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二章 王女の秘密 4


 空に宵闇の帳が下り、銀の月が地上を照らす頃、ルーファスは自室で手紙の山に目を通していた。
 先々代の公爵の代より使っている、一流の家具職人によって作られた飴色に輝く机の上には、あちらこちらから送られてきた手紙の束が、山のように積み重なっていた。
 それらの手紙の宛名は全て、ルーファス――当代のエドウィン公爵の名が、流麗な文字で記されている。
 数十通に及ぶ手紙は、普通の感性の持ち主ならば、目を通すことすら苦痛に感じられるだろうが、ルーファスは顔色ひとつ変えずに、迅速に、だが内容はしっかりと頭に入れて、次々と手紙の山を片付けていく。返事が必要と思われるものには返事を、そうでないものは後で執事のスティーブに整理させる。
 淡々と続けられる、それらの作業には、一切の無駄がなかった。
 エスティアを代表する大貴族であるエドウィン公爵家には、国の要人を始め有象無象の輩に至るまで、さまざまな人間から手紙が届く。
 その内容は重要な報告から、愚にもつかない頼みごとまで色々であるが、それら全てに目を通し、しかるべき対応を取るのはルーファスの……エドウィン公爵の地位にある者の役目だった。
 そうであるから、ルーファスは単調ながら手を抜けない作業を、苦痛を覚えることもなく淡々とこなす。
 大国・エスティアを代表する大貴族にして、国政を左右するだけの力を持ちうる公爵家の当主――それは、いかに優秀といえども、二十歳の若者が背負うには重い責任ではあったが、当の本人がそれを重荷に感じたことは、今まで一度もなかった。
 十八歳の時に当主の座についてから二年、毎日こなしてきたことに今更、苦痛や重圧を感じるはずもないと、ルーファスは思う。否、そもそも彼が十歳になる頃にはすでに、父・ウォルターは心を病んでいたから、十五歳のころにはもう、当主としての実際の仕事は父ではなく、息子のルーファスがしていたのだ。
 そういう事情であるから、ルーファスの地位を妬んだ貴族の狸爺どもから「生意気な若僧が……」と陰口を叩かれることはあっても、公爵家の当主としての彼の技量には、不足がなかった。
「……今日は、このくらいにしておくか」
 積み重なっていた手紙の山が半分ほど片付いたところで、ルーファスはそう言って、それまで黙々と動かしていた手を止めた。
 ――残りの半分は、明日の夜にでも片付けるか。
 そう決めると、公爵家の当主である青年は数時間、座り続けた椅子から立ち上がり、手元の灯りを消すと、そろそろ眠ろうと寝台の方へと向かう。
 睡魔はさほどでもなかったが、今日は王宮にも出かけていたし、少しばかり疲れているというのも本音だった。
 公爵家の屋敷の中には勿論、歴代の当主夫妻のための寝室も用意されているのだが、ルーファスとしては両親の悪夢を思い出す、その寝室を使う気にはとてもなれず、また妻であるセラの希望もあり、結婚した今でも彼は自室で一人で眠るのが常だった。
 一般の夫婦の形から見れば、それが不自然であるという自覚はあるが、別に愛情があって結婚したわけでもないのだし、お互いの私生活に干渉しないというならば、ルーファスとしては不満がなかった。女に不自由しているというわけでもなかったし、政略結婚で迎えた妻に、愛情などない。
 夫婦と言っても、所詮、形だけのものだ。
 ――寝るか……。
 ルーファスは寝台に横たわると、睡眠をとろうと、その蒼い瞳を閉じる。
 普段、氷のようだと評される瞳を閉じると、その寝顔の印象はいつもより幾分か柔らかく、安らかなものさえ感じられた。
 そのまま、彼は眠りの世界へとおち……ることは、叶わない。
 自分しかいないはずの部屋の中に、何者かの気配を感じたからだ。
 真っ暗な寝室に、何者かの……招かざる侵入者の気配を感じたルーファスは、閉じたはずの両目をすぅと薄く開くと、あくまでも冷静に侵入者の気配を探る。
 刺客に命を狙われることは初めてではなかったし、そのぐらいで動揺するほど、彼の神経は細くなかった。
 (……どこぞの鼠が、屋敷に入りこんだか)
 どこぞの強欲貴族の雇った刺客か、あるいはルーファスの財産を狙う、親族の誰かが暗殺者でも放ってきたのか……いずれにせよ、芸のない連中だ。
 わずらわしいと思いつつ、ルーファスは意識を覚醒させて、枕の後ろに隠してある短剣にそっと手を伸ばす。
 自分の命に対して、何が何でも生きたいというほどの大した執着があるわけでもなかったが、その刺客とやらの手であっさり殺されてやる気は毛頭なかった。――もし、刺客がルーファスの胸に刃を突き立てようとするならば、その前に刺客の喉笛を切り裂いてやろうと思う。人の命を狙うならば、それぐらいの対価は覚悟しておくべきだ。
 ルーファスはいつでも動けるように神経を尖らせると、侵入者が自分のそばに近寄ってくる瞬間を、返り討ちに出来る瞬間を待った。
 その瞬間は、すぐに訪れた。
 侵入者は、刺客というには足音を立てる稚拙さで、ルーファスの寝台の横へと歩み寄ってくる。
 そして、寝台の横に立ち止まると、ルーファスが寝ているのかどうか確かめようとするように、彼の顔をのぞきこむ。
 ――そんな侵入者の隙を、ルーファスは見逃さなかった。
 相手が反応することが出来ないほどの速さで、寝台から飛び起きると、招かざる侵入者に向かって手を伸ばし、その侵入者の腕をギリリと乱暴に捻り上げる。
「……っ!」
 そして、その勢いのまま侵入者の体を突き飛ばすと、床に押し倒した。そうされた侵入者は抵抗もせず、「う……」と呻き声を上げ、されるがままだ。
 命を狙う刺客というには、余りにも呆気ない。
 そんな侵入者の様子に、ルーファスは少なからず違和感を覚えたものの、警戒を解くことはなく、倒れた侵入者の首筋に手を伸ばし、冷ややかな声で問う。
「……どこの刺客だ?依頼主を吐け」
「……」
 返事はない。
 ルーファスの声は、更に低いものになる。
「吐かなければ、命が助かるなどと甘いことを考えるなよ……今まで、俺の命を狙った侵入者たちの末路は聞いているか?地獄を見ることになるぞ」
 その脅迫は本気だった。
「……っう……」
 侵入者は無理矢理に床に押しつけられた体が痛むのか、細い声を上げ、身をよじる。
 ようやく暗闇に目が慣れてきたルーファスは、その侵入者が自分よりも小柄で華奢な、女であることを知った。気がついてみれば先ほど捻り上げた腕も細く、男のものにしては妙に柔らかであったことに思い至る。
 女の刺客は、そう珍しいものではない。
 純粋な力は男の刺客に劣るとはいえ、女の刺客には色香という、時としてどんな武器をも上回るものがある。
 古来から、女の色香に溺れて身を滅ぼされた権力者がいかに多かったを考えれば、その恐ろしさがわかるだろう。とはいえ……自分にそれが通じるとしたら、随分と甘く見られたものだと、ルーファスは思う。
「女の刺客か……俺も随分と舐められたものだ」
「……あたし」
 独白にも似たルーファスの言葉に、押さえつけられていた侵入者が、初めてまともな言葉を発した。
 その声が、聞き覚えのあるものであったことに、彼は驚く。……あたし?
「……何?」
 その顔に動揺を宿し、首をかしげるルーファスの耳元で、少女の高い声が響いた。
「……あたし!あたしだってば!ルーファスっ!」
 その聞き覚えのある声に、ルーファスはようやく少し暗闇に慣れてきた目で、侵入者の姿をまじまじと見つめた。
 ルーファスの声に珍しく、純粋な驚きが混じる。
「その声は……セラか?」
 侵入者は、ひどく奇妙な服装をしていた。
 漆黒の、闇に紛れる黒いローブのような服に、両手には同じ黒の長手袋で、ほぼ全身が黒尽くめと言っていい。
 肌がさらされている部分はほとんどなく、顔も黒いフードで半分ほど覆われていたが、フードからこぼれでた亜麻色の髪と、こちらを見つめかえしてくる翠の瞳は、いかに奇妙な服装といえども、他の誰かとは間違えようもない。
 ……セラだ。
 その侵入者の正体は、刺客でも何でもない、セラだった。
 侵入者の正体は、わかった。また刺客ではなかったことも。
 しかし、ルーファスの疑問は氷解するどころか、深まるばかりだ。
 セラはなぜこんな夜中に、こそこそと隠れるようにして、彼の部屋にやって来たのか?扉も叩かず、また声もかけずでは、刺客と間違えられても文句は言えまい。まぁ、少し手荒な真似をしたとは思うが……。
 それだけではない。
 なぜ、そんな奇妙な服装をしているのか?
 それから、その黒尽くめの魔女のような姿を、つい最近、どこかで目にした気がする……。
 気になる点を上げれば、キリがない。
 一体、何のつもりだと、問いつめてやりたくなる。
 ルーファスは形の良い眉をひそめると、驚き半分、呆れ半分にいまだ床に横たわったままのセラに問いかける。
「……何をしている?セラ」
 そんな彼の問いかけに、床に転がったままのセラは「うう……」と呻くと、ちょっと情けない表情で、ルーファスの方に手を伸ばした。
 ……どうやら、床に倒れたまま、一人で起き上がるのが難しいらしい。
 申し訳なさそうな声で、セラは言った。
「えっと、話すから……悪いんだけど、起きるの手伝ってもらっていい?」
「……」
 ルーファスは無言でセラの腕を取ると、その華奢な体を支えて、立ち上がらせる。
 細い腕だと、そう思った。
「ああ、助かった。どうもありがとう。ルーファス」
 助けを借りて、何とか立ち上がったセラは感謝するように、にこっと柔らかな微笑みをルーファスに向ける。
 気を使っている様子はなく、本心からの笑みだった。
 セラに笑顔を向けられても、ルーファスは無言だった。
 いくらセラが刺客と間違えられるような紛らわしい行動を取り、暗闇の中で声もかけずに近寄ってきたとしても、その体を突き飛ばし無理矢理、床に押さえつけたのは自分なのだから、そんな風に微笑みながら礼を言われるようなことではないと、彼は思う。
 相手にも非はあるとはいえ、女にあれだけ手荒な真似をすれば、文句を言われるのが普通だろう。むしろ、微笑んで「ありがとう」などという気持ちが、彼には理解できない。否、理解しようとすら思えない。自分とは真逆の存在だからだ。
 一体、どういう育ち方をすれば、こういう人間が出来上がるのだろうか?今更だが……妙な女だ。
 どこか苦い、だが不快とも言い切れない感情が、ルーファスの胸を支配する。わずかな苛立ちと、かすかな憧憬と、それから……。
 それは、彼が初めて抱く感情であり、ルーファス自身それを持て余す。
 (……馬鹿馬鹿しい。感情に振り回されるなど、愚かなことだ)
 感情に振り回されることを嫌うように、彼は話題を変えようと、セラに話しかけた。
「背は……」
「……ん?何?ルーファス?」
 首をかしげたセラに、ルーファスは言葉を重ねる。
「背は痛まないのか?さっき床にぶつけたはずだが……」
 手荒な真似をしたことを素直に謝ろうとするには、屈折した己の性格が邪魔だった。それを自覚しつつも、ルーファスは遠回しに言う。
 そんな彼の態度に、セラは一瞬、きょとんとした顔をしたものの、気にするなという風に首を横に振ると、明るい声で答える。
「ううん、大丈夫だよ。痛くない」
「……そうか」
 ルーファスはうなずくと、しばらくの間、黙りこむ。
 セラに問うべきことが多すぎて、逆に何から問うべきか、判断がつきかねた。
 そんな彼の沈黙を、怒りゆえと錯覚したのか、セラが恐る恐るといった風に口を開いた。
「ごめんなさい。寝ていたところを起こしてしまって、屋敷の人たちに気づかれるわけにいかなかったから、出来るだけ静かにと思ったんだけど……かえって、驚かせたみたいで……眠っていたのに、悪いことをしたね」
 謝るセラに、ルーファスは「いや……」と首を横に振る。
「いや……別にいい。どうせ人の気配がしたら、起きるように訓練してある」
「そうなの?」
「ああ。俺のような若僧にも、刺客を送りつけてくるような阿呆がいるからな。それより……」
 殺伐としたルーファスの物言いに、セラは目を丸くする。
 そんな彼女に、ルーファスは「それより……」と言葉を続けた。
「それより……こんな夜更けに、何の用だ?そんな……妙な格好までして……まさか……」
 セラの服装を指差して、ルーファスは尋ねた。
 闇夜にとけこむような、漆黒のローブと腕の中程まである長手袋。おまけに顔の半分をフードで隠している。ローブの下に着た簡素なドレスだけが白で、他は全て純粋なる黒だ――どう控え目に表現したとしても、セラのそれは、妙な格好としか言いようがない。
 魔女という表現が、真っ先に頭に浮かぶ。
 しかも、ルーファスがそんなセラの姿を目にするのは、これが初めてのことではなかった。
 あの夜……降嫁してきたセラが、初夜に屋敷から逃げ出し、その後を追ったルーファスは見たのだ。
 貧民街で《解呪の魔女》と呼ばれ、不思議な術を使って、呪われた男を助けた王女の姿を――
 ルーファスとて、自分が目にしていなければ、とても信じられないような光景だったが、あれは現実だった。
 そして、今のセラの服装は、あの夜、貧民街で《解呪の魔女》と呼ばれていた時と、全く同じものである。と、いうことは……
 面倒なことになりそうな予感を感じて、ルーファスはわずかに顔をしかめる。
 まさか……という彼の言葉を肯定するように、セラは「うん」とうなずいた。
「うん。魔女としての仕事があるから、少し出かけてくる……夜明け前には、ちゃんと屋敷に戻るから、この前みたいに逃げたとか思わないでね。ルーファス」
「……また、あの夜と同じように、貧民街で魔女の真似事とやらをするつもりか?」
「うん。まぁ、そういうこと」
 ルーファスの冷ややかな声と、魔女の真似事という表現に苦笑しつつ、セラは首を縦に振る。
「止めろ、と言ったら?」
 無駄かもしれないと知りつつも、ルーファスは氷を想わせる冷たい瞳でセラを見つめて、低い声で尋ねた。
 気の弱い者ならば、それだけで震え上がりそうな、低い低い、いっさい暖かさが感じられない声で……。
 脅し、というわけではないが、極めてそれに近い声だった。
 そんな彼の態度は、形式上とはいえ妻に対するものとして冷たいものだったが、理由のないことではなかった。
 このエスティアにおいて、英雄王を裏切った魔女は、人々から憎まれ、また蔑まれる存在である。
 光のあたる場所を歩くことが出来ず、闇の……裏の世界でしか生きることの叶わない、哀れな者たちだ。
 そうでなくとも、王女という高貴な身分で生まれ、公爵家に降嫁した娘が、この国の最下層の民が暮らす貧民街に出入りするなど、誰から見ても狂気の沙汰だと言えよう。ルーファスとしては、そんな行為を認める理由も、また必要もないのだ。
「……悪いけど、止めることは出来ない。ルーファスの言いたいことは十分にわかるけど、それでも、あたしはあの場所に行かなきゃいけない。あたしは魔女だから」
 しかし、大の男でも震え上がりそうな冷たい表情で睨まれても、セラは怯まなかった。
 視線を逸らさず真っ直ぐに、翠の瞳にルーファスを映すと、穏やかな声で、だがきっぱりと言う。
「どうしても出かける気か?」
「うん。それが……」
 あたしに出来る唯一の償いだから、という言葉を、セラは飲み込んだ。
「……」
 セラの返事に、ルーファスは何も言わなかった。
 頑固な女だと思う。
 しかし、それ以上、何か説得の言葉を重ねようとしても無駄であることが、彼にはわかっていた。
 まだ付き合いは本当に短いのだが、ルーファスも徐々に、セラという少女の性格の一部を理解しつつある。
 言葉こそ柔らかくとも、芯は相当に強い……というか、頑固だ。
 言動には脆さや弱さを感じる時もあるが、その半面、妙なところで意志が強い。
 大人しそうな外見ながら、胸の奥底には激しいものを秘めている……ように、彼の目には映る。
 少なくとも、一度、口にしたことを、そう簡単に無かったことにするような性格ではないだろう。だから、ルーファスは貧民街に行くのを止めろという代わりに、気になっていた別のことを、セラに尋ねた。
「なんで、わざわざ俺に出かけることを言いにきたんだ?」
「え……?」
「黙って屋敷から抜け出すことだって、不可能ではなかっただろう?むしろ、わざわざ反対されるかもしれないとわかっていて、俺に言いにくる理由がないと思うが」
 怒りではなく純粋な疑問から、ルーファスは問う。
 屋敷の使用人たちの目を盗み、夜に屋敷から抜け出すことは、容易とは言わないが不可能というわけではない。
 初夜に屋敷から逃げ出された一件以来、ルーファスは己の従者のミカエルに命じて、セラの行動に不審なものが無いか密かに監視させてはいたが、それだって四六時中というわけではない。
 いくら逃げ出されると困るとはいっても、まさか少年のミカエルに屋敷の奥方であるセラの寝室まで見張らせるわけにはいかないし、そもそも檻に閉じこめているのでもない限り、一人の人間を永遠に監視し続けることなど、不可能に等しい。
 ましてや彼女の夫であり公爵でもある彼を除けば、この屋敷にセラと同等の身分の人間は一人もいないのだ。
 彼女が本気で命じれば、逆らえる人間は誰もいない。逃げ出されないように見張ろうにも、限界があるというものだ。
 今日だって、そうだ。
 屋敷から抜け出して、貧民街とやらに向かって《解呪の魔女》とやらをやる気ならば、誰にも黙って屋敷を出れば良かっただろうと、ルーファスは思う。その方が、セラにとっては楽だったはずだ。それなのに、どうして?何か理由でもあるのか?
 そう訝しむルーファスだったが、セラの答えはひどく単純で……しかも、彼にとっては意外なものだった。
「……だって、約束したでしょう?」
 何の迷いもなく、さも当然のように、セラは言う。――約束だからと。
 透き通った、闇の中にあってもあざやかな翠の瞳が、ルーファスを見ていた。
「……約束?」
「うん。あの夜、あたしはルーファスに約束したでしょう?『もう、こんな風に公爵に黙って、屋敷から逃げ出したりしない』って……」
 そのセラの言葉に、ルーファスはあの夜の……初夜にセラが、屋敷から逃げ出した時のことを思い出す。

『あたしも約束は守る。もう、こんな風に公爵に黙って、屋敷から逃げ出したりしない』

 あの夜、逃げた花嫁を連れ戻しにいったルーファスに、幾つかのささやかな願いを叶える代わりに、セラはそう約束した。あの時の会話を忘れていたわけではないが、それが律儀に守られるとは、ルーファスは期待していなかった。
 あの言葉に、どれほどの重みがあるかなどわかりようもなかったし、夫婦とはいえ政略結婚で結ばれた自分たちの間に、そこまでの信頼関係があるとは、とても思えなかったからだ。
 疑っていたわけではないが、かといって信じていたわけでもない。
 ルーファスにとってあれは、その程度の深い意味のない言葉だった。だが、セラにとっては違ったのだろう。
「……それで、わざわざ出かけることを言いに来たのか?」
「うん。約束は、あたしが生きていて守れるうちは、守りたいと思っているから……あっ、あんまり悠長に喋っている場合じゃないんだった!じゃあ、あたしは外に出て来ます。夜明け前には戻るから、心配しないで!」
 まるで、いつか約束を守れない日が来るようなひどく微妙な言い回しをすると、セラは慌てたように、ルーファスに背を向ける。
「……待てっ!」
 そうして、遠ざかろうとする背中を、ルーファスは呼び止めた。
 彼の声に、「え……?」と後ろ振り返ったセラに、ルーファスは「俺も行こう」と言った。
「……は?」
 目を丸くし、首をかしげたセラに、ルーファスは同じ言葉を繰り返した。
「聞こえなかったか?貴女が魔女とやらの仕事をするために、貧民街に行くというならば、俺も一緒に行くと言ったんだ」
「いや……それは聞こえてたけど、何で?ちゃんと夜明けには戻るから、この前みたいなことはしないよ。ルーファス」
 意味がわからないという顔をするセラに、ルーファスはため息まじりに続ける。
 下町の娘のような言葉で喋るくせに、妙なところで浮き世離れしているというか、王女としての自覚がないというか……。
「こんな真夜中に、王女……でなくとも若い女が、一人で外を歩くつもりか?……前にも言っただろう?もし貴女の身に何かあれば、我が公爵家の責任になるのは避けられん……わかったら、俺がついていくことぐらいで、文句を言わないでもらおう」
「……心配してくれてるの?優しいね。ルーファス」
 少し意外そうに、だが、それ以上に嬉しそうに言うセラを、ルーファスは蒼い瞳で睨む。
 ただし、その視線には、先ほどまでの鋭さや、氷のような冷ややかさはなかった。
「……勘違いをしないでもらおうか。降嫁した貴女の身に、万が一、何かあればエドウィン公爵家の……つまり、当主である俺の責任になる。それを避けたいから、ついて行くんだ。別に、貴女の為じゃない」
 それが全て彼の本心であるかはともかく、普通の女はこれだけはっきりと貴女の為じゃないと言われたなら、機嫌が悪くなるだろうとルーファスは思ったし、それを避けようという努力もしなかった。
 言葉を尽くして、女の機嫌を取るなどという行為を、彼は今まで付き合った女たちの誰一人としてしたことがなかったし、またする気もなかったからだ。
 公爵家の当主という高い地位に加えて、容姿にも才覚にも、また財産にも恵まれたルーファスの周りには、女であれ男であれ、彼の周りにいることで甘い汁を吸おうとする輩が、常に絶えることがなかった。
 そんな輩を、ルーファスは常に冷ややかな目で見ていたし、邪魔になったり彼の意に沿わぬことをすれば、氷のようだと言われる冷淡さで別れを告げ、大概の場合、その関係が修復されることは二度となかった。……たとえ、恋人と言われる関係だったとしても、それは同じ。
 ほんの数人の近しい人を除けば、彼にとっての人間関係とはそういうものだったし、別段、それに不満もなかった。
 そして、それは政略結婚で迎えた妻にしても、変わらない……はずだったのだが――
「うん。そうだろうね……でも、それで良いの。あたしの為じゃなくても良いんだ。もし……」
 貴女の為じゃないという、ルーファスの言葉に対して、セラは憤る様子もなく、あっさりとうなずいた。
 その余りにも、あっさりした彼女の態度に、逆にルーファスの方が言葉を失う。
 自分の言葉をすぐに後悔するほど、彼は善人でも優しくなかったし、セラに愛情があるわけでもなかった。ただ、間違えたような気がした。何か自分が、決して触れてはいけないものに触れてしまったような、そんな気が……
「もし……」と、セラは言葉を続ける。
「――もし、あたしの為じゃないとしても、誰かがあたしの名を呼んでくれて、そばにいてくれるなら、それを許してくれるなら……あたしはそれで十分、幸せだと思うよ」
 その時のルーファスは、何も知らなかった。
 セラの言葉が、どんな重い意味を持っていたのかも、彼女の背負っているものも、その「幸せ」という言葉の意味も、何一つとして知らなかった。だからこそ、無知であったからこそ、誰よりも残酷でいられたのだ。
 ずっと後に、その言葉の真の意味を知った時、彼はこの時の自分を殺してやりたいほど憎むことになる……。
 しかし、この時のルーファスに、そんなことが想像できるはずもない。
 だから、ただセラの意味深な言葉に、首をかしげるだけだ。
「……それは、どういう意味だ?セラ」
「あたしからは話さないよ。きっと、ルーファスは知らない方がいい……その方が多分、幸せでいられる」
 何かを答えたような、あるいは何も答えていないような微妙な返事をしたセラは「着替えるだろうから、扉の外で待ってるね」とルーファスに言うと、さっさと部屋を出ていく。
 その背中を見送り、扉の外側に姿が見えなくなった後、誰に聞かせるつもりもなく彼は呟いた。
「……妙な女だ」
 どこか苦いものを含んだルーファスの呟きは、風の音にまぎれ、誰の耳に届くこともなかった。


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