を歪め、失笑した。
 事実に相違ない、人外の理をあやつる宮廷魔術師には、王宮の裏事情も筒抜けである。
 オーウェンには、愛人がいる。
 異国の奴隷の少女で、吸いつくような肌と、肉感的な体つき、美しい顔が気にいって手をつけた。自国民でもなく、身分も低く、言葉もろくに使えぬ故に、側室にすらしていない。自分の子を身ごもっているのは事実だが、もし、生まれたのが、下手に争いの種になる男児ならば、死産と偽り殺してしまえ、とヴィルフリートに命じている。
 人としての良心など、欠片も持ち合わせぬあの男は、薄ら笑いを浮かべて、引き受けた。

「……魔術師に隠し事は出来んな。それで、それがどうかしたのか?」
 ラーグはにこり、と微笑み、それは無邪気ささえ感じさせた。
 この世の穢れを何も知らない、二十の齢を超えた青年とは思えぬ、無垢な赤子のようなそれは、百戦錬磨の英雄王であっても、肌が粟立った。
 善でもない、悪でもない、ただ己の興味も赴くままに、魔術師の真理だけを求めて生きている。
 産声を上げたばかりのラーグを抱き上げた父親は、この子は異端だと言った。
 同じ魔術師の道を行く輩は、この男こそ天才だと。
 彼が殺した師匠は、化け物だと呻いた。
 それが、金色の魔術師だ。
「オーウェン陛下は、魔女の呪いの文言を、しっかり覚えておられた。これは、幸運でした。曰く、――エスティアの王族。その最初に生まれる子に、玉座を継ぐべき皇子に、魔女の呪いをかけましょう。その子はいるだけで周囲に災厄を集めて、王国に不幸をもたらし、やがては最も愛する者を手にかけ、死ぬことでしょう」
 歌うように言い、ラーグは続ける。
「これは、オーウェン陛下の、最初の御子に呪いをかけるということです。でも、もし、その呪いを身代わりとなって、すべてを引き受ける者がいたら……?魔女の呪いの通り、不幸になり、命を落とす子供がいれば、大切な王妃様の子は助かるではありませんか?」
 馬鹿な、と英雄王は嗤った。
「下らぬ。魔女の呪いの身代わりなど、どこで見つけるのだ?」
「ご冗談を。すぐそばにいるではありませんか」
 ラーグは笑った。無邪気に。
 なぜ、そんなこともわからないのかと言いたげに。
「陛下の愛人の腹の中に、ですよ」
 凶眼の魔女は、強力な魔力の持ち主だった。
 そんな彼女が最期に、命を賭した呪いは絶対だ。
 英雄王の子は呪われる。そのまた子も呪われる……災厄を背負うて、死に至る。呪いは続く永遠に。
 その呪いを完全に解くことは、天才であるラーグでも不可能だ。しかし。
「何事も例外というものはございます。呪いには様々な制約がありますが、その複雑さゆえに、抜け道も存在するのです。魔女は、こう呪ったのですよね『英雄王の子は呪われる』と。ならば、その呪いを、陛下のもう一人の子に移してしまえばいいのです……王妃様の御子と、愛人の子ならば、迷うこともないでしょう?」
 二人の我が子のうちの、一人を選ぶ。
 ひとりを守るために、ひとりを犠牲にする。
 より大切な子の為に、いらない子を生贄とする。
 残酷極まりない案を口にしながら、ラーグは平静そのものだった。倫理観や人としての良心よりも、唯、いま自分が出来うる最大の魔術を試したくて、うずうずしている。
 琥珀色の瞳が、妖しく輝いていた。
 その恐ろしいまでの探求心の強さは、化け物じみていると言っていい。
 外道だな、と英雄王は口角を上げた。
「ラーグよ、妾腹とはいえ、私の、王の血を引く子だぞ?大それたことを言っているとは思わんのか?」
 不敬罪で首をはねてやろうかと、軽い口調で言うと、ラーグは「いいえ」と如才なく笑う。
「陛下は、聡明な御方ですから、どちらの子が生きるのが、国にとってさいわいか、もう答えは出されているはずかと」
 もし、一人の命と、国民すべての命ならば、迷うことはない。
 しかし現実には、一人と一人の命さえも、平等ではないのだ。より価値がある方を、より生きるべき方を生かすべきだ。
 仮に命の重さをはかる天秤があるのならば、それは、どちらに傾くのだろうか?
 何が、さいわいか。
「……よかろう。お前に任せる」
 玉座から見下ろし、英雄は頷く。
 翠の瞳の奥には、善や悪といったものは宿っていなかった。それは、そのようなものを超越した、支配者のそれだった。
「かしこまりました。ただちに準備に入りましょう。御子たちが産まれたなら、すぐに儀式に入れるように」
 ラーグは、淡々と承諾した。
 涼しい顔をした、その胸の内には、かつて成されたことのない魔術を使うことへの興奮と、醜悪なまでの好奇心が渦を巻いているに違いない。後ろに控えていた弟子が、薄ら寒いものを見たように、身震いをしていた。
 ふ、と小さく笑みを漏らし、英雄王は魔術師の名を呼ぶ。
「ラーグよ……」
「はい、陛下」
「貴様は、私と同類だな」
 英雄王は立ち上がると、ラーグの顔を正面から見据え、男ですら見惚れるような美しい顔で言い放った。
「人の心を持たぬ者だ」
 裏地が真紅のマントをひるがえし、英雄王は玉座から連なる階段を降りると、深く頭を垂れたラーグと弟子を置き去りにし、扉へと向かっていった。


 おぎゃあ。
 おぎゃあ、おぎゃあ。

 泣いていた。赤子がかぼそく、弱弱しい声で泣いていた。
 篝火の揺れる、城の地下室。
 暗闇の中、赤とも橙ともつかぬ炎が、むき出し岩壁を照らし出す。
 地下室の中心には、黒い祭壇が作られており、その横の机には、布にくるまれた赤子、ふたりの赤子が、自分の身に迫る良からぬことを察知したように、手足をばたつかせながら、いやいやとむずがっていた。
「おぎゃあ……、おぎゃあ!」
 いとけない、まるで、双子のようにそっくりな赤ん坊たち。
 ひとりは、英雄王の王妃が産んだ子。
 もうひとりの赤子は、愛妾が産んだ子だ。
 わずかひと月違いで生まれた子らは、同じ血を分けた兄弟に共鳴するように、先ほどから、悲鳴のような泣き声を上げている。
 やめて、やめて、僕の片割れにひどい事はしないで、どうか――
「さて、始めましょうか……?準備はいいか、フィネル」
 泣き叫ぶ赤子たちを一瞥すると、冷徹とさえ言える口調でそう言い放ったのは、白いローブに身を包んだ、金色の魔術師だ。
 これから始めようとしている儀式は、赤子の命を天秤にかけるような、醜くおぞましいものだというのに、金の縁取りがされた白いローブを纏った男からは、聖職者のような、犯し難い清廉された空気すらただよう。
 篝火の焔に、金色の髪がよく映え、琥珀の瞳がきらきらと宝石のような輝きを放っていた。
「はい、お師匠さま」
 貧相な小男、フィネルと呼ばれた男は、ラーグに命じられるまま、黒いローブを引きずり、祭壇に歩み寄ると、術を成し遂げるための補助を始める。
 炎の熱か、これから行われる魔術の罪深さを恐れてか、フィネルの額には玉のような汗が浮かんでいた。
「ふぎゃ……ふぎゃあ……」
 泣き疲れてか、じょじょに弱弱しくなる、赤子のなき声。
 儀式の遂行を見守るのは、英雄王とその片腕であるヴィルフリートだ。
 琥珀の瞳を閉じたラーグは、手にした樫の木の杖を振りながらゆっくりと、呪いを他人に移す、身代わりの魔術の呪文を唱え始めた。
「……我が名は、ラーグ。血の契約によって、我が望みが果たされんことを」
 携えていた小刀で指をわずかに切ると、ラーグは鮮血の滲む指先を、赤子の額に押し当てる。
空気が揺らぎ、指先から、あたたかな白い光が溢れだした。儀式は、成功……するはずだった。しかし。
【ゆるさない、断じて赦すものか】
 急に風の流れが変わった。
「え……っ!」
 ラーグの唇から、驚愕の声が漏れる。
 これは、誰の声だ?
【赦さない、赦さない、何人たりとも、私の復讐の邪魔をする者はゆるせない!!】
 不気味な声に焦ったラーグは、とっさに眼前の赤ん坊を抱き上げた。
 同時に、ホッと安堵の息を吐く。大丈夫だ、異常はない。子から子へ、呪いを移す儀式は成功している。
【赦さない、赦さない】
 声は止まない。
「誰だ、誰かいるのか?」
 焦りと不安。
 不気味な声の主を探ろうと、ラーグは声を荒げた。
「お師匠さま?どうかなさったのですか?」
 弟子のフィネルが、怪訝そうに問う。
 少し離れた場所に控えている英雄王も、又ヴィルフィリートも無反応なところを見るにつれ、この声はラーグのみに聞こえているようだ。
【赦さない、お前も罰を受けるがいいっ!!】
 瞼の奥で、強い光が瞬いた。
「うわああああああああああああっ、」
 両手で頭を抱え、絶叫するラーグに、弟子や英雄王たちもようやく異常を察したらしい。
「お師匠さまっ」
「ラーグ」
 まるで、雷に打たれたかのように、ラーグは全身を痙攣させて、やがて動かなくなった。地面に倒れたラーグに、英雄王の唇が音もなく、「死んだか……?」と紡ぐ。だが、しばらくの沈黙の後、地面に倒れた白いローブのソデから、小さな手がのぞいていた。
 ちいさな手?
 大人の男とは思えない、丸みを帯びた、可愛らしい手だ。
「あ……っ、う……」
 呻きながらも、ラーグは急に重くなったローブを引きずり、よろよろと立ち上がった。なんとか手足が動くことに安堵し、首を上げる。すると、驚きに目を見張った英雄王たちと目が合った。
 英雄王もヴィルフリートも弟子も、得体のしれない不気味なものを見たような顔で、こちらを見ている。
「あ、あ、」
 衝撃から立ち直り、ようよう喉から絞りだした声が、妙に甲高いことに、ラーグは違和感を覚えた。
 心なしか、視線もずいぶんを低くなったようだ。気のせいだろうか。
「陛下、陛下……ご安心ください、儀式は成功いたしましたよ」
 その声は、舌足らずで、ラーグ自身の耳にも随分と幼く響いた。
 英雄王は疲れたように息を吐き出し、魔術師を指差した。
「ラーグよ、その姿はなんだ……?」
「え……?」
「何故、そのような子供のナリをしている?」
「う、あ、」
 英雄王に指摘されてようやく、ラーグは己の身に起こった異変に気がついた。
 ちいさくなった手足、声が変わり前の幼い声、体中に手をあててみれば、どこもかしこも記憶にあるよりずっと幼い、十かそこらの子供の姿だった。
 魔術が失敗したのだ。
 その原因に思い至り、ラーグの顔面から血が引いた。
 儀式自体は成功したが、凶眼の魔女の呪いを、無理やり歪めた影響で、術者であるラーグの身に異常が起こったのだ。ゆうに十歳以上も若返り、子供の姿になってしまった。
 戻さなければ、元の身体に戻さなければ……!
 そう強く思いながらも、ラーグは小さくなった己の掌を見つめて、愕然としながら、口をパクパクとすることしか出来なかった。
 馬鹿な、ありえない!
 こんなことが起きるはずがない。
 自分は天才だ。儀式には、細心の注意を払った。それなのに……
「有り得ない、僕が魔術を失敗するなんて……」
 放心した態のラーグを、英雄王は冷ややかな眼差しで見下ろした。
「術の失敗が、己に跳ね返ったというわけか。使えんな」
 侮蔑的な言葉に、ラーグは英雄王を睨んだものの、子供のそれでは迫力がなかった。
「ヴィルフリートよ、その役立たずの魔術師を、何処かに捨てておけ。俺に配下に、無能者はいらん」
 今まで仕えてくれた者を、一瞬で、恐ろしいほど冷徹に切り捨てると、英雄王は腹心の部下にそう命じる。
 命じられたヴィルフリートの方も、慣れた様子で「わかった」と頷くと、小さく縮んだラーグへと歩み寄り、その子供の身体をひょいと脇に抱えた。「うう、」と苦しそうに、痛みに呻くラーグの事は、当然のごとく無視だ。
「フィネル」
「は、はいいいいっ」
 師の変貌ぶりに、おろおろと狼狽えていた弟子は、英雄王に名を呼ばれたことで、声を上ずらせた。
「な、何でございましょうか?陛下」
「お前が、次の宮廷魔術師筆頭だ。そのつもりで、準備をしておけ」
 ラーグが用済みとなった今、フィネルのそれは儀式の口封じも兼ねていた。断れば、邪魔者として消されるだろう。
 未だよく回らない頭でも、それぐらいは理解できたので、フィネルは「はっ」と青白い顔で勅命を受け入れた。
 立ち去る英雄王の足音と、赤子たちの泣き声が重なる。フィネルは慌てて、赤子たちに駆け寄ると、おぼつかない手つきで抱き上げて、泣き止むようにあやし始めた。


 外は、横殴りの雨が降っていた。
 地下室から地上へと出ると、しんと凍えた空気が、頬を撫でる。
 肩にぐったりとしたラーグをかついだヴィルフリートは、頬や髪を雨に打たれるがままにしておくと、唇を濡らした一滴を舐め取った。
 そうして、城の裏門をくぐると、いとけない子供の姿となり果てた魔術師を、乱暴に地面に投げ捨てた。
「か、はっ」
 石畳の上に投げ出されたラーグは、腹を折り曲げて、苦悶の声を上げる。そのまま二、三回、苦しげに咳き込んで、吐しゃ物で地面を汚した。
 そんな魔術師の姿を見、ヴィルフリートは蔑むように嗤う。
「無様だな。魔術師よ」
 瀕死のラーグは、顔を上げることすらままならず、されど、ヴィルフリートを睨みつける、琥珀の瞳だけがぎらぎらと、未だ生命力を感じさせた。
 面白い、とでも言いたげに、ヴィルフリートが口角を上げる。
「そのような姿になって、俺や英雄王が憎いか、魔術師よ。ならば、恨めばいい。心の底から憎めばいい……その方が、面白いからな」
 英雄王の片腕、後にエドウィン公爵家の祖となる男は、そう高らかに宣言した。
「このエスティアは、多くの血と屍と、数え切れない嘘の上に生まれた、虚構の王国だ。貴様の歪んだ復讐心すらも、いつかきっと、この国を成長させる糧となるだろうよ」
 地面を這いつくばって、惨めにも逃げようとするラーグの背中に、そう言い放ち、ヴィルフリートはその背を追おうとすらしなかった。


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