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十章 望んだ世界 2


ずっと、祈っていた。
あの人が幸せでありますように。
ふたたび、孤独に蝕まれることがありませんように。
優しいあの人があの人らしくあれますようにと。

――離れていても、たとえ、もう二度と会えなくても、それだけが、あたしに出来る唯一のことだから。

「おねーさま!セラお姉さまー!」
 よく晴れた日だった。
 抜けるような青い空、燦燦と降り注ぐ日差しがまぶしい。
 ここは、エスティアの東端、メイディル地方。
 小高い丘から、長閑な農村風景を見つめていた彼女は、己の名を呼ぶ声に振り返った。
「マデリーン、ここよ!」
 息を切らせて、遠くから駆け寄ってくる妹に、彼女――セラは笑顔で手を振った。
「こんな所にいらしたの、セラお姉さま……お父さまとお母さまが、昼食の支度が出来たから、早くいらっしゃい、って」
 わざわざ自分を呼びに来てくれた妹に、セラはすこし目線を低くして、御礼を言った。
「そうなの、ありがとう」
 妹のマデリーンは、十一才。セラの六つ下の妹だ。
 茶色の髪に、金茶の瞳。年の割には大人びて見え、性格的にややマセているが、可愛らしい子だ。
 セラは妹のマデリーンと手を繋ぐと、軽やかな足取りで、丘の下、両親の待つ領主の館に向けて、坂道を下り始めた。
 緑の木々に囲まれた領主の、姉妹の住居は、白い壁と青い屋根、よく手入れされた庭園が自慢の、瀟洒な屋敷だ。
昼食時、厨房の屋根から突き出た煙突からは、白い煙がたなびいている。

セラは、王国の東の果て、メイディル地方の一部を治める領主の、十七才になる長女だ。
貴族と言っても、爵位は低く、田舎ゆえに権力とも無縁の土地柄で、自然に囲まれ、牛や馬の世話をする気の良い村人たち、両親、妹のマデリーンと共に、収穫や家畜の世話も手伝ったりしながら、慎ましやかに暮らしている。
華やかさとは無縁だが、厳しくも優しい両親に見守られながらの、穏やかで満ち足りた日々だ。
公明正大な人柄で、農民たちからも慕われる領主さまの、大切なお嬢さまということ以外に、セラにはある秘密があった。
亜麻色の髪も、やや濃くなった翠の瞳も、かつて自分が持っていたものだ。
鏡に映った顔は、過去を改変する魔術を使う前と同じ。おまけに、セラ、という名前までもが。
あの時、魔女の呪いを消すことと引き替えに、セラは自分自身の存在を消した。セラフィーネという王女は生まれなかった、ルーファスと出会うこともなかった、そのはずだ。
それなのに、セラはあの時の記憶をそっくりそのまま、別の人物として、メイディル地方の小領主の娘として、この地に生を受けた。
過去を変える魔術を使う時に、ラーグは言っていた。禁術を使った時に、その影響を受けて、今がどのように変化するのかは、誰にも予想できないと。
また禁術を行使したセラは、そのまま消滅するのか、魂として永久に彷徨うことになるのか、それも全くわからないのだ、と。
それでも良いと頷いたセラに、存在しえなかったはずの記憶が残っているのはおそらく、ラーグが遺してくれたものに違いない。意地っ張りで、よくルーファスと口喧嘩ばかりを繰り返していたけれど、セラにとっては優しい師匠だった。
目をつぶれば、今もあざやかに思い出せる。
公爵家で過ごした日々、仕事熱心で、でも時に友人のように接してくれたミカエルやメリッサ、父母のようにあたたかく見守ってくれた女中頭や執事、少しドジで、でも、誠実で勇敢な騎士の事……嬉しい出会いもあった。辛い別れもあった。でも、今ではすべてが宝石のような時間で、宝物だ。寂しい時に、胸を奥にあるそれらを撫でれば、いつだって、あたたかい気持ちになれる。
何より、セラが愛したあの人の事ことだ。

「戻ると決めたんだろう?それならば、あの屋敷は貴女の帰る家だ。セラ」

「――ルーファスだ。好きなように呼んでくれて良いが、もし名前を呼ぶ気なら、そう呼べばいい」

 冷たいように見えて、その実、どこまでも情が深い人だった。
 セラが困ったとき、心弱くなった時、男の手はいつだって、彼女に伸ばされていたのだ。
 ルーファス。
 最後に見つめた蒼い瞳は、空のようで海のようで、この地上にあるどんな宝石よりも、うつくしく思えた。
 貴方の笑顔が見たかった。
貴方を幸せにしたかった。
叶わなかったならせめて、貴方が幸福であるようにと祈りたい。


 あの人とは離れてしまったけれど、記憶を抱えたまま、地方領主の娘として生きた十七年、幸せなことも沢山あった。
 呪われていない普通の娘としての日々は、ときに退屈で、それこそが幸福というのだと知った。
「……セラお姉さま?」
 繋いだ手をぎゅっ、と握ったことで、マデリーンが金茶の瞳を不思議そうに瞬かせる。
 セラは微笑んで、柔らかな手で、その頭を撫でた。
 十一年前、マデリーンが産まれたのは、長い冬が終わり、春が訪れようとしていた頃だった。
 寝間着の上に、乳母の手によって、ぐるぐるとショールを巻かれたセラは、夜明け前に産声を上げたという妹の顔を、ひとめ見ようと、母の寝室へと走った。
 扉を開けると、まあたらしく清潔な良い匂いがした。
 赤子を抱いた母が、「セラ、あなたの妹よ」と、この上なく慈愛に満ちた笑みを浮かべている。セラがおそるおそる近づくと、母と侍女が抱きかかえるようにして、妹の顔を見せてくれた。
「マデリーンというの」
 赤ん坊の瞳が開く――金茶の瞳が、セラを見つめていた。
 その金色の瞳を見た時、セラは悟った。
 この子は、このいとけない妹は、凶眼の魔女の魂をもって生まれてきたのだと。
「セラ?」
 訝しがるような母の目の前で、セラはそっと赤子を抱きかかえると、人目もはばからず、ボロボロと大粒の涙を流した。
「あ、ありがとう……生まれてきてくれて、ありがとう」
 己にかけられた呪いについて、魔女を憎み、恨んだこともあった。でも、そんなことは、もうどうでも良かった。セラはただ顔を涙でぐしゃぐしゃにしながら、この世界に生まれて来てくれた奇跡に、心から感謝した。
 あなたがこの世界に生まれてきたことが、奇跡であり、祝福なのだろう。

「マデリーン」
「なぁに?セラお姉さま」
「愛しているわ」
 突然、姉がサラリと口にしたそれに、マデリーンはゲボ、ゲホッと、思いっきり咽た。
 彼女に、凶眼の魔女としての記憶はない。
今は魔力すら使えない、ただの少女だ。
「いきなり何を言うのっ!セラお姉さまってば、ときどき、ほんとうに変よね!」
「ふふ、驚かせてごめんなさい」
 領主の館が、坂道をくだる、すぐ下に見えた。
 セラは小さな妹の身体を抱きしめて、もう一度、「愛しているわ」と囁く。

 愛することは、祈ることに似ている。
 許すことは、愛することに似ている。
 今度こそ、この魂を幸せにするのだ。呪いではなく、祝福に包まれるように。

 その時、風が吹いた。
 セラの髪を結わいた水色のリボンが、風にさらわれる。
「あ……」
 彼女よりも一寸先に、地面に落ちたそれを拾ったのは、男の手だった。
「貴方は……」
 リボンを拾ってくれた男の、ずっとずっと会いたかった、その青年の顔に、セラの瞳が潤む。
唇を震わせたのは言葉にならず、ようやく絞り出した声は震えていた。
「どうして、ここに居るの?忘れて……幸せになって、そう言ったのに」
 少女の咎めるような声の響きにも、黒髪の青年は一切の動揺を見せなかった。穏やかで従順に見える妻が、時に頑固で強がりであることを、ルーファスは誰よりもよく知っていたからだ。
「薄情な事を言うな。ここに辿りつくまで、ありとあらゆる手段を使って、国中を探し回ったんだぞ。おめおめと手ぶらで帰れるか」
 それに、とルーファスはきっぱりとした口調で告げる。
「俺の妻は、セラ、貴女しかいない。ルーファス=ヴァン=エドウィンは、生涯、貴女以外は愛さない。絶対にだ」
 突然ふってきた幸福が信じられないと、震えるセラの手を取り、ルーファスは最初で最後となる、求婚をした。
「もう一度、俺の花嫁となってくれますか?」
 そこが、限界だった。
 セラは、わんわんと子供のように泣きじゃくり、ルーファスの胸に飛び込んだ。会えなかった日々の涙が、一気にあふれてくる。
 公爵の青年は、そんな彼女を抱きしめて、ただ優しく背中をさすってやった。
 マデリーンは、急な事態についていけず、ポカンと大きな口を開けている。

 氷の公爵と呼ばれた青年も、呪われた王女もそこにはおらず、ただ、想い合う、ありふれた恋人たちの姿がそこにはあった。


 急に王都から現れた娘の高貴な求婚者に、セラの両親である領主夫妻が泡を食うのは、また別のお話である。


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