その夜――
夜も更けて、皆が寝静まった頃、エドウィン公爵家の邸内は、静かな宵闇に包まれていた。
住み込みの使用人たちも、夜番の者を除いて皆、寝てしまい、わずかな灯りのみで照らされる、暗い廊下は音もなく、シーンと静まり返っている。
王宮には遠く及ばぬものの、かなりの広さを誇る屋敷の中が、物音ひとつせず、静まり返っているというのは、いささか不気味でさえある。
そのせいか、夜の闇に包まれた、廊下の空気はどこか寒々しく、ひやりとしている。
昼間は窓から太陽の光が差し、公爵家に仕える執事や女中たち、彼らが忙しそうに行き交う廊下も、今は夜の闇に包まれ、使用人たちも眠り、彼らの足音も、また話し声もしない……そのはずであった。
こんな夜更けに、わざわざ廊下をふらふらと歩き回るような、物好きな輩などいるはずもないように思われる。ゆえに、廊下は誰も歩いておらず、物音もしない……はずだ。だが――
「……」
その暗く、人気のない廊下を歩く、ひとつの影があった。
ふわり、と流れる亜麻色の髪に、翠の瞳の少女……セラだ。
先ほどまで、絹の寝衣を着ていた彼女は、今は夜の闇にとけこむような群青色の、目立たぬ、地味なドレスに身を包んでいる。
その片手には燭台があり、ゆらゆらと揺れる小さな炎が、セラの横顔をぼんやりと照らしていた。
きゅっと唇を引き結んだセラは、大きな翠の瞳で時折、きょろきょろと警戒するように周囲を見回し、そろりそろりと足音を立てぬよう、忍び歩きをする。
わずかな足音も立てまい、そう気をつけながら暗い廊下を歩く彼女は、物音を立てることで、誰かを起こしてしまうことを、強く恐れているようだった。
息をひそめ、そろりそろりと静かに歩くセラの真剣な表情に、それが表れている。
ロウソクの炎に照らされた彼女の顔色は、普段と比べるとやや青いが、青を通り越して白かった先ほどよりは、幾分、マシではあった。
あれから、しばらく眠っていたおかげか、あるいは執事の持ってきた苦すぎる薬湯が効いたのか、蒼白だったセラの肌には、今はわずかながら赤みが差している。
靴音すらも立てぬよう、静かに、そろりそろりと廊下を歩いていた彼女だったが、ある扉の前でふいに、その足を止めた。
そんなセラの目の前には、双剣と片翼の鷲――エドウィン公爵家の紋章が彫られた、重厚な扉がある。
扉の向こう側は、この屋敷の当主であるルーファスの書斎であり、仕事部屋でもあり、また時に寝る場所でもある。
当主夫妻のための寝室は別にあるとはいえ、とある事情から寝室をセラと共にしておらず、また王太子の補佐として多忙な日々を過ごすルーファスは、書斎に寝台を持ち込み、ここで寝泊まりすることがよくあった。
たぶん、今日もそのはずだ。
その扉の前に立ったセラは、ふぅ、と息を吐くと、燭台を手にしていた方とは反対側の手で、コンコンと軽く、控えめに扉を叩く。
彼女の余りにも小さく、控えめな扉の叩き方は、どこかやる気がないというか、まるで彼の返事がないことを、密かに願っているようだった。
そうして、セラは扉を叩いてからしばらく、そのままの姿勢で待ったが、扉のあちら側、部屋の中にいるはずのルーファスからの返事はない。
……夜も遅いし、彼はもう、眠っているのだろうか?
そう考え、セラはどこかホッとした、安心したような顔をする。
(……ああ、良かった。ルーファス、もう寝てるみたい……)
これから、己のしようとしていることを思うと、ルーファスへの罪悪感で、セラの胸はチクリと痛んだが、それには、あえて気づかないフリをする。
ごめんなさい、と心の中で謝って、セラはもう一度、扉を叩いて、小さな声で中に呼びかけた。
ルーファスの返事がなければいい、とそう思いながら。
「……あの、ルーファス?まだ起きてる?」
しばらく待ったが、名を呼んだにも関わらず、扉の内側から返事はなかった。
ルーファスの返事がなかったことに、セラはなぜか安堵したように息を吐くと、手にしていた燭台を床に置いた。
そうして、彼女は反対側の手に握りしめていた二つ折りの紙、何やら便箋のようなものをゴソゴソと取り出す。
なにやら手紙のような、二つ折りのその紙を、セラはその扉、ルーファスの部屋の扉のわずかな隙間に、そっと、はさもうとする。
部屋の前に置くと、万が一、他の誰かに読まれてしまうかもしれない。
(……っと、もうちょっと……)
セラは眉を寄せると、何とか扉の隙間に手紙をはさもうと、苦心した。
わざわざ、何ゆえに彼女がそんな真似をしようとしているかは謎だが、出来れば、ルーファスを起こすことなく、彼に何かを伝えようとしているらしい。
夜中で、使用人たちの目がなかったのは幸運だった。
もしも、誰かがそばにいたならば、奥方様であるセラの行動に、さっぱり意味がわからぬ、と眉をひそめたに違いない。とはいえ、実際には誰もそばにいないと思っていたので、セラは安心していた。
そうして、ルーファスの部屋の扉の隙間に、手紙をはさもうとするセラ、その背中に、後ろから、低い声がかけられる。
「……一体、何をしている?セラ」
扉に手紙をはさむことに神経を使っていたセラは、背後からかけられた声を不審に思うこともなく、振り返りもせず、どこか上の空で答えた。
その後すぐ、己の軽率さをひどく恨む羽目になるとは、夢にも思わずに……。
「何って……黙って出かけるのもアレだから、置き手紙をしようと思って」
振り返りもせず、紙を手にしたまま、上の空で答えたセラに、何をしている?と、尋ねた方は「ほぅ……」と皮肉気に言った。
「ほぅ……それはそれは感心というか、良い心がけだな。セラ……それで?それは誰への置き手紙だ?」
鈍いというか、なんというか、相変わらず、己の置かれた状況に気づいていなかったセラは、振り返らないまま、決まっていると風に答える。
「誰への置き手紙って……ルーファ……」
ルーファス、と口にしかけて、セラはようやく……ようやく、今更ながら、その違和感に気づいた。
今、自分に話しかけてきたのは?
そして、今、自分の後ろにいるのは誰なのだろう?と。
「……っ!」
驚いたセラが目を見開き、思わず、高い声を上げようとした瞬間だった。
背後の暗闇から、すぅ、と音もなく男の腕が伸びてきて、その直後、長い指が彼女の唇を押さえる。
その手の主は、セラの耳元で低く「……騒ぐな」とささやいた。
「……騒ぐな。皆が起きる」
手で口を押さえられたセラは、しばらくモガモガと口を動かしていたが、しばらくし、ようやく口からその手が離れたことで、後ろを振り返る。
セラが振り返ると、予想していた通り、氷のような蒼い瞳が、彼女を見ていた。
「な、なんで……」
セラはひくっと顔をひきつらせて、「な、なんで……」と騒ぎにならぬよう、押さえた声で言う。
「な、なんで……寝てたんじゃなかったの?ルーファス」
そこに立って、腕組みをしていたのは、黒髪の青年――ルーファスだった。
もう寝てたんじゃなかったの?と、問われたルーファスは、いや、と首を横に振ると、ふっ、とわずかに唇を緩めて、淡々とした口調で言った。
まるで、セラの行動など、見通していたと言わんばかりに。
「いや、あんなことがあった後だから、否、あんなことがあった後だからこそ、貴女は屋敷を抜け出して、外へ出かける気じゃないかと思ってな……違うか?セラ」
「……」
図星すぎて、もはや何も言えず、無言になるセラに、貴女の突飛な行動にも慣れてきたからな、とルーファスは続ける。
「貴女の突飛な行動にも、慣れてきたからな。そう思って、起きていたんだが……何だ?それは」
そう言いながら、ルーファスはセラの方へ手を伸ばし、ひょい、と彼女の手にしていた紙、もとい手紙を取り上げる。
「あっ……」
セラは「あっ……」と戸惑いの声を上げ、慌てて腕を伸ばし、ルーファスの手に渡った手紙を取り返そうとするが、身長差からくる腕の長さの差ゆえか、それは叶わない。
ルーファスはセラの手から、あっさりと手紙を奪うと、なんの躊躇いや迷いもなく、それに目を通す。
その手紙の内容に目を通すうち、彼の表情は目に見えて険しく、また冷ややかなものになっていく。
お世辞にも流麗とは言えぬ筆致、だが、丁寧に書かれたセラの手紙、それ自体は良いのだが、その内容は到底、ルーファスの納得いくものではなかった。
彼は不愉快さのにじむ声で、セラの書いた、その手紙を読みあげる。
「――ルーファスへ、ちょっと出かけてきます。夜明け前には帰るので、大丈夫です。どうか心配しないでください……だと?何のつもりだ?これは」
置き手紙とするつもりだったらしい、セラの手紙の文面に、ルーファスは顔をしかめた。
セラの気持ちとしては、彼に黙って屋敷を抜け出したりしない、という約束を律儀に守ろうとした結果なのだろうが……だからといって、置き手紙とは、ずいぶんと回りくどい真似をする。
ある意味、何も言わず、黙って屋敷を抜け出されるよりも、理解に苦しむ。
手紙を持ったまま、柳眉を寄せ、何やら不穏な空気を身にまとうルーファスに恐れをなしたのか、セラはそぉ、と一歩、二歩……歩き出し、その場から逃げようとする。
一歩、二歩……しかし、セラのそんなわざとらしくも、ささやかな逃亡計画は、その直後、一瞬で頓挫した。
「……セラ」
ルーファスは手紙から目を話さぬまま、低い声で彼女の名を呼ぶ。
そうして、男は腕を伸ばすと、逃げようとしていたセラの腕を捕まえ、難なく己の方へと引き寄せた。
「逃げるな」
これ以上はないというほど低い男の声に、セラはごめんなさい、と言い、うなだれる。
まさか、逃げられると本気で思っていたわけではないが、むしろ状況を悪化させただけかもしれない……。
「……」
ほんの少しの間の後、セラが観念して顔を上げると、 ルーファスの深い蒼の瞳と目が合う。
端整すぎて、冷ややかな印象さえ受ける美貌が、無言で彼女を見下ろしていた。
なまじ整った容姿だけに、そうされると妙な迫力がある。
己の非を自覚しているセラとしては、何も言う気になれず、唇を閉ざしていた。
ゆらり、と床に置かれたロウソクの炎が揺れる。
しばらくして、無言だったルーファスが、口を開く。
「置き手紙とは、ずいぶんと凝った真似をするものだな。セラ」
「ごめんなさい。ルーファス……面と向かって、出かけるって言ったら、貴方に止められるかと思って……」
怒りよりも、むしろ呆れのにじむ彼の声に、セラはすまなそうな、憂い顔で言った。
ここまできたら、もう正直に話して、謝るしかない。
「だからといって、置き手紙とは……貴女の行動は、いつも常人のナナメ上をいくな」
「それは……」
「念のために言っておくが、褒め言葉では全くない」
「……うん。わかってます」
氷のような、ルーファスの冷ややかな眼差しと、責めるような声の調子に、セラは厳しい叱責を覚悟した。
自分なりに考えがあってしたことだが、手紙だけを置いて、屋敷を抜け出そうとしたことは事実である。
それを思えば、何と罵られても仕方ない。
しかし、意外にも次にルーファスの口から出たのは、セラを責める言葉ではなかった。
彼は彼女を見つめ、低く、鋭い声で問う。
「――屋敷を抜け出して、貴女は師匠の、あの魔術師のところに行く気だったのか?」
その言葉に、セラは翠の瞳を丸くし、「どうして……?」と言う。
「どうして……?」
それは、どうしてそう思ったの、ではなく、どうしてわかったの、という意味だった。
驚くセラに、ルーファスは淡々とした口調で答える。
「クラリック橋のところで、引き上げられた女、リーザといったか……さっき屋敷に来た騎士から聞いた、その女はまるで、獣に食い殺されたようだったと……貴女も、それを見たのだろう?」
「……」
セラの沈黙の意味は、肯定だった。
ルーファスの口から、リーザの、亡き友人の名が出た瞬間、セラは顔色をなくす。
あの橋のところで見た、体から水をしたたらせ、腕や足を食い千切られていた、無惨な女の亡骸、リーザのことが彼女の胸をよぎる……。
握りしめた拳が、かすかに震えていた。
それは言葉よりも雄弁に、彼女の心情を物語る。
うつむいたセラに、ルーファスは一瞬だけ、痛ましげな表情をしたものの、それはほんの一瞬のことで、追及の言葉を緩めることはなかった。
「最近、貴女と行動を共にするうち、俺は魔術やら呪いやらの異様なものを、色々と見てきた……そのリーザという女が、まるで獣に食い殺されたようだったというのも、何やら、それらと同じ臭いがする」
淡々と、ルーファスは己の考えを口にする。
彼が魔術やら呪いやらという存在に、深く関わるようになったのは、ごく最近のことで、それらについて、知識が深いわけではない。
しかし、この王都で人が獣に……化け物に食い殺されるというのは、やはり異常なことだと、そう言わざるを得ない。
あのハロルドという騎士が語っていた、騎士団の者たちが総出で探しても見つからぬ、人を食らう化け物……。
その異様な事件に、魔術やら呪いやらが関わっているという証拠は、今のところ何処にもない。だが、そうとでも思わねば、説明のつかぬところがあるのも、また事実であった。
「……」
ルーファスの言葉を、セラは否定も肯定もせず、黙って聞いていた。
もし、と男は続ける。
「もし、貴女も同じように考えたなら、おそらく屋敷を抜け出して、あの魔術師に会いに行くだろうと思っていた……俺の考えに、何か異論があるか?セラ」
何か反論があれば、言え。聞いてやる。
そう続けたルーファスに、セラははぁと息を吐いて「ルーファスには、かなわないね」と、苦笑にも似た表情をする。
どこか困ったような顔で、彼女はそうだよ、とうなずいた。
「そうだよ。あたしは師匠の、ラーグのところに行くつもりなの」
「……なぜだ?」
薄々、その答えを察していながらも、ルーファスはそう尋ねる。
その問いかけに、セラは相変わらず、少し困ったような顔で、だが、迷いのない口調で答えた。
「あの娘が……リーザが、あんな風に死んでしまったことに、魔術や呪いが関係しているのかは、まだわからない。だけど、ラーグに会えば、何かわかるかもしれないから」
「……」
「あたしに何が出来るかわからないし、何も出来ないかもとも思うけど、リーザがなんであんな目にあわなきゃいけなかったのか、知りたいと思う。だから、ラーグのところに行ってくる」
セラの言葉を、ルーファスは一度は、黙って受け止めた。
しかし、彼が心から納得したわけではないことは、セラを見るルーファスの表情から察せられる。
彼は腕組みし、
「……俺がそう言われて、はいそうですか、と大人しくうなずくと思うのか?」
と、セラに問う。
そうだとしたら、ずいぶん甘く見られたものだな、とでも言いたげなルーファスに、セラは困ったように、首を横に振る。
ラーグのところに行くと言えば、ルーファスが良い顔をしないのは、言う前からわかっていた。
たとえ形だけのとはいえ、妻が屋敷を抜け出し、この国では忌まれる魔術師に会いに行くなど、彼の立場を思えば、快く思わないのは当然のことだ。だからこそ、これ以上の迷惑を彼にかけたくなくて、一人で出かけようとしていたのだ。
ルーファスに迷惑をかけたくなければ、リーザのことを、彼女の死を忘れ、大人しく屋敷にいるのが最善だろうとは、セラだってわかっている。だけど、それは出来ない。
どうしたって、リーザのことをなかったことには出来ない。だから――
セラは顔を上げると、翠の瞳で真っ直ぐにルーファスを見つめて、それでも、と言った。
「それでも、あたしは行きたいの」
少女はそう言い切ると、同時にふっ、とわずかに唇を緩めて、ごめんなさいと、どこか哀しげに微笑う。
許しを乞う、というよりは、己の意思が変わらないのだということを、ルーファスへ伝えているようだった。
(相変わらず、大人しげな見た目に反して、頑固な女だ……)
ルーファスはそう思い、並みの人間なら気圧されるような鋭い視線で、セラを見つめ返す。
しかし、彼の鋭い眼差しにも、セラは困ったように眉を下げただけで、怯んだ様子を見せなかった。
ルーファスよりも頭二つ分は小さく、華奢な少女が、時に頑固なほどに自分の意思を曲げぬことに、彼は軽い苛立ちと、同時に興味深いとも思う。
それは今のところ、ただの興味の域を出ておらず、恋情とは程遠いものであったが……。
一瞬にも、永遠にも思える沈黙の後、セラから視線を逸らさず、ルーファスが口を開いた。
「……貴女の意志は、わかった。いいだろう。だが、一人では駄目だ。俺も行く」
それは、彼なりの譲歩であり、また譲れない一線でもあった。
逃げた過去あるセラを信頼し、一人で出かけさせることは、許し難い。
また、王女である彼女の身に何かがあれば、それはエドウィン公爵家の咎になるのだから。
……それに、他にもひとつ、気になることがあった。
それはルーファスとしては、セラの言い分を、それなりに尊重した結果だった。だから、彼としては、セラがそれを受け入れるだろうと思っていたのだが、実際はそうはならない。
俺も行く、というルーファスの言葉に、セラは表情を曇らせ、首を横に振る。
「お願いだから、それは止めて……一緒には来ないで、ルーファス」
「なぜだ?」
止めて、というセラの言葉にルーファスは、なぜ?と首をひねった。
しかし、セラは頑ななまでに首を横に振り、止めて、あたしと一緒には来ないで、と繰り返す。
「あたしと一緒には、来ないで。危ないから、怪我や……最悪の場合、命さえ奪われるかもしれない」
「……意味がわからないな」
セラの性格を思えば、彼女の言いたいことは大体、察しがついたが、ルーファスはあえて気づかないフリをする。
自分の思いが伝わらぬことに、セラはもどかしげな顔をしたが、彼を見上げると、常になく、ひどく真剣な声で言った。
「もしも、あの娘が、リーザが死んでしまったのに魔術や呪いが関係しているとしたら……あたしと一緒にラーグのところに行って、それを探ろうしたら、貴方だって危険な目に合うかもしれないよ……そんなことに、巻き込めない」
だから、一緒には来るなと。
セラの言いたいことは理解したが、だからといって、それに従う気はルーファスにはない。
そもそも、自分よりもはるかに華奢な少女に、危険だなんだと言われて、引き下がるような軟弱さは、彼とは無縁のものだ。ゆえに、ルーファスは、素っ気ない態度で言う。
「ある程度の危険は、覚悟の上だ。そもそも、そのぐらいのことを、俺が考えていないとでも、貴女は本気で思うのか?セラ」
「そうは思わない……それでもね、あたしは貴方に怪我なんて、してほしくないんだよ」
セラの必死さは伝わったが、ルーファスがそれに、心を動かされることはなかった。
自分が出かけようとしている相手に、行くな、などと言われたところで、説得力というものは欠片もない。
貴女はどうなんだ、とルーファスは問う。
「そう言う貴女は、どうなんだ?俺が危ないというならば、貴女だって危険だろう」
ルーファスの問いに、セラは小さく、どこか儚げに微笑し「あたしは、いいんだよ」と、言った。
暗くもなく、自嘲するでもなく、普段と同じ柔らかな声で。
嘆くでもなく、それが自然なことであるように。
「あたしは、いいんだよ。もし、あたしが死んでしまっても、悲しんでくれる人はいるかもしれないけど、困る人はいないから……貴方は違うでしょう?ルーファス……だから、あたしと一緒には来ないで」
セラのそれが、あまりにも普段通りの言いようであったので、ルーファスは珍しく、彼にしては不覚にも、返すべき言葉を失う。
もし、それが同情を求めるような言い方であったなら、ルーファスは鼻で笑って、気にも止めなかっただろう。
ただ男の気を引くためだけに、不遇な身の上を大袈裟に語り、まるで悲劇の主人公のように振舞いたがる女は、自尊心の強い貴族社会においては、そう珍しい存在でもない。
しかし、セラの嘆くでもなく、普段通りの言いようは、それとは違い、かえって彼女の深い孤独のようなものを感じさせた。
――手を伸ばすことや、同情すらも拒むような、壁にも似たそれ。
その感情は、ルーファスにも覚えがあるもので、ゆえに、見たくもないものを見せつけられた気がした。
彼の視線に、セラは翠の瞳を細め、少し困ったような表情を浮かべる。
そんな彼女の態度に、ルーファスは理由もなく苛立ち、口を開きかけ……結局、何も言わずに、唇を閉じた。お互いに似たものを感じ取ってはいても、心の深い部分に踏みこめるほどは、彼らはまだ親しくなかった。それゆえに、ルーファスはセラのそれには触れず、普段と同じ、否、やや素っ気ない態度をつらぬく。
「いらん世話だ。そこまで心配されるほど、俺は弱くない」
「だけど……」
なおも不安そうなセラに、ルーファスはきっぱりと言う。
「少なくとも、俺は貴女よりは、腕に覚えがあるつもりだ。セラ……剣を使えない貴女よりは、な」
「それは……そうだろうけど」
ルーファスの言い分を全て受け入れたわけではなくても、そこまで言われては、セラとしてもそれ以上、言うべき言葉がない。だが、不安がないといえば、嘘になる。
彼が優れた剣士であるということは、普段の隙のない身のこなしや、細身ながら、よく鍛えられた体つきを見れば想像がつくが、それだからといって、何の不安も無いということにはならない。
どんな強者であっても、絶対ということはないのだから。
ましてや、魔術や呪いに関われば……
そんなセラの不安を一蹴するように、ルーファスは「わかったのなら、さっさと出るぞ」と、何の迷いもなく言い切った。
「わかったのなら、さっさと出るぞ。ぐずぐずしていたら、魔術師に会うまでに、夜が明ける。それに……」
それに、とどこか含みのある声で、ルーファスは続けた。
「それに……俺にも少し、気になることがある」
どこか含みありげな言いように、セラは首をかしげ、ルーファスの横顔を見たが、彼はそれ以上、その言葉の意味について何も語らなかった。
半身が欠けた銀の月と、星々の光の他には何もない夜の道を、ルーファスとセラは歩いていた。
昼間は大勢の人々が行き交う王都の道も、夜も更けた今は、静けさに包まれている。
酒場の灯りも遠く、喧騒とは無縁で、ルーファスとセラの他には歩く人影もない。
彼らの向かう先は、王都の外れの貧民街――セラの師匠である、魔術師・ラーグが住む場所である。
「……」
男女の歩幅の違いか、ルーファスの後ろを、半歩ばかり遅れて歩きながら、セラは前を歩く男の、自分とは全く違う、大きく、広い背中を見つめた。
さっき屋敷を出てからというもの、彼ら二人はやや不自然なまでに、何の会話も交わしていなかった。
特に、ルーファスはさっきから一度も、セラの方を見ようとはしない。
無視というのとは違うが、それが少しばかり、気になるといえば気になった。
(……もしかして、ルーファス、怒ってるのかな)
内心、ため息をつきたいような心境にかられつつ、セラはそう思った。
怒ってるとまでいかずとも、彼女に対して、何か思うところがありそうだ。
もしかして、さっきの会話が、原因だろうか?
それ以外にセラに思い当たる節はないが、なぜ、彼が無言をつらぬいているのか、その理由まではわからない。
……いや、本当はわかっている。
ただ、気づかないフリをしたいだけだ。
少し肌寒い夜風が頬を撫で、セラは無言でうつむき、羽織った群青のショールを巻き直す。
「さっきの話だが……」
その時、それまで黙っていたルーファスが、唐突に口を開く。
セラが顔を上げると、彼の、深い蒼の瞳がこちらを見ていた。
「さっきの話だが……危険だというなら、なぜ貴女はわざわざ首を突っ込もうとしているんだ。そのリーザという女のためか?」
「それは……」
言いよどむセラに、ルーファスはどこか皮肉気に、言葉を重ねる。
「ただの幼い頃の友人というだけで、そこまでするのか?優しいことだ」
先ほどセラに聞いた話だと、死んだリーザとやらは幼い頃の友人というだけで、それほど深い関係ではなかったらしい。にも関わらず、こうまで必死になるセラの気持ちが、ルーファスには理解できなかった。
危険な目に合うかもしれないとわかっていて、家族でも恋人でもない相手の……しかも、すでに黄泉の住人となったリーザとやらの為に、なぜ、自ら動こうとするのか。
ルーファスにはわからず、偽善か、さもなければ単なる自己満足に過ぎぬのではないかと、ひねくれた考えすら抱く。
「違うよ。そんな立派な理由じゃなくて、あたしのため……」
優しいことだ、と言ったルーファスに、セラは首を横に振り、否定の言葉を吐く。
そうして、どこか淡々とした口調で続けた。
「……亡くなったリーザのためには、辛いけど、あたしは何もしてあげられない。どんなに祈っても、願っても、彼女のためには何も……でも、何かしたいんだよ」
誰かのために、動けたら良かった。だが、セラのそれはそうではない。
結局のところ、怖いだけなのだ。
リーザの死を受け止めるのが、何もなかったように忘れてしまうのが、辛くて、怖いだけなのだ。
「……」
セラの言葉を、ルーファスは否定も……また肯定もしなかった。
その代わりに、彼は黙って着ていた上着をぬいで、それをセラの肩へと引っかける。
身長も体格も違う男の上着は、彼女には大きすぎて、まるで膝丈までの長衣のようだった。
「わっ……!」
いきなりルーファスに上着をかぶせられたセラは、わっ、と驚きの声を上げ、目を丸くする。
しかし、やがて落ち着いて、肩にかけられた上着とルーファスを交互に見ると、セラはいいよ、と遠慮するように言った。
「いいよ。気持ちだけ、受けとります。ありがとう……ルーファスも、上着なしじゃ寒いでしょ」
この国、エスティアは大陸の西に位置し、それほど寒いわけではないが、それでも季節によっては、夜はかなり冷える。
上着をぬいだルーファスは、見た目には寒そうで、セラとしては彼の心遣いに甘える気にはなれない。
そう言って、かけられた上着をぬごうとするセラの手を、ルーファスの手が押し留めた。
いいから着ていろ、と彼は言う。
「いいから、着ていろ。まだ少し、顔色が悪い」
セラに有無を言わさずそう言うと、ルーファスは何事もなかったように前を向き、再び歩き出した。
上着をぬいで、人に貸してしまっては寒いだろうに、黒髪の青年はそんな素振りは微塵も見せず、ただ前だけを見て、目的の場所へ、魔術師の住処の方へと歩いていく。
「……うん」
人から冷酷、冷淡、氷のような男だと噂され、それゆえに氷の公爵と称されるルーファスの意外な優しさに、セラはやや複雑そうな表情で、男物の、大きすぎる上着の前を合わせる。
直前まで、彼が着ていた上着は体温がうつって、あたたかかった。
かけられる言葉は素っ気なく、お世辞にも優しげとは言えないが、ルーファスの行動は時々、彼女が驚くほど優しい。
いつもそうだ。
冷ややかな眼差しを向けても、厳しいことを言っても、彼は最後にはセラを気遣って、助けようとしてくれる。
(多分、本当は繊細というか、優しい人なんだろうね……)
氷の公爵、冷酷な情のない男、頭は切れるが敵には一切の容赦がない冷血漢……
そんなルーファスの評判を知らぬわけではないが、それでも、セラはそう思う。
何だかんだ言いながらも、従者のミカエルや執事のスティーブ……屋敷の皆が、主人としてルーファスを 慕っているところや、時折、彼女に見せる優しさや、本人は認めないだろうが、屋敷の人々を大事にしている様子を見れば、そう思うのだ。
それに、本当に冷酷なだけの男ならば、聡明で穏やかな人柄として知られる王太子・アレンが、親友や片腕として選ぶとは考えられない。
もちろん、セラが知っているのは、ルーファスの性格のほんの一部で、必要とあれば、非情に徹するのだろうということは、想像できる。
そうでなければ、王太子の腹心など務まらないであろうし、いざという時には、自分の手を汚すことさえ辞さないだろう。
それをわかっていても、ルーファスがふとした瞬間、見せる優しさが、セラは嫌いではなかった。
しかし、今はその優しさが、かえって胸に痛い。
(お願いだから、あんまり優しくしないでほしい……だって、あたしは貴方を……)
絶対に愛せないのだから。
セラはそう心の中で呟き、前を歩くルーファスの背中を追った。
それから、しばらくして……
ルーファスとセラの二人は、貧民街に足を踏み入れ、その一角にある魔術師の住処、その古ぼけた木の扉を叩いた。
同時に、扉の内側から声がする。
「――“聖剣”と対になるものは?」
「――“鎖”」
合い言葉の後、「はいはい。今、出るよ」と少年らしい高い声がして、扉が開けられる。
そうして、扉の内側から十二、三歳くらいの少年が、セラとルーファスの前に、顔をのぞかせた。
きらきらと光を放つ、明るい金髪に、金にも似た、琥珀色の瞳……相変わらず、金色、としか表現できない子供である。
しかし、外見は子供であっても、実際には三百年以上の時を生きていて、その中身は子供とは程遠い。
もっとも、とっくの昔に老人と言われる域すら軽く越えていながら、あえて子供のようなフリをする人を食ったところがあるので、その辺りは何とも言えないが。
金色の子供、実際は三百年余りの時を生きている魔術師――その名をラーグという。
見た目では、とても信じがたいが、セラとは師弟関係である。
ラーグが魔術の師匠であり、外見上は年上に見える、セラの方が弟子だ。
魔術師、ラーグは琥珀色の瞳に愛弟子であるセラの姿を映すと、にこっと明るく笑って、親しげに話しかけた。
彼女の横にいたルーファスは、いっそ清々しいくらい無視して、セラだけに。
「やぁ、そろそろに来る頃かと思って、待ってたよ。セラ……今日は、一人で来たの?」
愛弟子であるセラ以外は眼中にないらしいラーグに、露骨に存在を無視されて、セラの横にいたルーファスはさすがに顔をひきつらせた。
いくら何でも、己の存在を空気以下に扱われれば、さすがの彼も平静ではいられない。
この魔術師、ラーグの容赦のない毒舌っぷりと、性悪さを重々承知していても、我慢にはおのずと限界というものがある。
「魔術師。貴様は……」
苦々しい声でルーファスがそう言うと、ラーグはようやく、おや?いたの、とでも言いたげな顔で、セラの隣にいた彼を視界に入れる。
そうして、金色の魔術師はにこやかに笑うと、爽やかな声で言った。
「やぁ、君もいたのかい。公爵。セラだけ来てくれれば、君は来なくても良かったのに」
ラーグはさらっと、あくまでも爽やかな風に、毒を吐いた。
子供らしい、無邪気な笑顔は、わざとである。
弟子のセラに待ってたよ、と言ったのと、同じ笑顔、同じ声で、そう言ってくるあたり、ラーグもいい性格をしていると言うべきであろうか。
「相変わらず、無駄によく回る舌だな。魔術師……いっそ、道化師あたりに転向したらどうだ?あるいは、ペテン師でもいいと思うが……それとも、三百年も生きているともうろくして、その程度のことも、己で判断できないのか。ラーグとやら」
意趣返しとばかりに、ルーファスが嫌味を倍にして返すと、ラーグは怒りもせず、飄々と笑う。
見た目は子供でも、中身はそうではない魔術師は、琥珀色の瞳を細めて、にやり、と笑い、嫌味を言い返す。
「君こそ、相変わらずだねぇ。公爵……少しは年長者を敬うことを覚えた方が、将来のためじゃないかい。まぁ、もう遅いかもしれないけど……ひとつ忠告しとくと、魔術師は情報通だからね、何なら、君の過去の女性遍歴の数々を、セラに暴露、もとい話してあげようか?」
脅しにも似たラーグの嫌味を、ルーファスは、はっ、と鼻で笑う。
「はっ、口の悪いご老体は、黙っていてもらおうか。魔術師」
ラーグもまたクスクスと喉の奥を鳴らし、
「クスクス……君こそ、百年も生きてない若僧は、黙っていなよ。公爵」
と、言い返す。
お互いに遠慮の欠片もない、嫌味の応酬。
ルーファスとラーグの、いつ終わるともしれぬそれを終わらせたのは、それまで黙っていたセラだった。
セラは憂いをおびた翠の瞳にラーグを映すと、魔術師の、師匠の名を呼ぶ。
「――ラーグ」
どこか悲しげな響きを持つ声に、ラーグはセラの方へ向き直ると、憂い顔の彼女を見て、ひどく心配そうな顔をした。
そうして、彼は小さな手を伸ばし、セラの頬にそっと触れると、どうしたの?と問う。
どこまでも優しく、穏やかな、慈しむような声で。
「どうしたの?セラ……何かあった?」
そう尋ねるラーグの優しく、また穏やかで誠実な態度は、ルーファスに対する時とは、雲泥の差だった。というより、この魔術師が甘いのは、弟子の少女に対してだけだと、ルーファスとしては言わざるを得ない。
この、人を人とも思わないような毒舌な魔術師が、弟子である《解呪の魔女》――セラにだけは、優しく、師匠として愛情を持って接しているように、彼の目には映る。
「ラーグ……リーザが、リーザがね……」
小さな声でそう言ったきり、セラは口ごもり、唇を閉ざした。
そんな弟子の少女に、ラーグは心配気な眼差しを向けると、少し背伸びをし、無理しなくていいよ、という風に、小さな手でセラの亜麻色の髪を撫でる。
「無理して、すぐに話さなくてもいいよ。セラ……立って話すような話でもなさそうだし、話は家の中でゆっくりと聞くよ……まずは、家の中に入って。ね?」
そっと亜麻色の髪を撫で、セラが落ち着くのを待って、ラーグは穏やかな声で話しかける。
古びた木の扉を指差し、彼女に中に入るように促す。
セラはこくっ、と小さくうなずき、扉に手をかけた。
彼女の後に続いて、家の中に戻ろうとしたラーグは、ふいにルーファスの方を振り返り、皮肉気な口調で言う。
「おや?君も一緒に来る気かい?来なくていいのに」
こちらを見てくる琥珀色の瞳を、うるさい、と睨みつけ、セラとラーグの後に続いて、ルーファスもまた扉の内側へ、金色の魔術師の住処へと足を踏み入れた。
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