BACK NEXT TOP


三章  呪いの代償  1


 月のない、ひどく暗い夜のことだった。
「……はっ……はっ……はぁ……」
 ぜいぜいと苦しげな荒い息を吐きながら、一人の少女が、夜の真っ暗な路地裏を、時折、ヨロッと足をもつれさせ転びそうになりながらも、必死に走っていた。
 年の項は十七、八かそこら。
 淡い栗色の髪を白いリボンで結んだ少女の印象は、清楚で可愛らしいが、その表情はといえば、恐怖でひきつっていた。
 凄まじい形相で歯を食いしばり、転んだのか膝小僧から赤い血を流し、走り続けて、心臓がまるで早鐘のように脈打つのを感じながらも、少女は決して足を止めず、無我夢中で走り続ける。
「はっ……はっ……はぁ」
 まるで何に追われているかのように、ひどく怯えた、追い詰められたような表情で、走り続ける少女の名をリーザという。
 王都の片隅で、わずかばかりの金額で花を売り、生計を立てている花売りの娘だ。
 普段は、明るい笑顔を浮かべて客に花を売る少女であるのだが、今、必死の形相で駆ける少女の――リーザの顔は、恐怖でひきつっている。時折、ちらっと後ろを振り返る彼女の薄茶の瞳には、はっきりとした怯えが宿っていた。
 後ろから響いてくる足音に、リーザは「……ひっ」と呻き声を上げると、もうとっくに体力の限界を超えているのにも関わらず、走る速度を上げた。
 ……怖い、怖い、怖いっ!
 もっと速く走らなきゃ、後ろから追いかけてくるあれに、すぐ追いつかれるっ!
 息が苦しい、足が動かない、でも逃げなきゃ……逃げなきゃ、殺されるっ!
「はっ…はっ……」
 荒く、苦しげな息づかいも、まるで早鐘のようにドクドクとゾッとするくらい早く脈打つ心臓も、走りすぎてガクガクと無様に震える膝も、全てが体の限界を超えているのを強く訴えてくるというのに、それでもリーザは走るのを止めない。
 夜の暗闇の中、灯りもなしに走り続けるのはひどく怖いが、それでも足を止めるわけにはいかないのだ。絶対に。
 リーザには、わかっていた。
 立ち止まれない。
 走るのを止めたら、殺されるっ!食い殺されるっ!
 あの恐ろしい……恐ろしい化け物にっ!
「はぁ……はっ……だ、誰か、助けて……」
 リーザはぜいぜいと荒い息を吐きながら、半ば呻くように言った。
 本当は、大声で「誰か、助けてっ!」とそう叫びたいのに、想像を絶する恐怖のあまり、普段、出るはずの声が出ない。
 喉は、何日もの間、全く水を口にしていないかの如く、カラカラに渇ききっている。
 そんなリーザの喉の奥から出るのは、はぁはぁ……という力のない荒い息だけだ。
 ――どうして?
 ――どうして、こんなことになったのだろう?
 ――何で……何で、私がこんな目に合わなきゃならないの?
 背後から迫ってくる恐怖に、発狂しそうになりながら、リーザはそう思った。
 今日はいつもと同じ、退屈だけど、何事もない一日のはずだったのに……。
 もっと早く、もっと早く、太陽が沈む前に帰れば良かったのだ。
 リーザはそう悔やむ。
 珍しく、花が全部、早々と売り切れたことに気をよくして寄り道なんかしたから、あんな、あんな恐ろしいものを見てしまったのだ。

 今より少し前――
 人通りの殆どないはずの路地裏で、男の悲鳴のような声を聞きつけて、建物の陰からのぞいたリーザが見たのは、想像を絶する光景だった。
 飛び散る鮮血。
 地面に倒れた若い男。
 無惨に引きちぎられた腕……
 裂かれた腹からはみ出したドロドロしたもの。
 グチャグチャグチャという生肉を咀嚼する音。
 そして、殺したばかりの、人であったものガツガツと食べる化け物の、暗闇に輝く、血のような赤い目……
 その化け物は、ペチャペチャと人の腕であったもの残骸を食べながら、真っ赤な血のような目で呆然とするリーザの姿を見て、ニタリッと笑った。
 極上の獲物が、自ら飛び込んできたという風に。
 その瞬間、この化け物の次の獲物は自分なのだと悟ったリーザは、蒼白な顔で震える足を引きずりながら、その場から逃げ出した。

 ――どうして、なぜ私は、あんな恐ろしいものを見てしまったのだろう?
 人が、人が、人が化け物にグチャグチャに食い殺される瞬間をっ!
 走り続けながらも、男が食われていたあの瞬間の光景が、無惨に食いちぎられていた腕や、裂かれた腹からはみ出たドロドロとしたもののことが頭をよぎり、リーザは全身の震えと、こみ上げてくる吐き気を必死にこらえた。
 胸の奥からこみ上げてくる吐き気を、唾を飲み込んで、何とか耐える。
 吐いている場合じゃない。
 立ち止まったら、立ち止まったら、食い殺される。
 リーザを追ってきた、あの化け物に……。
「はっ……はぁ、お願い。こっちに来ないで……」
 叶うはずもない願いを口にして、リーザは辛そうに顔を歪めながら、化け物の距離を取ろうと、走る速度を上げた。
 しかし、彼女の頭の中にわずかに残った冷静な部分は無慈悲にも、その行為が無駄であると告げている。
 さっきから、リーザがどれほど必死に走っても、背後から追いかけてくる化け物との距離は、一向に広がらない。
 逆に、さっき石畳につまづいて派手に転んだ時でさえ、その距離は変わらなかった。
 地面に倒れこんだリーザを、捕まえようとすれば容易に捕まえられたのにも関わらず、背後の化け物はリーザに手を伸ばそうとはしなかったのである。それが、何を意味しているのか、答えは簡単だ。
 ……遊んでいるのだ。
 リーザは、歯を食いしばった。
 ……あの人を食い殺した化け物は、リーザを獲物に見立てて、純粋に狩りを楽しんでいるつもりなのだ。
 最初からリーザを逃がす気なんてないくせに、死にたくないと必死に逃げる獲物を、愚かだと笑いながら追いかけて、弄んでいるのである。
 獲物が恐怖に震える姿を、無駄な抵抗を楽しんで、嘲笑っているのだ。
 しかし、それがわかっていても、リーザにはどうすることも出来ない。
 走るのを、逃げるのを止めた時、そこに待っているのは“死”だけだ。
 ……死にたくない。怖い。死にたくない。食い殺される。死にたくない!
 命あるものの本能というべきか、今、リーザの頭にあるのはそれだけだった。
 心臓は早鐘のようであるし、足はとっくに限界を訴えているのに、死にたくないという、その一心だけが彼女を走らせていた。
「……ひっ」
 その時、背後から生臭い息を吹きかけられて、リーザは「……ひっ」と悲鳴を上げた。
 ――獣臭い。
 背後からただよってくるのは、生臭い息と、独特の獣臭さ。
 そして、隠しようもない血の臭い……。先ほど食い殺された男の……
「いやぁぁぁ!助けて、助けて、誰か……」
 助けは来ない。
 ただでさえ人通りの少ない路地裏を、こんな真夜中にぶらっと通りかかるような物好きな輩など、そうそういるはずもないと頭の片隅ではわかっていても、リーザは誰かに……誰でもいいから、助けを求めずにはいられなかった。
 走りながら、彼女はただ助けを乞う。
 足を止めた時、生きるのを諦めた時、自分はあの化け物に生きながら食われ、バリバリと骨を噛み砕かれて、腕を引きちぎられた上に、腹を裂かれドロドロの中身を……
 先ほど見てしまった、あの化け物に食い殺された男と、同じ末路を辿りたくない。
 死にたくない、死にたくないと願いながら、リーザは走る。
 彼女には、それしか出来なかったのだ。たとえ、それが無駄な足掻きであるとしても。
「……」
 それから、どれほど走っただろうか。
 ずっと背後から響いていた、あの化け物の足音が聞こえなくなったことに、リーザは気がついた。
 ……諦めたのだろうか?
 リーザは、ほのかな希望を抱いた。
 ずっと、逃げ回っていたから、あの化け物もいい加減リーザを追いかけるのに飽きたのかもしれない。
 あるいは、何処かでリーザのことを見失ったのかもしれない。それで、諦めたのかもしれない。ああ、そうだ。きっと、そうだ。そうに違いない。
 リーザは荒い息をはいて、地面に倒れるように座りこみながら、助かった幸運を、神に感謝した。
 助かった。助かったのだ!あの化け物から逃げきった。
 食われずにすんだのだという安堵感が、彼女の身を包む。
 それは、そうであって欲しいという、恐怖と逃げることに疲れ果てたリーザの願望であったのかもしれない。だが、このまま夜が明ければ、それは現実となる……そのはずだった。
「た、助か……」
 その言葉は、最後まで声にならなかった。
 背後から、ペチャペチャという生肉を咀嚼する音がして、リーザは戦慄する。
 ……獣臭い。
 後ろを、振り返りたくはなかった。
 今、後ろを振り返れば、残酷な現実が待っていると、リーザにはわかっていた。
 しかし、それでも彼女が後ろを振り返ってしまったのは、悲しい人の性であっただろう。
 そうして、後ろを振り返ったリーザの瞳に映ったのは、暗闇に浮かび上がった、ギラギラと輝く血のように赤い目だった……
「……あ……ぅ……あ」
 座りこんだリーザを見下ろす、化け物の大きな影。
 その血のように赤い目は、暗闇の中にあっても、ギラギラとひどく不吉な輝きを放っている。
 恐ろしいことに、その化け物の口の端からはみ出していたのは、先ほど食い殺した男のものか、人の……人の指だった。
「……ひっ……」
 絶望するリーザの喉から発せられたのは、声にならない、ひゅうひゅう、とかすれたような音だけだ。
 赤い目を輝かせた化け物が、ニタリッと笑いながら、大きな口を開ける。その口の奥には、鋭く尖った、白い牙が見えた。
 そうして、化け物が近寄ってきて、その鋭い牙が眼前に迫ってきた時、リーザは悟った。
 自分は……自分は、死ぬのだと。
 不思議と、恐ろしいとか怖いとかいう生に執着する感情はすでに抜け落ちて、残されたのは、ただ虚無だった。
 光の届かない、過去も未来もない、真っ暗闇に落ちていくような。
 ああ、とリーザは思った。
 これが……
 ああ、これが……
 これが、“死”……
 グシャ、グシャリ。
 首の骨が砕ける音。
 それが、リーザが絶命する瞬間、短い人生の最期に耳にした音だった……。


 翌朝――
 まだ早朝と言えるような時刻、王都を流れるレーンベルク川にかけられたクラリック橋の上に、一人の男が立っていた。
 赤髪、真紅と評されるような髪に、深緑の瞳の二十歳を少し越えたくらいの青年だ。
 貫禄をつけようとしてか、顎には見事な髭を生やしているものの、やや童顔気味といっていい若く見える顔立ちゆえに、残念ながら、余り似合っているとは言えない。
 誠実で、真面目そうな顔つきではあるものの、威厳というものが欠落しているからだ。
 この髭が余りというか、実際のところ全く似合っていない赤髪の青年の名を、ハロルド=ヴァン=リークスという。
 貧乏な男爵家の次男坊という、殆どないに等しい身分ではあるものの、一応は貴族に属する男だ。
 しかし、それよりも青年――ハロルドの立場を知りたければ、その服装を見れば、考えるまでもなく、一目瞭然であろう。
 黒翼騎士団の制服を身にまとい、腰には帯剣、背中には騎士の証である青いマントがあり、それが風にたなびいている。
 一見して、騎士であるとわかる男だった。
 エスティア王国を支える、三つの騎士団のうち、王都の治安維持を司る黒翼騎士団。
 その黒翼騎士団第十三部隊・隊長というのが、彼……ハロルドの立場であった。
 クラリック橋の上に立ち、どこか険しい面もちで王都の街並みを見つめていたハロルドだったが、その時、何かに気づいたようにふっと表情を緩めた。
 彼の深緑の瞳に映るのは、遠くから駆けてくる部下の騎士の姿だ。
 こっちだ、という風に、ハロルドは部下の男に向かって片手を上げた。
「ハロルド隊長ぉ―――?何処ですか?」
「ヘクター!ここだ。ここ」
 ハロルドは、ヘクターと部下の名前を呼んで、橋の上から手を振った。
「ここにいたんですか?ハロルド隊長。探しましたよ」
 近寄ってきた部下の言葉に、ハロルドは、探させて悪かったな、と軽く謝りながら尋ねた。
「探させて、悪かったな。ヘクター……それで、例の路地裏で見つかった男の死体、名前はわかったのか?」
 昨夜、路地裏で見つかった男の死体。
 その身元はわかったのか?というハロルドの問いかけに、部下は、ええ、と首を縦に振る。
「ええ。あの殺された男、可哀想に顔を半分くらい食われていたもんで、どこの誰か探すのは骨が折れましたが……エドモンドっつう、裕福な商家の道楽息子だったらしいですね。何でも、娼館に行く途中だったらしいですが、気の毒に、娼館で女を抱く前に、化け物に食い殺されたってわけで」
「……そうか。ご苦労だったな」
 ご苦労だったな、と部下を労いつつも、ハロルドの顔色は冴えない。
 今の状況を思えば、それも至極、当然のことだった。
 彼ら――黒翼騎士団が治安維持に励んでいるはずの王都で、わけのわかない化け物が人を襲って、食い殺している。
 しかも、それによって何人もの犠牲者が出ているとなれば、騎士隊長という立場からいっても、また責任感の強い彼の性格からいっても、ハロルドが平静でいられるはずはない。
「……」
 人が化け物に食い殺される。
 この王都で、そんな恐ろしい……おぞましい事件が起きるようになったのは、今より、およそ二ヶ月ほど前からだ。
 最初の犠牲者は、宿屋の主人だった。
 道で倒れているのを発見された時、死んでいるのはすぐにわかったが、その死に方が異様なものだった。
 まるで、大型の獣が食い殺したかのように、腕も足も顔も、目につくところの肉は全て、鋭い牙のようなもので抉られたかのように穴だらけで、おまけに噛み痕のようなものまであったのだ。
 大きな獣に食い殺されたのだと、そう声高に主張する者もいたが、山奥ならばともかくとしても、王都のような場所に、もしも、そんな人を食い殺せるような大きな獣が生きているしたら、絶対に人目につかないわけがない。
 どこかに隠れているにしたところで、かなり無理がある。
 一応は、王都のどこかに大きな、化け物のような獣が隠れている可能性も考えて、騎士団の隊員でそこら中を捜索したのだが、不幸なことにというべきか、あるいは予想通りというべきか、そんな大きな獣は、王都中を捜索したにも関わらず、全く姿を現さなかった。
 勿論、人間の犯行であるというのも考えたが、その噛み痕や牙の痕はとても人間のものとは思えなかったのである。
 そうして、黒翼騎士団が手をこまねいているうちに、第二、第三の犠牲者が出た。
 第二、第三の犠牲者たちもまた、まるで獣が食事をしたかのように、体のあちらこちらが、無残に食い散らされていた……そうして、事件は全く解決しないまま、今に至る。
 人を食う化け物、その姿をはっきりと目にした者はいない。
 いや、いるにはいるが、すでに食い殺されて、生きていない。
 人が襲われた夜、近くで獣の唸り声を聞いただの、遠くに赤い目が見えたのだと口にした者たちもいたが、それすら憶測の域を出ない。結局のところ、化け物の正体は、いまだ謎のままだ。
 そんな状態で、昨夜、四番目の犠牲者が出たのだから、ハロルドが眉をひそめるのは当たり前のことだろう。
 騎士隊長として、犠牲になった人々を、化け物から守れなかったことに深い責任を感じるし、よりにもよって食い殺されるという恐怖を味わって死んだ人々のことを思うと、彼の胸は痛んだ。
「……これで、四人目か。その化け物とやらを、一刻も早く捕まえなければ、犠牲者は増えるばかりだな。早く……早く何とかしないといけない」
 きつく眉を寄せながら、それでも、どこか静かな決意を秘めたような声で言うハロルドに、隣にいた部下も「そうですね。ハロルド隊長」と相づちを打つ。
「そうですね。ハロルド隊長。まずは……深夜の見回りを、隊員の数を増やして、さらに強化しましょうか?これ以上、犠牲者を出さずに、あの化け物を捕まえるために」
「ああ。そうだな。ヘクター」
 部下のヘクターの言葉に、ハロルドは「ああ」と力強く、うなずいた。
 亡くなった犠牲者の人々に対して、深い哀悼の念は感じるが、それでも騎士隊長である彼が、いつまでも落ちこんでいることは許されない。
 王都の治安を守るのは、黒翼騎士団の、ハロルドや彼の部下たちの役目なのだから。
 無念を抱きながら死んでいったであろう犠牲者たちの為にも、こんな恐ろしい事件は、一刻も早く解決しなければならない。必ず!
「そうと決まれば、一度、黒翼騎士団の本部に戻ろう。ヘクター。何か、新しい手がかりもあるかもしれんし、他の奴らも集めて、策を練るぞ」
 堅い決意をこめて言うと、ハロルドは青いマントをひるがえしながら、踵を返した。
 そんな騎士隊長の背中を追いかけながら、部下のヘクターが言う。
「はい。ハロルド隊長!……あと、話は変わるんですが、ひとつ良いですか?この事件とは全く関係ない、隊長に関する、個人的な意見なんですが」
 ひとつ良いですか?という部下の言葉に、ハロルドは一瞬、立ち止まった。
 彼は振り返ると、何とも言えない微妙な表情で、話の続きを促した。
「……言ってみろ。ヘクター」
 隊長に関する、個人的な意見という言葉に、わけもなく嫌な予感を感じつつも、話を聞かないわけにもいかない。
 ハロルドは、部下の意見をよく聞く騎士隊長として、黒翼騎士団内では知られていた。
 そんなハロルドを、部下はひどく真剣な表情で、上司の顔、いや、顎のあたりを見つめる。そして……
「ハロルド隊長。前々から、言おう言おうと思っていたんですが、その髭……言っちゃ悪いですが、隊長に似合ってないから、さっさと剃った方が良いですよ。隊長は、若く見えるというか、そういう髭が似合うようなゴツい顔じゃないんですから」
「……」
 ハロルドがひくっと顔をひきつらせたにも関わらず、怖いもの知らず……あるいは、単に無謀なだけかもしれない部下は、なおも同じ話題を続ける。
「いやいや……俺も含めて、ハロルド隊長の部下たちは、みんな隊長のこと心から尊敬してますよ。男爵家の坊ちゃんなんて、どんな鼻持ちならない奴かと思えば、身分にこだわる素振りもないし、真面目だし、部下の面倒見も良いし、お人好し過ぎて貧乏くじを引くタイプだし、剣もそこそこ使える良い上司です……だけど、その髭は似合ってないですよ」
「……」
「実は、この前の騎士団の連中との飲み会で、その話題で盛り上がりましてね……誰が、ハロルド隊長にそれを言うかでくじを引いて、俺が当たったんです。いやぁ、今、伝えられて良かった。良かった」
 言いたいことを言って、晴れやかな顔をする部下とは対照的に、言われたハロルドの顔はどんよりと曇っていた。
 若くして騎士隊長になったものの、同い年の者たちより若くみられることが災いして、隊長と思われないことが多いため、髭を生やしたのは、ほんの少しでも威厳を出そうとした苦肉の策だったのに……
 それが、信頼している部下たちに、ここまで言われるとは……
 落ちこんでいるハロルドに対して、部下のヘクターはトドメを刺すように言う。
「……というわけで、隊長の部下は全員一致で、髭を剃った方がいいっつう意見に落ち着いたんですが……いかがですか?ハロルド隊長?」
 その言葉にハロルドは大きな声で、
「……髭は剃らんっ!」
と叫んだ。
「え――?ハロルド隊長以外、全員、賛成だったんですよ」
「たかだか髭のことで、そこまで言いたい放題に言われて、はい、そうですかと素直に剃れると思うかっ!ヘクター!ここまできたら、男の意地だっ!」
「いや、その件については、隊長が剃るか剃らないか、仲間内で酒代を賭けてるんですよ……まぁ、俺は隊長が意地を張って、剃らない方に賭けてるんですけどね」
 ハハッ、と軽やかに笑う部下のヘクターに、ハロルドは思いっきり、腹の底から叫んだ。
「知るかっ!俺の髭のことなんて、どうでも良いから、お前たちは真面目に仕事しろ―――!」
 ハロルド=ヴァン=リークス。二十三歳。
 人望厚く、部下に慕われていると言えば聞こえが良いが、実際のところ、部下に遊ばれているのかもしれない男であった。

 ――この時、ハロルドはまだ知らなかった。
 この時すでに、五人目の哀れな犠牲者である花売りの少女が、化け物に食い殺されて、命を落としていることを。
 そして、これがただの始まりに過ぎず、自分が更に大きな運命の渦に巻き込まれていくことになるなど、今のハロルドは想像すらしていなかったのである……。


BACK NEXT TOP


Copyright(c) 2010 Mimori Asaha all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-