BACK NEXT TOP


二章 王女の秘密 2


 王宮の門前に到着すると、ルーファスは従者のミカエルを伴って、公爵家の馬車から降りた。
 厳めしい顔つきの屈強な衛兵が守る門を通り、庭師たちが丹誠こめて整えた美しい庭を横目に見ながら、ルーファスとミカエルは王宮の内部へと足を踏み入れる。
 豪華絢爛たるエスティアの中心であり、また胸に一物を抱えた貴族たちの権謀術数が尽きることのない……この国の光と闇が交差する、伏魔殿でもある場所へと。
「……お待ちしておりました。エドウィン公爵」
 ルーファスとミカエルが王宮の中に入ると、事前に彼らの訪れを知らされていたのか、案内役の若い女官がそう言って、王宮の女官に相応しい洗練された優美な動作で一礼した。
 黒髪に鳶色の瞳の、艶やかな美女だ。
 その女官は微笑むと、ちらりとルーファスに意味ありげな視線を向ける。
 しかし、彼は何事もなかったかのように冷ややかな表情で、それを無視する。
 女官はそんな素っ気ない態度に落胆しただろうが、実に賢明なことに、それを表面に出すような真似はしなかった。
 こちらも表情ひとつ変えず黒髪の女官は、
「あちらで王太子殿下がお待ちです。ご案内いたします」
と言って、ルーファスやミカエルを先導するために、先に立って大理石の回廊の方へと歩きだした。
 王宮の内部は、大陸でも五指に入る大国・エスティアの権勢を示すように、そのあたり柱一本とっても惜しみなく財がかけられている。
 建築の際には、当代一流の職人や芸術家をエスティアの国内のみならず、他国からも呼び寄せたというのだから、その尋常でない力の入れようが知れようというものだ。その華麗さ、また広さについては、今さら語るまでもない。
 おまけに歴代の国王たちが、己の都合に合わせて部屋の増改築を行ったゆえに、王宮の内部はとんでもなく広いだけでなく、まるで迷路のような造りになってしまっている。唯一の救いと言えるのは、歴代の国王たちが悪趣味ではなく、ある程度はまともな審美眼を持っていたことだろう。
 おかげで、無造作に増改築を繰り返していたとしても、ごちゃごちゃと飾りたてた醜悪な印象は受けず、その麗しさは損なわれていない。
 もっとも、そんな王宮の華やかさがルーファスの心に響いたことは、今までただの一度もなかった。
 (……下らんな。ここに金を費やすなら、もっと他に使うべきところがあるだろうに)
 埃ひとつなく、輝くほどに磨き上げられた長い大理石の回廊を歩みながら、ルーファスはそんなことを思った。
 そうして、案内役の黒髪の女官の後について、長い長い回廊を歩んでいたルーファスとミカエルの主従だったが、回廊の突きあたりにある重厚な“扉”を目にしたことで、その足を止める。
 その扉には、精緻な細工で、交差する剣と白百合――エスティア王家の紋章が刻まれている。
 交差する剣は建国の祖・英雄王オーウェンを、白百合は彼の王妃であるレイミアを表していると伝わる紋章を前にして、案内役の女官もルーファスらと同じく足を止めた。
 扉の先は王宮の中でも、国王や妃、その子女たちのような王族が暮らす場所であり、貴族の中でも王の許可を得た者しか立ち入ることが許されぬ、特別な場所である。
 その扉の前で足を止めた女官は、黒髪を揺らして振り返ると、
「従者の方は、こちらの扉の前でお待ちください。この先は国王陛下より許しをいただいた者しか、進むことが出来ませんので」
と、ミカエルに言った。
 女官の言葉に、ミカエルはわかりましたと、首を縦に振る。
 平民で従者である彼は、当然ながら、主人と共に扉の先に進むことは叶わない。
 ミカエルは扉の前から一歩、後ろに下がると、主人であるルーファスに言った。
「旦那様。僕はこの場所で、旦那様のお戻りを待っていますので……」
 ルーファスは「ああ」とうなずいて、従者の少年に背を向けると、先に立つ黒髪の女官と共に扉を通り、その先へと進んでいった。

 紋章の扉の先は、また長く広々とした回廊が続いていた。
 王宮の内部は、どこも華麗な装飾で飾られているが、扉の先――王族たちが暮らす場所は、壁や柱に至るまでも金細工や宝石の類が惜しみなく使われていて、他の場所よりも更に贅が尽くされている。
 そうして、しばらく回廊を歩いていると、ある扉の前で女官は立ち止まった。
 彼女が立ち止まったのを見て、ルーファスも足を止める。
 その扉に描かれているのは、交差する剣と双頭の獅子――双頭の獅子は、代々、エスティアの王太子のみが使うことを許された意匠であり、この扉が王太子の自室であることを示している。
 王太子の部屋の扉の前に立った女官は、スッと姿勢を正すと、中に向かって控えめに呼びかけた。
「アレン殿下。エドウィン公爵をお連れいたしました」
 そう呼びかけた直後に、部屋の中から「入れ」という男の声が返ってくる。
 女官が扉を開けて、ルーファスは部屋の中に入った。
「――よく来てくれたな。ルーファス。こうして会うのは、数ヶ月ぶりか?」
 部屋の中央の椅子に座っていた青年が、そう言いながら立ち上がった。
 年は、ルーファスより二、三歳下といったところだろうか。
 見るからに、高貴な雰囲気の青年だった。
 黄金の髪に、亡き王妃似の端正で気品のある顔立ち。
 やや細身だが、身長は高い。
 母似の優しげな顔立ちでありながら、軟弱な感じを受けないのは、その蒼灰色の瞳が、強い意志と英知の光を宿しているからだろう。
 青年の名は、アレン。
 文武両道かつ、温厚で思慮深い性格として知られる、エスティアの王太子である。
 そして、ルーファスにとっては唯一人の心から主君と仰ぐ人であり、また友人とも呼べる相手であった。
「お久しぶりでございます。アレン殿下。お待たせして申し訳ございません。殿下におかれまして、ご機嫌うるわしく……」
「ああ、長い口上はいい。それよりも、こっちに来て座れ。ルーファス。ちょうど今、女官が茶を持ってきてくれたところだ」
 王族に対する礼儀として、ご機嫌うかがいをしようとしたルーファスの言葉を、王太子は――アレンは気さくな笑顔で遮った。
 自室のような私的な空間では、堅苦しい挨拶を好まないと言うことらしい。
 この方らしいと思いながら、ルーファスはその言葉に従って、アレンのそばへと歩み寄った。
「結婚したばかりなのに、こうして王宮まで呼び出してすまなかったな」
 王太子の言葉に、ルーファスは「いいえ」と首を横に振る。
 実際、結婚したといっても、セラとは形ばかりの夫婦であり、気を使われるようなことは何もなかった。――もっとも、それを王太子に告げる気は、彼には微塵もなかったが。
「いいえ。結婚したといっても、忙しいのは使用人だけですから……そのように、お気遣いいだくには及びません。アレン殿下」
「そうか?それならば良かった。まぁ、座れ。ルーファス……今日は、弟も、セシルもいるんだ」
 椅子に座ったルーファスは、そのアレンの言葉で初めて、王太子の後ろに隠れた小さな影に気づいた。
「セシル」
 アレンの呼びかけで、兄の後ろに隠れていた小柄な少年――セシルが、おずおずとルーファスに顔を見せた。
 薄茶の髪に、砂色の瞳。
 十二歳という年齢の割には背が低く、日に焼けたことのないような白い肌と、痩せた体つきはやや軟弱に見えた。
 気弱そうな顔立ちは、兄であるアレンとは余り似ていない。異母兄弟で、それぞれ母親が違うのだから、それも当然のことかもしれないが。
 今は亡き王妃を母に持つアレンとは違い、弟であるセシルは側室の生んだ王子だ。
 ちなみに、セシルの母親は宰相ラザールの娘であり、その息子であるセシルは宰相の孫にあたる。
 しかし、血を分けた実の孫でありながら、セシルは宰相には全く似ていなかった。その容姿も、また性格も……。
 セシルは兄の後ろから、ちょこんと顔だけ出すと、
「あ……こんにちは。エドウィン公爵」
と小さな声で言った。
「お久しぶりでございます。セシル殿下。お元気で過ごしていらっしゃいましたか?」
「……う、うん」
 ルーファスの問いかけに、セシルは小さくうなずくと、再び隠れるように兄の――アレンの後ろに下がってしまう。
 別に、これはルーファスが嫌いだからというわけではない。
 尋常でないほど引っ込み自案で気弱な、セシルの性格上、仕方のないことだった。
 (相変わらずだな。セシル殿下は……あの宰相の、老狐の孫とは思えん)
 兄の後ろに隠れてしまったセシルの姿を見て、ルーファスはそんなことを思う。
 善良で素直だが、どこまでも気弱なセシルと、国王陛下の病につけ込み国政を牛耳る宰相が、血の繋がった祖父と孫だとは、彼ならずとも信じ難いことだった。
「それで……」
 アレンは自分の後ろに隠れてしまった異母弟にも、呆れた様子を見せることなく、ぽんぽんと優しく頭を撫でてやると、「それで……」とルーファスの方に向き直った。
「それで、結婚生活の方はどうだ?ルーファス。セラフィーネは……異母妹は、元気にしているか?」
「……はい」
 アレンの問いかけに、しばし迷った後、ルーファスはうなずく。
 元気にしているというのは嘘ではないが、結婚してからの様々な出来事をどう説明して良いものか、彼にはわからなかったからだ。
 おそらく、王太子はセラフィーネ王女が《解呪の魔女》などと名乗り、貧民街に出入りしていることなど、全く知らないどころか想像すらしないだろう。
 もし、そのことを知っていたとしたら、王太子の性格上、ルーファスに何も言わないということはない。
 何も知らないからこそ、「異母妹は元気か?」などと尋ねてくるのだ。
 そして、そんな何も知らないアレンに真実を告げることなど、出来ようはずもなかった。
「そうか。元気に過ごしているなら、良かった。正直、セラフィーネとは異母妹ということで余り交流がないんだが、半分とはいえ血の繋がった妹には幸せになって欲しいからな」
 アレンは曇りのない笑顔でそう言うと、自分の後ろにいる異母弟・セシルにも、優しい眼差しを向ける。
 たとえ母親が違っても、兄弟を想う彼の気持ちに揺るぎはないようだった。
「勿体のないお言葉です。王女様……妻にも、アレン殿下のお言葉を伝えさせていただきます」
「ああ。異母妹によろしく」
 アレンはそう言うと、「さて、それでは、そろそろ本題に入るか?ルーファス」と続けて、表情を引き締める。
 その凛とした表情は、今まで見せていた兄としての顔ではなく、一国の将来を担う王太子としての顔だった。
「はっ」
 ルーファスは首を縦に振ると、王太子の依頼で調べ上げた王都の平民の現状についてまとめた書類を、アレンに渡した。
 アレンはルーファスの手から書類を受け取ると、その隅から隅まで丁寧に目を通す。一文字たりとも見過ごさないよう、慎重に、慎重に……。己の判断が、民の生活を左右する重みを、王太子はよく知っていた。
 アレンがルーファスに、平民の生活の様子を調べで報告するように頼んだのは、これが初めてというわげではない。
 王太子が十四歳になった年からの、これは習慣だった。
「……特に、前に調べた時と、民の生活に変わりはないようだな。ただ、貧民街の住人たちを、何とか飢えないようにしてやりたいが……それは口で言うほど、簡単ではないだろうな」
 書類に目を通し終えたアレンが言う。
「ええ。ですが、いずれ何とかしなくてはいけない問題でしょう。アレン殿下」
 ルーファスの言葉に、王太子である青年はわかっているという風に、うなずく。
「わかっているさ。私は国の暗い部分に、目をつぶるつもりはない。だが……」
 力強く言い切った青年は、だが……と続けて、やや表情に影を落とす。
「だが……肝心の国王である父上がな……ああも、自分の殻に閉じこもったままでは」
「アレン殿下……」
 王太子の心境を推し量り、ルーファスは沈黙した。
 エスティアの国王・オズワルト――王太子アレン、王子セシル、そして、セラフィーネの父である彼が、ここ数年に渡り精神と肉体の均衡を崩し、それゆえに宰相ラザールが国政を私物化しているのは、この国の中枢にいる者ならば誰もが知っている。
 そんな現状に、次代の国王であるアレンが頭を痛めるのは、当たり前のことだった。
 しかし、それでもアレンは異母弟の、セシルの前では祖父である宰相が悪いとは絶対に言わない。
 それは、兄としての彼の愛情だった。
「父上が……」
 アレンが何か言おうとした、その時――
「……アレン殿下。お部屋に、いらっしゃいますかな?」
 扉の外側から、今、ルーファスが一番、聞きたくなかった声がした。
 宰相ラザールの声だ。
 アレンも同じ気持ちだったに違いないが、彼は律儀にも、宰相の問いかけに返事をする。
「宰相か?……何かあったのか?」
「いえいえ。大したことではないのですが、少しセシル殿下に用事がありましてな。アレン殿下のところにいると、女官から聞いたもので……セシル殿下は?」
「……ああ。セシルなら、ここにいるが」
 宰相の問いかけに、アレンがうなずいた瞬間、彼の後ろにいたセシルがびくっと身を震わせた。
 その砂色の瞳は、怯えの色が濃い。
 実の祖父とはいっても、セシルにとって宰相は、慕う相手ではないらしい。
「急ぎの用事でしてな。セシル殿下。すぐに出ていらして下さい」
 少し扉を開けると、宰相はわずかな隙間から、顔をのぞかせて言った。
 床まで届く白髪と、灰色の瞳をした年齢不詳の老宰相は、アレンの後ろに隠れたセシルを見つけて呼びかける。
 セシルは怯えたように異母兄の袖を掴むが、「……セシル」と兄が背中を押したことで、のろのろとした足取りで、祖父でもある宰相の方へと歩き出した。
 それから一刻ほどで、ルーファスもまた王太子の自室を辞した。


 アレン殿下――王太子と別れて、ルーファスが部屋から出ると、扉の前で案内役だった黒髪の女官が待っていた。
 彼女は鳶色の瞳に、ルーファスの姿を映すと、互いの息がかかりそうな距離まで近づいてくる。
 そうして、女官は艶めいた微笑みを浮かべて言った。
「お話はもうお済みになったの?エドウィン公爵……いいえ、それとも昔のようにルーファスと呼んだ方が、良いかしら?」
 ルーファス、と彼の名を口にする女官の声は、どこか甘い響きを持っていたが、公爵がそれに心を動かされることはなかった。
 むしろ、わずらわしいとさえ感じる。
 氷のようと評される蒼い瞳で、ルーファスは女を睨んだ。
「悪いが、名前で呼ぶのは、遠慮してもらおう。俺は貴女の恋人でも、友でもない」
 冷徹とも言える言葉に、女官は「ふぅ……」と、ため息をつく。
「……相変わらず、つれないことね。幾度も夜を共にした仲なのに。それとも、大勢の恋人がいたから、もう私のことなど忘れてしまった?」
「それは、お互い様だろう。お互いに、割り切った関係だったはずだ。貴女だって、そう言っていたと記憶しているが?」
 女官の甘えを、ルーファスはバッサリと切り捨てる。
 たしかに、女官の言うことは嘘ではない。
 二年ほど前に、この女官の方から声をかけてきて、何度か関係を持ったことがあった。女官は華やかな美人だったし、ルーファスとしては別段、断るほどの理由もなかったからだ。しかし、だからといって恋人だったのかと問われれば、答えは「否」である。幾度か夜を共にしようとも、彼が女官に愛など囁いたことは、ただの一度としてなかったし、女官の方もただの遊びだと割り切っていたように思う。
 結局のところ、お互い様だったのだろう。
 全く愛情が無かった証拠に、ルーファスは今や、この黒髪の女官の名前すら思い出せない……。
「本当に……相変わらず、冷たい人ね。氷の公爵の異名も、伊達ではないのかしら?心臓まで、氷で出来ているかのよう……もっとも、貴方のそんなところが、女を惹きつけるのでしょうけど……」
 嘆くような言葉とは裏腹に、艶めいた微笑みを浮かべ続ける女官の言葉を、ルーファスは途中で遮った。
 ――氷のように、冷たい男。心臓まで、氷で出来ているよう……。
 そんな言葉は今まで言われ過ぎていて、今更、何の感情も抱けない。怒りも悲しみも、ましてや傷つくことなどあるはずもない。事実だと思えばこそ、反論しようとすら思わないのだから。
「俺の心臓が、氷で出来ていると?わざわざ、そんなことを言いたかったのか?貴女は」
「いいえ。違うわ……」
 女官は首を横に振ると、ルーファスの腕にするりと己の腕を絡めて、柱の陰へと引っ張った。
 そうして、女官は彼の首に両手を回し、昔のように身を寄せて言う。
「――結婚のお祝いを、言おうと思って。貴女が、セラフィーネ王女様の夫になるとは思わなかったわ」
 女の口から出た、結婚の祝い、という言葉に、ルーファスはわずかに眉根を寄せる。
「……嫌味か?」
 ルーファスの問いかけに、女官はクスクスと軽やかに笑う。
「そんなことないわ。妾腹とはいえ王女様が降嫁されるなんて、エドウィン公爵家にとっては、悪い話ではないでしょう?でも……」
「でも?」
 女官の美しく整った顔が、他者を蔑むように歪んだ。
 そして、それはルーファスに対するものではないようだった。
 女は赤い紅を差した唇を開いて、残酷な言葉を吐く。
「――男としては、貴女に同情するわ。ルーファス。あんな王女という生まれ以外、何の美しさも、才能もない娘を妻にして……退屈でしょう?」
 女官の言葉は更に続いた。
 あんな平凡な娘、貴方には相応しくないわ。そう続けられた言葉に、ルーファスは冷笑する。
 まったく……女という生き物は、救い難い。花のようにたおやかな外見をしていても、裏には他者を蔑むための牙を隠し持っている。女の悪口というのは、時折、信じがたいほどに醜悪なものだ。もっとも、そんな女の色香にわされる男も、同じかそれ以上に愚かなのだろうが……。
「……」
 ルーファスが反論しないことに、気を良くしたのか、女の口はさらに滑らかに動いた。
 彼の耳元に唇を寄せて、囁く。
「それに、私は知っているのよ。女官長から聞いたの。あの王女が……」
「……何をだ?」
「――十三歳になるまで、王女と認められず、国王陛下にお会いしたこともなかったそうよ。こう言ってはなんだけど……本当に、国王陛下の御子かどうかも、疑わしいものだわ。どこかの卑しい男の種かもしれない」
 ルーファスは、無言だった。
 女官が唇を寄せてきても、何の反応もしない。
 それを不審に思った女が顔を上げると、氷のような蒼い瞳と目が合う。
「ルーファス……?」
 首をかしげた女官に、ルーファスは言った。
「……醜いな」
 明らかに自分に向けられた台詞に、女官は顔色を変える。
「なっ!……醜い?私が?」
 その声は、怒りに震えていた。
「ああ……」
 淡々とうなずくと、ルーファスは続けた。
「――たしかに、セラは……俺の妻は凡庸かもしれないが、貴女ほどは醜くない」
 ルーファスの言葉に、女官はわなわなと怒りに身を震わせた。だが、罵詈雑言を相手にぶつけてやりたい気持ちと、残された理性を天秤にかけて、かろうじて理性の方が重かったらしく、彼女の口から罵りの言葉があふれ出すことはなかった。
 その代わりに、女官は甘さを捨てた冷ややかな声で言う。
「政略結婚で娶った妻に、そんな風に義理立てするなんて、いつもの貴方らしくないわね。エドウィン公爵」
「別に、そういうわけじゃない。ただ、思ったことを言ったまでだ」
「そう。それなら、私もひとつ思ったことを言ってあげるわ……貴方みたいな男が、誰かを本当に愛せることなんてないわ。絶対に」
 言葉と共に女に睨みつけられても、ルーファスは動じなかった。
「そんなことは今更、言われるまでもない……とっくの昔に、自覚している」
 ルーファスはそう言うと、女官をその場に置き去りにして、従者のミカエルの待つ扉の方へと向かった。

 扉の前で、ずっと主人が戻るのを待っていた従者のミカエルは、ルーファスが扉から一人で出てくると、「旦那様」と声を上げて駆け寄った。
「旦那様……」
 しかし、ルーファスに近寄った途端、ミカエルは眉をひそめて、少女のように愛らしい顔を歪めた。
 少年の薄水色の瞳には、疑惑の色が宿っている。
 そんな従者の態度に、ルーファスは首をかしげた。――自分は何か、この従者に疑われるようなことをしただろうか?と。
「どうかしたのか?ミカエル」
 そんな主人の問いかけに、ミカエルは「はぁぁ……」と深いため息をついた。そうして、彼はポケットから白いハンカチを取り出すと、ルーファスにそれを手渡しながら言う。
「……旦那様。唇のところに、その、紅がついていますよ……一体、扉の向こうで、何をされていたんですか?」
 ルーファスの唇の端には、うっすらと女の紅がついていた。何となく、見てはいけないものを見てしまった気がして、従者は主の口元から、そっと目を逸らす。――黒髪の女官が姿を消していることといい、その紅の意味は、語るまでもない。
 その答えを察しつつも、ミカエルはそれを尋ねずにはいられなかった。
 主人があちらこちらで女性と浮き名を流しているのは、別に今に始まったことではないが、新婚早々こんなでは奥方様が気の毒だと、彼は心の中で同情する。
 王家から降嫁してきて、色々と不安なことも多いだろうに、精神的な支えとなるはずの夫がこれでは……。
 しかし、そんな従者の心境とは裏腹に、ルーファスはハンカチで口元をぬぐうと、ふっと冷ややかに笑って言う。
「何をしていたかだと?……お前のような初心な子供は、知らなくていいことだ。ミカエル」
 その言葉に、ミカエルは頬を赤く染めて、やや強い口調で反論した。
「子供扱いしないでくださいっ」
 そんな風にミカエルが憤るのも、当然といえば当然のことかもしれない。
 幼少時代を孤児として貧しい環境で過ごした彼は、やや華奢な体格で年齢よりも幼く見られがちだが、実際には主人のルーファスとたかだか六歳ほどしか違わないのだ。
 それなのに、子供扱いされては、面白いはずもない。
「悪かった」
 従者の言葉に、ルーファスはあっさりと謝る。
 おそらくは戯れのようなもので、本気ではなかったのだろう。
「いえ……」
 ミカエルは首を横に振ったものの、屋敷で待つ奥方様への同情心から、主人の不興を買うかもしれないと知りつつ、一言つけ加えた。
「――奥方様がこのことを知られたら、きっと悲しまれますよ。旦那様」
 従者の忠告に、ルーファスは無言だった。
「……」
 しばしの沈黙の後、ルーファスは唇を開くと、感情の読めない声で答えた。
「ミカエル……お前がどう思っているかは知らないが、俺とあの王女の関係は、お前が思っているようなものじゃない。夫婦の絆など、俺たちには……少なくても、俺にはない。王女の方だって、同じだろうさ。わかったら、もう二度とそのことは口にするな」
 主人の口調は静かだったが、その言葉からは有無を言わせないものが感じられたので、ミカエルは口をつぐんだ。
 経験上、こういう時のルーファスには逆らわない方が良いと知っている。
「……屋敷に戻るぞ。ミカエル」
 ルーファスは、まるで何事もなかったかのようにそう言うと、返事を待たずに歩き出した。ミカエルは小走りで、そんな主人の後を追いかける。
 そうして、彼ら二人は王宮から立ち去ったのだった。


BACK NEXT TOP


Copyright(c) 2010 Mimori Asaha all rights reserved.

-Powered by HTML DWARF-