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九章 呪いの果て 1


日が落ちつつある路地裏で、幼い声の語り部は物語る。
「むかーし、昔のお話です……」
 夕暮れ時の暗くなった手元を、仄かに揺れる蝋燭が照らし出す。ジジ、ジリジリと焔の輝きに魅入られた羽虫が一匹、炎の中へと消えた。
 成人のものとは違う、柔く、肉付きの良い指が、細い糸を操り、麻と藁で作った素朴な目鼻立ちの人形に、仮初の命を与えていく。
「この王国には、とても恐ろしい魔法使いがいました」
 語り部の声に合わせて、金色の髪と琥珀の瞳の人形が、シャアと威嚇するように両手を振り上げる。
食い入るように人形を見つめていた、貧民街の子供たちは息を呑み、兄に抱きかかえられていた幼い少女は、怯えたように、兄に抱きつく手を強くした。
「魔法使いは若く、滅多にないほど強い力を持っていて、そして、とてもとても傲慢でした。自分の魔法に出来ないことはなく、神や悪魔にすら勝ると、本気で思っていたのです」
 物語は進み、魔法使いの人形の前に、王冠をかぶった人形が出てくる。
 紙の王冠は、だが、蝋燭の炎に照らされて、きらきらきらきら、本物の黄金のように見えた。
 王様だ、と囁く声がする。
「あの日、そんな魔法使いに王様が頼み事をしました。我が子にかかった、魔女の呪いを解いて欲しい、というのです。
 魔法使いは、快く、それを引き受けました。
 王子様の呪いは、魔法使いの手によって解かれましたが、その代わり、王様のもう一人の子供が呪いを受けることになりました。
 そして、悪い術を使った罰でしょうか?
 傲慢だった魔法使いの身にも又、恐ろしい呪いが降りかかったのです。
 大人だった魔法使いは、子供の姿になり、年を重ねない呪いを受けました」
 声なき悲鳴、魔法使いの人形が倒れ、代わりに小さな子供の魔法使いへと入れ替わる。
「呪いによって、小さくなった魔法使いは、その原因である王様や自分の周りの人々を、強く憎みましたが、どうにもなりませんでした。
 隠れ家に逃げ込み、そのまま何十年もの月日を、ただ憎しみと共に過ごしていたのです」
「――けれど、そんなある日のこと、魔法使いを訪ねてくる者がありました」
 ひっそりと隠れる小さな魔法使いの前に、また新しい人形が出てきた。綺麗な金色の髪をした、男の子の人形だ。その顔には、綺麗な翠の硝子玉が縫い付けられている。
「魔法使いに会いに来たのは、呪われた王子様でした。英雄と呼ばれる王様が亡くなってからもずっと、呪いは続いていたのです。王子様は、呪いを解く方法を探し求めて、魔法使いを訪ねてきたのでした」
 どうか、この身にかけられた呪いを解いて欲しい。
僕には、出来ないよ。
あなたの名前は?
 ……ラーグ。
「呪われた王子様は、憎いはずの魔法使いを、何故か友と呼びました。
名前を呼び、笑いかけ、普通の友人として接しました。
それまで、心許せる者が一人もいなかった魔法使いにとって、王子様は初めて出来た、そして唯一人の友でした」
 舞台の上で、魔法使いの人形と王子の人形が並ぶ。けれど、そんな日々は長くは続かない。
「運命は残酷でした。王子様は呪いによって、恋人を亡くし、自らも命を落としました」
 王子の人形は、恋人らしき女の人形を抱えたまま、舞台から降ろされた。
 舞台の上には、悲嘆に暮れる魔法使いが、ひとりぼっちで残される。
「魔法使いは泣きました。生まれて初めて、他人の為に涙を流しました。王子様が死んでしまったのは、魔法使いのせいでした。かつての自分の行いのせいで、たった一人の友を喪ってしまったのです」
 愚かだった。でも、悲しんでも悲しんでも、王子様はもう帰ってこない。
 他でもない己のせいで、魔法使いは大事なものを失くしてしまった。
「そうして、何十年、何百年の月日が流れました。ただ一人の友を喪った魔法使いの元へ、一人の女の子がやって来たのです」
 魔法使いの人形の前に、小さな女の子の人形が出てきて、魔法使いの手を取る。
 その女の子の人形は、誰かと同じ亜麻色の髪をしていた。
「ねえ、それで、続きはどうなるの?」
 人形劇を夢中で見ていた男の子が、焦れたように、語り部に尋ねる。
 気がつくと、夕焼けは沈みつつあり、辺りは夜の帳に包まれようとしていた。
 劇の結末は気になるだろうが、親に叱られるのを恐れて、子供たちはそろそろと重い尻を上げる。
 さあ、と語り部である魔術師は肩をすくめた。
「この続きは、また明日ね。今日はここまで、ほら、真っ暗にならないうちにお帰り」
 おしまいの合図で、打ち鳴らされたパチパチという音に残念そうに、でも、しぶしぶといった態で、観客の子供たちは立ち上がると、あちらこちら、てんでバラバラな方向へと散っていった。
 貧民街の子供たちにも、それぞれ帰るべき場所があるのだ。

 人形を操っていた糸をほどくと、ラーグは後ろを振り返った。
「やあ、遅かったね」
 そこには、彼の弟子である亜麻色の髪の娘と、彼女の伴侶である美貌の青年が、並んで立っている。
「君達を待っていたんだ、ずっとね」
 ……長かった。永遠を生きる魔術師にとっても、この歳月はとても長かった。
この時を待ち望んでいたのだ。悠久の孤独。この三百年もの間、ずっと。
 かくして、万感の思いを胸に、金色の魔術師は微笑った。


「ラーグは知っていることだけど、あたしにはもう時間が残されていないの。あと数日もしない内に、呪いに喰われる」
 魔術師の住処に入るなり、すすめられた薬草茶や林檎酒に口さえつけず、セラはそう切り出した。最早、それだけ余裕がないということだ。
 呪いに内側から喰われるということは、その肉体のみならず、精神さえも、跡形もなく食い尽くされるということだ。それは即ち、死と同意語である。
 テーブルの向かいに腰を下ろしていたラーグは、穏やかな目をして、「セラ」と愛弟子の名を呼んだ。
「君はどうしたいの?そのまま呪いに喰われるのか、それとも……」
「おいっ、」
 淡々と言葉を重ねるラーグに、ルーファスは食って掛かった。
「あんなに必死に探したのに、呪いを解く方法が見つからなかっただと……?ふざけるなよ」
 このままだと、セラは死ぬしかないのだという。
 そんな馬鹿な事を認められるかと、ルーファスは歯噛みした。
 ――ふざけるな。そんなことは許せない。たとえ、神が定めた運命だとしても、俺は絶対に認めない。
 ルーファスは憤っていた。おそらく、当事者であるセラ以上に。
 彼女に与えられた運命は、余りに苛酷で、救いは何処にもなかった。
「ひとつだけ、方法があるよ」
 小さく息を吐いたあと、ラーグはそう言った。
「何だと?」
 深い琥珀の瞳が、セラとルーファスを映していた。
 ランタンの光に照らされて、金色の魔術師は、きらきらと眩い光に包まれているようだ。
「でも、救いではない。セラにとっては、死ぬよりも辛い。――おそらくは、君にとってもね、ルーファス」
 その時、ラーグはいかなる心境の変化によるものか、珍しく、日頃、気に食わないと言って憚らなかったルーファスを、名前で呼んだ。
 魔術師の言葉の意味を、その先に待ち受ける現実を、セラは理解していたのだろう。うつむいて、長い睫毛を震わせた。
 知らぬは、ルーファスばかりだった。
彼だけが、その絶望をいまだ知らなかった。
「それは……どういう意味だ?」
「セラにかけられた、凶眼の魔女の呪いを、解くことは出来ない。でも、その呪い自体を無かったことに出来るんだよ。禁忌である過去を改変する魔術を使えば、ね」
 ラーグはいっそ冷酷なほどに、感情をはぶいた声で説明した。
「時を操る魔術で、過去を変えて、セラが産まれなかったことにする。魔女の呪いもろとも、セラの存在を消滅させる。そうすることで、三百年もの間、この王国を蝕んだ魔女の呪いは消える。ただセラも消える。死ぬんじゃない、最初から存在しなかったことになる……この世界から、消える」
 あまりにも残酷なそれが、セラとラーグが長い月日、探し求め続けた呪いを解く方法の結論だった。
それだけはしたくなかった。でも、それしか方法がなかった。
 自分の生きてきた痕跡が、跡形もなく消える。
誰の記憶にも残らない、そもそも生きていなかったことになる。
共に歩んだ日々も、交わした言葉も、愛したものも、全てが無になるのだ。
 それが救いか、そんなものがっ!!
「どうする?セラ」
 ラーグは静かに、彼女に決断を促した。
「呪いに食われるか、自分の存在を消すか。最後に決めるのは、君だ」
 セラが唇を開く前に、ルーファスは「選べない、選ばせないでくれ!」と声を荒げた。叫ばずにはいられなかった。
 答えは知りたくなかった。
選べない、選べるはずもない。
どちらを選んだところで、彼は彼女を失うのだから。だがしかし。
「もういいよ、ルーファス。ありがとう。もう決めたから」
 そう言い切るセラの口調に、迷いや怯えはなかった。
 何もかも受け入れたような表情で、少女は真っ直ぐに前を向き、柔く微笑んだ。
清廉な横顔は、眩しくて、壊れそうに脆くて儚くて、いとおしいのか憎らしいのか、ルーファス自身さえも判断がつかなかった。彼にとって、彼女は特別で特別で、自分の感情全てを持っていかれるようで、苦しくて苦しくて、あいしていると同時に憎かった。
心臓をえぐり取られたような衝撃を受けながら、ルーファスは蒼い顔で、セラの肩を掴む。
「そんな顔でそんな台詞を言わせるために、俺は貴女と出逢ったわけじゃない」
 貴女を失うために、愛したわけじゃないんだ。
 声が震えた。
氷と称された青年が、全てを捨てて無様に、ただみっともなく形が見えない愛を乞うた。

ルーファスはそのまま、強引にセラの手を引くと、外へと連れ出した。
逃げても、行くあてなどないことはわかっていた。ただ、そうせずには居られなかったのだ。二人で手を繋いだまま、何処か誰も知らない場所へ行きたかった。本当にそうできたら、どれほど幸せだろうか。
暗い夜道を、ルーファスとセラはあてもなく彷徨った。
彼も彼女も無言だった。
絡めた指先だけが、唯一の拠り所だった。
「ねえ、ルーファス」
「……何も言うな」
「ラーグのところへ戻ろう」
 その願いが聞き届けられるであろうことは、セラは誰よりもよく理解していた。ルーファス=ヴァン=エドウィンという人は、根がとても優しく、誠実で、何より愛情深く、自分より相手を大切にしていた。最後の最後まで、人を愛するひとだ。故に、身を引き裂かれるように辛くても、彼女の心の定めたところを、最後には尊重する。
 ごめんなさい。
 男の優しさに付けこむことを、セラは心の中で詫びた。
「セラ」
 ルーファスの表情は、いつになく頼りなさげで、迷子になった子供のような、どうしたら良いのかわからない風だった。
 そんな彼を背伸びして抱きしめて、セラは幸せそうに、ほんとうに幸せそうに笑った。
 こんな時だというのに、馬鹿みたいに幸せだった。目の前の男が、いとしくていとしくて、その心が自分だけに向けられていることが、狂おしい程の喜びだった。
「貴方に出逢えて、貴方を好きになられて良かった」
 そのまま、そっと唇を重ねた。苦しい思いに突き動かされるように、彼から口づけが深くなる。一人の人間の心を全て手に入れることが、果たして、幸福なのか不幸なのか、彼女にも彼にもわからなかった。

 扉を開けると、ラーグは椅子に腰を下ろしたまま、彼と彼女を見つめ、ゆったりとした口調で尋ねる。
「心は決まった?」と。

 過去を改変する魔術は、死者を蘇らせる術と並んで、禁術である。
 時の流れに逆らい、無を有に、有を無にすることは、今にどのような影響を与えるか未知数だからだ。
 セラはラーグが描いた魔法陣の上に乗ると、「お願い、ラーグ」と、術の発動を促した。
 終わるのだ。
呪いに翻弄された長い日々が、これで本当に終わるのだ。
 セラは消える。何もかもなかったことになる。
 それでもいい。この胸に抱いた唯一の願いが叶うならば、それでいい。
「ルーファス」
 金色の光、魔術の渦に呑みこまれる間際、彼女は彼の名を呼んだ。
 誰よりも誰よりも、忘れ難い人の名を。
「ああ」
「幸せになってね、」
 上手く笑えたかどうか、自信がない。
 神様、とセラは祈った。
 もしも祈りが届くなら、どうか、ルーファスを幸せにしてください。誰よりも誰よりも。あたしの幸福を全部あげます。だから、どうか……
「あたしのことを忘れて、」
 幸せに……その続きは、声にならなかった。
喉の奥から、嗚咽がこみ上げる。
 セラの翠の瞳が、潤んだ。
 こちらを見つめるルーファスの蒼い瞳は、やはり綺麗だ。海と空のあわい。彼女の一番、愛した色。
 嫌だ。嫌だ。忘れられるなんて、嫌だ。
 あたしの存在が消えてしまっても、この人だけには覚えていてほしい。
「忘れないで、お願い……っ」
 こぼれた涙を掬い取ることすら出来ず、彼の眼前で彼女は光に包まれて、この世界から消えた。



 禁忌の術を発動させると、術者はどうなのるか。
 その咎は、術者が身をもって背負うことになる。
 巨大すぎる術の力を制御できず、その魔力の渦に呑みこまれるのだ。
 天才と謡われた金色の魔術師にとっても、それは例外ではなかった。
「あーあ」
 指先からじょじょに消えていく己の身体に、ラーグは苦笑した。爪、指先、腕、少しずつまるで、黄金の光に溶けるように、消滅していく。
 ほどなく、禁忌を犯した代償として、彼自身も消え去るのだろう。
「ちょっと、損な役回りだよねえ……まあ、こうなるのはわかっていたけどさ」
 弟子がどの選択をしたとしても、それに付き合うとは決めていた。
 残り少ない命と引き替えに、セラは呪いごと、自分を消すことを選んだ。
 愚かで、弱くて、どうしようもない程に人の好い弟子は、そんな方法しか選べなかった。馬鹿だね、うん、馬鹿だ。
 でも、元凶が己とはいえ、それに付き合う自分も、同じように愚か者なのだろう。
「とりあえず、約束を守ったよ。エーリク」
 昔、呪いで死んでしまった王子様。
 ラーグのせいで呪われて、それでも、魔術師を友と呼んだ男。
 ――もし自分と同じ運命を背負った者が、お前の元まで辿りついたなら、力を貸してやってくれ、頼んだ。ラーグ。
 約束は果たされた、心残りはまだあるが、もう余り時間がない。
「さようなら」
 ラーグの存在も又、魔術の渦に呑まれて消えた。



 そうして、呪われた王女と氷の公爵の物語は、幕を下ろす。



 過去は、世界は、彼女の存在を無くして、作り変えられる。


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