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二章 王女の秘密 10


 その夜から、三日後――
 従者のミカエルは扉の前で、ふぅ、と息を吐くと、やや緊張したような面もちで、主人の……ルーファスの部屋の扉をコツコツと叩く。
 同時に、まだ幼さの残る、少年らしい高めの声で「旦那様。ミカエルです」と、扉の中に向かって呼びかけた。
「旦那様、ミカエルです。入ってもよろしいでしょうか?」
 仕事なのだから、断られるはずがないとわかっていても、それは主従の間の儀式のようなものだ。
 部屋に入ってもよろしいでしょうか、という従者の問いかけに、ほんの一瞬の間の後、「……入れ」と扉の内から低い男の声が返ってきた。
 その低く、通りが良く、それでいて何処か鋭いものを感じさせるその声は、主であるルーファスのものだ。
 主人の指示に、ミカエルは「はい」と控えめな声で応じると、真鍮のドアノブに手をかけた。
「……失礼します」
 そう一声かけ、ミカエルが主人の部屋の中に入った時、ルーファスは机で一人、黙々と書類にサインをしていた。
 日頃の行いはともかく、根が几帳面な性格であることを証明するように、彼の机の上に積み上げられた書類やら資料やらは山のような量ながら、それらはルーファス自身の手によって、無駄なく完璧に整理されており、雑然とした印象は受けない。
 もっとも、執務における無駄を嫌い、合理を重んじる彼の気質をよく知る者からすれば、そんなことは当たり前のことであり、今更、驚くには値しない。
 ミカエルもまた、例外ではなかった。
 従者のミカエルが部屋に入ってきても、ルーファスは「少し待っていろ。ミカエル」と顔を上げずに言って、しばらくの間、書類を整理する手を休めようとはしなかった。
 エスティア国内で、五指に入る大貴族――エドウィン公爵家の当主であるルーファスの元に、持ち込まれる相談や書類の類は、尽きることがない。
 普通の者ならば、疲れ果て、うんざりするであろう量を、ルーファスは何でもないことのように、疲れたような表情すら見せず、淡々と、だが正確に片づけていく。
 許可を与えられる書類には許可を、無駄と思われるものには拒否かあるいは改革案を、他には彼を青二才と侮った上で無理難題をふっかけてくる王宮の古狸どもの手紙には、さりげなさを装った嫌味や当てこすりを冷静に三倍にして返してやる……。
 まるで、室内にいる従者の姿が目に入っていないかのように、一切の無駄口を叩かず、黙々と……ルーファスは、積まれた書類の山を片づけていく。
 常人からすれば、恐るべき集中力ではあるが、これもまた、公爵の従者であるミカエルにとっては、常日頃から見慣れた光景だった。だから、従者の彼は「少し待っていろ」と言ったルーファスの仕事の邪魔をしないように、大人しく、主の仕事が一段落するのを、部屋の隅で待つ。
「待たせたな」
 しばらくして、ようやく仕事が一段落したのか、ルーファスはずっと休みなく握っていたペンを置くと、その蒼い瞳をミカエルの方に向けた。
「いえ……」
 待たせたな、という主人の言葉に、ミカエルは首を横に振る。
 そうする従者の少年の表情は、どこか冴えず、何か迷っているようだった。
 本人は男らしくないとさんざん嫌がっているが、王宮の女官やら屋敷の女中やらに、まるで壁画の天使のようだとからかいまじりに賞賛される、少女めいた綺麗な顔は、憂いの色が濃い。
 そんな従者に向かって、ルーファスはスッと射抜くような、鋭い視線を向けると、冷ややかささえ感じられる声で、「それで……」と話を切り出した。
「……それで、例の件はもう調べられたのか?ミカエル」
 ルーファスの問いに、ミカエルは柳眉を寄せ、やや険しい顔つきで「……はい」と言葉少なに答える。
 他の使用人には内緒のことであるが、少し前から、ミカエルは従者としての仕事とは別に、奥方様……セラフィーネ王女様に関するある役目を、主人であるルーファスより命じられていた。――奥方様……セラフィーネ王女様の、屋敷内での行動を監視し、もし何か怪しい動きがあれば、すぐに夫である旦那様に報告せよ、というのがそれだ。
 一度、エドウィン公爵家の屋敷から逃げ出した奥方様を、信頼する気にはなれないというのが、その理由だった。
 それが正しい行為かはともかくとして、雇い主にして、孤児だった自分を拾い上げてくれた恩人であるルーファスに命じられれば、ミカエルに拒否権というものは、存在しない。
 そして、それとは別に、もうひとつ、彼には重要な仕事があった。
 主人の為、ルーファスの為に、情報を集めるという仕事が……
「はい」
 ミカエルは顔を上げると、主人の顔を真っ直ぐ正面から見て、「はい」と首を縦に振り、続けた。
「はい。旦那様の言われたこと……奥方様のことは、僕の出来る範囲で、調べておきました……といっても、王宮の女官たちの噂話を聞き出すとか、そのぐらいのことしか出来ませんでしたけれど」
 奥方様のこと。
 そう口にするミカエルの表情に、すでに先ほどまでの迷いや憂いは、見受けられない。
 ――奥方様……セラフィーネ王女様に、不審な行動がないか見張れという、ルーファスの命令は、ミカエルにとって、あまり気分の良いものではなかった。
 さして親しくはないとはいえ、同じ屋敷で暮らす人間……使用人と奥方様という身分の差こそあれど、そういう人を監視し、なおかつ不審な行動がないか疑えというのは、理不尽といえば理不尽なことだと、従者の少年は思っていたからだ。
 降嫁してきたその日に、屋敷から抜け出した王女様の過去を思えば、旦那様の考えも……まぁ理解できないでもないが、それにしても、夫に全くと言っていいほど信じてもらえない奥方様の身の上は、少々、哀れだと感じる。
 そう考えると、ミカエルの胸は少なからず痛むし、また良心がうずかないわけでもない。
 主人であるルーファスからは、たびたび甘いと非難されるが、ミカエルは少々情に流されやすいところがある。
 それなりに聡明ではあるのだが、肝心なところで、非情になりきれない性格なのだ。
 しかし、それでも主人であるルーファスへの忠誠心と、奥方様……セラフィーネ王女様への同情心、どちらを取るかと問われれば、従者の心の天秤がどちらに傾くかは、考えるまでもなく決まっていた。
 色々と言いたいことはあっても、ミカエルは基本的に、ルーファスの判断や言葉に従う。
 それは、主従だからというだけではない。
 三年前、犯した罪の重さに耐えきれず、生きることに自暴自棄になっていたミカエルを、絶望の淵から救い出してくれたのは、ルーファスに他ならないのだから。
 そんな従者の複雑な感情を、よく理解しているルーファスは薄く笑うと、「ご苦労だったな」と言う。
「ご苦労だったな。ミカエル……それで?王宮の女官から、どんな情報を聞き出してきた?その口振りだと、セラ……セラフィーネ王女の絡みで、何か役に立つような情報でもあったのか?」
 ルーファスは己の従者であると同時に、自分の手足でもある少年に、そう尋ねる。
 警戒されず情報を得る、または人から噂話を聞き出すという一点において、ミカエル以上の才の持ち主はなかなかいないことを、主人である彼はよく知っていた。
 どんな情報を手に入れたという、ルーファスの問いかけに、ミカエルは「ええ」とうなずいて、話し出した。
「ええ。僕が、王宮の女官……セシル殿下に仕えている人から聞いたのは、奥方様……セラフィーネ王女様が、幼い頃は王宮にいらっしゃらなかった。いえ……それどころか、王女様がお生まれになったことすら、誰にも知らされなかったそうです。それなのに、ある日いきなり妾腹の王女として、王宮に戻っていらしたのだとか。宰相のラザール殿に、手を引かれて……妙な話だと、お思いになりませんか?旦那様」
「……それが真実だとしたら、ずいぶんと奇妙な話だな。ミカエル」
 ミカエルの言葉に、ルーファスは解せないという風に、柳眉を寄せた。
 妾腹とはいえど、王女の誕生というのは、それなりの出来事ではあるはずだ。
 それが、ルーファスのような貴族たちにはまだしも、王宮で働く者たちに一切、知らされなかったというのは、多少どころではなく不自然だ。
 もしも、王宮のどこかで出産したのだとしたら、医者にしろ産婆にしろ人手が全くいらなかったとは考えにくい。
 それに関わった者たちは、どうして、王女の誕生について何も話さなかったのだろう……?
 仮の話として、セラの母親が、国王のお手つきの位の低い女官か何かだったとして、母親の身分が低いがゆえに、子の……セラの存在を隠したとするならば、今度はある日いきなり、王女として認められたあたりが、話の筋が通らない。
 それ以外に何か、王女であるセラの存在を公にせず、隠さなければならない事情があったのかもしれないが、いずれにしても疑問は尽きない……。はっきり言って、謎だらけだ。
 それに、幼い頃、セラは王宮にいなかった――というミカエルの情報に、ルーファスは、あの黒髪の女官の言葉を思い出した。
 恋人というような親密な間柄ではなかったが、かつて何度か体の関係を結んだあの女は、セラを美しくも賢くもない凡庸な娘だと嘲笑いながら、こう言っていた。
「――十三歳になるまで、王女と認められず、国王陛下にお会いしたこともなかったそうよ。こう言ってはなんだけど……本当に、国王陛下の御子かどうかも、疑わしいものだわ。どこかの卑しい男の種かもしれない」
と。
 あの時、ルーファスは所詮、浅はかな女の戯れ言だと切り捨てた。
 しかし、多分に悪意や毒がこもっていても、あの女官は根も葉もない嘘や作り話を吐いたわけではなかったらしい。だからといって、どうということもないが。
「……」
 どうにも気に食わん、とルーファスは心中で、舌打ちした。どこまでが真実で、どこまでが偽りなのか、切れ者と称される彼をもってしても、今の段階では、判断することが叶わない。
 そのことが、ルーファスの心を乱し、わずかに苛立たせる。
(……まるで、霧の中にいるようだな……)
 今の己の状況を省みて、ルーファスは自嘲気味に、まるで深い霧の中にいるようだと思った。
 謎という名の霧に包まれて、何が真実であるのか、視界を隠されているような……
 何かが、引っかかる。だが、その何かが、未だはっきりしていない。
 ――ある日いきなり、宰相ラザールに連れられて、王宮にやって来たのだというセラフィーネ王女……セラ……
 ――その時、十三歳だったいう彼女は、その年になるまで、何処でどうやって生きてきたのか?その母親は?
 ――いや、そもそも、セラは本当に、国王陛下の御子なのだろうか?
 疑えば、キリがない。
 セラを問い正せば、それらの答えは明らかになるのかもしれないが、あの温厚なようでいて、妙なところで頑固な亜麻色の髪の少女が、そう易々と全てを教えてくれるとは、ルーファスには思えなかった。
 あれは、嘘をつくというよりも、無理に聞き出そうとすると、黙ってしまう女だろう。
「旦那様……続きを話しても、よろしいですか?」
 考え込むルーファスに、ミカエルは遠慮がちに尋ねる。
「……ああ」
 ルーファスが首を縦に振ると、ミカエルは「もしかしたら、ただの偶然かもしれないんですが……」と、やや険しい声で続けた。
「もしかしたら、ただの偶然かもしれないんですが……実は、もう一つ、王宮の女官から、聞かせてもらった話があるんです。それも、お話した方が良いですか?旦那様」
「聞く。ミカエル、話してみろ」
 ルーファスは、迷いなく答える。
 この際、どんな些細な情報でも、得ておいて損はない。何が真実かわからない、今の状況では。
 ミカエルはうなずき、
「これは、女官たちの噂ですが……セラフィーネ王女様が王宮にいらした頃、そばに仕えていた女官たちの身に、色々と妙なことが起こったらしいです」
と、言った。
「妙なこと……?具体的には、何があった?」
 主の問いに、ミカエルは「はい」と再度うなずいて、「何でも……」と続けた。
「何でも……奥方様……王宮でセラフィーネ王女様に仕えていた女官の一人が、いきなり原因不明の病で倒れたり、その後を引き継いだ女官は不幸な事故で……他にも、急に夫を亡くしたり、あるいは女官本人が命を落としかけたり、とにかく災難続きだったとか。そのせいで、王女様付きの女官たちも皆、王女様には距離を取りたがるというか、かなり冷たかったらしいですが……それって、ただの偶然なんでしょうか?」
「……」
 ミカエルの疑問に、ルーファスは考え込むように沈黙し、やがて低い声で言った。
「ただの偶然であることを、祈りたいがな……もしも、それで済むならば、王宮はさぞ平穏で平和な場所だろうよ」
 ルーファスの元に降嫁してくる前、王宮にいた頃のセラに仕えていた女官たちを襲った不幸が、偶然かそうでないのか、今の彼に確かめる術はない。
 しかし、それが何らかの陰謀である可能性もまた、否定することは出来ないのだ。
 そうすることで、得する者がいるのかは謎だが、可能性は零ではない。
 ――不幸を呼び寄せる王女、何とも不吉な響きだ。
「つくづく……」
 そこまで考えたところで、ルーファスの口から本音がこぼれ出た。
「つくづく厄介な女だな。セラ……俺が妻に迎えた王女は」
「旦那様……言い過ぎてすよ。僕は、奥方様とは近しいわけじゃないですけど、優しそうで……とても悪い方には見えません」
 冷ややかな、冷ややかすぎる主の物言いに、ミカエルはそこまで言わなくても、非難めいた表情を浮かべた。
「お前はそう言うがな、ミカエル……」
 従者の少年が、眉をひそめるであろうことを承知で、ルーファスは続けた。
「――生半可な同情や、中途半端な優しさならば、ない方が余程マシだ。そんなものは、いつか身を滅ぼすだけだからな」
 生半可な同情というルーファスの言葉に、ミカエルは心の奥底を見抜かれたような恥ずかしさを感じて、目を逸らした。
 ……わかっている。
 いくらセラに同情するフリをしたところで、ルーファスの従者であるミカエルは結局、奥方様の手を取ることは出来ないのだから。
 同情したところで、出来ることは何もない。
 生半可な同情、中途半端な優しさ、ミカエルにとっては身に覚えがありすぎる言葉だった。
 あの時、それで失敗し、一人の幼い少女を死に追いやったというのに、自分はまた同じことをしようというのか……。
 それでも、ミカエルはつい「旦那様」と、ルーファスに呼びかけた。
「旦那様……」
「何だ、ミカエル?」
 愚かなのは、自覚している。でも、ミカエルはもう目の前で、誰かが見捨てられる瞬間は見たくない。だから、尋ねた。
 かすれる声で。
「旦那様は……奥方様を、見捨てたりしませんよね?」
 それは、そうであって欲しいという願いだった。
 ミカエルの言葉に、ルーファスはふっと、呆れたような苦笑を浮かべる。
「聡いお前にしては、愚問だな。ミカエル」
 そう言うルーファスの蒼い瞳は、どこまでも冷ややかだった。
「旦那様……」
 冬の海を想わせる、そんな主人の瞳が、ミカエルは少し苦手だった。
 綺麗な色だとは思う、どこまでも深く、冬の海のような、暗い蒼……
 氷の公爵と評されることが多いルーファスだが、従者のミカエルの印象は、少し異なる。
 その蒼い瞳は、氷というよりは、まるで冬の海のようだ。
 冷たく、どこまでも深く、何もかも飲み込んで支配するような……威圧感を、感じる。
 別に睨まれたわけでもないのに、ミカエルは半歩後ずさり、拳を握りしめた。
 そんな従者の気持ちを知ってか知らずか、ルーファスは笑みにならないくらいに唇をつり上げると、冷たい声で言う。
「――俺が、そんなに甘い男に見えるのか?」
 ミカエルは、それ以上、もう何も言えなかった。
 従者である彼から見て、ルーファスは決して、情が存在しないわけでも、冷たいだけの人間でもない。
 そうであるならば、アレン王太子殿下の親友兼片腕として、政治だけでなく、貧しい民の生活にまで目を向け、それを何とか変えていこうなどとは、全く考えないだろう。自分は、大貴族の当主として、何不自由ない身分であるのだから。
 誇りと理想と、それを守るだけの聡明さと、目的を遂行させる行動力を兼ね備えている。
 そんな主のことをミカエルは尊敬していたし、自分とは比べものにならないほど、器の大きい人だとは思う。だが、それでも思うのだ。
 この方は、旦那様はきっと、幸せにはなれないだろうと。
 人の感情を読むことには聡くとも、自分の感情には、別人のように疎い。
 遠くの……国の正しい在り方を考えることは出来ても、近くの、自分の身近にあるものを、一番、近くにあるはずの人を愛せない。そもそも、愛情というものの存在を、欠片も信じていない……
 それは、不幸なことではないかと、ミカエルは思うのだ。
「旦那様……」
 この方は変われないのだろうか、奥方様は……セラと呼ばれるあの方は、旦那様を変えることは出来ないのだろうか。
 そんなことを思いながら、ミカエルはそっと、淡い水色の瞳を伏せた。


 同時刻、エスティア王宮――
 王宮内の一室、陽光に照らされた豪奢な室内で、一人の少年が静かに本を読んでいた。
 煌びやかなシャンデリア、数十人は楽に集まってパーティーが開けそうなほど広々とした室内、また壁に飾られている絵画は国中に広く名を知られた画家のものであり、置かれている飴色の美しい家具は椅子ひとつに至るまで例外なく、名工の手による一級品である。
 そんな室内に、絹のカーテン越しに柔らかな陽光が差し込む様子は、それだけで一枚の見事な絵画になりそうな光景だった。
 しかし……
 その豪奢な部屋の中心にいる少年の印象は、遠慮なく言うならば、地味の一言に尽きる。
 薄茶の髪に、砂色の瞳の、大人しそうな顔つき。
 少年の小柄な体格には、やや不似合いなほど立派な椅子に腰掛けて、本のページをめくっているその少年の名は――セシル。
 この国……エスティアの王子である。
 現在、この国の実権を握っているとされる宰相ラザールの孫であり、エスティア国王オズワルトと、その側室である宰相の娘の間に生まれた唯一の男児であった。
 兄であるアレン王太子とは、少し年が離れているうえ、その間にも兄弟がいるため、普通ならば王位から遠い存在であるはずの王子なのだが、現在、祖父である宰相ラザールの強力な後ろ盾から、兄である王太子に万が一のことがあった場合、王位に最も近い存在と貴族間では目されている。
 あくまでも、王太子にもしものこと……があればではあるが。
 しかし、そんな野心を持てば、王位を手に入れられそうな立場にありながら、セシル本人は野心などとは程遠い、気弱で大人しい性格の少年であった。
 優しいと言えば聞こえがいいが、軟弱であると、陰口を叩かれることも少なくない。
 武によってエスティアを建国した英雄王の子孫であるとは思えないほどに、人を傷つけるための剣や武芸の稽古は苦手で、病弱であることを理由に、あまり熱心に励もうとしなかった。
 そのせいか、腕も足も生白く、痩せている。
 剣を厭うセシルが好きなのは、読書と動物の世話と、そして植物を育てることだった。
 王子という窮屈な立場でなければ、彼は一介の庭師か何かとして生きたいと思っていたし、もし許されるならば、学者になりたいと本気で夢見ていた。
 そういう少年であったから、王位への野心など、欠片も抱いていなかった。
 セシルは英明な王太子である兄・アレンのことを心から尊敬し、慕い、聡明で慈悲深い兄上ならば、必ずや名君と呼ばれる人になるだろうと誰よりも信じていた。
 そう、セシルには野心など、欠片もない。それなのに……
「――セシル」
 低く、穏やかでありながら、どこか冷たさをはらんだ声だった。
 自分の名を呼ぶ声に、セシルはビクッと身を震わせて、恐る恐る声の方角を振り返る。
 そして、どこか怯えたような表情で、セシルは言った。
「……お祖父さま」
 床まで届く長い白髪に、白い髭をたくわえた白尽くめの老人。
 そこに立っていたのは、このエスティアの宰相にして、セシルの祖父でもある、ラザールだった。
 お祖父さまというセシルの呼びかけに、ラザールはあたたかみの感じられない灰色の瞳で、孫であるセシルを見下ろすと、どこか冷たい硬質な声音で「ここに居たのですか。セシル……姿が見えなかったから、探しましたよ」と言う。
「……ごめんなさい。お祖父さま」
 祖父であるラザールに対して、セシルは萎縮したような、小さな声で謝罪する。
 たしかに血の繋がった祖父であるのに、セシルはラザールが苦手だった。いや、怯えていると言ってもいい。
 その感情を、セシルは上手く説明することは出来ない。
 ただ苦手なのだ。
 孫である自分を、まるで駒の一つのように見下ろす、祖父の灰色の瞳も……
 その冷ややかで、あたたかみの感じられない、硬質な声音も……
 何よりも、セシルの王子という地位を利用し、権力を独占しようとする祖父の、宰相の野心がひたすら恐ろしかった……
 本を愛し、植物を愛し、王位や権力というものに全く興味がないセシルにとって、祖父の固執する権力や野心とやらは、ひどく恐ろしいものに思えたのである。
「セシル」
「……はい」
「国王陛下にお会いしに行きますから、ついて来なさい」
「……はい。お祖父さま」
 ラザールの言葉に、セシルは暗い顔でうなずいた。
 祖父である宰相が苦手でも、否、苦手であるからこそ、少年は祖父に逆らえない。
 大人しく気弱で、人との衝突を避けて生きていたセシルにとって、誰かに反発したり逆らったりすることなど、想像すら出来ない。だから、彼は椅子から立ち上がると、国王陛下に――自分の父に会いに行くという祖父の後に、重い足を引きずりながら、続いた。
 その小さな胸に、鉛のように重いものを抱えながら。
「早くしなさい。セシル」
「……はい。お祖父さま」
 そうして、宰相の祖父と王子である孫は、その部屋を出ると、国王の寝室へと向かった。
「……」
 国王の寝室へと向かうために、祖父のラザールと共に王宮の広々とした廊下を歩きながら、国王に……父に会いに行くセシルの表情は、どこか重く、苦しげなものだった。
 セシルは決して、父が嫌いなわけではない。
 彼が物心ついた頃はすでに、国王である父は体や心に病を抱え、寝室に引きこもりがちだったので、全くと言っていいほど親子らしい交流を持った記憶はなかったが、それでも父は父だ。
 決して、嫌いなわけではない。だけど……
 その先を考えて、セシルは泣きそうな顔で、祖父の目に入らぬように、握りしめた拳に爪を立てた。
「……ぁ」
 その時だった。
 曲がった廊下の先、セシルの砂色の瞳に、黄金の髪の青年の背中が映ったのは。
 その人が、こちら振り向かなくても、異母弟であるセシルにはわかる。
 あの背中は、兄上の――セシルが誰よりも尊敬し、父や母や祖父よりも、彼が心から慕う異母兄、王太子・アレンのものだ。
 その背に向かって、「兄上……」と呼びかけかけたセシルの声は、結局、音になることはなかった。
 祖父がひどく冷たい、仮面のような無表情で、彼の方を見ていたからだ。
「……どうかしましたか?セシル」
「いいえ……」
 宰相として、国王になり代わり、このエスティアを裏から支配する祖父と、その専横ぶりを快く思っていないアレン兄上……王太子との対立を思いだし、セシルは口を閉ざし、首を横に振った。
 祖父と兄の政治的な対立には、心を痛めてはいるが、幼く、何の力もない彼にはどうにもならない。
「……」
 セシルは黙って、遠ざかっていくアレン兄上の背中を、複雑な想いで見つめていた。
 許されるならば、今すぐ「アレン兄上」と名を呼んで、兄上の元に駆け寄りたかった。だが、それは許されないのだと知っている。
 お互いの立場はどうあれ、セシルにとって異母兄であるアレンは、祖父ラザールよりも、国王である父よりも母よりも、誰よりも近い存在だ。
 セシルを常に、権力の道具として考えている祖父、宝石や毛皮や美しいドレスをこよなく愛し、息子である彼に興味を抱かない母、寝室から出てこず、まともに話したこともない父……エスティアの王子として、王宮で大勢の人に囲まれていても、セシルはいつも孤独だった。
 誰一人として、セシルをセシルとして見ようとはしない。
 ただ王子として見る。
 そんな中で、アレン兄上だけが、セシルをセシルとして、王子としてではなく、ただの弟として優しく、時に厳しく接してくれる。
 セシルが頑張れば褒めて、また何か悪いことをすれば叱って、祖父からも父母からも与えられなかった愛情を、アレン兄上はいつだって惜しみなくセシルに与えてくれた。
 異母兄弟であり、自分の対立している宰相の孫なのにも関わらず、アレン兄上はただの一度だって、そんな態度を見せたことはなかった。
 気弱で、流されやすく、自分の意見すら満足に言えない、出来の悪い異母弟である自分を、アレン兄上は大切な弟として守ってくれた……そんな兄のことを、セシルは誰よりも尊敬していたし、また兄の揺るぎない強さと高潔さに、憧れてもいた。
 聡明で明るく、穏やかで気さくな性格の人であるのに、それでいて王太子らしい凛とした風格を持つ、アレン兄上。
 そんな兄に、セシルは心から憧れていた。
 気弱で、常に状況に流されるように生きてきた彼にとって、人望があり、王としての才覚に恵まれた兄の姿は、羨ましくも、眩しいものであったのだ。けれども……
「セシル。早く来なさい」
 宰相である祖父の声に、セシルは首を縦に振る。
 逆らうことなど、彼には出来ない。
 出来るはずもない。
「……はい。お祖父さま」
 ごめんなさい、アレン兄上……と、セシルは心の中で謝った。
 僕は、兄上のように強くなれないです。
 兄上のように、自分を貫ける意志の強さは、僕にはないのです。だから、貴方のようにはなれない。
 そんな弱い自分は、今までも、これから先も、祖父の……宰相の道具として、生きていくのだろうと、セシルは深い諦めと共に思った。

 父の……国王の寝室に祖父の後について足を踏み入れた瞬間、セシルは暗い、と感じる。
 太陽の光が降り注ぐ昼間だというのに、窓という窓は全て締め切られ、広々とした王の寝室は一寸先すらおぼつかないような、深い闇に包まれてきた。
 しばらくして、セシルの目が、ようやく暗闇に慣れてきた頃、彼の砂色の瞳に映ったのは、寝台の人影だった。
 その男は寝台にうずくまり、何かに怯えているかの如く、頭からすっぽりと毛布をかぶって、ぶるぶると震えている。時折、意味のない言葉を、ぶつぶつ呟きながら……。
 明らかに正気とは思えない、その男の名を、セシルは悲しいことによく知っていた。
 エスティアの国王・オズワルト。
 大国を統べる国王であり、王太子アレンは勿論……セシルの父親でもある。とはいえ、彼が物心ついた頃には、国王である父はすでに、こんな状態であり、父子らしい会話などした記憶はなかったが。
 昔から、そうであったので、そのことを悲しいとも辛いとも思えない自分のことを、セシルは歯がゆく思った。
 暗い寝室で、父は自分の世界に閉じこもり、息子であるセシルですら、視界に入れようとはしない。
 ……僕は、ここにいるのに。
 セシルは、それが苦しくて、「父上っ……」と寝台の父に、国王に向かって呼びかけた。
「父上っ……」
 その呼びかけに、返事はなかった。
 毛布をかぶって、ぶるぶると震える国王は、「父上」と呼びかけた息子の方を見ようとすらせず、頭から毛布をかぶったまま、時折、「怖い……」だの「魔女が……」だの、セシルには意味のわからないことを呟いている。
 そんな国王の姿を見て、孫と一緒に寝室に入ってきた宰相ラザールは「……おやおや」と、呆れた風に笑う。
 嘲るような、蔑むような、ひどく悪意に満ちた笑みだった。
 そんな祖父の表情に、呆然とするセシルを置き去りにして、宰相は寝室にあった唯一の光源、燭台を手にすると、寝台に……いまだ毛布にくるまったままの国王・オズワルトに歩み寄った。
 そうして、寝台の横に膝をつくと、孫であるセシルですら聞かされたことのないような、甘く優しい声で、宰相は王に話しかける。
「どうかなさいましたか?陛下……一体、何を、そのように怯えておられるのですか?」
 まるで、幼子に対するような問いかけに、毛布をかぶった国王はぶるぶると震えるのを止めて、「宰相か……?宰相なのだな?」と言った。
「ええ、陛下……私は、宰相のラザールでございます。陛下は何を、そのように震えていらしゃるのです?どうか、私めに話してくださいませんか」
 その言葉に、毛布がわずかに動く。
 宰相が持つ、蝋燭の炎がゆらりと揺らめいて、毛布のすきまからのぞく、国王の顔をかすかに照らした。
 その王の瞳は、蒼灰色――
 エスティアの王家の者に多い瞳の色であり、息子であるアレンと同じ色だ。
 蝋燭の炎に、国王・オズワルトは少し眩しげに蒼灰色の瞳を細めると、再び、ぶるっと身を震わせて、宰相に向かって「怖い……」と言った。
「怖い……予は、予は……予は怖いのだ。宰相よ」
 怖い、怖いと……四十の齢をとうに越えた国王は、まるで亡霊に怯える幼い子供のように、怖い……怖い……と、血の気の失せた青白い顔で繰り返す。
 そんな国王に対し、宰相の老人は慈愛に満ちたような微笑みを、顔に張り付けると、震える国王の背を撫でて、再度、優しい声で問う。
「怖い?何が怖いのですか?陛下……この王宮の中には、貴方を害すような人も物も、何一つとしてありません。だから、ご安心なさってください」
 何も心配することはないのですよ、という宰相の言葉に、国王は「嘘だ……」とそれを否定した。
 蒼灰色の瞳には、はっきりとした恐怖が宿っていた。
 震える声で、国王は続ける。
「嘘だ……嘘をつくな、宰相。この王宮に、予を害する者がいないなどとは……予は怖い、予は恐ろしい……いつか、死んだはずの弟が、災いを背負わせたあの子が、王宮に戻ってくる!予に、予に復讐するために―――っ!」
 最後の叫びは、悲鳴にも似ていた。
 叫びたいだけ叫ぶと、国王はガクッと操り人形の糸が切れるように、まるで亡者のような青白い顔で、寝台に突っ伏した。
 宰相は薄く笑うと、寝台に突っ伏した国王に向かって、優しく、残酷なほどに優しく語りかける。
「ご心配なされなくても、私が宰相でいる限り、陛下の御身は安全です。何も、怖いことは、ありません。この国のことは、私と……孫のセシルにお任せしてくだされば良いのです……おわかりですね?陛下」
「……ああ」
「さぁ、全てをこの私、ラザールに任せて、お休みください。陛下……ご安心ください。陛下がどうか安心して、お休みになられますように、私が万事、良いようにしておきます。陛下を害するような邪魔者は、消しておきますから、さぁ……」
 そんな宰相である祖父と、国王である父の歪んだ会話を直視するのに耐えきれず、セシルは唇を噛みしめながら、うつむいた。
 きつく握りしめた、握りしめすぎた拳には、くっきり爪のあとがついていた。
 おかしい、とセシルは思う。
 子供である自分にもわかる。この空間は、何処かおかしい。狂っていると。
(助けて、助けて、アレン兄上……)
 絶対に届かないと知っていて、それでもセシルは、心の中で兄に「助けて……っ」と、そう叫ばずにはいられなかった。
 気分が悪い……
 頭がぐるぐるする……
 この部屋の空気は、どこか膿んでいる。長くいる場所じゃない……
「……っ」
 胸にこみ上げてくる不快なものを感じて、セシルは辛そうに顔をしかめて、よろよろと顔を上げた。
 その時、ゆら、と蝋燭の炎が揺れて、壁の――王の寝室に飾られた絵画を、ぼんやりと照らし出した。
 その絵に描かれていたのは、《英雄王》と《凶眼の魔女》――エスティア建国の祖・英雄王オーウェンが、裏切り者である凶眼の魔女を、聖剣ランドルフをもって成敗する。
 その瞬間を、画家が想像し、一枚の絵画にしたものだ。
 絵の中心では、黄金の髪の凛々しい青年が、神からさずかったとされる聖剣ランドルフを振り下ろし、その剣の切っ先は、魔女の胸を……金の瞳の醜悪な容貌の、いかにも邪悪そうな魔女の胸を貫いている。
 聖剣に胸を貫かれた魔女は、口から真っ赤な血を流し、邪悪なる我が身を呪いながら死んでいく……そんな絵だ。
 その絵は、寝室に飾るものとしては、少々血生臭いものだった。
 しかし、ある意味では、英雄王の子孫である王の寝室を飾るものとして、最も相応しいのかもしれない。
 セシルも乳母から聞かされた、建国の祖・英雄王オーウェンの伝説……。
 ――かくして、英雄王オーウェンは裏切り者の悪しき魔女を、聖剣ランドルフによって成敗し、その後、美しい王妃さまと共に、エスティアに永久の平和と幸せをもたらしました。めでたし、めでたし……――
 そんな英雄王の伝説を、王家の人間であるセシルは当然のことながら、よく知っていた。
 しかし、その絵画を見たセシルは、もともと優れなかった気分が更に悪化し、慌てて目を逸らした。
 聖剣によって、胸を貫かれた魔女の体から吹き出す、真っ赤な鮮血……
 絵画とはいえ、それを見たくなくて、セシルは目を伏せる。
 彼の背後では、「怖い……」という国王の呟きと、宰相の声が響いていた。
 そんな彼らの姿を、絵画の中の英雄王が、翠の瞳で見下ろしていた。


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