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八章 深すぎる闇 3


――今より、ずっと幼い頃、セシルにはお気に入りのボールがあった。

夏の空のような鮮やかな色合いのそれは、転がすとよく弾み、中にいれられた鈴はりんりん、と澄んだ音を奏でた。
王城の中庭、緑の芝生に空色のボールが転がる。とてとてと、おぼつかない足取りの、幼いセシルは、懸命に地面を転がるボールを追いかけた。すると、長い白い衣を纏った男が、ボールを拾い上げる。
「あっ、おじいさま……」
セシルは顔を上向け、ボールを拾ってくれた祖父の顔を見た。
ラザールは孫と目が合っても、にこりともせず、無表情のまま、ボールを返す。それはいつものことであった。
セシルが物心ついた頃から、祖父から肉親としての愛情を感じたことはない。
むしろ、セシルを見る祖父の目は、他人に向けるものと等しく、いつも冷ややかだった。 まるで、忌まわしいものを見るような。
「ありがとうございます。おじいさま」
セシルが緊張しながら、たどたどしく礼の言葉を述べると、宰相は眉をひそめ、「あなたの母は?」と、問う。
そのラザールの目線はやがて、セシルが母と暮らす部屋へと向けられた。わずかに開いた窓からは、国王の側室である母が侍女に髪を結わせ、その仕上がりに文句をつけているのが目に映る。もう一人の侍女には、気に入りの香水を吹きかけさせ、我が子がそばにいないことを、微塵も気にかけていないようだった。
セシルの母は、夫である王にも生んだ息子にも興味がなく、ただ退屈な日々を埋めるように、豪奢な宝石や毛皮、賭け事にご執心だ。
まるで、檻のように窮屈な後宮に閉じ込められた女に、他の愉しみなどないという風に。
「悲しい女ですね、あれは」
 曲りなりにも己の娘に向ける言葉として、宰相のそれは達観的過ぎた。
「おじいさま……?」
 胸の前でボールを抱えたセシルは、祖父の言葉に、幼いながらも不穏なものを感じ取る。ラザールの乾いた手がそっと、幼子の頭を撫でた。
「お前もまた可哀想な子ですね、セシル」
頭を撫でる手と、その声音は、親しげでやさしい。それは果たして、愛情と呼べるものであったのだろうか。
 何かを耐えるような祖父の、苦し気な表情。
 そんな顔をセシルが見たのは、後にも先にも、生涯、ただ一度きりだった。


セラとルーファスが宰相と対峙し、国を揺るがす根幹とも言うべき真実を明かされていた頃、王城の中枢にある王太子の寝室は、ひっそりと、人々から忘れ去られたような静寂を保っていた。

呪術によって目覚めず、眠れる王太子として噂されていたアレンだが、セラの手によって、その身にかけられた呪いが解かれた今でも、衰弱のためか、こんこんと眠り続けていた。
エドウィン公爵の指示を受け、側近のディオルトが手配した医師によると、王太子は呼吸も心音もしっかりしており、眠りから覚めれば、身体に問題はないだろうということだった。だが、しかし、いつ眠りから覚めるのかという問いかけには、黙して首を横に振る。
医師の診察が終わり、ディオルトや傍仕えの侍女たちも退室した今、寝台の横の椅子に腰を下ろしているのは、異母弟の、否、異母弟ということになっているセシル、唯一人のみだった。
「アレン兄上……」
不安そうな目をしたセシルは、膝の上に置いた手を微かにふるわせながら、兄の名を呼んだ。王太子の寝室にしては簡素な椅子から、細く、頼りない子供の手足が、所在なさげに揺れている。
黄金の髪と、蒼灰の双眸。
見目麗しいと称えられるアレンは、その整った容貌よりも、その身に纏う、犯しがたい気品、清廉な空気、明朗でよく通る声、人の心を掴む話しぶりから、王太子に相応しい人物とされた。一方、異母弟のセシルに、そのようなものは何一つとしてない。
同じ年頃の市井の子供と比べても、やや発育の悪い、痩せた身体と、凡庸な面立ち、砂色の瞳はいつもオドオド、周囲の反応を気にしてばかりいる。
王である父からも、産みの母からも顧みられなかった、哀れな子供。
祖父の宰相ラザールからは、ただ駒として見られる、王子であるだけが価値である少年。
そんなセシルを身内として気にかけてくれたのは、唯一、異母兄であるアレンだけだった。
アレン兄上が好きだった。いつか兄上の力になることが望みだった。絶望ばかりの日々で、たとえ半分であっても、兄上と血が繋がって居ることが、ささやかな誇りだった。
でも、その灯火のような小さな希望さえも、粉々に打ち砕かれた。他ならぬ、宰相ラザールによって。
 
「あれは、あの陛下のお子とは思えないほど、聡い。おそらく、亡き王妃に似たのでしょう。お前のことも、薄々、気づきそうにはなっていましたよ。お前とは、一滴足りとも、血の繋がりがないことにね」

アレンとセシルは、父を同じくする異母兄弟ですらなく、一滴たりとも同じ血の流れていない、他人であると。
母が不義密通の罪を犯し、産んだ息子がセシルなのだと、祖父である宰相はそう断言した。
愚かですね、お前とアレン殿下に似たところなど、少しもないでしょうと、老宰相は憐れむような表情すら浮かべて。
「うぅ……げほ」
セシルは目じりに涙を浮かべ、こみ上げてくる吐き気にも似たそれを、喉もとで、どうにかやり過ごした。
宰相の明かした秘密は、このエスティアの根幹を揺るがす大罪であることはもちろん、気弱な少年のちいさな心を、完膚なきまでに粉々に打ち壊した。
十二年余り、国王の子として生まれ、王城で侍女たちにかしずかれて育ち、王子として生きてきた。何の取り得もない、傀儡としての王子でも、それがセシルという人間のはずだった。
それが、今やどうだろう。
自分は王子でも何でもなく、母が浮気相手との間にもうけた子で、父はどこの馬の骨とも知れず、国民すべてを欺いていた。
唯一、自分を守り、大切にしてくれた兄とは、血の繋がりがない。
考えただけで、気が狂いそうだ。
もっと酷いのは、それを誰よりもよく知りながら祖父ラザールは、王太子を排除し、彼を王位に就けようとしていることだ。
王の血を、英雄王の血を一滴たりとも持ちえない、セシルを。
それがどれほどの罪であるか、わからぬわけでもあるまいに。
「お祖父さま……」
セシルよ、お前が王の子でないと知れたならば、私も破滅ですが、お前も破滅です。このエスティアの全ての民を欺いた、大罪人なのだから。
祖父の言葉に苦悩するセシルは、眠れる兄の顔を見つめる。瞼を伏せ、安らかに眠る王太子の横顔は、彫像のように整っている。
穏やかで、綺麗な寝顔だった。涙が出そうなほどに。

セシルは無意識のうちに、兄の首筋に手を伸ばした。しかし、触れる寸前に、その手は膝の上に下ろされる。
アレンが目覚めたその時、セシルはもう王子でも何者でもなくなるのだ。
「んっ……」
瞼が震えた。
アレンの眉間に皺が寄り、小さく寝返りを打つ。
セシルは驚き、転げ落ちるような勢いで、椅子から立ち上がった。
「兄上……っ、アレン兄上」
セシルが呼びかけると、黄金の睫毛が震え、伏せられていた瞼がゆるりと上がり、蒼灰の瞳がこちらを見つめた。
目が合った瞬間、胸の奥からこみ上げてくる思いに、セシルは小さな胸を熱くする。
「……セシル?」
「おかえりなさい、アレン兄上」
皆、あなたの帰りを待っていました。ずっと。
「私は……」
アレンはまだ夢うつつの中にあるのか、焦点の合わない瞳で頭を振ると、額を押さえた。
「眠っていたのか、ずっと」
セシルは頷くと、長い間、深い眠りの中にあった兄の顔を覗き込む。
「はい。ご気分は悪くないですか、アレン兄上?お身体に障りは?ああ、そうだ。侍医を呼ばなきゃ……」
いや、とアレンは少し疲れたように、だが、はっきりとした声音で喋った。
「気分は悪くない。それよりも、なんだか長い夢を見ていたような気がする……」
不思議そうな口ぶりで語ると、アレンはセシルの頭に手をおいて、「お前には、ずいぶんと心配をかけたようだな」と、優しく言った。
セシルは一度、沈黙してうつむいたあと、覚悟を決めたように、面を上げ、凛と背筋を伸ばした。そうして、アレンの、兄と慕った青年の蒼灰の瞳を、真っ直ぐに見つめる。「セシル?」と、その唇が音を紡いだ。
あにうえ。
「もしも、僕と血が繋がった兄弟でなくても、僕を愛してくれましたか?」
唐突な問い掛けに、アレンは驚いたように目を大きく見開いた。だが、直ぐにその真剣さを察したのだろう。その言葉に込められた感情も、セシルがどれほどの勇気で、その言葉を絞り出したのかを。
王太子はほんの瞬くほどの間、目を伏せ、沈黙する。
彼は、全ての真実を悟っていた。セシルの出生に秘められた欺瞞も、己とは血を同じくしていないことも。けれども。
「セシル。幼くして母上を亡くし、王太子の地位についた私が、王宮で海千山千の大人たちに囲まれていながらも、肉親の情を捨てずにいれた理由がわかるか……?」
もう、ずっと前に受け入れると決めたのだ。真実も嘘もすべて。
たとえ、何があったとしても、共に重ねた日々に偽りはない。
幼い頃、繋ぎあった、兄と弟の小さな手と手。そのあたたかさに守られたものは、確かにあったのだから。
「お前が居てくれたからだ、セシル。王太子ではなく、兄として慕ってくれたことが、どれほど貴重だったか……私は、お前に救われた」
アレンの言葉に、セシルはくしゃりと顔を歪め、泣きそうな顔で微笑んだ。
何かが吹っ切れたような、晴れやかな笑みだった。
「兄上が兄上で良かった。どうか、いつまでもそのままであってください」
そう言い、セシルはアレンに背を向けると、扉に向かって走り出した。
唐突なその行動に、思わず「どこへ行く?」と、王太子は叫ぶ。
そうしなければ、弟が遠い存在になってしまう気がした。
まだまだ少年の齢であるのに、突然、大人への階段をのぼり始めてしまうような。
「するべきことがあるんです。僕が止めてあげないと、お祖父さまは救われないから」
一度、足を止めたセシルは、何か崇高な使命を背負ったような、急に大人びた顔で、きっぱりとそう言った。


パタパタパタ。
いっそ不気味なほど静かな王宮の回廊に、乾いた足音が響く。
何かの異変を察知しているのか、行きかう侍女の姿は少なく、走るセシルを見咎める者も殆どいなかった。
はっ、はっ。
小さく息を切らせながら、セシルは一心不乱に、脇目も降らず、目的の場所へと急いだ。
そうして、槍を携えたふたりの衛兵が守る、さる重厚な扉の前で立ち止まる。
国王の寝室。
セシルが扉の前に立つと、侵入者に目を光らせていた衛兵たちは、心得たもので、さっと扉を開けた。
「……ありがとう」
セシルはやや緊張した面持ちで、国王の寝室へと入る。
いつもは祖父の宰相と共にしか入ったことのないそこに、独りで立ち入ることはない。
ちちうえ、と呼びかける声は、少しかすれた。
「誰だ?」
部屋の隅から、くぐもった声が返った。
寝台の奥から発せられるそれは、もう何年もの間、自室に引きこもりきりで出て来ようとしない国王のものだ。
元々、内向的な性格の王であったが、従兄弟であった王妃アンネローゼを亡くして以来、精神薄弱の気から、政務を宰相に任せっきりにしたという評判だ。
今も寝台の側から声だけはするものの、まともに姿を見せようとはしない。
セシルにとっても、一対一で会話を交わしたことがほぼない、遠い存在であった。
しかし、そこに怯んでいる場合ではない。意を決したセシルは、国王の寝台に歩み寄ると、片膝をついた。
「父上、どうか、お力をお貸しください。兄上が大変なのです」
セシルの必死の訴えに、毛布がもぞりと動いて、長い沈黙が続いた。やがて「無理だ……」と声が漏れ出る。
「無理だ……余には、何も出来ない。出来ないのだ」
まるで頑是ない子供のように、無理だと繰り返す国王に、セシルは眉を顰めつつ、根気強く語り掛けた。
「無理じゃないです。どうか、アレン兄上を助けてください。だって、アレン兄上は、王妃様が、あなたの愛した人が産んだ息子でしょう?僕と違って」
亡き王妃、アレンの母は、国王とは従兄弟同士であり、幼いころからの遊び友達で、政治的な結婚ではあったものの、非常に仲睦まじい夫婦であったと聞いている。気弱な国王に、アンネローゼは母のように姉のように、優しく接し、また支えていたと。
当然ながら、ふたりの絆は深く、王妃が若くして病で儚くなった時、国王も心を病んでしまったのだと。
最愛のひとが産んだ息子が、大事でないはずがない。セシルはわずかな可能性にすがった。国王と血の繋がりがないセシルが、それを口にすることは、とてつもない胸の痛みを伴ったが、どうしても、自分の意思で立ち上がってもらう必要はあったのだ。
「父上、あなたは全てをご存知だったのですよね?」
沈黙こそが、何よりの答えだった。
毛布が上げられ、中年の男が不安そうな顔を見せる。
迷える子羊のように、痩せた身体を小さく震わせながら。髭はそられておらず、長い苦悩を物語るように、目は落ちくぼんでいた。
強大なエスティアという国の王として、あまりにも惨めで頼りなさげな、その姿を、だが、セシルは蔑もうとは思わなかった。
いとしくて、哀しい。
アレンとは血のつながった正真正銘の父子でありながら、少しも似ていないように見える。だが、その瞳は兄と同じように澄んでおり、穏やかな光を宿していた。
弱くて脆くて、愛情深い。
不思議なものだ。血の繋がった実の親子であるアレンより、セシルの方がずっと国王と似ていた。
セシルは床に膝をつき、臣下としての礼を取ると、王よ、と呼びかけた。
「お願いです。お立ちください、国王陛下」
 怖がらないで、あなたには成すべきことがあるのだから。
「混乱するこの国を収められるのは、あなたしかいないのです」
 そう、あなたしか出来ない。
 英雄は正義ではなく、魔女に呪われ、重要な真実は隠されたこの国で、でも、このエスティアを愛し、守ろうと願う国民たちがいる。
 セシルはずっと悩んでいた。自分が王の子として生まれた意味は、何だったのかと。それは、きっと、この時のためだったのだ。

「あなたは、王なのだから」


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