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二章 王女の秘密 3


 ルーファスとミカエルが王宮に出かけている頃、妻のセラと彼女付きの女中であるメリッサの二人は、屋敷内の書庫にいた――

 うちの奥方様は少々変わった御方だと、メリッサは思う。
 メリッサは、エドウィン公爵家の女中だ。
 母の妹……叔母のソフィーが、エドウィン公爵家の女中頭を勤めている縁で、この屋敷に仕え始めてから四年になる。
 十七歳のメリッサは、旦那様の従者のミカエルをのぞけば、屋敷の使用人の中で最も若い。
 この屋敷は使用人の入れ替わりを好まないし、執事のスティーブは有能だが厳格な性格の人で、経験の浅い使用人たちが大勢いることを好まないからだ。メリッサだって、もし叔母がエドウィン公爵家で女中頭として働いていなかったら、この屋敷で女中として働くことなどなかっただろう。
 そういう事情であるから、屋敷の中でも新米であるメリッサが降嫁される王女様のお世話係に指名されたのは、彼女を含め驚きだった。
 何でも、王女様の意向で、降嫁する時には誰も侍女を連れて来ないということだったから、同い年のメリッサが話し相手としても適任だろうと判断された……らしい。全ては、旦那様――ルーファスが決めたことだから、メリッサはよく知らないが。
 王宮から嫁いだ王女は、ここでの退屈するだろうから、せいぜい王女様の話し相手になってやれ――というのが、その時の旦那様の言葉だった。
 気を使っているようで、実のところは言葉の意味は反対だ。
 ようするに、自分が相手をする気はないということなのだから。
 相変わらずな旦那様の態度に、メリッサは女として色々と思うところはあったものの、まさか使用人の分際で立場も忘れて旦那様に意見できるはずもない。だからメリッサは「はい。旦那様」とうなずいた。
 使用人として雇い主の命は絶対だし、それに降嫁される王女様のお世話係に指名されるというのは、名誉なことではあったからだ。
 かなり気は使うだろうが、やりがいのある仕事でもある。
 そんなわけで、メリッサは降嫁された王女様……奥方様に仕えることになったのだが――
「メリッサ……そこの本棚の上にある本を取ってもらっても良い?手が届かなくて……うん。そうそう、その棚の赤い背表紙の本……」
 背後からかけられた奥方様の――セラの声に、メリッサはよっと爪先立ちをすると手を伸ばし、近くの本棚にあった赤い背表紙の本を片手で抱えて、後ろを振り返った。
「ええっと……この本で、いいですか?奥方様」
「うん。この本よ。ありがとう。メリッサ」
 メリッサがそう尋ねると、セラは微笑んで、赤い背表紙の分厚い、子供の頭ほどある本を受け取る。
 セラとメリッサの二人は今、屋敷内の書庫にいた。
 天井まで届く本棚といい、貴重な蔵書の数々といい、大貴族であるエドウィン公爵家に相応しい、二十人くらいは軽く入れそうな立派な書庫ではあるが、今は彼女たち二人だけしかいない。
 手渡した本の厚みと、ちらり、とめくれたページの文字の多さと難解さに、メリッサは目がちかちかした。
 ……自分なら、三回くらい生まれ変わっても読めないだろうし、そもそも読もうとすら思わないだろう。
 使用人として不自由しない程度の読み書きは出来ても、こんな挿し絵も何もない文字だらけの難しそうな本なんて、ただの女中であるメリッサには高嶺の花だ。
「奥方様は凄いですね。こんな難しい本を読まれるなんて……」
 その赤い背表紙の分厚い本を受け取ると、早速、近くの椅子に座ってそれを読み始めたセラに、メリッサは感心したように言う。
「ううん、そうでもないよ。この本なんかは、わりと読みやすいし、多分、ルーファスだったらもっと難しいのも読むんじゃない」
「そうなんですか?」
「うん。あたしは大した教育を受けてないけど、きっとルーファスは違うでしょう?」
 謙遜か本音か、そう答えてセラはゆるゆると首を横に振ると、再び翠の瞳を本に落とした。
 静かな書庫に、ぱらぱらというページをめくるかすかな音だけが響く。
 本を読み進める間、セラは言葉ひとつ発さず、一文字たりとも読み逃すまいとするかのように、ひどく真剣な表情で文字を追っていた。
 その、本を読み進める奥方様の表情が余りに真剣なものだったので、メリッサはその内容に興味を引かれた。
 タイトルを見ただけでは、何について書かれた本なのか、よくわからなかったからだ。奥方様が、これほどまでに真剣に読む本とは、一体、何なのだろう?と。
「それは、何について書かれた本なんですか?奥方様」
 奥方様の読書の妨げになってはいけないと思いつつも、好奇心には逆らえず、メリッサはセラに尋ねた。
 元来の、おしゃべり好きな性質には抗えない。
 尋ねられたセラは顔を上げると、
「ん……一言で言うと、この国の、エスティアの歴史についての本よ。メリッサ。主に……英雄王についてかな」
と、静かな声で答える。
 英雄王について、そう口にしたほんの一瞬だけ、セラは何かに耐えるような表情をして、翠の瞳を伏せる。
 膝の上におかれた左手が、かすかに震えた。
 もっとも、それは本当に一瞬のことであったので、メリッサはそれに気づかなかったが。
「……歴史の本?英雄王について?奥方様は、英雄王がお好きなんで……」
 英雄王がお好きなんですか?と、うっかり問いかけそうになって、メリッサは「あっ……」と慌てて口をつぐんだ。
 ……危ない。危ない。エスティアの王女であり、建国の祖・英雄王オーウェンの血を受け継ぐ奥方様に対して、危うく、ひどく失礼な問いかけをするところだったと、メリッサは冷や汗をぬぐう。
 英雄王が好きも嫌いも、王女である奥方様にとっては偉大なご先祖様ではないか!

 ――さる王家の庶子として生まれたオーウェンは、長じて武勇と知略に優れた青年となり、圧政をしいていた悪しき王を倒すために、優れた仲間を集め義勇軍を立ち上げた。
 そして、仲間たちと共に悪しき王を打ち倒し、英雄王と呼ばれるようになった。
 最後に、憎むべき裏切り者となった《凶眼の魔女》を殺し、エスティア王国に真の平和をもたらした。
 かくして、英雄王・オーウェンの名と、魔女を倒した武器《聖剣ランドルフ》は、大陸に長く語り継がれる伝説となったのである――

 このエスティアに生まれた子供ならば、誰もが父母から聞かされる、英雄王オーウェンの伝説……。
 仲間と共に民を苦しめていた悪しき王を打ち倒し、裏切り者の《凶眼の魔女》を殺して、英雄王と呼ばれた青年は、このエスティアの地に真の平和をもたらした。それは、ただの伝説ではなくて真実であるのだと、メリッサは父から聞かされていた。
 そして、その偉大なる英雄王の血を受け継いだ子孫が、エスティアの国王陛下であり、王子様や王女様方であるのだと。
 悪しき王を倒し、裏切り者の魔女を殺し、この地に平和をもたらした偉大なる王の直系が、今もエスティアを治め守っているのだと。
 それは、この王国の民たちに三百年に渡り、語り継がれ続けてきた伝説……。幼い頃、父や母から幾度も聞かされたそれを、メリッサが忘れるはずもない。
 つまり、エスティアの当代の国王陛下が英雄王・オーウェンの直系ということは、その娘であるセラフィーネ王女様――奥方様にとっても、英雄王は偉大なご先祖様であるはずだ。
 そんな奥方様に向かって、英雄王が好きですか?などとは問うまでもないことだし、第一、そう尋ねること自体が非礼にあたるかもしれない。そう考えたメリッサは、慌てて口をつぐんだのだが……
「別に、あたしは英雄王ことは好きでも、嫌いでもないよ……」
 しかし、その問いかけに対するセラの答えは、ひどく意外なものだった。
「え……?」
 普段の柔らかな声とは対照的な、どこか硬質で冷ややかにすら聞こえる声音に、メリッサは驚いたように目を丸くして、青い瞳で奥方様を見つめる。
 セラはゆっくりと顔を上げ、翠の瞳にメリッサを映すと、何か決意を秘めたような凛とした声で言葉を続けた。
「――ただ、あたしは隠された真実を知らなきゃいけないと思う……それが、罪を犯した男と同じ血を持つ、あたしの責任だと思うから」
 そう言うセラの真剣な表情からは、何か深い深い決意のようなものがあるように感じられて、メリッサは「それは、どういう意味なんですか?奥方様」と、言葉の真意を尋ねることをためらった。
 ただの勘でしかないので、うまく言えないのだが、それを尋ねることは、奥方様にとって残酷なことである気がして、メリッサは押し黙る。
 どこか遠くを見つめるセラの瞳は、怖いほどに澄んでいて美しく、それでいてどこか寂しげな色を宿していたので。
「奥方様……?」
 そんな困惑した様子のメリッサを見たセラは、ふっと口元をゆるめると、今までの深刻な表情が嘘のように、柔らかく微笑んで言った。
「ああ……ごめんなさい。大した意味のある言葉じゃないから、気にしないで。メリッサ。独り言みたいなものだから」
「……そうなんですか?」
「うん」
 今までの会話を、全て無かったことにするようなセラの言葉に、メリッサは少し首をかしげたものの、奥方様にそう言われた以上、その話題はここまでということだった。
 わかりましたという風に、メリッサはうなずいて、セラは何事もなかったかのように再び本を読み始める。
 そうして、書物のページをめくるセラの横顔を見ながら、うちの奥方様は少々変わった御方だと、メリッサは思う。
 妾腹とはいえ王女というこの上なく高貴な身分にあるにも関わらず、メリッサのような平民の女中や屋敷の使用人に対しても、身分の貴賤などないように気さくに、あたかも対等な立場であるかのように接してくるし、まるで下町の娘のような気取らない言葉で喋る。
 使用人たちに何かを頼む時でも、小さなことでもいちいち礼を言い、どこか遠慮がちだ。
 メリッサも公爵家の女中という立場上、身分の高い貴族の方と接することが多いから、それが少し変わっていると感じる。
 貴族の方々は、使用人や平民に何かを頼む時に、いちいち遠慮がちになったりしない。
 それが、生まれながらに平民の上に立つ、貴族というものだからだ。
 しかし、奥方様は違う。
 屋敷の使用人たちに対しても、まるで身分の差など感じさせず、気さくに話しかけてくるし、使用人たちが何かすれば「ありがとう」と言い柔らかく微笑む。特に美貌の人というわけではないが、その柔らかな笑顔はとても可愛らしいと、メリッサは思うのだ。
 そんな奥方様に、メリッサはかなりの好感を抱いてはいたが、王女様としては少々変わった方だとは思わざるを得ない。
 何せ、降嫁される前、メリッサの想像していた王女様と、実際にいらした奥方様――セラフィーネ王女様は全く違ったのだから!
 うちの奥方様は少々……いや、かなり変わった御方だ。
 なんたって初夜に、屋敷から抜け出されるし……
「ねぇ、メリッサ」
 そうして、メリッサが王女が屋敷から抜け出したあの夜のことを思い出していると、それを察したわけでもないだろうが、セラが本を置き「ねぇ、メリッサ」と話しかけてきた。
「あっ……はい。何ですか?奥方様」
 メリッサが慌てて横を向くと、セラはにこやかに微笑んで、女中にとってはひどく意外なことを言った。
「あのね、もし出来たらで良いんだけど、その奥方様って堅苦しい呼び方は何とかならない?そりゃあルーファスは屋敷のみんなから旦那様って呼ばれてるけど、別に、あたしは奥方様じゃなくても……特にメリッサは同い年だし、もっと普通に呼んで欲しいんだけど」
 メリッサはセラの意外な頼みに、しばし固まり「はあ……」と曖昧にうなずいた後、「奥方様がよろしいのなら、あたしは構いませんけど……それじゃあ、何てお呼びすれば?」と尋ねた。
 尋ねられたセラは無邪気な笑顔で、
「本当にいいの?メリッサ。じゃあ、セラフィーネじゃなくて、セラって呼んでくれると嬉しいな……ルーファスにも、そう言ってるし」
と、ただの女中であるメリッサには到底、受け入れ難い提案をした上に、夫であるルーファスとメリッサを同列に並べるという、ある意味、偉業とも言えることをした。
 その言葉に対し、メリッサはひくっと顔をひきつらせると、
「無理っ!無理ですって!奥方様!夫である旦那様ならともかく、ただの女中であるあたしが、そんな風に名前でなんて呼べませんっ」
と必死に断った。
 もしも、メリッサが奥方様のことをセラなんて呼んだのを、あの厳格を絵に描いたような老執事――スティーブさんに知られた日には、その日のうちに今月の給金も支払われずに、この屋敷から追い出されることだろう……。それだけは回避したいっ!
「そっか。それなら仕方ないね。無理強いするもんじゃないし……変なことを頼んで、ごめんなさい。メリッサ」
 メリッサの鬼気迫る表情と、必死さが伝わったのか、セラはあっさりと発言を撤回する。
 どうやら、最初から無理強いするつもりはなかったらしい。
 セラは少し寂しげな表情で、「今のは、忘れてね。メリッサ」と言うと、メリッサに背を向けて本棚の方へと歩いていった。
 その、どこか寂しげな雰囲気のただよう華奢な後ろ姿を見ていると、奥方様に対して、メリッサはいささか同情的な気持ちになった。――考えてみれば、奥方様は心細いのかもしれない、と思う。
 いくら王女様とはいえ、奥方様はメリッサと同い年、まだ十七歳の少女でもあるのだ。
 華やかな王宮から、共も連れずたった一人で降嫁されてきて、色々と心細いこともあるに違いない。
 もし、結婚生活で何か悩みがあったとしても、そう簡単に誰かに相談できるような身分でもない。メリッサのように、頼れる叔母が身近にいるわけでもない……そう考えると、奥方様は王女様であるゆえに孤独なのかもしれないと、メリッサは思った。
 彼女の知る限り、旦那様もそうだが高貴な身分の人というのは、そう簡単に弱音を吐けないものだからだ。
 だから、奥方様は――
 メリッサはふぅと息を吐くと、セラの背中に声をかけた。
「……奥方様」
 メリッサの言葉に、セラが亜麻色の髪を揺らして、振り返る。
 翠の瞳が、こちらを見た。
「何?メリッサ」
「セラ様で、いいですか?」
「え……?」
 一瞬、きょとんとした顔をしたセラに、メリッサは言葉を続けた。
「これからは、セラ様って奥方様のことをお呼びします。それなら、執事のスティーブさんも怒らないと思うので。それでも、いいですか?」
「……」
メリッサの言葉に、セラはしばし黙り、しばらくしてから、ふわりと花開くように微笑んだ。
「――ありがとう。メリッサ」
 その心からの微笑みに、メリッサは少し首をかしげ、ほんの少しだけ胸が痛むような気がした。
 たかが呼び名のことなのに、なぜ、この方はこんなに嬉しそうに、幸せそうに微笑むのだろう?と。
 まるで、望んだ名を呼ばれることが、何よりの幸福であるかのように……。
「ありがとう。メリッサ。貴女は優しいね」
 こんな小さなことで礼を言う、うちの奥方様――セラ様は少々変わっていると、メリッサは思う。
 それは、決して不快なものではないのだけれど……。
「セラ様……」
 メリッサが、何か返事をしようとした時だった。書庫の扉がノックされて、外側から声がかけられた。
「……メリッサ?そこにいるのかい?」
 扉の外側からしたのが、いつも聞き慣れている叔母の声だったので、姪のメリッサは書庫の扉に歩み寄ると扉を開けた。
「その声は……ソフィー叔母さん?」 
 扉を開けると、メリッサによく似た面立ちの、ふくよかで優しげな金髪の中年の女性――女中頭のソフィーが、書庫の中に入ってくる。
 ソフィーは書庫の中を見回すと、椅子に腰掛けていたセラに目を止めて、朗らかな声で言った。
「おや、まあ、こちらにいらしたんですか?奥方様。丁度、良かった……たった今、旦那様とミカエルが王宮からお戻りになったところですよ」
「旦那様が戻られたの?」
「そうさ。だから、あんたを呼びに来たんだよ。メリッサ……もう少しで夕食の時刻だ。手があいたら、厨房の方も手伝っとくれ」
 旦那様――ルーファスが、屋敷に帰ってきたの?というメリッサの問いかけに、ソフィーはうなずいた。
 そして、姪と奥方に言うべきことを伝えると、厨房の手伝いをするためか、ソフィーはすぐに書庫から立ち去る。
「奥方様……じゃない。セラ様はまだ、こちらにいらっしゃいますか?」
 旦那様が帰ってこられたという叔母の言葉に、メリッサはどうされますか?と、セラに問う。まだ書庫にいるのかと。
 セラは首を横に振ると、手にしていた本を机の上に置いて、椅子から立ち上りながら言った。
「ううん。ルーファスが帰ってきたなら、あたしも、もう書庫から出るわ。メリッサ。読みたいのはまだまだあるけど、どうせ一日で読み切れるような量じゃないし、また明日か明後日にでも……」
「そうですか?じゃあ……」
 セラの返事を聞くと、メリッサは降嫁されてきてから日も浅く、まだまだ屋敷の内部に不慣れなセラを導くべく先にたって書庫から出ると、旦那様のいらしゃる居間に向かって歩き始めた。
 そんなメリッサの後ろを、ゆっくりとした足取りで歩きながら……今日のことを忘れないでおこうと、セラは思った。
 “セラ”と、自分の望む名を呼んでくれた人がいたことを、優しく接してくれた女中の少女がいたことを。
 何より、その優しさが嬉しかったのだということを、ずっと忘れないでいようとセラは思う。
 たとえ、自分に残された時間がそう長くはないと知っていても、その時がくるまで、ずっと……。


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