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二章 王女の秘密 8


「それで……」
 クスクスというラーグの笑い声が止むのを待って、ルーファスは鋭い声で尋ねた。
「それで、そもそも呪いとは何なんだ?魔術師」
 ――呪いとは一体、何なのか?
 彼自身が望んだことではないとはいえ、魔女だの魔術師だのという輩と関わっていても、ルーファスは未だ呪いについてよく理解していなかった。
 呪いとは、魔術によって人の体や心を蝕む、忌まわしきもの。その程度の漠然とした知識はあっても、呪いというものの本質については、まるで理解していない。
 それは別段、彼が無知であるということではなく、貴族であれ平民であれ、呪いに関わったことのない者の知識は皆、この程度であろう。
 呪いというものの存在は知っていても、それ以上の知識を持たない者が大半だ。
 ――呪いとは、魔術によって人の体や心を蝕む、忌まわしきもの。
 このエスティアにおいて、魔女や魔術師とは忌まれ疎まれ、光のあたらぬ場所でひっそりと隠れ住むしかない者たちだ。
 そのような者たちが使う、魔術――呪いなど、誰かを呪いたいと渇望する者たちはともかく、それ以外の者たちにとっては、危険かつ胡散臭いものであり、うかつに近づかない良いものとされていたからである。
 第一、日々を平凡に、だが平穏に善良に生きる平民たちが、たとえ誰かを強く憎むことはあっても、わざわざ憎い相手を呪ってやると決意し、自分の身を危険にさらしてまで、実行することは少ないだろう。
 誰かを憎いだの邪魔だの思うことがあっても、よほどのことがない限り、普通の人間はそこまでしない。
 ルーファスの属する、権謀術数がうずまく貴族社会においては、金と歪んだ権力欲と暇を持て余した輩が、呪いに手を出すことはそこまで珍しくないと言われているが、ルーファス自身がそれに興味を抱いたことは、今まで一度もなかった。
 己以外の何者も頼りにしたことのない彼にとって、呪いなど頼る価値も見いだせないものだったからだ。
 しかし、こうなってみれば、事情は別だ。
 呪いとやらにここまで踏み込んでしまった以上、無知でいることはかえって危険であると、ルーファスは思う。
 それに、何も知らないからと言って、人に主導権を握られてばかりなのは、彼の本意ではない。
「さんざん人を巻き込んでくれたんだ……まさか、教えないとは言うまいな?魔術師」
 ルーファスがそう言うと、魔術師――ラーグは呆れたように肩をすくめて、ちょっぴり皮肉気な口調で言う。
「いや、僕の立場からすると、君が勝手に、全く頼んでもいないのに首を突っ込んできた形だけどね……まぁ、いいさ。そんなに知りたいなら、特別にタダで教えてあげるよ。その昔、百年に一度の天才魔術師と謡われた、この僕がね」
 特別にタダでという言葉と、天才魔術師という言葉を、殊更に強調したラーグに、ルーファスは白い目を向けて言う。
「……どうでもいい自慢話は良いから、呪いについて教えてもらえるか?俺も、そこまで暇じゃないんでな」
「あーはいはい。冗談だってば。まったく……君は面白味の欠片もない男だねぇ、公爵。さっきも言ったけど、師匠としてセラに同情するよ。君みたいに、冗談も介さない男が夫じゃあ、人生が楽しくないだろう」
「余計な世話だ……それで?本当に教える気はあるのか?」
 ルーファスが疑るような眼差しを向けると、ラーグは「はいはい」と軽い調子で、うなずいた。
「はいはい。まったく……君は性根が歪んでるだけじゃなくて、せっかちな男だねぇ、公爵。今更、遅いだろうけど、もっと鷹揚になりなよ……まぁ、いいや。呪いっていうのはね……」
 呪い、とそう口にした瞬間、ふっとラーグの纏う雰囲気が変わる。
 どこがどう、と上手く言えないのだが、ルーファスはそう感じた。
 それまでの人を食ったような飄々とした態度はなりをひそめて、魔術師の深い琥珀色の瞳には、何処か侵し難い、静謐ささえ宿っているようだ。
 硝子のように透明でありながら、きらきらと金の光を放つようでもあり、同時に何処までも深い色合いを持つラーグの瞳は、まるで世界の深遠を映しているようで、ルーファスは息を呑む。
 それと同時に、先ほどと同じ、理由のない不快感が彼の胸を支配する。
 目を逸らすなどという、まるで逃げのような行為は、惰弱なことだと嫌っているにも関わらず、目を逸らしたい心境にかられた。
 (……嫌な目だ)
 他人には隠しておきたい、心の奥底まで見透かすようなその瞳に抱いたのは、恐れにも似た不快感……。
 しかし、そんな内面の感情を、目の前の魔術師に悟られるのは、それより更に不快きわまりないことだったので、ルーファスは仮面のような無表情を顔に張り付けた。
 こんな風に、揺れた心中を他人に悟られたくない時、表情を殺すことには慣れている。
 そんなルーファスの感情を知ってか知らずか、ラーグは静かな声で続けた。
「呪いっていうのはね……一言でいうなら、人の強い想いだよ」
「人の……強い想い?」
 首をかしげながら、ルーファスは言われた言葉を繰り返す。
 人の強い想い?
「そっ」
 ラーグは首肯し、言葉を続けた。
「呪いの核となるのはね、人の強い想いなんだよ……たとえば、誰かを強く憎んだり、殺したいほどに恨んだり妬んだり、あるいは気が狂うくらい誰かに執着したり……そういった強い負の感情が、呪いの元になるのさ。もっとも……」
 そこで一度、言葉を切ると、ラーグはにやりっと笑って、右手をスッと水平にかざすと、ぱっと握っていた小さな拳を開く。
 すると、魔術によるものか、その手のひらには、ゆらゆらと揺らめく青い炎が宙に浮かんでいた。
 ゆらゆらと踊る青い炎が、幼いラーグの横顔を、淡く照らす。
「もっとも……強い負の感情を抱いたからといって、それがそのまま呪いになるわけじゃない。呪いの材料となるそれを、上手い具合に魔力を加えて増幅させて、ちゃんとした呪いの形にするのが、僕ら魔術師や呪術師の仕事ってわけ。そうして、完成された呪いは、人の心や体……あるいは人の魂までも蝕む」
 そこまで言うと、ラーグはゆっくりした動作で右手の手のひらを握り、ゆらゆら揺れる青い炎を消しながら、付け加えた。
「まぁ、一口に呪いと言っても、呪いの形や効果の現れかたは千差万別だし、それがどんな形になるかは、呪いの核となる人の感情に影響されるんだけどね。おまけに、呪いの持続期間なんかは、もろに術者の力量次第だし……ま、基礎知識としては、このくらいかな。理解したかい?公爵」
 理解したかい?と、琥珀色の瞳を向けられたルーファスは腕組みし、スッと眉根を寄せた。
 今のラーグの説明で、たしかに呪いというものの、基本的な情報は得ることが出来た。
 要約すると、呪いの核となるのは人の強い負の感情であり、それを魔力によって呪いの形にすることが可能なのが、魔術師やら呪術師やらという輩であるらしい。
 そして、呪いがどんな形で現れるかは、呪いの核となった感情に影響され、また呪いの効力が続く期間は、術者の力量に影響を受ける……ということだ。
 それが正しい事実であるのか、またラーグが本当のことを喋っているのか、ルーファスには確かめる術もないが、セラの師匠だという魔術師の言葉を信じるならば、そういうことになる。
 しかし、ルーファスには、まだ気になる点があった。
 彼はその疑問を問うべく、唇を開く。
「なるほど……呪いとやらの基本的なことは、わかった。だが、幾つか肝心なことを言っていないだろう?魔術師。それを教えてもらわねば、聞いた意味がない」
 ルーファスの言葉にラーグは、はんっ、と軽く鼻を鳴らした。
「肝心なこと?……魔術や呪いについて、何にも知らない素人のくせに、ずいぶんと生意気なことを言うね、君は。まぁ、いいさ。正直、もの凄―――――く気に食わないが、君は僕の可愛い弟子の夫だからね。特別に、答えてあげるよ……で?何が知りたいんだい?」
 いちいち人の神経を逆撫でしてくるラーグの台詞を、ひたすら平静を装うことで受け流し、ルーファスは疑問を口にした。
「さっき、呪いは人の強い感情を核にすると、そう言ったな?つまり、その感情を魔術師に提供する人間が、誰かを呪うことを望む依頼人……ということだろう。問うまでもないことだから、それはいい……疑問はそれからだ。呪いを依頼する人間に対し、貴様らが要求するものは何だ?魔術師。金か?それとも……」
「……そこは無料奉仕の精神で、とか言っても、君は信じてくれないんだろうね?公爵」
「それから……」
 ラーグのふざけた回答を無視して、ルーファスは続けた。
「――セラは、あの王女は人々から《解呪の魔女》と、そう呼ばれているだろう?呪いというのは、そう簡単に解く……効力を消すことが出来るものなのか?」
 ルーファスが疑問をぶつけると、ラーグはしばし沈黙して、その後、感心した風に言った。
「僕の話を聞いて、すぐにそこまで考えるとは……どうやら君は、僕が思っていたより、まあまあ賢いみたいだね。氷の公爵の異名は、伊達じゃないってことかな」
「……俺のことを、馬鹿にしているのか?」
 賢いみたいだね、というラーグの言葉に、ルーファスは眉をひそめた。
 氷の公爵とあだ名され、若き切れ者として王宮でも一目おかれるルーファスにとって、聡明だの賢いだのというのは、まだ少年だった時から、いささか聞き飽きるほどに言われ慣れた言葉だ。
 少年の時、彼は公爵家の子息として、ありとあらゆる分野の二十人近い家庭教師に学んだ。
 それらの家庭教師が教える事柄を、ルーファスは完璧に、しかも同年代の子供と比べて、短期間で身につけるたび、家庭教師たちは口を揃えて……いささか引きつった顔で、彼のことを聡明な若君だと評した。
 もっとも、それらの家庭教師たちが陰でルーファスのことを、可愛げのない子供だの、こんなに愛情の持てない教え子は初めてだの、露骨な陰口を叩いていたのを、彼は知っている。
 まぁ、そんな過去はともかくとしても……ここまで誠意の感じられない、賢いは初めてだった。
 むしろ、馬鹿にされているようだ。
「嫌だなぁ。最初からわかってたけど、君は、まったく素直じゃない男だねぇ。公爵……褒め言葉くらいは、素直に受け止められないと、これから先、きっとロクな人生を送れないよ」
 至極、愉快そうにそう言うと、ラーグはくっくっと、まるで猫のようにのどを鳴らした。
 ルーファスが冷ややかな表情で睨んでも、一向にその態度は変わらない。
「まるで口から先に生まれてきたような人種だな、魔術師というのは。いっそ、その饒舌すぎる舌を引き抜いてやった方が、世の中の為になるか?」
「ふふふ。その言葉は、そっくりそのまま君に返すよ。公爵。おっと、話がズレたね。……ひとつめの、魔術師に呪いを依頼するための対価だけど、まぁ、大概、お金が多いかな。決して安くはないけどね……だけど、それだけじゃ、済まない場合もある」
「……金だけじゃすまない?では、代わりに何を?」
 呪いの対価は、金だけじゃ済まない場合もあると言ったラーグに、ルーファスは首をかしげる。
 その問いかけに、琥珀色の瞳の魔術師は淡々と答えた。
「もしも、金が足りない場合はね、たとえば依頼人の寿命や記憶、あるいは腕や指のような体の一部……そんなものを、対価として要求するんだ。僕ら魔術師にとっては、そういう魔術に利用できるものは、金と同等の価値があるからね……ま、結論すると、呪いは安くないってことさ。わかったかい?公爵」
「……ああ。説明を受けたことはな」
 わかったかい?というラーグの問いかけに、ルーファスは「ああ」とうなずく。
 正直、呪いについて、必要な全てを理解したと言い難いが、大方の知識は得たと言っていいだろう。
「で、ふたつめの呪いを解く方法だけれどね……簡単ではないけれど、呪いを解くというのも、僕ら魔術師の領分だから、出来るよ。ただし、呪いをかけた術師より、魔力が上じゃないと難しいけどね……ほら、外を見てごらん。ちょうど、セラが呪いを解くところだよ」
 ラーグの言葉に促されるように、ルーファスは視線を窓の外へと向けた。
 その言葉通り、窓の外ではちょうど、腕を黄金に変えられた商人――ギルアム=ローデルが、≪解呪≫の魔女であるセラに、何事かを話しかけているようだった。
 黄金の腕を見せながら、商人は身振り手振りを交えて、セラに何事かを訴えているようだ。
 その会話の内容は大方、呪いを解いて欲しいとか、この腕をどうにかしてくれとか、そんなところであろうと、ルーファスは思う。
 強欲、と悪名高い、その商人の後ろには、浅黒い肌の屈強そうな護衛が、まるで影のように控えていた。
「ねぇ、君は、あの商人の男……ギルアム=ローデルについて、どう思うかい?」
 そうして、商人の男とセラの様子を窓越しに見ていた時だった。
 ラーグは商人を指さしながら、そうルーファスに問いかける。
 ルーファスはちらっと、商人の顔を一瞥すると、やや不快そうに答えた。
「ギルアム=ローデルか?強欲な商人……それ以外の言葉が見つからないな。ずいぶんと悪質な商売で、有名だろう。金の為なら、己の魂すら売り払う、そんな男だろうな、アレは」
 他人から奪い取った財産でか、でっぷりと肥え太った腹と、ひどく残忍な目をした商人の男――ギルアム=ローデル。
 ルーファス自身が何か被害を受けたわけではないが、その残忍で卑劣な商売のやり口には、嫌悪感を覚えずにはいられない。
 金を稼ぐのが商人の本分とはいえ、貴族には卑屈なほど媚びへつらい、弱い者や貧しい者から財産を巻き上げ、絶望の淵に叩き落とすというあの男には、何の誇りも、また商人としての美学も見いだせないからだ。
 自然と口から出る言葉も、容赦のないものになる。
「そうだね……でも、それだけじゃないんだよ」
 ラーグはルーファスの言葉にうなずいた後、商人の男を指さしたまま、言葉を続けた。
 その琥珀色の瞳は冷やかに、商人の黄金の腕を見つめている。
「あの商人の男はね……表向きは、手広く商売をやってる、富裕な商人だけど……裏では、さんざん悪辣なことをして、儲けてきた男なんだ。人を騙すだの、陥れるだのは当然だとしても、それ以外にも裏では、人身売買だの麻薬だのにも手を出してる。あの商人のせいで、何人が不幸になったか、死んだかわからないぐらいさ……まぁ、はっきり言うと、クズみたいな男だよ」
「……」
 ラーグの言葉を、ルーファスは否定しなかった。
 人身売買だの麻薬だの、表に出せない商売でも、あの強欲な男なら平気な顔でやりそうだ。
 黄金の、呪われた腕を冷やかに見ながら、ラーグはさらに言葉を続ける。
「ああして呪われたのだって、今まで散々、人を騙して陥れてきた結果なんだろうさ。正直、半分以上、自業自得としか思えないけどね。僕は。でも……」
 窓の外では、セラが呪われた商人の黄金の腕に、手を伸ばしているところだった。
 そっと翠の瞳を伏せ、少女は――≪解呪の魔女≫は、何事かを唱える。すると、ほぼ同時に、周囲が白い光に包まれた。
 その光の眩しさに目を細めながら、あの夜と同じだと、ルーファスは思う。
 初夜の時、セラが黒い霧のようなものに覆われた、呪われた男を助けた時と同じ光――
 呪いを、解くための光。
「……」
 その白い光が消えた時、強欲な商人の黄金の腕は、血の通った生身の腕へと戻っていた。
 ――呪いが、セラの力によって消えたのだろう。
 呪いから解放された商人と、その護衛である傭兵風の青年は、幾度も黄金から生身に戻った腕を凝視し、その感触を確かめるように触れ、呪いが消えたことを確認しているようだった。
 そんな商人たちの横では、セラが疲れたような、安心したような表情でそれを見守っていた。
 無事に、呪いを解けたことに安堵しているのだろう。
 そんな弟子の姿を、ラーグは何処か複雑そうな表情で見つめて、呟くように言った。
「でも……あんな救う価値のなさそうな男でも、セラは助けちゃうんだ。それが、あの娘の優しいところでもあり……同時に、救い難いほどに愚かなところでもある」
 その琥珀色の瞳に宿るのは、ひどく複雑な感情。
 愛しさと憐れみと、わずかな蔑みと……全てが混じり合ったようなそれ。
 しかし、それは、ほんの一瞬のこと。
 複雑な、憂いを帯びたような表情は一瞬で消え、「魔術師……?」と怪訝に思ったルーファスが問いかけた時には、すぐに先ほどまでの飄々とした態度に戻っていた。
「魔術師……?」
「さぁ、そろそろ頃合いかな?」
 ルーファスの問いには答えず、ラーグは何処か愉快そうに言うと、机の上にあったランタンを手に取り、ルーファスに背を向けると、たたたっと早足で扉の方へと歩いて行った。
 その唐突なラーグの行動を、不審に思ったルーファスは、その背中を「おいっ」と呼びとめる。
「おいっ!いきなり、どこに行く気つもりだ?魔術師」
「ん?……ああ、退屈なようだったら、君も一緒に来るかい?公爵」
 扉を開けながら、振り返ったラーグはそう言うと、くくくっと猫のように喉を鳴らしながら、「そうしたら……」と続けた。
 ランタンの灯りを受けて、琥珀色の瞳がきらきらと、美しく……同時に、どこか妖しげな光を放つ。
「――面白い見世物が見れるよ」
 面白い見世物、とだけ言うと、ラーグは扉を開けて、セラのいる外へと出て行った。
「……」
 ラーグの言葉に、言いようのない不吉さと、何処か悪趣味なものを感じながらも、ここに居ても仕方ないと判断したルーファスは、魔術師の後に続いて家の外に出た。
 片手にランタンの灯りを持ち、夜の闇の中へと踏み出す。
 外へ出てすぐ、先を歩いていたラーグが、振り返ることなく言った。
「さぁ、君にひとつ、質問しようか?公爵……」
 その視線の先には、強欲な商人――ギルアム=ローデルとその護衛である男と、そして……セラの三人が、通りで何事かを話しているのが見える。
 最初は、かすかにしか聞こえなかった、彼らの話し声。
 しかし、ラーグとルーファスがそちらの方に歩を進めるうちに、その話し声は段々と、はっきりした鮮明なものになっていく。
 同時に、彼らの距離も近づいていた。
 歩きながら、商人とその護衛である男に嘲るような目を向けつつ、ラーグは皮肉気な口調で言った。
「呪いから解放された今、あの商人の男にとって、魔女であるセラの存在は、はたして必要かな?それとも……」
 ルーファスにはすぐ、ラーグの言いたいことが呑み込めた。
 ゆえに、即答する。
「いや……むしろ、邪魔だろうな」
 その言葉は、真実だ。
 呪いから解放された今、あの商人の男にとって、セラは――≪解呪の魔女≫は、もう必要な存在ではない。
 むしろ、恨みを買って呪われたなどという不名誉な事実と、弱味を握られている分、邪魔な存在だ。
 しかも、クズのような商人とはいえ、あれも一応は宮廷に出入りを許されている男だ。
 そんな男にとって、黄金の呪いに苦しまされたうえに、それを忌まわしい魔女に救われたなど、おそらく消したい事実に違いない。
「そう。邪魔なんだよね……じゃあ、ここで、ふたつめの質問だ。邪魔な人間を黙らすには、どうしたらいい?」
 ルーファスの言葉に相槌を打つと、ラーグは続けた。
 邪魔な人間を、黙らせたい。
 そのためには――?
「……わざわざ言う必要もない」
 ひどく冷淡に、ルーファスは答える。
 邪魔な人間を黙らせるのに、もっとも効率の良い方法とは、消す……即ち、殺すということだ。
 どうせ、あの強欲な商人にとって、貧民街の住人……しかも、魔女を殺したところで、きっと虫けらを一匹、潰したぐらいの感覚であろう。
「正解っ!君って、悪人の心理がよくわかっているみたいだね。公爵」
「貴様……」
 ラーグが、全く褒め言葉にならない褒め言葉を、口にした瞬間だった。
 ルーファスたちの耳に、商人らの会話が響く。
 いつの間にやら、彼らの距離は近づき、ラーグたちが手にしたランタンの灯りが、商人の背中を淡く照らしていた。
「グイエン」
 背後から、気配を殺して近づいているルーファスとラーグに気づくことなく、強欲な商人はグイエン――と、傍らの護衛の名を呼ぶ。
「はい。旦那様」
 浅黒い肌に刺青、鍛え上げられた鋼のような肉体を持つ、傭兵風の男――グイエンは、雇い主の呼びかけに、どこか訛りのある口調で「はい。旦那様」と答えた。
 そんな護衛に、商人は目の前のセラ……自分を呪いから救ってくれた恩人である少女を指さすと、冷酷な声で命じる。
 魔女を殺せ、と。
「グイエン。魔女を……その若い女を殺せ!もう用済みだ。容赦はいらん……魔女なんぞ、殺した方が世の中の為になる」
 いかにも、それが正しいことであるかのように言う商人に、彼の前にいたセラはビクッと身を震わせ、怯えた顔で数歩、後ろに下がる。
 そんな少女の両手は、恐怖のためか、不自然に震えていた。
「はい。旦那様」
 雇い主である商人の命令に、護衛である男は感情を感じさせない無表情でうなずくと、腰の剣を抜く。
 そして、それを目の前で震える少女……セラに向かって、情け容赦なく振り上げた。
 怯えるセラの顔を、剣が切り裂く――ことはなかった。
「……なっ!」
 セラに剣が向けられたのを見て、反射的に剣を抜こうとしたルーファスの目に、右手に短剣を構えたラーグの姿が映る。
 そして、ラーグは「はっ!」という声と共に、その短剣をセラを襲おうとしている護衛の男に投げつけた。
 投げられた短剣は、凄まじい速度で回転しつつ、弧を描いて飛んでいく。
 そして、短剣は……セラに剣を振りおろそうとしていた男の右腕に、見事に突き刺さった。
「ぐっぁ……あああああぁぁ――っ!」
 予期していなかった攻撃に、利き腕に短剣を突き刺された護衛の男は、強烈な痛みに悲鳴を上げた。
「な、何だ……?」
 護衛の絶叫に、雇い主である商人も、一体、何が起こったのかと呆然とした顔をする。
「命中っ!……久しぶりだけど、思ったよりも、腕は落ちてないみたいだなぁ」
 そんな商人と護衛を小馬鹿にするように、短剣を投げたラーグは、からからと屈託なく笑う。
 無邪気な明るい笑顔は、とても今、護衛の腕に見事に短剣を命中させるという、離れ業をやってのけた人のものとは思えない。
 さすがのルーファスも驚きを隠せず、「……大した腕だな」と言った。
「いやいや……長く生きているとね、これぐらいの裏芸は身に付くものなんだよ」
 大した腕だな、というルーファスの言葉に、ラーグは「大したもんじゃないよ」と首を横に振った。
 そんな会話をする彼らの姿に、気付いたセラが、「あっ!」と驚きの声を上げた。
「あっ、ラーグっ!ルーファスもっ!」
「大丈夫かい?セラ……怪我とかしてない?」
 事態についていけず呆然とする商人と、腕の痛みに呻く護衛を、眼中になしとばかりに完璧に無視して、ラーグは心配そうにセラに尋ねた。
「あ、うん。大丈夫だよ。助けてくれて、ありがとう。ラーグ……ルーファスも」
 セラの答えに、ラーグは安心したように笑う。
「いえいえ、どういたしまして。君に怪我がなくて、何よりだよ。セラ」
「礼を言うのは、魔術師の方だけで十分だ。俺は何もしていない」
 ルーファスが、そう言った時だ。
 事の成行きに呆然としていた商人が、怒りと恐怖がないまぜになったような表情で、セラたち三人をぶるぶると震える手で指さすと、聞き苦しいほど動揺した声で叫んだ。
「何なんだ!?貴様らはっ!いきなり人の護衛を倒して、何のつもりだっ!」
 震えながらも虚勢を張る商人を、ラーグはゾッと恐怖すら感じさせるような、ひどく冷やかな目で見た。
 そして、ラーグは弟子であるセラを傷つけようとした、強欲な商人の方へと一歩、近づくと、わざと甘い、優しくさえ聞こえる声で言う。
「それは、こっちの台詞だよ。可愛い、可愛い僕の弟子に、一体、何をしてくれたのかなぁ?……ねぇ、答えてよ?商人さん」
 金色の、見た目は幼い少年にしか見えない魔術師の言葉は、奇妙な迫力と、恐ろしいまでの冷酷さをはらんでいた。
「ひぃ……」
 ラーグの奇妙な迫力に押されたように、商人は怯えた表情で、数歩、後ずさった。
 その表情には、強欲と呼ばれるふてぶてしさは消えて、ただ恐怖だけがある。
「ひぃ……ゆ、許し……」
 商人の口から、命乞いの言葉がもれかける。
 しかし、それぐらいで許してくれるほど、セラはともかく、ラーグは甘くない。
 ラーグは商人の方に歩み寄ると、その体に手を伸ばした。
「旦那様っ!」
 右腕の痛みに呻いていた護衛は、雇い主である商人の身を守ろうと、ようやく動く……が、間に合わない。
「君みたいな人には、少し、おしおきが必要だろうね……」
 その言葉と同時に、ラーグは商人の胸に――心臓のある場所に、そっとふれた。
 一体、何をされるのか身構えていた商人は、ラーグの意外な行動に目を見開く。
 しかし、それも長くは続かなかった。
 その次の瞬間には、商人は両手で胸を押さえて、悲鳴を上げながらのたうち回る。
「あああぁぁ……痛い……気持ち悪い……体の中に、何かが……変なものが入って……」
「旦那様っ!しっかりして下さいっ!」
 完璧に錯乱し、意味のわからないことを言いながら、地面を転げ回る商人の体を、護衛である男は慌てて抱き起こそうとする。
 その様子を眺めながら、ラーグは冷やかに言った。
「ああ……まだ、動けるんだ?じゃあ、もう少しやっても良かったかな」
 そう言うと、ラーグは再び、商人の方へと手を伸ばしかけた。
 しかし、横から制止の手が伸ばされたことで、それは止まる。
「ラーグっ!もういい……もういいよ!」
 止めたのは、セラだった。
 彼女は震えながら、それでも翠の瞳に強い意志を宿して、師匠であるラーグを正面から見る。
 それ以上は、許さない。そんな目で。
「……君が、そう言うなら」
 ラーグはあっさりと言うと、地面でのたうち回る商人から離れる。
 その隙を、商人の護衛である男は逃さなかった。
 雇い主である商人の体を、苦労しながら抱き起こすと、その重い体を引きずりながら、ほうほうのていで逃げていく。
 そうして、強欲な商人と護衛の男の背中が遠ざかっていくのを、ルーファスたち三人は、特に止めようともせずに見送った。
「……あの商人の男に、何をしたんだ?魔術師」
 逃げた男たちの背中が遠ざかり、見えなくなった頃、ルーファスは唇を開いた。
 ――さっきラーグが胸にふれた瞬間、あの商人の男はなぜか、いきなり苦しみだした。
 どう考えても、この魔術師が何かしたとしか思えない。
「ああ。アレね……」
 その問いかけに、ラーグはうなずくと、さして面白くもなさそうに答える。
「あの商人の男の体に、大量の魔力を流し込んだのさ。僕らは平気だけど、耐性のない普通の人間だと、多分、めちゃくちゃ苦しいんじゃないかな?……例えるなら、自分の体の内側を、何百匹もの蛇が好き勝手に這いずり回っている……そんな感覚だろうね」
「……悪趣味だな」
 自分の体の内側を、何百匹もの蛇が、好き勝手に這いずり回る……そのゾッとする感覚を想像し、ルーファスは眉をひそめる。
 大量の魔力を流し込んだのだというが、はっきり言って、自分がそんな目に合うぐらいならば、いっそ死んだ方がマシと思うだろう。
 あんな無様な醜態をさらすぐらいなら、その方が幾分かマシだ。
 悪趣味、というルーファスの言に、ラーグは「はんっ」と鼻をならす。
「はんっ、僕の弟子に手を出したんだ。あれぐらい当然の報いだよ……クスクス。あの強欲な商人が、あの状態で、何日、正気をたもっていられるか見物だねぇ」
「ラーグっ!まさか、あの人……死んだりしないよね?」
 クスクスと笑うラーグに、セラは悲鳴にも似た声を上げる。
 そんな弟子の言葉に、師匠である魔術師は、いささか不満そうに首を横に振る。
「死にはしないよ。まぁ、これから数日は、死んだ方がマシだと思うような目に合うだろうけど……でも、君が心配することじゃないよ。セラ。だって……あの強欲な商人は、君に呪いから救われておきながら、君に刃を向けたんだから」
 そう思わないかい?と続けられた言葉に、セラはぎゅっと唇を噛みしめる。
 先ほどの恐怖を忘れていない証拠に、彼女の手は小さく震えていた。
 その考え方が正しいかどうかはともかく、事実であるから、反論はしにくい。だが、それでも、セラは喉の奥から声を絞り出すように言った。
「……たしかに、酷い目に合ったとは思うけど、だからといって、死んで欲しいとまでは思わないよ」
 そんなセラの言葉を、横で聞いていたルーファスは、本気で言っているのだとしたら、ずいぶんと甘い綺麗事だと思った。
 所詮、本気で命をやりとりをしたことのない少女の、拙く、甘い戯言だと。
「君は……」
 ラーグはふっと笑うと、弟子の亜麻色の髪に手を伸ばし、何処か憐れむように言う。
「――君は相変わらず、優しくて……救い難いほどに愚かだね。セラ」
 その言葉にセラは答えず、ただ黙って、そっと翠の瞳を伏せた。


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