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二章 王女の秘密 6


 あそこに魔術師がいる。
 セラのその言葉に、ルーファスは眼前の今にも崩れそうなと表現できるような、古いボロボロの家を仰ぎ見た。
 その家の長い歳月を経て黒っぽく変色した壁や、蔦や蜘蛛の巣が絡みついた窓、幾度も修理したらしい木製の扉などは、大貴族の当主として贅と優雅さを尽くした屋敷に住む彼から見れば、ここに本当に人が住んでいるのか?と疑いたくなるほどだったが、ここが魔術師の住処だと言われれば――その、古びたひっそりと隠れ住むような外観も、まぁ納得できなくもない。
 おそらくは、まるで無人の廃屋のような外観であることで、人の目を遠ざけているのだろうと、容易に想像できる。
 幸い、というべきかはわからないが、ここは貧民街と言われる場所だ。
 そのようなボロボロに崩れかけた家やら、それどころか家の形すら為していないものが多い中に、セラが指さした魔術師の住処だという家はひっそり紛れて、周囲の風景にとけこんでいた。
 風景の一部になるような、その目立たなさこそが、セラの言う魔術師とやらの狙いであろうと、ルーファスは思う。
 今より三百年前、英雄王オーウェンの時代のように、“魔女狩り”や大規模な粛正が行われることこそないものの、三百年もの時が流れた今でも、魔女や魔術師は人々から忌まれ、恐れられ……光のあたる場所で生きることは、決して叶わない存在だ。
 エスティアの建国の祖《英雄王オーウェン》と彼を裏切った《凶眼の魔女》の伝説が、色濃く残るこの国においては、それも仕方のないことであるのかもしれない。
 英雄王の治世より、この国では魔女や魔術師といった者たちは光のあたる場所で暮らすことが許されなくなり、命からがら国を捨てるか、法の目が届かぬ裏の社会に身を堕とす他なかったのである。
 しかし、彼らの力が必要とされなくなったわけではなく、国王の目が届かぬ場所にあっては身分の貴賤を問わず、魔術師やら妖しげな呪術師やらに様々な依頼をする者も、また絶えることがなかった。
 ルーファス自身は、魔術師やら呪術師やらに頼ろうなどとは愚かな真似だとは思うが、そのような者たちの存在は噂として知っていた。
 財と暇を持て余した貴族社会にあっては、誰それが呪術師に政敵を呪うように依頼しただの、誰それの奥方が早死にしたのは夫君が魔術師に依頼したからだの、そういった妖しげな噂の数々は事欠くことがない。
 無論、その大半が、無責任な噂の域を出ないものではあるが。
 そんな風に力を必要とされながらも、ひっそりと生きることを余儀なくされた魔術師たちにとって、ここ――貧民街のような場所は、隠れ住むのには悪くない場所なのかもしれない。
 国王の目は届かず、貴族たちは国の暗部として目を背け、それでいて欲と悪意にまみれた依頼人は、魔術師の力を求めてこの場所に足を運ぶのであろうから。……醜悪なことに。
 魔術師がいるという家を前にして、ルーファスがそんなことを考えていると、セラは「じゃあ、入ろうか?」と彼に声をかけ、一歩、前に出ると、その扉の前に立った。
 そうして、古びた木の扉をコツコツと控えめに叩くと、扉の中に向かって声をかける。
「……ラーグ?」
 短い沈黙の後、内側から声が返ってきた。
「――お客さんかな?じゃあ、合い言葉を答えて。“聖剣”と対になるものは?」
 返ってきたのは、高い声だった。いや、幼いというべきか。
 成人した男のものではない。
 だからといって、女のものでもない。まるで声変わり前の少年のような、高さと幼さの残った声だ。
 扉の内側からした合い言葉を答えて、という声に、ルーファスは侵入者を防ぐための対策にしてもずいぶんと慎重なことだなと思いながら、ちらっとセラの横顔を見る。
 合い言葉は、“聖剣” と対になるもの。
 このエスティアにおいては通常、聖剣とは、英雄王オーウェンの剣――聖剣ランドルフのことをいう。
 英雄王が生涯、手放すことのなかった聖剣は、忌むべき裏切り者《凶眼の魔女》を倒した武器でもある。
 その聖剣と対になる合い言葉といえば、英雄王か、魔女……あるいは……
 しかし、合い言葉を問われたセラは、彼の想像とは、全く違う言葉を口にした。
「聖剣と対になるものは……“鎖”。あたしだよ。ラーグ」
 扉が開いたのは、セラが“鎖”と口にしたのと、ほぼ同時だった。
「……セラかい?入っておいで」
 扉の内側からした声に、セラは「うん」と微笑んでうなずくと、ルーファスを促して、その扉の内……家の中へと入る。
 彼女の背中を追うように、ルーファスも、その、今にも崩れそうな古い家の中に入った。
 その家の中に入った瞬間、彼はしばし言葉を失う。
「……」
 ――金色。
 家の中に入った瞬間、ルーファスは、あたかもきらきらとした金の光が散ったような幻想を抱いた。
 きらきらとした、眩い光……。
 今にも崩れそうな、と表現しても違和感のないほど、まるで廃屋のような外観とは異なり、家の中は意外にもというべきか、暮らしやすいように小綺麗に整えられていた。
 淡い橙色の灯りに照らされた室内には、椅子や机は勿論のこと、天井までぎっしりと積み上げられた本棚やエルシェードいう古い弦楽器、それに何十種類もの薬草が並べられた棚などがあった。室内は綺麗に整頓されており、お世辞にも綺麗とは言い難い、ボロボロの古びた外観との違いにルーファスは驚く。
 しかし、そんな室内の様子よりもずっと先に、ルーファスの蒼い瞳に映ったのは、部屋の中央にある椅子に腰掛けた幼い少年の姿だった。
 ――金色の子供。
 そんな表現が、ふっと彼の頭に浮かぶ。
 部屋の中央の椅子に座っていたのは、十二、三歳くらいに見える少年だった。
 光を反射してきらきら輝くような、明るい金髪と、同じように明るい琥珀色の瞳をしている。
 顔の造作こそ普通というか、端整に整っているわけでもなく極々平凡なものだが、そのきらきらと輝く、まるで金の光のような少年の髪と瞳の色は――美しいと、素直に賞賛するに値するものだった。
 その金色の少年は、琥珀色の瞳にセラとルーファスの姿を映すと、椅子から立ち上がり、唇を開く。
「やぁ、セラ……少し遅かったね。何かあったのかい?」
 先ほど扉の内側からしたのと同じ、子供らしい幼さの残る高い声だった。
 しかし、口調は声に似合わず、落ち着いたものだ。
 大人びていると言ってもいい。
「心配をかけて、ごめんなさい。ラーグ。その、ちょっと色々あって……」
 セラはラーグ――と、少年に向かって呼びかけると、曖昧に答えて苦笑した。
 少年――ラーグはセラの言葉に、ふぅんと相槌を打つと、今度はその琥珀色の瞳を、ルーファスの方へと向ける。
 きらきらと、まるで瞳の中に金の光を散らしたような瞳で、じっと見つめられたルーファスは、やや気分を害したように眉根を寄せる。
 じっと凝視されるのは気分の良いものではないが、かといって、わざわざ視線を逸らすのも億劫だ。
 ……別に、睨まれているというわけではない。
 そのラーグという少年の瞳からは、別段、好意も悪意も感じられない。だが、ただの無垢な子供の視線というには、その瞳には威圧感のようなものがあるように、ルーファスは感じられた。善意も悪意もなく、ただ純粋に、こちらを見ている。
 彼を値踏みするような、試そうとするような、そんな視線でさえあった。
 (……子供の視線とは思えんな)
 口にも表情にも出さないが、ルーファスは内心でそう思う。
 ルーファスの方が、その少年――ラーグよりも幾つも年上なはずなのに、何故かそう思えない。
 むしろ、長い歳月を生きた老人に値踏みされているかのような、妙な違和感を抱く。
 ルーファスがそんなことを思っていると、スッと琥珀色の瞳が逸らされ、ラーグと呼ばれた少年は、再び、ルーファスの隣のセラの方を向いた。
 そうして、ラーグはにこっと穏やかに微笑むと、明るい表情とは裏腹に、どこか皮肉をふくんだような声で言う。
「まぁ、君が無事なら、それでいいんだよ。セラ……それで?君の横に立っている、妙に美形な……だけど、性格が歪んで捻じ曲がっていそうな男は一体、誰なんだい?」
 ラーグの、性格が歪んで捻じ曲がっていそうな男という言葉に、言われたルーファスよりも先に、セラがサーっと顔色を変えた。
「……っ!」
 彼女の隣には、ルーファスしかいないのだから、どうにも誤魔化しようがない。
 性格が歪んで捻じ曲がっていそうな男とは、初対面の相手に向けるものにしては、ずいぶんな言葉ではあるが、全く的外れというわけでもないあたりが、余計に始末に悪い。
 そこまで言われるほどかはともかく、ルーファスのことを、素直なわかりやすい性格と評する人は、おそらく皆無なのだから。
 しかし、その言葉に幾ばくかの真実が含まれていればこそ、その場の空気は余計に険悪なものとなり、セラはひくっと顔を引きつらせるより他になかった。……だが、まぁ、いつまでもそうしているわけにもいかない。
 セラはなけなしの勇気を振り絞ると、ちょいちょいとルーファスの服の袖を引いて、翠の瞳で恐る恐る彼の表情を見る。
 そして、なんとか場の空気を和ませようと、ラーグの発言を取り繕おうと懸命に言葉を重ねた。
「ご、ごめんなさい!ルーファス。そ、その、ラーグも多分、悪気はないと思うんだけど……」
 セラの言葉にも、ルーファスは無言だった。
 怒るでも不機嫌になるでもなく、眉すら動かさない無表情で、ラーグを見ている。
 その静けさが余計に恐ろしいと、セラは震え上がった。
 しかし、彼女にとって不運なことに、セラの災難はそこでは終わらなかった。――むしろ、そこからが本番というか、真の災難であったと言えるだろう。
「ああ、ごめんよ……」
 ラーグはにこにこと穏やかな笑みを浮かべたまま、ルーファスに向かって、軽い、余り誠意の感じられない謝罪をする。
 そして、セラの懸命な努力を、たった一瞬で無にするような言葉を吐いた。
「ああ、ごめんよ。君……僕って、根が正直者なものだから、思ったことを素直に口にしちゃうんだよねぇ……いやいや、本当に、悪気はないんだよ。さっきのも正直に、思ったままを言っただけだから。許してくれる?」
「――ラーグっ!」
 言葉こそ謝罪しているようだが、実際の意味はその逆だ。
 むしろ、謝罪とは正反対である。
 ラーグが本気で謝っていない証拠に、彼の琥珀色の瞳には、きらきらと悪戯っぽい光が宿っている。
「……セラ。誰だ?この無礼な子供は」
 それまで、しょせん幼い子供の戯言だと聞き流していたルーファスだったが、さすがに不快になってきた。子供の戯言に、反応するのも大人気ないことだとは思うが、ここまで露骨だと少しばかり腹立たしい。
 相手が、わざとだとわかっていれば、尚更のことだ。
「あ、うん。ラーグは……」
「いや、いいよ。セラ。僕が話すから」
 セラが答えようとしたのを言葉で制し、ラーグは「僕が話す」と言って、一歩、ルーファスの方へと歩み寄った。
 そして、穏やかとも不敵とも言える笑みを浮かべて、ラーグは――金色の少年は名乗った。
「僕の名は、ラーグ。魔術師だよ……そして、君の隣にいるセラは、僕の魔術の弟子さ。それで?君は?」
 ――魔術師。
 セラの師匠だと名乗ったラーグに、ルーファスは本当か?と問うように、隣のセラに視線を向けた。
 彼の視線に、セラは本当だという風に、小さくうなずく。
 そんなセラの態度を見て、ルーファスはようやく、子供にからかわれているのではないかという疑いを捨てた。
 セラが自分に嘘をつくという可能性もないではないが、そんなことをしたとしても、彼女には何の益もない。むしろ、時間の無駄だ……。そう考えた彼はとりあえず、セラの言葉を信じることにした。言いたいことは山ほどあるが、まずはそうしなければ、これ以上、話が進まない。
 ルーファスはそう決断すると、もう一度、ラーグの方へと向き直った。
 セラの言葉を信じるならば、この無礼な少年は“魔術師”で、彼女の師匠でもあるらしい。
 そういえば、とルーファスは、先ほどセラとした会話を思い出す。
 セラは魔術師を、こう評していた。子供。きらきらしていて金色で綺麗。ひよこみたい――と。
 彼としては、ひよこという表現はどうかく思うが、他の二つについては的確だった。となると、やや信じ難いことだが、この少年にしか見えない魔術師が、セラの師匠なのだろう。
「それで?君は誰なのかな?」
「……ルーファス=ヴァン=エドウィン」
 ラーグの再度の問いかけに、ルーファスは冷ややかな声で名乗った。
 正直に言って、初対面であそこまで無礼なことを言われれば、相手に対して好感の持ちようもないが、かといって名乗られたのに名乗り返さないという行為は、貴族としての礼節にも、彼の性格にも反する。
 それゆえに、彼は自分の名を名乗った。
「ああ。君が、エドウィン公爵……セラの夫か。君の噂は、よく耳にしているよ。公爵」
 ルーファスが名乗ると、セラから話は聞いていたのか、ラーグは「ああ」と納得したように、うなずく。
 ラーグが口にした、君の噂はよく耳しているよ、という言葉に、ルーファスは首をひねった。
「噂……?」
 怪訝な顔をするルーファスに、ラーグは「うん。まぁね」と首を縦に振る。
「うん。まぁね。君の噂は、よく耳にしているよ。エドウィン公爵。魔術師のところに依頼に来るのは、貴族も多いからね……そうだなぁ……王太子殿下の親友だとか、氷みたいに冷たい男だとか……あとは、君のせいで、恋人に捨てられたって男が君を呪いに来たりね。ほら、身に覚えはないかい?公爵」
 表情こそ無邪気な子供のように、にこにこと穏やかに笑っているが、内容はとても穏やかとはいえない言葉を口にするラーグに、セラは「ラーグっ!」と声を上げた。
 そう声を上げると、セラは隣のルーファスが無表情のままラーグの方に歩を進めるのを見て、なにやら嫌な予感を感じて、彼の腕を掴むようにして必死に止める。
「ラーグっ!……って落ち着いて、ルーファス!気持ちはわかるけど、落ち着いて!あたしが、ラーグの代わりに謝るから!」
 腕を掴んで、止められたルーファスは肩をすくめると、
「……礼儀を知らない子供に、礼儀を教えてやるのは、年長者の役目だろう?……そうは思わないか?セラ」
と、実際の行動はさておいて、言葉だけは、さも正論のようなことを言う。
 しかし、その問いかけに答えたのは、問われたセラではなく、ラーグだった。
 ラーグは明るい琥珀色の瞳にルーファスを映すと、「いやいや」と首を横に振りながら、とても信じ難いことを言う。
「いやいや、こう見えても、僕は君より年上だよ。君が、三百歳以上じゃなければね。公爵」
 そう言ったラーグに、ルーファスは疑いの眼差しを向けた。
 ラーグの外見を見た限りでは、だいたい十二、三歳くらい……彼の従者であるミカエルと比べてすら、わずかに年下に見える。
 幼い顔立ちも、声変わり前の高い声も、大人になりきらない華奢な骨格も、どこをどう見ても十代前半の少年にしか見えない。
 仮に成長が遅い方だとしても、ミカエルより……十四歳より上には見えなかった。
 それを、二十歳のルーファスよりも年上とは、嘘にしても稚拙すぎる。
 子供とはいえ、同じ嘘をつくのならば、もう少しまともな嘘をついてもらいたいものだと、ルーファスは心中で毒づいた。おまけに――
 (……三百歳以上だと?馬鹿馬鹿しい。まさか、己は三百年以上も生きているとでも言うつもりか?)
 下らない、とルーファスはその考えを切り捨てる。
 もしも、ラーグの言葉を額面通りに受け取るならば、この幼い少年にしか見えない“魔術師”は、三百歳を越えていることになる。
 三百年前といえば、エスティアの建国の祖《英雄王オーウェン》と、あの悪名高き裏切り者《凶眼の魔女》の時代である。
 そんな時代から生きているなど、そう容易に信じられることではない。
「どういう意味だ?それは」
 嘘というには稚拙すぎて、相手の、ラーグの真意がわからなかったルーファスは、そう問う。
「……さぁ?どうだろうね。君が、自分で考えてごらん」
 ラーグは答えをはぐらかすようにそう言うと、「セラ」と、それまで心配そうな顔で事の成り行きを見守っていた弟子の名を呼んだ。
「あっ、うん。何?ラーグ?」
 まるで火花の散るような険悪な空気に、じりじりと神経を消耗していたセラは、ラーグの目が自分に向けられたことで、少しホッとした表情になる。
 本人同士の相性の問題だから、険悪になるのは仕方ないにしても、喧嘩はしないでほしいと、セラは願った。
 争い事はするのも、見るのも嫌いだ。それが、近しい人であれば尚更である。
 セラがそんなことを思っていると、ラーグが窓の外を指さしながら言った。
「そろそろ外に出た方が良いんじゃないかい?さっきから、道のところに《解呪の魔女》に用がある人たちが、二十人くらい並んでいるよ……あんまり待たせるのも可哀想だから、そろそろ出てあげたら」
 窓から見える外の通りには、老人から子供まで、十数人の男女が列をなしている。
 皆、貧民街の住人たちだ。
 自分が病を抱えている者、親や子が病を抱えている者、あるいは怪我を負った者、それぞれに治療の手を必要としている彼らは、しかし、その貧しさゆえに薬を買うことも出来ない者たちでもある。
 だからこそ、彼らは《解呪の魔女》の名に救いを求めて、その列に並ぶのだ。
 解呪の魔女――セラに、病や怪我の相談をしたり、薬草を分けてもらうなどするために。
「うぁ、大変っ!待たせちゃって、悪いことをしたね。急がなきゃ!」
 窓の外に並んだ人々の列を見たセラは、慌てたように叫ぶと、外に飛び出していこうとする。
 何も持たずに出ていこうとするセラに、ラーグは「ちょっと待ってよ」と苦笑を浮かべて、机の上にあった何やら細々と薬草や包帯やらが入った木の箱を、彼女に手渡しながら言った。
「肝心なものを忘れていって、どうするのさ。ほら、セラに頼まれた塗り薬も、手に入れておいたよ」
 セラはラーグの手から薬の入った箱を受け取ると、にっこりと嬉しそうに微笑んだ。
「わぁ……ありがとう。ラーグ」
 その笑顔が本当に自然で、家族に向けるようなあたたかいものであったことに、ルーファスは驚く。
 この少女は、こんな表情も出来たのかと。
 セラはよく微笑う少女ではあったが、そのような何の警戒心も不安もない、無垢で純粋な微笑みを彼が見たのは、この時が初めてだった。もっとも、それは、彼に向けられたものではなかったのだが。
 ちらと胸によぎった不快感に、ルーファスは気づかないふりをした。
 胸を焦がす小さな炎も、無視すればすむ。
 ……気のせいだ。これが、嫉妬心などであるはずがない。
 セラの自分は、形だけの夫婦だ。
 お互いの利害で結ばれた者同士に、愛情などあるはずもない。
 あってほしいとも思わない。
 狂うほどに愚かな恋など、心から誰かを愛するなどという愚かな真似を、自分はするつもりがないのだから。――そうすれば、両親のようにはならずにすむ。
「いやいや、この程度は何でもないよ。セラの……可愛い、可愛い、僕の弟子の頼みだからね。君は、もっと我がままを言ってくれて良いんだよ。セラ」
 ラーグはそう言うと、ルーファスの方はちらりとも見ようとしないで柔らかな笑みを浮かべて、少し背伸びをし、子供らしい小さな手で、そっとセラの亜麻色の髪を撫でた。
 セラの方が背が高いので、身長差と見た目を考えるとおかしな図なのだが、不思議と違和感がないのは、頭を撫でられているセラが嫌がりもせず、少しくすぐったいような表情で、それを当たり前のように受け入れているからだろう。
「もう十分、言っているけどなぁ。でも、ありがとう。ラーグ……じゃあ、外に出てくるね。悪いけど、ルーファスはここで待っていて」
 セラがそう言って、外に出ようと扉に手をかけると、ラーグがひらひらと手を振った。
「ん。気をつけてね」
 扉を開けて、外に一歩、足を踏み出した瞬間、セラはルーファスの方を振り返った。
 透き通るような翠の瞳が、こちらを見る。
「ルーファス」
「……何だ?セラ」
 何事かと思うと、セラはひどく真剣な顔で、彼が拍子抜けするようなことを言った。
「ええっと、あたしがいない間、ラーグに何か意地悪を言われても、気にしないようにね。ルーファス……ラーグはね、本当は優しいのに、ほんの少し口が悪いだけなんだから」
「……言いたいことはそれだけか?」
「うん」
 セラは大真面目な顔で、首を縦に振る。
 どうやら、自分が外に出ると、ルーファスとラーグが揉めるのではないかと、本気で心配しているらしい。
 まるで、心配性の母親のような顔をしていた。
 ルーファスの方はといえば、何か毒気を抜かれたような気分になって、額に手をあてると、はぁ……と、深いため息をついた。
 何か色々と、どうでもよくなってきた。
 先ほど、かすかな嫉妬のような感情が胸をよぎったことは、きっと気のせいだ。
 むしろ、あれは気の迷いだったと思いたい。
「……貴女が心配しなくとも、子供相手に揉める気は、少なくとも俺にはない。ただし心配ならば、用事を済ませて、早く戻ってくることだ……もし夜明け前に屋敷に戻れなければ、ミカエルやらメリッサやら、屋敷の者たちが怪しむぞ」
 ルーファスがため息まじりに言うと、セラは彼の心中など全く気づかないように「うん」と明るく笑い、ラーグの方に向き直る。
「じゃあ、行ってくるね。ラーグ」
「はいはい。それじゃ、気をつけるんだよ。セラ……もし、君の身に何かあったら、僕の三百年が無駄になるんだから」
「わかってる!じゃあ、また後でね。ルーファス」
 ラーグの言葉にうなずくと、セラは黒いフードをかぶって、彼女を《解呪の魔女》を待つ人々の元へと、外へ駆けていく。
 彼女が去った室内には、ルーファスとラーグの二人だけが残された。


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