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二章 王女の秘密 9


 強欲な商人とその護衛であった男が、さんざんラーグに痛い目をみせられ、尻尾を巻いて逃げ出した後――
 セラとルーファスの二人はしばし、ラーグの住処で短い休息を取った後、急いでエドウィン公爵家の屋敷へと戻ることにした。
 夜明けまでに屋敷に戻らねば、屋敷の使用人たちに何処へ行っていたのかと、疑いの眼差しを向けられることだろう。それは、魔女だという秘密を抱えるセラは勿論、屋敷の主人であるルーファスにとっても、決して好ましいことではない。
 それをわかっているルーファスとセラは、ごくごく短い休息の後、ラーグの家を後にした。
 ラーグは家の前に立つと、公爵家の屋敷に戻る彼らを、ひらひらと手を振って見送る。
 もっとも、ラーグのそれは、セラのみに向けられたものであったのだが。
「それじゃ……気をつけて帰るんだよ。セラ」
 優しい声でそう言うと、ラーグはちょっと背伸びをして、セラの柔らかな亜麻色の髪を、わしゃわしゃと小さな手で撫でる。
 そうしている時の魔術師の瞳は、優しく、穏やかで、あたたかい。
 見た目と、実際の年齢が逆転しているのがなんだが、そこに目をつぶれば彼らの姿は、師弟というより……仲の良い姉弟のように見えた。
 そんな心温まる家族のような師弟の姿を、ルーファスは数歩離れた場所から、どこか冷めた、氷のような冷やかさえ感じるような目で見ていた。
「……ん。ありがとう。ラーグ」
 髪を撫でられる感触に、セラはくすぐったそうに翠の瞳も細めると、「ラーグも」と言った。
「ラーグも。最近、何かと物騒だから、気をつけてね……ラーグが強いのは知ってるけど、それでも心配だから」
 心配そうな目をする弟子の言葉を、師匠であるラーグは「大丈夫だって」と、明るく笑い飛ばした。
「大丈夫だって。僕のことはいーの。まったく……心配性だなぁ、君は。そんなことより、セラ……」
 そこでラーグは声をひそめて、セラにしか聞こえないような、小さな声で問う。
「――今日の呪いから、“鍵”は見つかったかい?」
 呪いから、“鍵”は見つかったかい?
 ラーグの問いかけに、セラはわずかに落胆したように目を伏せて、「……ううん」と小さく首を横に振った。
「……ううん。駄目だった」
「そっか……まぁ、仕方ないね。大丈夫。まだ少し時間はあるし、僕は古い文献とかあたってみるよ」
 駄目だったというセラの答えに、ラーグは「そっか」と軽くうなずくと、大丈夫だと励ますように言った。
 ラーグの気遣いを感じて、セラは伏せていた顔を上げると、小さく微笑んだ。
「ありがとう。それから、ごめんなさい……ラーグ」
「気にしないで。これは僕の罪なんだから、君が謝る必要なんて、何処にもないんだよ。セラ」
 ラーグは笑顔でそう言うと、再び背伸びをして、セラの亜麻色の頭をよしよしと撫でる。
 まるで幼子に対するような態度に、セラは「ラーグ……」とわずかに困ったように師の名を呼んで、恥ずかしそうに頬を赤らめた。
 外見上はどうあれ、ほのぼのとした微笑ましい、師匠と弟子の姿……。
 しかし、当人たちはともかくとしても、傍でそんなものを見せられてもルーファスは面白くも何ともなかった。
 むしろ、いつまで待たせる気かと、苛立ちばかりが募る。
 そんな状況で、じっと黙っているほどルーファスはお人好しでも、また温厚な性格でもなかったので、彼は「おい」とセラたちに声をかける。
「おい……いつまで人を待たせる気だ?帰る気はあるのか?」
 ルーファスの声に、セラより先に、ラーグが反応する。
 ラーグは琥珀色の瞳をルーファスに向けると、んべっ、と今にも舌を出しそうな可愛げのない表情で、「うるさいな」と言った。とはいえ、決して本気で怒っているわけではない。
 むしろ、その瞳の奥にはルーファスをからかおうとする意図が、ちらちらと見え隠れしている。
「うるさいな。可愛い弟子とのせっかくの逢瀬を邪魔しないで欲しいなぁ、公爵……なんていうか、いっくら見た目が良くてもさぁ、嫉妬深い男ほど、見苦しいものはないよ?ねぇ?セラ」
 あくまでも飄々としたラーグの態度に、ルーファスの不快感は増した。
 いくら相手が本気でないとわかっていても、苛立つものは苛立つ。
「誰が、嫉妬深い男だと……?さんざん人を待たせておいて、それか。魔術師という輩は、忌々しいほどによく回る舌のみならず、とことん礼儀知らずだと見える……否、むしろ、それは貴様だけの特徴か?ラーグとやら」
「それは、むしろ僕の台詞だよ。公爵……僕はこう見えても、三百二十歳……いや、三百二十二歳だっけ?とにかく、君より三百年は年上なんだからさぁ。年長者は、ちゃんと敬うべきだとか思わない?」
「敬う価値があるような、立派な年長者ならな。尊敬に値する価値があれば、きちんと敬ってやるさ」
 いつ終わるとも知れぬ、ひどく不毛な嫌味の応酬。
 彼らの間に挟まれたセラは、うわぁ……と頭を抱えながら、自分がこの場を納めなければという使命感ゆえに、無謀にもルーファスとラーグの間に割って入った。
「はいはい。二人共、そこまで!ルーファスもラーグも、いくら気が合うっていったって、なにも喧嘩までしなくても良いのに」
 セラの言葉に、ルーファスもラーグも同時に、顔をしかめる。
「僕らが……気が合う?」
「ありえん」
 ラーグが首をかしげれば、ルーファスがきっぱりと否定する。
 そうなの?と、セラが意外そうな顔をした。
「あれ、そうなの?ある意味、息が合っているように、あたしの目には見えたんだけれどなぁ……」
「似ているだって……万が一、そう見えたのなら、めちゃくちゃ不本意だね」
 ラーグがセラの言葉を全力で否定すると、
「たとえ目の錯覚だとしても、とてつもなく不本意だな。どこが似ているというんだ?」
と、ルーファスも渋い顔で言う。
 ある意味の息の合いっぷりに、セラは苦笑を浮かべた。
「そういうところが、似てると思うんだけどなぁ……根は親切なのに、素直じゃないところとか、嫌味を言う時の饒舌さとか、頭の回転が速いところか、あたしは似てると思うけど」
 喧嘩の仲裁というよりも、ただ素直に思ったことを言っているだけに見えるセラに、嫌味の応酬をしていた男二人は毒気を抜かれ、ルーファスとラーグは揃ってため息をつくと、はぁ……と額を押さえた。
「……もういい。屋敷に戻る。貴女もだ。セラ」
「あっ、うん。ちょっと待ってよ。ルーファス」
 もはや、真面目に反論するのも馬鹿馬鹿しくなったルーファスはそう言うと、エドウィン公爵家の屋敷に戻るべく、足早に歩きだした。
 そんな彼の背中を、半歩、遅れてセラが追いかける。
「ちょっと待ちなよ。公爵」
 ルーファスが歩き去ろうとした瞬間、ラーグは「公爵」と呼びかけると、たたたっと彼の方に歩み寄った。
「……何だ?魔術師」
「言いたいことがあるから、ちょっと耳を貸してよ。ほら……」
 嫌そうな顔をするルーファスに、ラーグは笑顔で要求すると、子供と大人の体格差を埋めるべく、無理やりに膝を折らせた。
 そうして、ラーグはルーファスの耳元に唇を寄せると、彼にしか聞こえない小さな声で、ささやく。
「信じる信じないは、君の自由だけど……ひとつ、忠告してあげるよ。公爵。もし、君が平穏で幸せな人生を送りたいのなら、あの娘――セラには深入りしないことだ……破滅したくなければ、そうした方がいい。これは、僕の親切心からの忠告だよ」
 あの娘には……セラには深入りするな。破滅したくなければ。
 意味深かつ、どこか不吉な響きを持つ言葉の数々に、ルーファスは眉を寄せた。……正直、全く意味がわからないが、冗談を言っている風ではない。
「それは……」
 どういう意味か、とルーファスが問いかけようとした瞬間、ラーグはパッと素早く、彼のそばから離れた。どうやら、これ以上、話す気はないということらしい。
 言うべきことは言ったという風に、ラーグは「じゃあ、気をつけてね。セラ」と、セラの方にだけ声をかけると、さっさと自分の家の方へ戻っていった。
「……」
 己の言いたいことだけ、一方的に言い捨てて、さっさと去って行った魔術師に、ルーファスは文句のひとつも言ってやりたかったが、その機会を逃してしまい、心中で舌打ちする。
「どうかしたの?ルーファス」
 首かしげて、そう尋ねてきたセラに、ルーファスは首を横に振る。
「いや……何でもない」
 首を横に振ると、ルーファスは一度だけ、ラーグの歩いて行った方を振り返った。
 蒼い瞳が鋭く、まるで射抜くように、魔術師の背中を見る。
「……」
 そして、彼は再び前を向くと、もう二度と後ろを振り返ることはなかった。
「でもね……」
 家の扉の前で、遠ざかっていくルーファスとセラの背中を見つめながら、誰に語りかけるでもなく、ラーグは――金色と評される魔術師は、静かに呟いた。
 その呟きが、誰の耳にも届かないことを承知のうえで。
「――たとえ、全てが偽りだとしても、あの娘には……セラには、どうか幸せであって欲しいんだよ」
 僕の罪の分まで、という言葉は、声にはならなかった。
 ラーグのそれは、ささやかで、だけど、決して叶わないであろう願い。
 魔術師のそれは、祈りではない。ただの願い。祈りなど、届かないと知っている。絶望の果てを見た者は、神になど祈らないし、祈れない。救いなど、決して訪れないと知っているから……。
 それでも、もしも、諦めてしまった願いが叶うならば、どうか――
 どうか――
 闇夜に浮かぶ銀の月を、その琥珀色の瞳で見つめながら、ラーグは願った。


 細い銀の月に照らされた夜道を、セラとルーファスの二人は並んで歩く。
 無駄のない足取りで、さっさと歩くルーファスの後ろを、男女の歩幅と体格の違いか半歩ほど遅れて、セラがゆったりとした足取りでついて行く。
 彼らの間に、自然な会話はない。
 その代わりに、何処か夜の闇にも似た、静かな沈黙だけがある。
 カツカツという二人分の靴音だけが、まるで会話の代わりであるかのように、月光に照らされた夜道に響いていた。
「……セラ。なぜ、あの男を助けた?」
 いつまでも続くかに思えた、そんな穏やかな沈黙を崩したのは、ルーファスの一言だった。
 同時に、歩幅を緩めて、彼は立ち止まる。
 それにつられたように、彼の横を歩いていたセラも、歩みを止める。
「……え?」
 ルーファスの言葉に、セラは話しかけられるとは思っていなかったのか、驚いたように顔を上げた。
 そして、戸惑うような、きょとんとした顔を彼に向ける。
 闇の中にあっても、あざやかな色をたたえた翠の瞳が、ルーファスを見つめていた。
「……何のこと?ルーファス」
 問いかけの意味がわからないという風に、セラは軽く首をかしげた。
 その何気ないセラの仕草に、なぜかルーファスは言いようのない、かすかな苛立ちを覚えた。
 ついさっき、呪いから助けてやったはずの男に、恩を仇で返され、襲われたばかりなのに、セラが怒るでも怯えるでもなく、平然としているのが不思議だった。かといって、虚勢を張っている風でもない。
 少女の翠の瞳は、まるで凪いだ海のように、どこまでも穏やかだ。
 ……理解できない。
 恩を仇で返されたのに、助けたことを後悔する様子を見せないセラも、そんな彼女の態度に苛立つ自分の心も、ルーファスには理解しがたいものだった。
 ……理解できない。理解しようと、したいとすら思えない。
 彼女の何が具体的に気に障ったのか、彼自身、よくわからない。あえて言うなら、その問いかけの意味すら理解しないセラの態度が、癇に障ったのかもしれなかった。
 勿論、そんな子供じみた、理由のない苛立ちを直接セラにぶつけるほど、ルーファスは大人気ないわけでも、また身勝手なわけでもない。だから、彼はふぅと息を吐くと、自分よりも頭ひとつ分は低いセラを見下ろしながら、あえて静かな声で続けた。
 どうして、あの強欲な商人の男――ギルアム=ローデルを、助けたのか?と。
 貴女が救う価値があるような、善良な男ではなかっただろう?と。
「――なぜ、貴女はあの男を助けたんだ?セラ……あの強欲な商人の男……貴女に助けられながら、自分の呪いが解けたら、さっさ貴女を消そうとした。あの恩知らずで、おまけに強欲な男のことだ……貴女はどうして、あの男を助けたんだ?もしも、俺が納得できるような、ご立派な理由があるならば、教えて欲しいものだな」
 口調こそ、静かで穏やかでありながら、逃げを許さない、鋭い刃のような言葉をセラに突きつけると、ルーファスはさらに「あんなのでも、王宮にも出入りしていた商人だ。貴女だって、あの男の下劣な悪評ぐらいは、耳にしていたはずだろう?」と続けた。
「……うん。詳しくはなかったけどね。少しは知っていたよ」
 ルーファスの言葉を否定せず、セラは「うん」と小さく首を縦に振る。
 それは、嘘ではない。
 セラは知っていた。
 黄金の呪いを受けた商人が、ひどく残忍な商売のやり口で、大勢の人の恨みを買っていることも、また、あの商人のせいで不幸になった人々が沢山いるであろうことも……全部、知っていた。
 あの商人の男を助けることで、おそらく喜ぶ人々よりも、悲しむ人々の数が多いであろうことも。
 それでも――
「……それなら、どうして助けたんだ?セラ。貴女が救う価値のある男じゃなかっただろう」
 恩を仇で返されて、後悔はないのかと問うルーファスに、セラは淡く、今にも消え入りそうな微笑みを浮かべた。
 そうして、彼の名を呼ぶ。
 柔らかで透明で、だが、なぜか抗い難い響きを持つ声で――
「ねぇ、ルーファス……」
「……何だ?」
 その先を聞いたことを、ルーファスは後悔する。
 ……聞きたくなどなかった。
 セラの、この少女の甘く、どこまでも偽善的な綺麗事など。
「――貴方は、助けてって人に言われた時に、いちいち相手に救う価値があるかどうか考えるの?」
 その声に、責めるような、咎めるような響きはなかった。
 ルーファスは、予感がした。おそらく、ここで自分がどう答えても、セラはそれを否定せず、受け入れるであろう予感が。
 相手を拒まず、受け入れる。
 それを優しさという者も、いるだろう。だが、彼はそうは思わなかった。はっきり言って、少女らしい潔癖さゆえの、甘く、拙い、綺麗事だとしか感じられない。
 ――偽善にも似たそれに、何の価値がある?
 そんな複雑な感情からか、自然と問いかけに対する答えも、少々皮肉の交じったものになった。
「では、貴女は考えないというのか?セラ。どんな人間でも、助けを求めてくれば助けると?ご立派な考えだな。俺には、とても真似できない……魔女なのに、聖人にでもなるつもりか?」
 聖人でも気取っているのか、というルーファスの言葉に、セラは何処か儚げに微笑みながら、そんなんじゃない、と首を横に振る。
「貴方が、どう考えるかは自由だけど、そんなんじゃないよ……あたしは、そんな綺麗な人間じゃない。あたしは、ただ……自分が救われたいだけなんだから」
 そう言うと、セラは翠の瞳を伏せ、そっと目を閉じた。
 聖人なんて、とんでもない。
 自分が綺麗な人間でも、また優しい人間でも、善良な人間でもないことは、他でもないセラ自身が、最もよくわかっている。
 むしろ、そんな清らかさからはかけ離れた、醜く、汚れた、誰よりも罪深い存在だ。
 自分の背負った罪は、たとえ神さまに祈ったところで、償い切れないだろうと、セラは思う。
 今だって、ほら……目を閉じれば、過去に犯した罪が頭をよぎる。
 聞こえるはずのない断罪の声が、胸の奥を震わせる。
 たとえ、耳をふさいでも、決して途絶えることのない、断罪の声が。
 ――お前が、あの人を殺した。
 ――優しかったあの人を、お前が死なせた。
 ――お前のせいで、皆、不幸になった。
 ――お前さえいなければ、皆、きっと幸せになれたのに。
 ――お前さえいなければ……
 ――お前さえいなければっ!
 心に響く断罪の声に、セラはぎゅっと強く目をつぶった。
 ……聞きたくない。耳をふさいでしまいたい。でも、そうしたところで、決して逃れることなど出来ないと、彼女は知っている。現実の声から逃れることは可能でも、己の心から過去から、逃げることなど無理なのだから。
 胸をしめつける、鎖のような感情。
 その胸の痛みに耐えかねて、セラは無意識のうちに、手のひらに爪を立てた。きつく、きつく……。
 現実の痛みが、心の痛みを忘れさせてくれることを、密かに願いながら。
「……どうした?」
 急に黙りこんだセラに、ルーファスは怪訝そうに尋ねる。
「あ……何でもない。ごめんなさい」
 彼の声に、セラはハッと我に返ると、弾かれたように伏せていた顔を上げる。
 何でもない、と首を横に振った彼女だったが、ルーファスは怪訝そうな表情を崩さなかった。
 そして、彼はセラの右手の甲に目を止めると、蒼い瞳を細めて「血が……」という。
「血が……右手の甲のところ、少し血が出ているな」
「え?……ああ、そうだね」
 ルーファスの「血が出ている」という言葉に、セラは驚きながら、己の右手を見る。
 ……右手の甲に、血がついていた。
 今まで怪我をしていることに、気づいていなかった。痛みをあまりというか、ほとんど感じていなかったからだ。
 でも、たしかに右手の甲には小さな傷があり、そこから赤い血がにじんでいる。
 さっき商人の護衛に襲われた時に、何かの拍子で、こんな風に傷つけてしまったのかもしれないな……と、セラは思った。とはいえ、別に深刻な怪我でもない。かすり傷だ。
 痛みもほとんど感じない。
 何せ言われるまで、怪我をしていることすら気がつかなかったぐらいだし、まぁ大丈夫だろうと結論づけると、セラは「かすり傷だよ」と言った。
「怪我ってほどじゃない。ただのかすり傷だよ。あんま痛くないし……これぐらいなら、舐めておいても治るんじゃない?」
 あっけらかんとそう言ったセラに、ルーファスは何とも言えず不満なような不快なような、渋い顔をした。
「舐めておけば治る?……若い女の台詞とは思えんな」
「……ルーファス?」
 何か、彼を不快にさせるようなことをしただろうか?
 渋い顔をするルーファスを見て、身に覚えのないセラは、不思議そうに首をかしげた。
 そんなセラに、ルーファスはますます眉間のしわを深めたが、結局、何も言うことはなかった。
 無自覚な人間に、何を言っても無駄なことだ。
 その代わりに、はぁと息を吐くと、白い絹のハンカチを取り出して言う。
「右手を……」
「え?」
「怪我をした方の手だ。これを巻いておけ。包帯代わりだ。……気休めだが、無いよりはマシだろう」
 そう喋りながら、ルーファスは意外なほど丁寧な手つきで、セラの怪我をした方の手に、包帯の代わりだというように、しゅるりと絹のハンカチを結んだ。
 割と器用な性質なのか、その手つきには危なげがない。
 セラはハンカチを結ぶ彼の手を、まるで意外なものを見るように見つめていたが、結び終わったルーファスの手が離れると、にこっと柔らかく微笑んだ。
「ありがとう……ルーファスは、良い人だね」
 そのセラの言葉に、ルーファスは嫌そうに顔をしかめる。
 媚を売るでもない、真っ直ぐな目や言葉を向けられるのは、なんというか居心地が悪い。
「貴女は、記憶力というものが欠落しているのか?セラ……いい加減、俺のことを優しいとか良い人とか、言うのは止めてもらおう。正直、嫌味としか思えん」
「嫌味だなんて……あたしは、そんなつもりはないよ」
 どこまでも捻くれた、素直でないルーファスの態度に、セラは苦笑を浮かべる。
「前にも同じようなことを言った気がするが……氷と呼ばれる俺の悪評を知っていて、そんな妙なことを言うのは、貴女ぐらいのものだ」
「そうかなぁ?」
 呆れたように言うルーファスに、セラは「そうかなぁ?」と首をかしげつつ、怪我をしていない方の手を、彼へと伸ばした。
 そうして、ハンカチを結んだ青年の手に、そっと、一瞬だけふれた。
 唐突なセラの行動に、ルーファスは眉を寄せる。
 不快ではないが、不可解だった。
「……何をしている?」
 その問いかけに、セラはへらっと笑いながら答えた。
「ん―?氷って言われるぐらいだから、手も冷たいのかなぁと。でも、違うね。ちゃんと体温があるし、あたたかいよ」
「……当たり前だろう。生きているんだ」
 人を死人みたいに言うな、と彼は思う。
「あははっ。そうだよね」
「……貴女は、何をしたいんだ?」
 屈託無く笑う少女の本心が、ルーファスには読めない。
「いや、氷の公爵って呼ばれているくらいだから、手も氷みたいに冷たいのかと思って……でも、違ったね。ちゃんと熱があって、あたたかい」
「……下らん」
 わかったような、わからないような理由を口にするセラを、ルーファスは下らないと切り捨てた。
 手があたたかいからといって、それが何なのだと思う。
 そんな彼に向かって、セラは「ルーファス」と呼びかけた。
 穏やかで柔らかで、どこまでも透明な声で。
「ねぇ、ルーファス……貴方は、氷なんかじゃないよ。ちゃんと生きている熱があって、人にあたたかさを与えられる。冷たくなんかないよ……あたしは、そう思う」
 真っ直ぐに自分に向けられる翠の瞳と言葉を、ルーファスはどこか異質なものとして、受け止めた。
 こんな目は知らない。
 こんな言葉は知らない。
 優しくも残酷に、心に踏み込んでくる言葉は。
「貴女は……妙なことばかり言うな」
 ひどく変わった女だと、亜麻色の髪に翠の瞳の少女を見つめながら、ルーファスは思う。
 自分たちは所詮、政略結婚で結ばれた夫婦だ。
 愛情などあるはずもないし、そんなものを必要ともしていない。少なくても、彼はそう思っていた。
 妻であるセラにしても、自分に対して好意的であっても、夫婦らしい愛情を抱いているわけではないのは、ルーファスにはわかっていた。短い期間とはいえ、共に過ごしていれば、それぐらいは察せられる。
 ――セラは決して、ルーファスを特別だと思っているわけではない。
 それなのに、なぜ、真っ直ぐな言葉を視線を、自分に向けてくるのか、ルーファスには全く理解できなかった。
 今は亡き母も、心を病んでしまった父も、ただの一度として、自分を正面から見ようとしなかったというのに……。
「そうかなぁ?そんなに妙なことを言っている自覚はないんだけど……」
 納得いかないといった顔をするセラに、ルーファスは無自覚かと呆れ、「もういい」と首を横に振った。
「もういい……さっさと屋敷に戻るぞ。その右手も、屋敷に戻ったら、俺の従者のミカエルあたりに手当てをしてもらうんだな……軽い傷でも、化膿したら厄介だ」
 そう言うと、ルーファスは再び、屋敷への道のりを歩き出した。
 心なしか、その歩みは、先ほどよりも少し緩やかだ。
「あ、うん。そうするね」
 ルーファスの言葉に、セラはうなずくと、彼の後に続いた。
 その右手には、先ほど結ばれたばかりの、白い絹のハンカチが揺れている。
「……」
 セラはふっと顔を上げると、前を歩く自分よりも頭ひとつ分は背の高い、ルーファスの広い背中を見つめた。
 そうして、その背中に向かって、心の中で語りかける。
 決して、直接、告げることの出来ない言葉を――
 ねぇ、ルーファス……もしも、貴方があたしの罪を知ったなら、貴方はあたしのことを嫌うでしょう。
 憎むでしょう。
 あたしのことを、誰よりも醜い女だと蔑むでしょう……。
 ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい。
 あたしはきっと、いつか貴方を傷つけてしまう。
 裏切ってしまう。
 許しは乞わない。
 恨んで、憎んでくれていい。
 ただ、もし叶うならば、いつしか諦めてしまった祈りが届くならば、どうか――
「……」
 どうか、その日が少しでも遠いものでありますようにと、セラは祈った。

 かくして、彼らの長い夜は終わる。


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